00)(002)―「和歌」と「短歌」―

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●「和歌」
♪「和歌(わか)」とは、中国伝来の漢語による「唐歌(からうた)」(=漢詩)と対照した日本固有の詩文の名称で、「大和歌・倭歌(やまとうた)」・「敷島の道(しきしまのみち)」の異称もあり、単に「歌(うた)」と言えば普通は「和歌」を指す。
♪奈良時代までは「長歌(ちょうか)」・「旋頭歌(せどうか)」・「片歌(かたうた)」など様々な形式の和歌が存在したが、平安前期の『古今和歌集』(905年)以降は「短歌」以外の形式は衰退し、「和歌」と言えば実質的に「短歌」を指すのが通例となった。
♪和歌の座興芸として発達した「連歌」や「俳句」・「川柳」、器楽の伴奏や舞踏と切り離せない「歌謡(かよう)・謡い(うたい)」は、「和歌」とは別の文芸扱いである。
●「短歌」(たんか)
♪元来は「長歌」と区分するための呼び名だが、平安時代には「長歌」も「旋頭歌」も衰退して専ら「短歌」が詠まれたため、「和歌」といえば「短歌」を指すのが通例。
●「長歌」(ちょうか、ながうた)
♪古い和歌の形式で、「五音・七音」の句を三度以上繰り返した末に「七音」の句で締める。これと併置する形で、直後に「短歌」を詠み添える場合が多かった。
(長歌)《天地(あめつち)の分れし時ゆ神さびて高く貴き駿河なる富士の高嶺を天(あま)の原振り放(さ)け見れば渡る日の影も隠らひ照る月の光も見えず白雲もい行きはばかり時じくぞ雪は降りける語り継ぎ言ひ継ぎ行かむ富士の高嶺(たかね)は》『万葉集』三・三一七・長歌・山部赤人(やまべのあかひと)
(現代語訳)天地が分れて以来、神威の宿る高く尊い駿河の国の富士山の高嶺を、空の彼方に振り向いて見れば、あまりの高峰に日の光も月明かりも隠れ、空行く雲も行く手をはばまれ、冬に限らず季節を選ばずその頂上には雪が降っていたりする。あぁ、いつまでも人から人へ、語り継いで行きたいものだ、この富士の高嶺の見事さを。
(長歌直後の短歌)《田子の浦ゆうち出でて見れば真白にそ不尽(ふじ)の高嶺に雪は降りける》
(現代語訳)駿河湾のほとり、田子の浦の松林の廻廊を抜け、眺望の開けた海辺に出て振り仰ぐ、遙か彼方の霊峰富士。妙なる白を帯びたその山頂には、もう、雪がしんしんと降っているのだなあ。
●「旋頭歌」(せどうか)
♪「頭を旋らす(あたまをめぐらす)歌」の意を持つ古い形式の和歌で、「五・七・七」を二度繰り返す六句構成(三八文字)を基本とする(五・七・五+五・七・七の六句=三六文字構成となるものもある)。「双本歌(そうほんか)」の別名もある。
《白玉は人に知らえず知らずともよし知らずとも我し知れらば知らずともよし》『万葉集』六・一〇一八・旋頭歌・元興寺の僧
(現代語訳)素晴らしき真珠も、その真価を誰にも知ってもらえない。が、知らなくてもよい。自分自身さえ知っていれば、他人に知られずとも、それでよい。
●「片歌」(かたうた)
♪古い和歌の形式で、「五七七」のみの三句・十九文字構成。「五・七・七」を二度繰り返す「旋頭歌」(双本歌)の「片方だけの歌」の意味だが、奈良時代初期には衰退していたようで、『万葉集』(759年頃)にも全く収録されていない。
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コメント (1件)

  1. the teacher
    <質疑応答コーナー>
    ・・・各ページ下には、質疑応答用の「コメントを残す」ボックスが用意されています(見本版では無効になっています)。
    ・・・教材をよく読めばわかるような無意味な質問や、当該テーマに無関係な内容の投稿でなければ、誠実&正確な回答が返ってくるはずです。

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