▲ | ▼ [722] 中に入れちゃい【や】・・・【か】な?
「古文単語千五百Mastering Weapon」 No.【や】
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「古文単語千五百Mastering Weapon」 No.【や】
-「疑問文」は「連体形」で締める。-
古文の疑問文は、<疑問詞+活用語連体形>の形となる。疑問詞が「Where / How / When / Why / Who / Whom / Whose / What / Which」に限定される英語と異なり、日本語の場合はまるで一定しないから厄介と言えば厄介だが、とにかく「疑問の意を表わす語と呼応する活用語は連体形で締める」という原則を覚えておくことだ。
こうした「疑問文末尾の連体形」もまた「係り結び」である。受験生の多くは「ぞ・なむ+連体形」/「こそ+已然形」のみが「係り結び」だと思っているが、それでは現実の古文の係り結びのかなりの部分を見落とすことになる(何たって疑問文は全部捨てちゃうわけだから)。
-「疑問」の係助詞「や」・「か」-
一方、古語に於ける「疑問詞」に近い位置付けの語と言えるのが、係助詞「や」・「か」である:
係助詞「や」疑問文の例)姫<や>寝ぬる。(Has the princess gone asleep?)
係助詞「か」疑問文の例)誰<か>在る。(Is there anyone here?)
・・・末尾は「連体形」でなければならないから、次のような「終止形結び」は間違いである:
(×)姫や寝ぬ。
(×)誰か在り。
-終助詞としての「や」・「か」-
しかし、こうした係助詞文中介在型疑問文は、現代では残っていない。現代に残るのは、「や」・「か」を末尾に置いた次のような形である:
終助詞「や」疑問文の例)君知る<や>。
・・・かなりの文語だが、詩文などでならこの形で現代日本語にも通じる。
終助詞「か」疑問文の例)誰在る<か>。
・・・「誰<が>」等の格助詞抜きだと少々ヘンテコな感じだが、末尾に<か?>を添えて疑問文を形成するのは現代日本語疑問文の最も一般的な形である。
-係助詞文中型疑問文の衰退=連体形と終止形の区分の消滅-
文中に「や」・「か」を置き文末を連体形で締める形の疑問文は、しかし、中世末期頃から次第に衰退して行くことになる。理由としては次のような事情が考えられる。
<疑問詞・係助詞「や」・「か」・「ぞ」・「なむ」>と呼応する「連体形係り結び」が多用されるにつれ、文末の「連体形」が実質的に「終止形」のような感覚となり、遂には「連体形の終止形化現象」につながることになる:「あり」だったはずの終止形が、「ある」という(かつての連体形の)形へと変容を遂げてしまったわけだ。こうなると、「連体形で締めてこそ疑問文」という原則も当然揺らぐことになる:「疑問文以外もみんな連体形で締める」のだから、これでは疑問文であることが形態の上から判然とせぬ事態となってしまう。「あり=終止形/ある=連体形」の区分がきっちりしていた当時は、「誰か<あり>」なら「誰かさんがいる」の意/「誰か<ある>」なら「誰かいるか?」の意、という区分が可能だが、終止形が「あり」ではなく「ある」へと変わってしまった時代には「誰か<ある>」とあってもそれが「誰かいる。/誰かいる?」のどちらかはまるで識別不可能なのだ。この形は現代日本語にもそのまま通じるが、しゃべくり言葉でなら語調変化(末尾を下降調で読めば平叙文/尻上げ口調なら疑問文)で意味の判別も可能ながら、ややこしさを避けるためには「誰かいる。/誰かいる<か>?」のように、疑問文の場合は末尾に<か>を添えるのが正当な作法となる。
こうして、文末に「や」・「か」を置くことで「これは疑問文なのだ」ということを示す作法が、連体形の終止形化現象に後押しされる形で、中世後期以降一般化することとなったわけである。
-日本語は後出しジャンケン型言語-
そもそも、「疑問文」以外でも、「否定文」もまた「文末に置かれた語句」によって示すのが日本語の(古今変わらぬ)作法であることは覚えておくべきであろう:
現代日本語否定文)誰も知ら<ない>。
中古否定文)誰も知ら<ず>。
この種の「文末に置かれた語句」によってその文章全体の方向性を確定する、という日本語の特性は、次のような否定命令文の比較対照からも明らかである:
上代否定命令文)然ること<な>言ひ。
・・・このように、奈良時代の日本語では、「・・・するな」という否定命令文は、否定副詞「な」を動詞直前に置き、直後の動詞を連用形とすることで表わした。
・・・これは、「否定の意を表わす語句は、動詞よりも前に置き、その文章が否定の流れであることをいち早く告知する」という西欧言語の構造とよく似ている:
英語例)Do <not> say such things.
