▲ | ▼ [424] 否定の【な】は文末で使うもの?
「古文単語千五百Mastering Weapon」 No.1466【な】
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「古文単語千五百Mastering Weapon」 No.1466【な】
-「・・・な」は強圧的否定-
現代日本語で否定文を作る場合、「・・・する<な>」として文末に「な」を置くのは、教科書的にはアリだが、現実生活では少々キツすぎていただけない禁止命令となる。「気が散るから、後ろから覗き見<しない>でくれる?」あたりの「否定語中出し表現」が妥当な形であって、「俺の後ろに立つ<な>」のようなとどめの一撃としての<な>はゴルゴ13あたりにお似合いのコワモテ(コワぃくせに女にモテる、ではなくて、コワオモテ=強面=ゴワゴワ系フェイス)の台詞になってしまう。
-「な+動詞連用形+そ」の中古否定文-
中古の和語での否定表現の定型「な・・・そ」にもやはり、そうした否定詞文末型コワモテ否定文<・・・「な」>回避の心情が働いていた、と見ることができるだろう。ところが、面白いもので、文末を「な!」で言い切る強圧的否定文はイヤなくせに、それでもなおかつ文末には何か置かねば気が済まぬ心情もまた作用していた、と見えるフシがあるのだ。
-「な+動詞連用形」のみの上代否定文-
そもそも「な・・・そ」の平安調否定文の元になった奈良時代の否定表現は、「な+動詞連用形」であって、文末に「そ」を伴うものではなかった。この上代語形は、<「否定詞」が「動詞」に先行する>という、日本語の否定文としてはかなり希有なるものであって、英語などの西欧言語の否定文に構造的に近いものであった:
上代「な+動詞連用形」否定文)我<な>「忘れ」。
英語否定文)Do <not> 「forget」 me.
現代日本語訳)私を「忘れる」<な>。
・・・英語でも古式否定文だと次のようになる:
古式英語否定文)「Forget」 me <not>.
・・・が、このように「動詞」より<否定詞>を後置するのは「古語・雅語」として英詩の中で用いるぐらいの例外的語法であって、英語(を初めとする西欧言語)では、「この文章は否定的内容である」というメッセージは「動詞よりも前にはっきりと宣言しておく」のが約束事である。
・・・それに対し、日本語の場合、「その文章が否定的内容」であることを表わす語は、文末に置いてこそ意味を為す感覚が極めて強い。上例の冒頭にあった「我<な>忘れ。」の尻切れトンボ語感は、現代日本人なら誰もが感じることであろう:「文末に、’否定’であることを示す語が何もない」のが、何とも物足りないからである。
-日本語は「後から否定」言語-
逆に言えば、日本人は「文末の形を見て、それが’否定文’である、ということを認識する」のである。英語のように「これから述べる内容は’否定文’です;から、最初から-(マイナス)記号付きで解釈してください」という意識の流れでは展開しないので、文末の最後の締めくくりで「ここまでに述べた内容・・・あれ実は’否定’だったんです;ので、改めて-(マイナス)記号付きということでお願いしますね」というのが日本人の意識なのであって、この点、西欧人とは正反対の感覚(&語順)となるわけだ。
そうした日本語にあって、上代式の「西欧風’な先出し’否定文」の「我<な>忘れ」の違和感を払拭するための工夫として、文末に添える記号に用いられたのが「強調の係助詞’そ’」だった、というわけである:
中古型否定文例)我<な>忘れ<そ>。
・・・この「そ」は、中古には例の「ぞ」に化けることになる係助詞であるが、「な・・・そ」の否定構文構成記号としてはずっと清音「そ」のままで、最後まで濁音化することがなかった。
-「カ変・サ変」は「未然形」-
なお、「な+動詞連用形+そ」の基本形から外れるものとして、「カ変動詞(=来:く)」及び「サ変動詞(=為:す)」の場合だけは、「未然形」接続である点もおさえておこう:
カ変の例)今はな「来(こ)・・・(×)き」そ。
英訳)Don’t come to see me any more.
