▲ | ▼ [302] 【さらしな日記】って公開ブログ?
「古文単語千五百Mastering Weapon」 No.624【更に】
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「古文単語千五百Mastering Weapon」 No.624【更に】
-「私ってこんなヒトなのよー」的な公開録としての中古日記文学-
「さらし(ちゃいな)にっき」=大勢の人に読んでもらえるようにブログやツイッター上で書き散らしちゃった私的なつぶやき、みたいなベタな連想に結び付きそうな名前の『更級日記』であるが、実際、この作品にはそうした「大勢の人々に読んでもらうために書かれたもの」としての性質が色濃かったことは(シャレでなく)覚えておくべきであろう。
作者菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)がこの作品を書いたのは西暦1020年から1059年にかけてのこと。年齢的には作者がまだ13歳の少女だった頃から52歳頃までの日記である・・・が、「日記」の体裁を取ってはいるものの、必ずしも40年間毎日こつこつ書きためた純然たる日記ではなく、回想録的にまとめて書き下ろされたものであろう、というのが全体的な文体判断等から出されている定説である。
この1020~1059年というのは、あの平安女流文学最盛期の一条朝(紀元1000年頃)の2~3世代後にあたり、作中には(1008年に初めて世に出た)『源氏物語』が読みたくて読みたくて仕方がなかった幼年期の話が書いてあったりするから、この作者がかなりの文学少女だったことがわかる。血統で物事を割り切った気になる日本人の悪癖を刺激するようで嫌なのだが、一応紹介しておくと、彼女の父親菅原孝標は、あの「学問の神様・天神様」の菅原道真(すがわらのみちざね)の5代後の孫にあたり、彼女のお母さんのお姉さん(異母姉だが)に当たる人(つまり、作者のおばさん)は、あのドロドロ濃密な『蜻蛉日記』の中で不実な夫の藤原兼家との幸福とは言えぬ結婚生活の記録(954~974)を赤裸々に綴って世の中にぶちまけた女性なのである。その『蜻蛉日記』によって「中古女流日記文学」なるものが大ブレークし、大勢の人々に読まれ、類似作品が山ほど書かれ、そうした中から、日記文特有の省略多用&自己完結的で難解極まる文体を模した作品として、例の『源氏物語』や『栄花物語』などが生まれたわけであり、そうした作品の作り手としての文才を認められたからこそ、紫式部のような決して社会的身分の高くなかった「受領の娘(ずらうのむすめ)」達が世に出ることができたわけである。
そうした「文才を認められての出世物語」を、「学才で出世した日本史上最高の知的エリート菅原道真」の子孫が、「女流文学者の草分けたるオバさま(・・・ちょっとコワそうな感じだけど)」の日記文学に触発されて、自らも夢見て書いたのが『更級日記』・・・であれば、最初からそれは「天下の読者に広く読まれること&それによって出世することを意識した作品」であるのは当然のことだったのだ。これは何も彼女の作品のみに限ったことではなく、あの時代の「日記」なるものに、「自らの才能を世間に見せつけるための意欲作」としての自己顕示欲が付きまとうのは社会学的必然の構図だったのである・・・もっとも、その草分けたる『蜻蛉日記』だけは、藤原兼家に対する純粋な私的怨恨のみを原動力として書かれたものであったようだが。
-んで、結局「さらしな」って、何なわけ?-
・・・などと、「更なり」とはあまり関係のない話に絡めて、「さらしちゃいなよ、この日記」的展開で『更級日記』つながりの中古女流(日記)文学の自己顕示欲事情をちゃっかり紹介してしまったが、そもそもがあの作品の標題の「さらしな」そのものからして、現実の地名の「更級」とはほとんど何の関係もないのだから、この程度の類推による横滑り文章展開もまた、許してもらえることだろう。
一応紹介しておくと、あの作品に「さらしな」の名が付いたのは、作中に詠まれた次の歌に絡めてのことである:
「月も出でで闇にくれたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ」・・・月も出ていないから空は真っ暗闇。その暗黒の空に似て、私の心も真っ暗け。あぁ、一体何でこんな夜に、こんな姥捨山くんだりまで、私ははるばるやって来てしまったのだろう・・・ばっかみたい。