・・・このように、英語を初めとするインド・ヨーロッパ系語族は「文章の方向性を決める語句」を可能な限り早く出したがる体質を持っている。それと同じ構造が、日本語にも、奈良時代の初期にはあったというのが興味深い。
ところが、中古に近くなる頃から既にもう、上のような「さること<な>言ひ」形では物足りなくなるのである。末尾に何か添えてやらないことにはどうにも尻切れトンボの未完結感が伴ったのであろう、強調の終助詞(or係助詞文末用法)「そ」を添えて、受験生にはお馴染みの次のような否定命令文が発生することになる:
中古以降の否定命令文)然ること<な>言ひ<そ>。
・・・末尾の<そ>自体に本源的な意味はない;否定の意味を担うのはあくまで文中の<な>の方である。にもかかわらず、このような語を添えねば気が済まなかったという事実に、「日本語では、文末の形が、文章全体の流れを決める手掛かりとなる」という構造的特質が現われていると言えるであろう。
現代日本語では、次のような形となる:
現代版否定命令文)そんなことを言う<な>。
・・・既述のごとく、かつての「連体形」が「終止形」へと取って代わられてしまう現象が室町時代以降の日本語には見られたので、「言う+な」は「終止形+な」に見えるが、本源的には「連体形+な」である。「言う。」で終止したのではそれは「肯定」で終わってしまうわけであるから、「言う+事+なかれ」の意味を表わすものとして捉えて「連体形+な」と見るのが文法的に妥当な形なのだ。
とにもかくにも、このように「文末に何が来るか」で、その文章全体の色彩が決定するのが日本語の特性であり、「最後の大トリ」の鶴の一声で万事が決するのが日本的姿勢であることは覚えておくべきだろう。
社会学的に言い換えれば、議論の限りを尽くした会議の最後に、社長なり何なりの正反対の意見で「白」が「黒」に覆る(民主的で論理的な人間集団には構造的にあり得ない)大どんでん返しは昔も今も日本の御家芸だが、そんな不思議な体質の言語学的背景事情として、「肯定文だとばかり思って読んでいたら、最後の最後に裏切られた!」と(西欧言語学的感性からは)感じられる「末尾語句が全ての流れを決める」後出しジャンケン体質がある、との見立てが成り立つのである。最後にモノ言う偉い人の一言を首を長くして待つ「自己主張皆無/首長屈従体質」だの、内容そのものを読まずに、要約文やら解説者のコメントやら世論やらを自らの意見へと代替する「手抜き思考/代弁者希求体質」だのが常態化している大方の日本人にとって、上述の展開は、自戒すべき言語学的事実であると言うべきだろう・・・と言っても、そんな体質が常態化してしまった倭人は、自らにとって不都合な真実を認めることなど到底できもせぬであろうから、上の陳述もよくて馬耳東風、ようせずは豚に真珠(Do not cast pearls before swine, lest they trample them under their feet, and turn and tear you in pieces.:野生の豚の眼前に真珠を投げるな、価値もわからず真珠を踏みにじった末に、攻撃されたと勘違いして投げた人間をズタズタに引き裂くまで荒れ狂うのがオチだから)ということになりかねまいが(・・・ま、そこまでのブタさんなら、ここまで律儀に読み進んでもおるまいが、こうした綿密な論理展開の文章を薄っぺらなトンカツみたいな形に要約してブタ同然の短慮の主の眼前にチラつかせれば、連中は必ず「自分をケナされた!」と息巻くこと必定・・・なので、「本講座の内容を軽々しく外界に持ち出すべからず」という禁則を受講者には課す次第・・・理の通じぬ相手/理解しようともせぬブタには、それ相応の対し方がある、ということを、人間は、弁えねばならぬのだ)。
古文の疑問文は、<疑問詞+活用語連体形>の形となる。疑問詞が「Where / How / When / Why / Who / Whom / Whose / What / Which」に限定される英語と異なり、日本語の場合はまるで一定しないから厄介と言えば厄介だが、とにかく「疑問の意を表わす語と呼応する活用語は連体形で締める」という原則を覚えておくことだ。
こうした「疑問文末尾の連体形」もまた「係り結び」である。受験生の多くは「ぞ・なむ+連体形」/「こそ+已然形」のみが「係り結び」だと思っているが、それでは現実の古文の係り結びのかなりの部分を見落とすことになる(何たって疑問文は全部捨てちゃうわけだから)。
-「疑問」の係助詞「や」・「か」-
一方、古語に於ける「疑問詞」に近い位置付けの語と言えるのが、係助詞「や」・「か」である:
係助詞「や」疑問文の例)姫<や>寝ぬる。(Has the princess gone asleep?)