現代語訳)もう私のところに来ないで。
サ変の例)腹悪しき事な「為(せ)・・・(×)し」そ。
英訳)Don’t do nasty things.
現代語訳)意地悪しないで。
現代日本語で否定文を作る場合、「・・・する<な>」として文末に「な」を置くのは、教科書的にはアリだが、現実生活では少々キツすぎていただけない禁止命令となる。「気が散るから、後ろから覗き見<しない>でくれる?」あたりの「否定語中出し表現」が妥当な形であって、「俺の後ろに立つ<な>」のようなとどめの一撃としての<な>はゴルゴ13あたりにお似合いのコワモテ(コワぃくせに女にモテる、ではなくて、コワオモテ=強面=ゴワゴワ系フェイス)の台詞になってしまう。
-「な+動詞連用形+そ」の中古否定文-
中古の和語での否定表現の定型「な・・・そ」にもやはり、そうした否定詞文末型コワモテ否定文<・・・「な」>回避の心情が働いていた、と見ることができるだろう。ところが、面白いもので、文末を「な!」で言い切る強圧的否定文はイヤなくせに、それでもなおかつ文末には何か置かねば気が済まぬ心情もまた作用していた、と見えるフシがあるのだ。
-「な+動詞連用形」のみの上代否定文-
そもそも「な・・・そ」の平安調否定文の元になった奈良時代の否定表現は、「な+動詞連用形」であって、文末に「そ」を伴うものではなかった。この上代語形は、<「否定詞」が「動詞」に先行する>という、日本語の否定文としてはかなり希有なるものであって、英語などの西欧言語の否定文に構造的に近いものであった:
上代「な+動詞連用形」否定文)我<な>「忘れ」。
英語否定文)Do <not> 「forget」 me.
現代日本語訳)私を「忘れる」<な>。
・・・英語でも古式否定文だと次のようになる:
古式英語否定文)「Forget」 me <not>.
・・・が、このように「動詞」より<否定詞>を後置するのは「古語・雅語」として英詩の中で用いるぐらいの例外的語法であって、英語(を初めとする西欧言語)では、「この文章は否定的内容である」というメッセージは「動詞よりも前にはっきりと宣言しておく」のが約束事である。
・・・それに対し、日本語の場合、「その文章が否定的内容」であることを表わす語は、文末に置いてこそ意味を為す感覚が極めて強い。上例の冒頭にあった「我<な>忘れ。」の尻切れトンボ語感は、現代日本人なら誰もが感じることであろう:「文末に、’否定’であることを示す語が何もない」のが、何とも物足りないからである。
-日本語は「後から否定」言語-
逆に言えば、日本人は「文末の形を見て、それが’否定文’である、ということを認識する」のである。英語のように「これから述べる内容は’否定文’です;から、最初から-(マイナス)記号付きで解釈してください」という意識の流れでは展開しないので、文末の最後の締めくくりで「ここまでに述べた内容・・・あれ実は’否定’だったんです;ので、改めて-(マイナス)記号付きということでお願いしますね」というのが日本人の意識なのであって、この点、西欧人とは正反対の感覚(&語順)となるわけだ。
そうした日本語にあって、上代式の「西欧風’な先出し’否定文」の「我<な>忘れ」の違和感を払拭するための工夫として、文末に添える記号に用いられたのが「強調の係助詞’そ’」だった、というわけである:
中古型否定文例)我<な>忘れ<そ>。
・・・この「そ」は、中古には例の「ぞ」に化けることになる係助詞であるが、「な・・・そ」の否定構文構成記号としてはずっと清音「そ」のままで、最後まで濁音化することがなかった。
-「カ変・サ変」は「未然形」-
なお、「な+動詞連用形+そ」の基本形から外れるものとして、「カ変動詞(=来:く)」及び「サ変動詞(=為:す)」の場合だけは、「未然形」接続である点もおさえておこう:
カ変の例)今はな「来(こ)・・・(×)き」そ。
英訳)Don’t come to see me any more.
現代語訳)もう私のところに来ないで。
サ変の例)腹悪しき事な「為(せ)・・・(×)し」そ。
英訳)Don’t do nasty things.
現代語訳)意地悪しないで。
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