00)(004)―「短歌」と「連歌」そして「俳句」―

00)(004)―「短歌」と「連歌」そして「俳句」―
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●「心」と「躰」
♪「短歌」を作る者が、必ずしもみな詩情に先導される形で詩を作るとは限らない。気の利いた文句を思い付いたからそれを生かすために三十一文字をでっち上げよう、という作歌事情を有する和歌も、極めて多いのである。
♪人を作詩に駆り立てる「詩情」のことを、和歌の世界では「心(しん・こころ)」と呼び、文学的「美」を備え音感的訴求力を持つ「形式」たる「歌体(かたい)」・「躰(たい・てい)」と対照する形で用いる。
●「腰折れ歌」
♪詩情が形式美を圧倒する「躰より心」の歌もあれば、形式や音感や文言の美しさや着想の面白味が主役の「心より躰」の歌もある。そうして、「躰」のみが目当ての歌作りをする者は、往々にして「一番美味しい躰の部位」のみ作り上げては、その他の部位にさしたる生命も込めぬまま世に送り出してしまうことがある。これを俗に「腰折歌(こしをれうた)」と呼ぶ。四字熟語風に言えば「竜頭蛇尾」、人物の面相に例えて言えば「あの人、目だけ見たら大変な美人なんだけど・・・鼻や口やその他のパーツが、なんとも残念な感じだねぇ」という歌である。
●「筑波の道(連歌)」の始まり
♪出だし好調/末散々の「腰折れ歌」を作るよりも、いっそ「ここだけは自信を持って美形と言える」パーツを、誰か他の人物の眼前にポンと投げ出して、「さぁ、あなたなら、この目鼻立ちに、他のどんなパーツをくっつけて真性美人の造作を作り上げますか?」とばかり、連作要請を出す方が気が利いている・・・そう考えた貴族達が、知的遊戯として確立させたのが「連歌」である。誰かが「上の句(五七五)」だけを思い付いたなら、「末や如何に(すゑやいかに?)」と言いつつ場に投げ出して、気の利いた「下の句(七七)」の登場を待つ:逆ならば「本や如何に(もとやいかに?)」で「上の句(五七五)」待ちだ。
♪そうして、複数作者の連作が見事秀逸に決まれば素晴らしいコンビネーション・アートである。現代世界のように「著作権」にうるさい時代でもないから、完成した作品に対する貢献度は上の句/下の句どちらの作者が大きいか、真正著作者は誰か、などということはさして問題にもならなかった。
♪この掛け合い芸としての「連歌」は、「筑波の道(つくばのみち)」なる換喩(かんゆ)で呼ばれることもある。日本武尊(やまとたけるのみこと)が甲斐国(かひのくに)への途上、筑波山に至ったところで詠んだ歌と、それに呼応して御火焼の翁(みびたきのおきな)が付けた歌とが「連歌」の起源、との伝説から生じた呼称で、これと対照する形で「短歌(和歌)」の呼び名「敷島の道(しきしまのみち)」も生まれることとなった。ちなみに、その「連歌の走り問答歌」は次のようなものだったとされる:
《新治筑波(にひばりつくば)を過ぎて幾夜か寝つる》(日本武尊)
《日日並べて(かがなべて)夜には九夜(ここのよ)日には十日を》(御火焼の翁)
(現代日本語訳)筑波を過ぎてからもう幾つの夜を数えたことだろう?・・・日々を重ねて、九夜過ぎ来て、昼はいま十日目。
♪古い歌だけに、両者まとめても「短歌形式」(五・七・五・七・七=三十一文字の「短連歌」)にはなっていない。こうしたものを「長連歌(鎖連歌)」と呼ぶ。平安の世も終わりの院政期(第72代白川帝~第82代後鳥羽帝の世)には、和歌世界の卑俗化の潮流を反映して長連歌が流行し、その構成句数も次第に多くなって行く。継ぎはぎされる句数が三十六句だと「歌仙」などと「中古三十六歌仙」なる俗称に引っ掛けて呼び、四十四句だともっとベタな駄洒落で「世吉(よよし)」と称される。更に延々ダラダラ続けると、しまいには「百韻」だの「千句」・「万句」などといった終わりなき尻取り遊びみたいなことになる。
●「俳諧連歌」
♪綺麗に決まって満座の拍手を呼ぶような名句の連携芸ばかりが「連歌」から生まれるわけでは、当然、ないわけで、中には、折角の綺麗な目鼻立ちがてんでチグハグな並べ方のせいで大笑いの福笑いみたいな滑稽な顔立ちを生むような「連歌」もある。むしろ(至芸の主どうしのインスピレーション交歓会でもない限り)その種の「腰折れ歌」が生じる場面の方が多いのが現実でもある。それならばいっそのこと、最初から「腰折れ度合いのはなはだしさ」をこそ主眼としたギャグの即興芸として「連歌」を茶化して楽しんでしまえ、という方面に走る者が出ても不思議はない。ロクな付け句も出来ぬ自らの文芸的嗜みのなさを痛感させられて、満座が萎えた気分に沈み込むよりは、頓珍漢な文言の付け合わせの滑稽さを最初から期待する座へと趣向を変えた方が、遥かに気が利いているのだから。
