うつつ【現】〔名〕

   [252] うつつ【現】〔名〕

〈A〉 うつつ【現】
《「現実に存在する」意の形容詞「現し」の語幹を畳語化した「うつうつ」の詰まったもので、「現実」・「正気」が本来の語義。『古今和歌集』以降、「夢うつつ」の対義語表現を誤解・混同した結果として、「現実」とは逆の「夢見心地」の語義も生じた。》
〔名〕
  (1) 〈(夢・幻・物語・死などと対比した)人間の暮らす現実の世界。〉 現実世界。この世。目覚めている世界。生きている状態。   (2) 〈(夢の中にいる状態と対比した)意識の明瞭な状態。〉 正気。人心地。目覚めた意識。夢から醒めた心地。現実認識能力。   (3) 〈(夢の中にいるかのように)意識が朦朧とした状態。(『古今和歌集』以降に「夢うつつ」の混同により生じた語義)〉 夢見心地。正体のない状態。無我夢中。我を忘れたさま。忘我の境地。
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【うつつ】は【ゆめ】か?
-「現実」は「世界」の一部、という考え方-
 名詞「うつつ(現)」は、形容詞「うつし(現し)」の語幹を重ねた「うつうつ(現現)」の詰まった語である。その「うつし」は、「映す・写す・移す」と同根で、「物事の形象や内容をそっくりそのまま別の場所に移す」を原義とする。古代ギリシア哲学者プラトン(Plato)が唱えたイデア論(ideology)みたいな話ながら、古典時代の日本人は、現実世界の姿というものを「本源的には不可視な存在」と捉えていたフシがあり、目に見えぬその世界を手探りで生きるのが人生、という感覚もあったらしい。そうして全部が見えるわけではない世の姿を、目に見える形へと「写し・映し・移し」替えて捉えた姿、それが「うつうつ=うつつ=現」であり、そうした形で人間世界に現実的に存在することが「うつし=現存する」であり、そうした認識能力を確かに備えることが「うつし=理性・正気を保っている」であった。
-もう一つの現実(alternate reality)としての「夢」-
 そんな古代人にとって、「夢」という世界が「現」とは異なるもう一つの世界としての確たる実在感を伴っていたのは当然のことであろう。昼間、目覚めた目で捉える世界は「世の全体像の中の一部を’うつし’て捉えた’うつつ(現)’」ではあるが、そうした日常的理性のフィルター越しには見えない非日常的な(しかし別の意味での現実には間違いない)世界として、不思議な実体験感覚を伴うメッセージの形で、夜のとばりの向こうから人間の眼前へと送り出されてくる「夢」は、現代人が「夢物語」として嘲笑ったり軽くあしらったりするような態度とは比べものにならぬ真剣さで捉えられており、「夢解き(ゆめとき)」や「夢占(ゆめうら)」は、現代の血液型人間診断だの星占いだのと同列に扱ってよいような軽い娯楽ではなかったのだ。
-「夢」か「うつつ」か-
 そんな二つの異なる現実とも言うべき「夢・うつつ」は、和歌の中などではしばしば並立的に用いられた。古代人の感覚では、これら二つの世界はともに実体感を伴って存在し、その境界線もまた微妙なものだったろうから、こうして並び称されるのも自然なことではあったろう。
 ところが、この「ゆめうつつ」の対比表現が、時代を追うごとに、「夢のようなうつつ」の意味へと横滑りして行くのである。そうして「ゆめうつつ」=「夢見心地の薄ぼんやりした精神状態」の錯覚が生じると、やがて(「夢」からは切り離された状態の)「うつつ」単独形で「意識朦朧」の意味を表わす、というトンデモ語義が生じてしまうことになった・・・この事実誤認はどう考えても「うつつ(=マトモな理性のある状態)」の仕業ではないのだが、日本語世界に存在する膨大なる横滑り語の類例から見れば、これもまた日本語の否定すべからざる現実(うつつ)の姿・・・夢というより悪夢に近い展開ながら、「言語学は実例に基づく:linguistics is based on usage」ものであるから、受け入れるよりほか仕方あるまい。
 ついでに、「うつつ」がそうした「非現実的なぼわぁーっとした感じ」の語義へと横滑りする過程で、「うつらうつら」なる畳語がまた「寝てるんだか起きてるんだかわからない状態」の表現として(近世以降)定着して現代に至ってもいるわけだが、この「空ら空ら」の元来の上代語の意味は「現実の姿として、まざまざと」であり、その表記も「現ら現ら」であったことは言うまでもない・・・というのが、嘘(夢)みたいな本当(現)の話。

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コメント (1件)

  1. the teacher
    ・・・当講座に「man-to-man指導」はありませんが、「コメント欄」を通しての質疑応答ができます(サンプル版ではコメントは無効です)

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