00)(003)―「和歌」の隆盛と「漢詩」の衰退―

00)(003)―「和歌」の隆盛と「漢詩」の衰退―
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●漢詩文の時代
♪日本は古来、政治も文化も文字(=漢字)も、中国のそれを模倣し続けて来た。特に、中古の日本の朝廷では公文書が漢文表記だったため、漢語・漢詩文の素養は官僚の知的・社会的優越性の象徴として重視された。この事情を反映して、平安前期に至るまで、朝廷の文化事業として編纂される「勅撰集」の主役は「唐歌(からうた=漢詩文)」であり、日本固有の「大和歌(やまとうた=和歌)」は傍流の扱いであった。
●和風文芸の時代
♪その「漢高和低」の潮流の転機となったのが、平安前期の905年に世に出た初の全編和歌による勅撰集『古今和歌集』である。この集の成立を促したのは、時の政治上の最大権威者の藤原時平(ふぢはらのときひら)であり、その編集作業に携わった編者の四人、紀貫之(きのつらゆき)・紀友則(きのとものり)・壬生忠岑(みぶのただみね)・凡河内躬恒(おほしかふちのみつね)は、いずれも優れた歌人であったが、朝廷の出世コースとは無縁の下級役人ばかりであった。
●官僚主導政治の終わり
♪時を同じくして、日本の官僚史上最大の出世頭にして日本史上最強の知的エリート(=現代受験生たちからも「学問の神様・天神様」として拝まれている)菅原道真(すがはらのみちざね)主導による、中央集権国家体制への復古的政治改革が進展しており、それが時平ら(主に藤原氏を中心とする)有力貴族の既得権益を脅かすものとして、謀略によって葬り去られたことを思い起こすと、「実力派官僚=漢籍派の巨頭」たる道真の失脚+漢詩文の衰退と、『古今和歌集』に始まる和歌の躍進+藤原摂関政治の定着は、偶然の一致以上の相関関係を有するものと見るべきであろう。時平は、「漢詩と実力派官僚」の社会的ステータスを葬り去るための政治的策略として『古今和歌集』を用いて「和歌」を盛り立て、その編纂には「朝廷では物の数にも入らず、改革派とまるで無縁の下級役人連」を用いた、との言い方が成立するのである。
●「歌徳説話」の嘘
♪この日本文芸史上屈指の主役交代劇に功のあった『古今集』編者たちが、その実績を認められてその後大いなる出世を遂げたか・・・と言えばそんなことは全くなく、彼らの官位は終生低いままであった。中心的編者の紀貫之などは、和歌の隆盛に同じく貢献した『伊勢物語』(927年頃)の作者である可能性もあり、かつまたあの有名な女性仮託仮名文学『土佐日記』(935年頃)をも著して漢詩に対する和歌の優位を決定付けた(&その後の平安女流日記文学への道をも開いた)日本文学史上最高の功労者であるにもかかわらず、生前の最終官位は「従五位上」と低いまま(享年80歳)。そもそも例の『土佐日記』は、六十代後半という高齢になってから、住み慣れた京都を離れ、荒海を渡って土佐(現在の高知県)に赴任しての地方官暮らしの任期の果てに書かれたものなのだ。
♪要するに、「歌の実力が身を助け、出世する」という「歌徳説話」など、中央政界に於ける官位栄達レベルでは全くのおとぎ話でしかなかったわけである。「よい歌を詠む」というだけで、「男に見初められて女性が幸せを掴む」とか、「社会の底辺を這っていた人が名のある貴族に雇われる」とか、「歌」の効用はその次元止まりで、それ以上のものではなかったのだ。
♪付言すれば、「歌徳説話」が横行するのは鎌倉時代以降の説話(『宇治拾遺物語』等)の中での話である。和歌も貴族社会も既に現実世界では衰退し、「雅びなる平安の世の思い出」となりつつあった時代に、「下々の者が成り上がるための手段・効用」として、現世利益重視の書き手の勝手な想像の中で「芸は身を助ける」型のネタとして持ち出されただけの代物なのだから、あだや鵜呑みにはせぬことである。本物の貴族世界では、和歌は「必須の嗜み」ではあっても「必殺の決め手」ではなかったのだ。
●和歌と漢詩の社会的効用
♪もっとも、和歌の贈答が貴族階層の優雅な嗜みとして定着した『古今集』以降の平安期には、男女の恋愛に付き物の恋文のやりとりに「歌」は小粋な小道具として必須の存在だったから、洒落た和歌一つ詠めぬ男女は、社会的に困った立場になったことだけは事実である。そうした無粋を避けるべく、貴人もそれに見初められることを夢見る女性たちもみな、せっせと歌詠みの修行には余念がなく、自身に才能がないと悟った貴人はまた、歌詠み名人の従者を雇ってはその代詠により身の面目を保ったものである。
♪一方、漢詩文は急激に衰退したとはいえ、朝廷の高位高官の間ではなお漢籍の知識は「知的エリートの証し」であり続けた。非主流文芸として普及度が低下した分だけ、排他的特権階層の知的アクセサリーとしての地位が逆説的に高まったとも言える。
♪その政治的エリート男子の象徴たる「知る人ぞ知る」漢籍の嗜みを、よりにもよって「女だてらに」有する希有なる存在として、平安中期、朝廷の男たちから持て囃され、日本初の「売れっ子作家」となったのがあの『源氏物語』の紫式部であり、彼女と同時代(一条天皇時代の紀元1000年前後)の女流文学者たちなのである。が、逆に言えば、「女が、自らの知性を誇示して有力貴族に目をかけてもらうための出世手段」にまで成り下がっていたのが、平安中期に於ける「漢詩文」である、との見立てもまた可能なわけだ。
♪いずれにせよ、日本の漢詩文は、あの菅原道真が醍醐天皇に献じた全作自作の漢詩(468首)/漢文(159編)私家集『菅家文草』(くゎんけもんざふ:900年成立)を以てその頂点を極めて以降、衰微の一途を辿ったのである。道真が左遷先の太宰府で失意の生涯を閉じた直後の903年に出た漢詩文集『菅家後集』(くゎんけごしふ)と、その2年後の905年に出た『古今和歌集』との間には、日本文芸史上最も顕著な分水嶺が横たわっていたのである。
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コメント (1件)

  1. the teacher
    <質疑応答コーナー>
    ・・・各ページ下には、質疑応答用の「コメントを残す」ボックスが用意されています(見本版では無効になっています)。
    ・・・教材をよく読めばわかるような無意味な質問や、当該テーマに無関係な内容の投稿でなければ、誠実&正確な回答が返ってくるはずです。

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