▲ | ▼ [485] きこゆ【聞こゆ】〔自ヤ下二〕〔他ヤ下二〕〔補動ヤ下二〕
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〈A〉
きこゆ【聞こゆ】
《古典的貴族社会では、意志性・主体性は「下賤の者の特性」であり、他者を介して事を為さしむるのが「尊い」ので、「自然に耳に入る」意の「聞こゆ」は、「意図的に尋ねずとも、自然にその耳に入る」=「(目下から目上に)申し上げる」の意を表わす謙譲語としても用いた。》
〔自ヤ下二〕 {え・え・ゆ・ゆる・ゆれ・えよ}
(1) 〈(物音や人の声が)自然に耳に届く。〉 聞こえる。耳に入る。 (2) 〈(人・物に関し)その話題が世間に広く伝わる。〉 噂に聞く。評判になる。世に知られる。世に喧伝される。 (3) 〈(見聞きした情報から)特定の様子であろうと判断される。〉 ・・・と感じられる。・・・に思われる。・・・と解釈できる。・・・に見受けられる。・・・のように受け取られる。 (4) 〈(否定形の「聞こえぬ」、あるいは完了助動詞を伴う「聞こえたる」の形で)(他者の行動・発言が、論理や慣習に照らして)理解可能である。〉 納得できる。訳がわかる。道理に叶う。意味が通る。筋が通っている。一理ある。 (5) 〈(ある特定の)臭いを漂わせる。〉 ・・・の臭いがする。・・・の香りがする。
〔他ヤ下二〕 {え・え・ゆ・ゆる・ゆれ・えよ}
(1) 〈「言ふ」の謙譲語。〉 申し上げる。お話しする。お伝えする。 (2) 〈(人や役職の名を表わす語+格助詞「と」+「聞こゆ」の形で)名称を表わす。〉 ・・・という名である。・・・と申し上げる。・・・とお呼びする。世に・・・と称する。 (3) 〈(手紙などの)通信文を差し上げる。〉 お便り申し上げる。お手紙差し上げる。書簡を通じてお伝えする。 (4) 〈「願ふ」の謙譲語。〉 お願い申し上げる。意向をお伝えする。嘆願差し上げる。
〔補動ヤ下二〕 {え・え・ゆ・ゆる・ゆれ・えよ}
(1) 〈(動詞の連用形に付けて)謙譲の意を表わす。〉 ・・・申し上げる。お・・・する。・・・させていただく。
presented by http://fusau.com/
〔自ヤ下二〕 {え・え・ゆ・ゆる・ゆれ・えよ}
(1) 〈(物音や人の声が)自然に耳に届く。〉 聞こえる。耳に入る。 (2) 〈(人・物に関し)その話題が世間に広く伝わる。〉 噂に聞く。評判になる。世に知られる。世に喧伝される。 (3) 〈(見聞きした情報から)特定の様子であろうと判断される。〉 ・・・と感じられる。・・・に思われる。・・・と解釈できる。・・・に見受けられる。・・・のように受け取られる。 (4) 〈(否定形の「聞こえぬ」、あるいは完了助動詞を伴う「聞こえたる」の形で)(他者の行動・発言が、論理や慣習に照らして)理解可能である。〉 納得できる。訳がわかる。道理に叶う。意味が通る。筋が通っている。一理ある。 (5) 〈(ある特定の)臭いを漂わせる。〉 ・・・の臭いがする。・・・の香りがする。
〔他ヤ下二〕 {え・え・ゆ・ゆる・ゆれ・えよ}
(1) 〈「言ふ」の謙譲語。〉 申し上げる。お話しする。お伝えする。 (2) 〈(人や役職の名を表わす語+格助詞「と」+「聞こゆ」の形で)名称を表わす。〉 ・・・という名である。・・・と申し上げる。・・・とお呼びする。世に・・・と称する。 (3) 〈(手紙などの)通信文を差し上げる。〉 お便り申し上げる。お手紙差し上げる。書簡を通じてお伝えする。 (4) 〈「願ふ」の謙譲語。〉 お願い申し上げる。意向をお伝えする。嘆願差し上げる。
〔補動ヤ下二〕 {え・え・ゆ・ゆる・ゆれ・えよ}
(1) 〈(動詞の連用形に付けて)謙譲の意を表わす。〉 ・・・申し上げる。お・・・する。・・・させていただく。
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【聞こゆる】の自然発露的作為性
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-Don’t SAY things… just make things HEARD to them!(「言う」な...「聞こえる」ようにせよ!) -
古語の「聞こゆ」は、現代語「聞こえる」にも通じる「自然と耳に入る」の意味のみならず、「貴人に対して申し上げる」の「謙譲語」としての意味をも併せ持つ。
貴人は「直接的行動」を忌避する人種だから、偉い人に面と向かって直接「言ふ」のは、はばからねばならない。今も昔もこの日本では、「もの申す!」という直接的対話要請は「相手を敬わぬ挑発的行動」として煙たがられる行為であって、畏怖の対象たる貴人に対しては、ものを「言ふ」ことはせず、自然と彼らの耳に「聞こゆ」るような状態を演出せねばならぬのである。