係助詞「か」疑問文の例)誰<か>在る。(Is there anyone here?)
・・・末尾は「連体形」でなければならないから、次のような「終止形結び」は間違いである:
(×)姫や寝ぬ。
(×)誰か在り。
-終助詞としての「や」・「か」-
しかし、こうした係助詞文中介在型疑問文は、現代では残っていない。現代に残るのは、「や」・「か」を末尾に置いた次のような形である:
終助詞「や」疑問文の例)君知る<や>。
・・・かなりの文語だが、詩文などでならこの形で現代日本語にも通じる。
終助詞「か」疑問文の例)誰在る<か>。
・・・「誰<が>」等の格助詞抜きだと少々ヘンテコな感じだが、末尾に<か?>を添えて疑問文を形成するのは現代日本語疑問文の最も一般的な形である。
-係助詞文中型疑問文の衰退=連体形と終止形の区分の消滅-
文中に「や」・「か」を置き文末を連体形で締める形の疑問文は、しかし、中世末期頃から次第に衰退して行くことになる。理由としては次のような事情が考えられる。
<疑問詞・係助詞「や」・「か」・「ぞ」・「なむ」>と呼応する「連体形係り結び」が多用されるにつれ、文末の「連体形」が実質的に「終止形」のような感覚となり、遂には「連体形の終止形化現象」につながることになる:「あり」だったはずの終止形が、「ある」という(かつての連体形の)形へと変容を遂げてしまったわけだ。こうなると、「連体形で締めてこそ疑問文」という原則も当然揺らぐことになる:「疑問文以外もみんな連体形で締める」のだから、これでは疑問文であることが形態の上から判然とせぬ事態となってしまう。「あり=終止形/ある=連体形」の区分がきっちりしていた当時は、「誰か<あり>」なら「誰かさんがいる」の意/「誰か<ある>」なら「誰かいるか?」の意、という区分が可能だが、終止形が「あり」ではなく「ある」へと変わってしまった時代には「誰か<ある>」とあってもそれが「誰かいる。/誰かいる?」のどちらかはまるで識別不可能なのだ。この形は現代日本語にもそのまま通じるが、しゃべくり言葉でなら語調変化(末尾を下降調で読めば平叙文/尻上げ口調なら疑問文)で意味の判別も可能ながら、ややこしさを避けるためには「誰かいる。/誰かいる<か>?」のように、疑問文の場合は末尾に<か>を添えるのが正当な作法となる。
こうして、文末に「や」・「か」を置くことで「これは疑問文なのだ」ということを示す作法が、連体形の終止形化現象に後押しされる形で、中世後期以降一般化することとなったわけである。
-日本語は後出しジャンケン型言語-
そもそも、「疑問文」以外でも、「否定文」もまた「文末に置かれた語句」によって示すのが日本語の(古今変わらぬ)作法であることは覚えておくべきであろう:
現代日本語否定文)誰も知ら<ない>。
中古否定文)誰も知ら<ず>。
この種の「文末に置かれた語句」によってその文章全体の方向性を確定する、という日本語の特性は、次のような否定命令文の比較対照からも明らかである:
上代否定命令文)然ること<な>言ひ。
・・・このように、奈良時代の日本語では、「・・・するな」という否定命令文は、否定副詞「な」を動詞直前に置き、直後の動詞を連用形とすることで表わした。
・・・これは、「否定の意を表わす語句は、動詞よりも前に置き、その文章が否定の流れであることをいち早く告知する」という西欧言語の構造とよく似ている:
英語例)Do <not> say such things.
