古語の【物思ひ】の大部分は「恋煩い」

   [716]  古語の【物思ひ】の大部分は「恋煩い
「古文単語千五百Mastering Weapon」 No.【物思ふ】

 「物思い」は現代語にも残るが、「憂愁」全般を表わす概括的な現代の「物思い」に対して、古典時代の人が「物思ふ」場合の主題は「恋愛関係の悩み事」が多い。無論、「恋愛以外」の事柄に思い悩む語義が「ものおもふ」にないわけではない。ただ単に、物語の中での登場人物の「物思い」の主題は、古今東西「恋の悩み」が多いという虚構文学作品の構造的特性がそのまま反映されているだけの話である。
 特に古典時代(現代、とは言わぬが)の日本には、一大文学ジャンルとしての「短歌」がある・・・「歌」に於ける「恋愛」テーマの比重は、今も昔も、他の一切の主題の追随を許さない・・・「ものおもふ」は五音にも七音にも乗せやすい・・・かくて、「物思ひ」≒「恋煩い」なる古典文学の図式が成立したわけであって、何も、昔の日本人は恋愛にばかりうつつを抜かす遊民揃いだった、というわけではないのである。
 このあたりの図式は、単なる「読者」として受動的に文学に関わるばかりの人間には存外知られていない真実である。自ら作品世界を構築する「創造者」となった場合に、その世界に吹き込むべき本源的生命力が自らの内面から沸いて来ぬ場合や、その世界に彩りを添えるための工夫に行き詰まった時、大方の作者の凡庸にして無責任なる想像が安直に取りすがる先が、「love & war:愛と戦争」である、という失笑(or唾棄)すべき真実を悟るのだ・・・。
 上、何ということもない文物にまつわる古今不変の原則の指摘だが、とかく人間というやつは、自分以外の「世間がもてはやす事柄」=「みんなが信じている素晴らしい事柄」と信じ込み易い単純な特性を有した生き物である。一匹一匹では無力なサルの成れの果てが人類なのだから、群れなして行動し、周囲の個体と動きを合わせて一気に襲いかかり、数の暴力で外界に自らの生存権を強圧的に誇示することで、この地球上に現在のような覇権を構築してきた生き物たち・・・その名残りが今なお精神的シッポの如く人間には付いて回り、「良かれ悪しかれ、真実であれ虚偽であれ、現実であれ幻想であれ、とにかく周りの連中が従っていること」には本能的に従ってしまうのが、「ヒトという名の非力なる二足歩行ザル」の力強くも哀しきなのだ。一匹単位でそれなりの力を持つライオン型の単体狩猟生物種は、この種の共同幻想からは極めて自由である(・・・独立独歩の猫たちの気ままさを見るがよい)。まぁ、人間の分際で彼らの偉大なる孤独さにってみたとて、所詮哀しきサルマネにしかなるまいが、外界をよくよく見渡して、見習うべきところは見習い、見直すべきところは見直す、それがサルならぬ本物の人間のあるべき姿ではあろう。
 文学だの、歌だの、漫画だの、テレビだの、友人達の噂話だの、そうした外界が「それさえ話題に乗せておけば取りあえず場がもつから」というだけの理由で語りぐさにしているに過ぎぬものに、過度の敬意を払うことは、あまりせぬほうがよい・・・もっとも、そうした「場の勢い」という虚勢でも張らねば異性に言い寄る元気もないほどの「か弱いサル型生物種」から、この種のオメデタイ幻想のブースターを取り上げてしまうのも、些か酷な気のする話ではあるが・・・。

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コメント (1件)

  1. the teacher
    ・・・当講座に「man-to-man指導」はありませんが、「コメント欄」を通しての質疑応答ができます(サンプル版ではコメントは無効です)

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