▲ | ▼ [460] 【ぬべし】って否定?
「古文単語千五百Mastering Weapon」 No.1456【ぬべし】
———-
「古文単語千五百Mastering Weapon」 No.1456【ぬべし】
初学者が陥りがちな誤りに、完了助動詞の「ぬ」を否定助動詞「ぬ(=ず連体形)」と勘違いする、というものがある。
この「ぬべし」もまた、古文初心者はほぼ確実に「・・・ない+に違いない」と訳すに違いない、というもの。だが、助動詞「べし」は否定の「ぬ」に付くことは決してない;「ざる+べし」の形にしかならぬのである・・・まぁ、そこまでわかっているような古文読みなら、「ぬべし=・・・ないに違いない」のような誤訳には陥らないに違いないから、上は無意味な解説には違いないのだが。
結局この「ぬ」、完了助動詞なのであるが、その「完了」の呼び名がこの種の誤解を生むのである。「完了」なら「既にもう終わっている事柄」を指す、というのが現代日本人の感覚であるから、そこに推量の助動詞、即ち「これから・・・になるだろう」を意味するはずの「べし」が付く、というのは(過去と未来のチャンポンで)感覚的におかしい、ということになり、その解釈から弾き出されるようにして、「否定+推量=・・・ないに違いない」なる意味に違いない、という落とし穴にはまりこむ、という仕掛け・・・実によく出来ている、もとい、困った誤読の図式ではある。要は、「完了」という呼び名が悪いのであって、「確述」という名称で把握しておれば、こんな誤読に陥る者の数は激減するはずである。
「確述」の「ぬ」を「完了」と取り違える典型例としては、次の一節を引き合いに出すのがよいだろう:
「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむ」
言わずと知れた「いろは歌」の出だしである。総かな表記では訳が分からぬ人のために、漢字仮名交じり文(+濁音記号・句読点・疑問符&被省略主語つき)に書き換えれば次のようになる:
「[花の]色は匂へど、散りぬるを、我が世誰ぞ常ならむ?」
現代語訳)今は美しく咲き誇っている桜花も、その色彩は鮮やかに映るけれども、やがては必ず散るものだ・・・というのに、我が世の春を永遠に謳歌できる者など、この無常の世のどこにいるというのか、そんな者は誰一人いないのだ。
「にほふ」は、現代では「嗅覚」専用語(臭う)だが、上代~中古に於いては「色彩語」(仁+秀+ふ)の色合いが濃い。ここでも「花の盛り」に合わせて「色鮮やかに咲き誇る」の意味が正解で、「ツーンと鼻を突く芳香が漂う」とするのは古文をろくに知らぬ現代人の誤読の典型である。
しかし、「匂い」と「色合い」の取り違えは、この古文の解釈に致命傷を負わせるものではない。救いようのない誤読が生じるのは「散りぬるを」の箇所である・・・「既にもう散ってしまったというのに」と誤解する人が、また、実に多いのだ。よくよく考えて見れば、「既に散った花」であれば「にほふ」道理もない:「色合い鮮やか」でもなければ「鼻を突く匂い」ももうとっくの昔に消え失せている筈である・・・まぁ、モノが銀杏あたりなら、散り敷いた実を足で踏ん付けた結果として周囲にプンプンその悪臭が漂っている、的な展開もあり得るであろうが、ここは「花」の話であって「実」の話ではないのだから、そうした解釈も成り立つまい。結局これも、「ぬ」の「確述」がいかに誤読に結び付き易いかを示す事例と言えるのだ。
そうした誤読可能性の高さは、古典時代人も承知していたのであろう、この種の確述の「ぬ」は、単独で用いられる例(「日も暮れぬ」=「きっと日暮れになってしまうだろう」)はあまり多くなく、その他の推量助動詞との抱き合わせ形で、その推量の確かさを強調する意味合いを込めて添えられる使用例が圧倒的に多いのである。「ぬべし」・「なむ」・「ぬらむ」・「なまし」等はそうした事情を持つ連語なのだ。
ちなみに、「ぬ」と同様「確述」の意を持つ助動詞「つ」もまた、「つべし」・「てむ」・「つらむ」・「てまし」等々、確実な推量を表わす連語に引っ張りだこである。この種の連語の「ぬ」・「な」・「つ」・「て」の正体に迷ったら、思い切ってそれを外してみて意味が通じるかどうか確かめるとよい:「強調」のために添えられているだけなのだから、なくても意味は通じる理屈である。また、「ぬ」と「つ」を交換してみても意味はほぼ同じであるから、その互換性に着目する検算方法も覚えておくとよい。