-お香を「聞く」とはいかにぞや?-
持って回った「直接性」打消しの「間接性」演出行動を示すこの「聞こゆ」なる謙譲語とはまた違った意味で、「自発性・間接性」vs.「意識性・直接性」との違和感が現代日本人に不思議に聞こえる言い回しについても触れておこう:お香でよく聞く「香を聞く」の言い回しである。
「香り」は「耳=聴覚」ではなく「鼻=嗅覚」の担当であるから、香しき香木の臭いは「嗅ぐ」のが自然であって、それがなぜ「聞く」になるのか、不思議に思われるであろう。そうした場合は、主体的行動を示す他動詞の「聞く(listen to)」にばかり張り付いた視点を解放してやり、自然的現象としての自動詞に置き換えて「聞こゆ(hear)」の次元で「香り」と向き合うことで、「聞く」の背後にあるロジックに聞き耳を立てるのがよい。
「香り」というのは不思議なもので、どこからともなく漂って来た時には、人間の五感のうちのあれやこれやを刺激する性質を持っている。直接の担当部門は「鼻=嗅覚」ではあるが、ツーンと鼻の奥まで突き抜けるような刺激的なものなら「目」に涙を誘い「肌」に痛いほどであるし、子供の頃に大好きだった香りにふと触れて「大脳」の「記憶領域」の想起スイッチが入ってしまい、遠い昔の古里の野山の光景が「目」に浮かび、懐かしい友達の声や小川のせせらぎの音が「耳」に聞こえたり、海辺で食べた焼きトウモロコシの「味」が口の中に広がったり、じりじり「肌」を灼く真夏の日差しが感覚的に甦ったりすることすらもある。
かくも総合的感覚刺激効果を持つ「香」を、意識的に識別する営みについて、「嗅ぐ」という鼻専用行動の狭い次元に閉じこめてしまうのも、考えてみれば味気ない行為である。「香」は「目」に映るものではないから「見る」と呼ぶには難があるし、「味わう」・「感じる」とするのは感覚的に妥当ではあるけれどもあまりに漠然としすぎていて「意識的識別行為」に付ける呼び名としては決め手に欠ける・・・が、どこからともなく「聞こゆる」香を、これは何だろうと意識して「聞く」という言い方ならば、「視覚」の的外れ感覚とは異なる的確性が感じられ、「味覚」・「触覚」の漠然たる感じとも遠く、「嗅覚」の動物的即物性を越えた人為的に高尚な探求行動としての響きが宿ることになる。
「聞く」が「香」を目的語とする(意識的識別の)他動詞として使われるようになったのには、そうした背景があったのではないか。
古文の脈絡に立ち戻ってもう一つ付け加えておけば、そもそも自発性の「臭う」という表現自体、元来「嗅覚」語として用いられていなかった、という事情もおさえておくべきであろう。
そもそも「にほふ」は「仁(に=赤)+穂・秀(ほ=抜きん出た部分)」に由来する語であって、「赤」に代表される「視覚的に刺激の強い色」を表わす「目にも鮮やか」の意味で使われる「色彩語」だったのである。平安中期の有名な次の和歌の<にほひ>もやはり「鼻」をつく「臭い」ではなく「目」に訴える「仁秀ひ」である:
いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重に<にほひ>ぬるかな(伊勢大輔)
紫式部・和泉式部・清少納言らの活躍した一条帝時代(紀元1000年前後)の伊勢大輔でさえ「にほふ」を「色鮮やか」な色彩語として用いているくらいであるから、中古(平安期)に於いては、あたりを漂う嗅覚的刺激を「臭う」と呼ぶ感覚はまだ希薄であったと見てよいだろう。「臭ふ」の代わりに「聞こゆる」が使われていたわけではないにせよ、嗅覚系自動詞としての「におう」の存在がこうまであやふやである間は、他動詞として「香」に付けるべき適役の存在もまた、確固たるものが定まらなかったとしても、それは自然なことだったと言えるだろう。
そもそも他動詞「嗅ぐ」の組成は、形容詞「香ぐはし=あまりに佳い香りなので、思わず誘われてその香りの源を訪ねてみたい気分になる」の冒頭部分(香ぐ)を切り出して作った語であるから、「香」を「香ぐ」は、「か」の字が重複して音感的にも煩わしいし、「夢を夢見る」や「危険が危ない」みたいな感じで理知的にも少々間抜けな感じがする。「香り(KAori)を嗅ぎ(KAgi)分ける」のはまだしも「香(KAu)を嗅ぐ(KAgu)」には少々頷けぬ響きがあるから「香(KAu)を聞く(KIku)」なる表現が生まれた、と、ただそれだけの音調的理由だけから首肯するのもまた、言葉の恣意的改変自由自在の日本語の場合、ありと言えるだろう。
古語の「聞こゆ」は、現代語「聞こえる」にも通じる「自然と耳に入る」の意味のみならず、「貴人に対して申し上げる」の「謙譲語」としての意味をも併せ持つ。