・・・このように、英語を初めとするインド・ヨーロッパ系語族は「文章の方向性を決める語句」を可能な限り早く出したがる体質を持っている。それと同じ構造が、日本語にも、奈良時代の初期にはあったというのが興味深い。
ところが、中古に近くなる頃から既にもう、上のような「さること<な>言ひ」形では物足りなくなるのである。末尾に何か添えてやらないことにはどうにも尻切れトンボの未完結感が伴ったのであろう、強調の終助詞(or係助詞文末用法)「そ」を添えて、受験生にはお馴染みの次のような否定命令文が発生することになる:
中古以降の否定命令文)然ること<な>言ひ<そ>。
・・・末尾の<そ>自体に本源的な意味はない;否定の意味を担うのはあくまで文中の<な>の方である。にもかかわらず、このような語を添えねば気が済まなかったという事実に、「日本語では、文末の形が、文章全体の流れを決める手掛かりとなる」という構造的特質が現われていると言えるであろう。
現代日本語では、次のような形となる:
現代版否定命令文)そんなことを言う<な>。
・・・既述のごとく、かつての「連体形」が「終止形」へと取って代わられてしまう現象が室町時代以降の日本語には見られたので、「言う+な」は「終止形+な」に見えるが、本源的には「連体形+な」である。「言う。」で終止したのではそれは「肯定」で終わってしまうわけであるから、「言う+事+なかれ」の意味を表わすものとして捉えて「連体形+な」と見るのが文法的に妥当な形なのだ。
とにもかくにも、このように「文末に何が来るか」で、その文章全体の色彩が決定するのが日本語の特性であり、「最後の大トリ」の鶴の一声で万事が決するのが日本的姿勢であることは覚えておくべきだろう。
社会学的に言い換えれば、議論の限りを尽くした会議の最後に、社長なり何なりの正反対の意見で「白」が「黒」に覆る(民主的で論理的な人間集団には構造的にあり得ない)大どんでん返しは昔も今も日本の御家芸だが、そんな不思議な体質の言語学的背景事情として、「肯定文だとばかり思って読んでいたら、最後の最後に裏切られた!」と(西欧言語学的感性からは)感じられる「末尾語句が全ての流れを決める」後出しジャンケン体質がある、との見立てが成り立つのである。最後にモノ言う偉い人の一言を首を長くして待つ「自己主張皆無/首長屈従体質」だの、内容そのものを読まずに、要約文やら解説者のコメントやら世論やらを自らの意見へと代替する「手抜き思考/代弁者希求体質」だのが常態化している大方の日本人にとって、上述の展開は、自戒すべき言語学的事実であると言うべきだろう・・・と言っても、そんな体質が常態化してしまった倭人は、自らにとって不都合な真実を認めることなど到底できもせぬであろうから、上の陳述もよくて馬耳東風、ようせずは豚に真珠(Do not cast pearls before swine, lest they trample them under their feet, and turn and tear you in pieces.:野生の豚の眼前に真珠を投げるな、価値もわからず真珠を踏みにじった末に、攻撃されたと勘違いして投げた人間をズタズタに引き裂くまで荒れ狂うのがオチだから)ということになりかねまいが(・・・ま、そこまでのブタさんなら、ここまで律儀に読み進んでもおるまいが、こうした綿密な論理展開の文章を薄っぺらなトンカツみたいな形に要約してブタ同然の短慮の主の眼前にチラつかせれば、連中は必ず「自分をケナされた!」と息巻くこと必定・・・なので、「本講座の内容を軽々しく外界に持ち出すべからず」という禁則を受講者には課す次第・・・理の通じぬ相手/理解しようともせぬブタには、それ相応の対し方がある、ということを、人間は、弁えねばならぬのだ)。
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