この「ぬべし」もまた、古文初心者はほぼ確実に「・・・ない+に違いない」と訳すに違いない、というもの。だが、助動詞「べし」は否定の「ぬ」に付くことは決してない;「ざる+べし」の形にしかならぬのである・・・まぁ、そこまでわかっているような古文読みなら、「ぬべし=・・・ないに違いない」のような誤訳には陥らないに違いないから、上は無意味な解説には違いないのだが。
結局この「ぬ」、完了助動詞なのであるが、その「完了」の呼び名がこの種の誤解を生むのである。「完了」なら「既にもう終わっている事柄」を指す、というのが現代日本人の感覚であるから、そこに推量の助動詞、即ち「これから・・・になるだろう」を意味するはずの「べし」が付く、というのは(過去と未来のチャンポンで)感覚的におかしい、ということになり、その解釈から弾き出されるようにして、「否定+推量=・・・ないに違いない」なる意味に違いない、という落とし穴にはまりこむ、という仕掛け・・・実によく出来ている、もとい、困った誤読の図式ではある。要は、「完了」という呼び名が悪いのであって、「確述」という名称で把握しておれば、こんな誤読に陥る者の数は激減するはずである。
「確述」の「ぬ」を「完了」と取り違える典型例としては、次の一節を引き合いに出すのがよいだろう:
「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむ」
言わずと知れた「いろは歌」の出だしである。総かな表記では訳が分からぬ人のために、漢字仮名交じり文(+濁音記号・句読点・疑問符&被省略主語つき)に書き換えれば次のようになる:
「[花の]色は匂へど、散りぬるを、我が世誰ぞ常ならむ?」
現代語訳)今は美しく咲き誇っている桜花も、その色彩は鮮やかに映るけれども、やがては必ず散るものだ・・・というのに、我が世の春を永遠に謳歌できる者など、この無常の世のどこにいるというのか、そんな者は誰一人いないのだ。
「にほふ」は、現代では「嗅覚」専用語(臭う)だが、上代~中古に於いては「色彩語」(仁+秀+ふ)の色合いが濃い。ここでも「花の盛り」に合わせて「色鮮やかに咲き誇る」の意味が正解で、「ツーンと鼻を突く芳香が漂う」とするのは古文をろくに知らぬ現代人の誤読の典型である。
しかし、「匂い」と「色合い」の取り違えは、この古文の解釈に致命傷を負わせるものではない。救いようのない誤読が生じるのは「散りぬるを」の箇所である・・・「既にもう散ってしまったというのに」と誤解する人が、また、実に多いのだ。よくよく考えて見れば、「既に散った花」であれば「にほふ」道理もない:「色合い鮮やか」でもなければ「鼻を突く匂い」ももうとっくの昔に消え失せている筈である・・・まぁ、モノが銀杏あたりなら、散り敷いた実を足で踏ん付けた結果として周囲にプンプンその悪臭が漂っている、的な展開もあり得るであろうが、ここは「花」の話であって「実」の話ではないのだから、そうした解釈も成り立つまい。結局これも、「ぬ」の「確述」がいかに誤読に結び付き易いかを示す事例と言えるのだ。
そうした誤読可能性の高さは、古典時代人も承知していたのであろう、この種の確述の「ぬ」は、単独で用いられる例(「日も暮れぬ」=「きっと日暮れになってしまうだろう」)はあまり多くなく、その他の推量助動詞との抱き合わせ形で、その推量の確かさを強調する意味合いを込めて添えられる使用例が圧倒的に多いのである。「ぬべし」・「なむ」・「ぬらむ」・「なまし」等はそうした事情を持つ連語なのだ。
ちなみに、「ぬ」と同様「確述」の意を持つ助動詞「つ」もまた、「つべし」・「てむ」・「つらむ」・「てまし」等々、確実な推量を表わす連語に引っ張りだこである。この種の連語の「ぬ」・「な」・「つ」・「て」の正体に迷ったら、思い切ってそれを外してみて意味が通じるかどうか確かめるとよい:「強調」のために添えられているだけなのだから、なくても意味は通じる理屈である。また、「ぬ」と「つ」を交換してみても意味はほぼ同じであるから、その互換性に着目する検算方法も覚えておくとよい。
———-
コメント (1件)