貴人は「直接的行動」を忌避する人種だから、偉い人に面と向かって直接「言ふ」のは、はばからねばならない。今も昔もこの日本では、「もの申す!」という直接的対話要請は「相手を敬わぬ挑発的行動」として煙たがられる行為であって、畏怖の対象たる貴人に対しては、ものを「言ふ」ことはせず、自然と彼らの耳に「聞こゆ」るような状態を演出せねばならぬのである。
-お香を「聞く」とはいかにぞや?-
持って回った「直接性」打消しの「間接性」演出行動を示すこの「聞こゆ」なる謙譲語とはまた違った意味で、「自発性・間接性」vs.「意識性・直接性」との違和感が現代日本人に不思議に聞こえる言い回しについても触れておこう:お香でよく聞く「香を聞く」の言い回しである。
「香り」は「耳=聴覚」ではなく「鼻=嗅覚」の担当であるから、香しき香木の臭いは「嗅ぐ」のが自然であって、それがなぜ「聞く」になるのか、不思議に思われるであろう。そうした場合は、主体的行動を示す他動詞の「聞く(listen to)」にばかり張り付いた視点を解放してやり、自然的現象としての自動詞に置き換えて「聞こゆ(hear)」の次元で「香り」と向き合うことで、「聞く」の背後にあるロジックに聞き耳を立てるのがよい。
「香り」というのは不思議なもので、どこからともなく漂って来た時には、人間の五感のうちのあれやこれやを刺激する性質を持っている。直接の担当部門は「鼻=嗅覚」ではあるが、ツーンと鼻の奥まで突き抜けるような刺激的なものなら「目」に涙を誘い「肌」に痛いほどであるし、子供の頃に大好きだった香りにふと触れて「大脳」の「記憶領域」の想起スイッチが入ってしまい、遠い昔の古里の野山の光景が「目」に浮かび、懐かしい友達の声や小川のせせらぎの音が「耳」に聞こえたり、海辺で食べた焼きトウモロコシの「味」が口の中に広がったり、じりじり「肌」を灼く真夏の日差しが感覚的に甦ったりすることすらもある。
かくも総合的感覚刺激効果を持つ「香」を、意識的に識別する営みについて、「嗅ぐ」という鼻専用行動の狭い次元に閉じこめてしまうのも、考えてみれば味気ない行為である。「香」は「目」に映るものではないから「見る」と呼ぶには難があるし、「味わう」・「感じる」とするのは感覚的に妥当ではあるけれどもあまりに漠然としすぎていて「意識的識別行為」に付ける呼び名としては決め手に欠ける・・・が、どこからともなく「聞こゆる」香を、これは何だろうと意識して「聞く」という言い方ならば、「視覚」の的外れ感覚とは異なる的確性が感じられ、「味覚」・「触覚」の漠然たる感じとも遠く、「嗅覚」の動物的即物性を越えた人為的に高尚な探求行動としての響きが宿ることになる。
「聞く」が「香」を目的語とする(意識的識別の)他動詞として使われるようになったのには、そうした背景があったのではないか。
古文の脈絡に立ち戻ってもう一つ付け加えておけば、そもそも自発性の「臭う」という表現自体、元来「嗅覚」語として用いられていなかった、という事情もおさえておくべきであろう。
そもそも「にほふ」は「仁(に=赤)+穂・秀(ほ=抜きん出た部分)」に由来する語であって、「赤」に代表される「視覚的に刺激の強い色」を表わす「目にも鮮やか」の意味で使われる「色彩語」だったのである。平安中期の有名な次の和歌の<にほひ>もやはり「鼻」をつく「臭い」ではなく「目」に訴える「仁秀ひ」である:
いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重に<にほひ>ぬるかな(伊勢大輔)
紫式部・和泉式部・清少納言らの活躍した一条帝時代(紀元1000年前後)の伊勢大輔でさえ「にほふ」を「色鮮やか」な色彩語として用いているくらいであるから、中古(平安期)に於いては、あたりを漂う嗅覚的刺激を「臭う」と呼ぶ感覚はまだ希薄であったと見てよいだろう。「臭ふ」の代わりに「聞こゆる」が使われていたわけではないにせよ、嗅覚系自動詞としての「におう」の存在がこうまであやふやである間は、他動詞として「香」に付けるべき適役の存在もまた、確固たるものが定まらなかったとしても、それは自然なことだったと言えるだろう。
そもそも他動詞「嗅ぐ」の組成は、形容詞「香ぐはし=あまりに佳い香りなので、思わず誘われてその香りの源を訪ねてみたい気分になる」の冒頭部分(香ぐ)を切り出して作った語であるから、「香」を「香ぐ」は、「か」の字が重複して音感的にも煩わしいし、「夢を夢見る」や「危険が危ない」みたいな感じで理知的にも少々間抜けな感じがする。「香り(KAori)を嗅ぎ(KAgi)分ける」のはまだしも「香(KAu)を嗅ぐ(KAgu)」には少々頷けぬ響きがあるから「香(KAu)を聞く(KIku)」なる表現が生まれた、と、ただそれだけの音調的理由だけから首肯するのもまた、言葉の恣意的改変自由自在の日本語の場合、ありと言えるだろう。
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