・・・暗い落胆の歌である。文学少女らしい夢をあれこれ抱えていた作者が、成長するにつれて、現実は全然私の理想とは遠いもの、という辛い体験を山ほど重ねて行くさまを書いてあるのがこの日記文学の特徴なので、その意味では全作品の象徴詩的な歌と言えるだろう。
「姨捨山(をばすてやま)」とは、長野県更級郡にある月見の名所であるが、実際には作者はこの更級の地を訪ねたわけではないし、「更級」の文字自体、『更級日記』には一度として登場すらしない。にもかかわらず「姨捨山」と言えば古来「更級」ということで、この歌一つに因んで『更級日記』というわけだ・・・上記の歌が作品内容全体を暗示する象徴的なものであるのは確かだが、行ってもいない「更科」の名まで標題に引くのは如何なものか・・・それも「更科日記」なのだから、「長野県更級郡での生活を綴った日記文学」の誤解を招くのは必定であろうに・・・今も昔も、日本人の「名付け」行動は実に軽挙妄動、西欧人的感覚からは信じ難いまでのその軽ーい態度が、よーくわかる無数の事例のうちの一つである。
-「歌枕」の見えざる手-
ちなみに、「姨捨山」と「月」と言えば「暗くてどうしようもなく沈んだ心を持て余している」という連想(文芸用語で言うところの「歌枕」=ある歌に関連して即座に浮かんでくる土地・名称・イメージ・心情等)は、そもそもが次の『古今集』収蔵(よみ人しれず)の歌に由来するものである:
「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」・・・長野県は更級郡にある姨捨山と言えば、月見をするには格好の場所。そんな場所で、闇夜を照らす見事な月を見ているところなのだから、私の心も明るくなって当然だろうに、深い悩みを抱えて暗く思い沈む私の心は、あの月を見てもなお慰められることもない。
明月と暗い心のベタな対照の図式の歌だが、とにかくこの歌を下敷きとして、「姨捨」と言えば「月は明るい/私はクラい」のコントラストを示唆する「歌枕」 が成立し、その勢いで「更級」なんて記述は更々ない日記文学(というのも少々難がある書き下ろし作品)の題名が『さらしなにっき』となったのだから、歌枕の力、恐るべし、である。
-「さら」の「しな」とはこれいかに?-
さて、ここでようやく「さらしな」そのものの話に入る。「更級」とも「更科」とも書くこの呼び名のうち、「しな(級・科)」は「等級・科目」の意味である:英語で「grade:グレード・段階・レベル」と言った方が現代日本人には分かり易いかもしれない。地形的には、地図上の「等高線のシワシワで区分されてる高低差」と言えばイメージが浮かんで来るであろう。そこに「さら(更)」が付くわけであるが、この「さら」には次の二つの意味があり得る:
1)既にあるものの上に、「更に」別の何かを追加する。
・・・この場合の「長野県更級郡」のイメージは、「山だらけの土地に更にまた山を加える」となろう。
2)今までとは趣を変えて、全く新たに「真っ新」なものとしてやり直す。
・・・この場合、「山また山」の土地の中で、「平坦な更地」のイメージが「姨捨山」の近辺、ということになるであろう。
現実のこの土地がどういう形状であるかは(現地の人々には失礼ながら)、この種の名称について考察する上ではさしたる意味を持たない:日本語の名付けのいい加減さはこれまでにも幾度となく指摘してきた通りなのだから、現実の土地が「山だらけ・・・これじゃ蕎麦も作れやしない・・・せめて更地に恵まれてたらなぁ・・・」のないものねだりから「起伏(=級・科)がない平坦(=更)な土地」の名に結び付くことも十分あるわけで、そうしてかなり適当な理由から付けられてしまった名前に、後からさらにテキトーな言い訳こじつけてる例が山ほどあるのがこの国の各種の名前の一大特徴なのだから。
・・・などと、日本的なるものの本質を見据えることをせずにひたすら「素晴らしい」と信じ込みたがっている日本人の感情を更に(またしても・again)逆撫でする文章を加えてしまったわけだが、今更(この段階に於いてなお・even now)こうした和風名称の杜撰さについて重ね重ね指摘するのも[言へばor言ふも]さらなり(蛇足というもの・needless to say)という気がせんでもない・・・が、いずれにせよとにかく(一部の日本人の感情的反発など度外視して)上記の考察に際し、心に一点の「姨捨」的曇りもない筆者としては、これを修正するつもりなど更に(全然・ちっとも・さらさら・not at all)ないのである。
・・・あ、ごめん、一部加筆修正だ、「さら」の用法、更にもひとつ追加:
3)「更に・・・ず」の形で用いて、「・・・なんてさらさらない」として否定の意味を強調する。
(おしまいっ)
「さらし(ちゃいな)にっき」=大勢の人に読んでもらえるようにブログやツイッター上で書き散らしちゃった私的なつぶやき、みたいなベタな連想に結び付きそうな名前の『更級日記』であるが、実際、この作品にはそうした「大勢の人々に読んでもらうために書かれたもの」としての性質が色濃かったことは(シャレでなく)覚えておくべきであろう。
作者菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)がこの作品を書いたのは西暦1020年から1059年にかけてのこと。年齢的には作者がまだ13歳の少女だった頃から52歳頃までの日記である・・・が、「日記」の体裁を取ってはいるものの、必ずしも40年間毎日こつこつ書きためた純然たる日記ではなく、回想録的にまとめて書き下ろされたものであろう、というのが全体的な文体判断等から出されている定説である。
この1020~1059年というのは、あの平安女流文学最盛期の一条朝(紀元1000年頃)の2~3世代後にあたり、作中には(1008年に初めて世に出た)『源氏物語』が読みたくて読みたくて仕方がなかった幼年期の話が書いてあったりするから、この作者がかなりの文学少女だったことがわかる。血統で物事を割り切った気になる日本人の悪癖を刺激するようで嫌なのだが、一応紹介しておくと、彼女の父親菅原孝標は、あの「学問の神様・天神様」の菅原道真(すがわらのみちざね)の5代後の孫にあたり、彼女のお母さんのお姉さん(異母姉だが)に当たる人(つまり、作者のおばさん)は、あのドロドロ濃密な『蜻蛉日記』の中で不実な夫の藤原兼家との幸福とは言えぬ結婚生活の記録(954~974)を赤裸々に綴って世の中にぶちまけた女性なのである。その『蜻蛉日記』によって「中古女流日記文学」なるものが大ブレークし、大勢の人々に読まれ、類似作品が山ほど書かれ、そうした中から、日記文特有の省略多用&自己完結的で難解極まる文体を模した作品として、例の『源氏物語』や『栄花物語』などが生まれたわけであり、そうした作品の作り手としての文才を認められたからこそ、紫式部のような決して社会的身分の高くなかった「受領の娘(ずらうのむすめ)」達が世に出ることができたわけである。
そうした「文才を認められての出世物語」を、「学才で出世した日本史上最高の知的エリート菅原道真」の子孫が、「女流文学者の草分けたるオバさま(・・・ちょっとコワそうな感じだけど)」の日記文学に触発されて、自らも夢見て書いたのが『更級日記』・・・であれば、最初からそれは「天下の読者に広く読まれること&それによって出世することを意識した作品」であるのは当然のことだったのだ。これは何も彼女の作品のみに限ったことではなく、あの時代の「日記」なるものに、「自らの才能を世間に見せつけるための意欲作」としての自己顕示欲が付きまとうのは社会学的必然の構図だったのである・・・もっとも、その草分けたる『蜻蛉日記』だけは、藤原兼家に対する純粋な私的怨恨のみを原動力として書かれたものであったようだが。
-んで、結局「さらしな」って、何なわけ?-
・・・などと、「更なり」とはあまり関係のない話に絡めて、「さらしちゃいなよ、この日記」的展開で『更級日記』つながりの中古女流(日記)文学の自己顕示欲事情をちゃっかり紹介してしまったが、そもそもがあの作品の標題の「さらしな」そのものからして、現実の地名の「更級」とはほとんど何の関係もないのだから、この程度の類推による横滑り文章展開もまた、許してもらえることだろう。
一応紹介しておくと、あの作品に「さらしな」の名が付いたのは、作中に詠まれた次の歌に絡めてのことである:
「月も出でで闇にくれたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ」・・・月も出ていないから空は真っ暗闇。その暗黒の空に似て、私の心も真っ暗け。あぁ、一体何でこんな夜に、こんな姥捨山くんだりまで、私ははるばるやって来てしまったのだろう・・・ばっかみたい。
・・・暗い落胆の歌である。文学少女らしい夢をあれこれ抱えていた作者が、成長するにつれて、現実は全然私の理想とは遠いもの、という辛い体験を山ほど重ねて行くさまを書いてあるのがこの日記文学の特徴なので、その意味では全作品の象徴詩的な歌と言えるだろう。