♪かくて、笑えるような面白味(これを文芸用語では「俳諧:はいかい」と称する)を最初から当て込んでの「連歌」が生まれた:「俳諧之連歌(はいかいのれんが)」である。やがてその形式は、「誰かが詠んだ上の句=発句(ほっく)」に、他の誰かが「下の句(=挙げ句)」を「付け句」する形へと統一されて行くようになる。
♪「俳諧」の呼び名の起源は、『古今和歌集』の部立(ぶだて=ジャンル・分野)(巻十九「雑躰:ざってい」)の一部として滑稽な主旨の歌ばかりを集めた「俳諧歌:はいかいか(歌番号1011~1068)」に由来する;が、単独作者によって詠まれたこれらの歌は「連歌」ではない。その後、この種の面白味を当て込んでの複数作者による問答歌が「俳諧連歌」の御座敷掛け合い芸として発展したものの、一般の「短歌」とは異なり、単なる座興として詠み捨てられて、歌集の記録にも残らぬ扱いであった。
♪この「連歌」という文芸ジャンルを、初めて勅撰和歌集の「部立」の一部として採り上げたのは、平安後期(1126年)の『金葉和歌集』(部立「雑下」に収録)である;が、こうした試みに代表されるこの集の当代重視の革新的特徴を、後代の和歌の大御所藤原俊成(ふぢはらのとしなりorしゅんぜい)は「戯れの様(ざれのさま)」がひどすぎるとして非難している・・・当時の「連歌」の扱いがわかる話と言えるだろう。
♪連歌のみから成る歌集(勅撰でも何でもない私撰集)が初めて成立するのは、なんと、室町時代も末期の1499年の『竹馬狂吟集(ちくばきゃうぎんしふ)』でのことである・・・「狂」を含むその標題からして「俳諧連歌=戯れ芸」という作者の自嘲ぶりが面白いというか、悲しい感じである。これは1539年の『犬筑波集(いぬつくばしふ)』にも言えることで、立派な「人」が真面目くさって付け句に頭をひねる文芸的嗜みではなく、「犬・猿」芸に満座が腹をよじって笑い転げるための座興が「俳諧連歌」だったわけである。
●「俳諧連歌」→「川柳」→「俳句」
♪この「俳諧連歌」は、戦国の世も終わり、社会の安定期を迎えた江戸時代に至って、二つの支流へと引き継がれて行く。一つは「川柳」、いま一つが「俳句」である。前者は一般庶民の大衆芸として、後者は主に富裕な商人たちの間で、「俳諧連歌」の「発句」部分(=五・七・五の十七文字)のみが独立したもの(「挙げ句」の七・七を廃したもの)として発展し、21世紀の今日にまで至っている。
♪共に「五+七+五=十七文字」の世界一短い定型詩である「川柳」と「俳句」に、形式上の相違はない。唯一の違いは、「俳句」は「季語」の織り込みを必要とするのに対し、「川柳」にその制約はないという点である。両者ともに元来は「俳諧=こっけいで笑えること」をその根底に有していた座興芸であったが、笑いさえ取ればそれでよしとする安直な惰弱さを嫌い、そこに文芸としての高みを求めるための隠し味を真剣に追究した人物がいた:松尾芭蕉(まつをばせう:1644-1694)である。
♪短文詩とはいえ、三十一文字の「短歌」にはまだ「物語」を織り込む余地がある・・・が、十七文字の「俳句」にその余地はない:余地がない分、余情に頼らねば、ただの戯れ句に終わってしまう・・・そこに、文字の表面には表われぬ心象的後景を浮かび上がらせ読み手のイメージを豊かに膨らませるための工夫として、芭蕉が辿り着いた含蓄の仕掛け ― それが、「俳句」を「川柳」と区分する「季語・季題」なのである。
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コメント (1件)

  1. the teacher
    <質疑応答コーナー>
    ・・・各ページ下には、質疑応答用の「コメントを残す」ボックスが用意されています(見本版では無効になっています)。
    ・・・教材をよく読めばわかるような無意味な質問や、当該テーマに無関係な内容の投稿でなければ、誠実&正確な回答が返ってくるはずです。

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