「姨捨山(をばすてやま)」とは、長野県更級郡にある月見の名所であるが、実際には作者はこの更級の地を訪ねたわけではないし、「更級」の文字自体、『更級日記』には一度として登場すらしない。にもかかわらず「姨捨山」と言えば古来「更級」ということで、この歌一つに因んで『更級日記』というわけだ・・・上記の歌が作品内容全体を暗示する象徴的なものであるのは確かだが、行ってもいない「更科」の名まで標題に引くのは如何なものか・・・それも「更科日記」なのだから、「長野県更級郡での生活を綴った日記文学」の誤解を招くのは必定であろうに・・・今も昔も、日本人の「名付け」行動は実に軽挙妄動、西欧人的感覚からは信じ難いまでのその軽ーい態度が、よーくわかる無数の事例のうちの一つである。
-「歌枕」の見えざる手-
ちなみに、「姨捨山」と「月」と言えば「暗くてどうしようもなく沈んだ心を持て余している」という連想(文芸用語で言うところの「歌枕」=ある歌に関連して即座に浮かんでくる土地・名称・イメージ・心情等)は、そもそもが次の『古今集』収蔵(よみ人しれず)の歌に由来するものである:
「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」・・・長野県は更級郡にある姨捨山と言えば、月見をするには格好の場所。そんな場所で、闇夜を照らす見事な月を見ているところなのだから、私の心も明るくなって当然だろうに、深い悩みを抱えて暗く思い沈む私の心は、あの月を見てもなお慰められることもない。
明月と暗い心のベタな対照の図式の歌だが、とにかくこの歌を下敷きとして、「姨捨」と言えば「月は明るい/私はクラい」のコントラストを示唆する「歌枕」 が成立し、その勢いで「更級」なんて記述は更々ない日記文学(というのも少々難がある書き下ろし作品)の題名が『さらしなにっき』となったのだから、歌枕の力、恐るべし、である。
-「さら」の「しな」とはこれいかに?-
さて、ここでようやく「さらしな」そのものの話に入る。「更級」とも「更科」とも書くこの呼び名のうち、「しな(級・科)」は「等級・科目」の意味である:英語で「grade:グレード・段階・レベル」と言った方が現代日本人には分かり易いかもしれない。地形的には、地図上の「等高線のシワシワで区分されてる高低差」と言えばイメージが浮かんで来るであろう。そこに「さら(更)」が付くわけであるが、この「さら」には次の二つの意味があり得る:
1)既にあるものの上に、「更に」別の何かを追加する。
・・・この場合の「長野県更級郡」のイメージは、「山だらけの土地に更にまた山を加える」となろう。
2)今までとは趣を変えて、全く新たに「真っ新」なものとしてやり直す。
・・・この場合、「山また山」の土地の中で、「平坦な更地」のイメージが「姨捨山」の近辺、ということになるであろう。
現実のこの土地がどういう形状であるかは(現地の人々には失礼ながら)、この種の名称について考察する上ではさしたる意味を持たない:日本語の名付けのいい加減さはこれまでにも幾度となく指摘してきた通りなのだから、現実の土地が「山だらけ・・・これじゃ蕎麦も作れやしない・・・せめて更地に恵まれてたらなぁ・・・」のないものねだりから「起伏(=級・科)がない平坦(=更)な土地」の名に結び付くことも十分あるわけで、そうしてかなり適当な理由から付けられてしまった名前に、後からさらにテキトーな言い訳こじつけてる例が山ほどあるのがこの国の各種の名前の一大特徴なのだから。
・・・などと、日本的なるものの本質を見据えることをせずにひたすら「素晴らしい」と信じ込みたがっている日本人の感情を更に(またしても・again)逆撫でする文章を加えてしまったわけだが、今更(この段階に於いてなお・even now)こうした和風名称の杜撰さについて重ね重ね指摘するのも[言へばor言ふも]さらなり(蛇足というもの・needless to say)という気がせんでもない・・・が、いずれにせよとにかく(一部の日本人の感情的反発など度外視して)上記の考察に際し、心に一点の「姨捨」的曇りもない筆者としては、これを修正するつもりなど更に(全然・ちっとも・さらさら・not at all)ないのである。
・・・あ、ごめん、一部加筆修正だ、「さら」の用法、更にもひとつ追加:
3)「更に・・・ず」の形で用いて、「・・・なんてさらさらない」として否定の意味を強調する。
(おしまいっ)
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