▲ | ▼ [525] くちをし【口惜し】〔形シク〕
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〈A〉
くちをし【口惜し】
《上代には使用例がなく、中古以降の語とされる。原義は「朽ち+惜し」で、朽ち果てるのを止められない無力感を表わす「残念だ」の意。後には「口+惜し」(口に出して語ることすら惜しまれる)の発想で「期待外れだ」・「身分が低い」の語義が生まれた。》
〔形シク〕 {しから・しく/しかり・し・しき/しかる・しけれ・しかれ}
(1) 〈(自分ではどうにもならない外的状況に関し)納得できないが受け入れるより他に仕方がない、という無力感を表わす。〉 何とも残念なことだ。不本意だが仕方ない。悔しいがどうにもならない。 (2) 〈(期待に外れる他者・自身の状態・行為に関し)失望を禁じ得ない。〉 がっかりだ。物足りない。拍子抜けだ。情けない。不甲斐ない。感心しない。いただけない。納得しかねる。これでは不本意だ。面白くない。つまらない。期待外れだ。見損なった。所詮この程度のものか。虚しい。悔しい。 (3) 〈(話題に乗せることすらはばかられるほどに)社会的地位が低い。〉 身分が賤しい。言うにも値しない。取るに足らない。物の数にも入らない。つまらぬ身分だ。けちな存在だ。
presented by http://fusau.com/
〔形シク〕 {しから・しく/しかり・し・しき/しかる・しけれ・しかれ}
(1) 〈(自分ではどうにもならない外的状況に関し)納得できないが受け入れるより他に仕方がない、という無力感を表わす。〉 何とも残念なことだ。不本意だが仕方ない。悔しいがどうにもならない。 (2) 〈(期待に外れる他者・自身の状態・行為に関し)失望を禁じ得ない。〉 がっかりだ。物足りない。拍子抜けだ。情けない。不甲斐ない。感心しない。いただけない。納得しかねる。これでは不本意だ。面白くない。つまらない。期待外れだ。見損なった。所詮この程度のものか。虚しい。悔しい。 (3) 〈(話題に乗せることすらはばかられるほどに)社会的地位が低い。〉 身分が賤しい。言うにも値しない。取るに足らない。物の数にも入らない。つまらぬ身分だ。けちな存在だ。
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【口惜し】と【朽ち惜し】
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古語を学んで実感できる日本語の特性の一つに、「漢字表記のいい加減さ」がある。それはもう「漢字表記」というより「感じ表記」と呼びたい感じである。
「くちをし」もまたそんな語の一つである。この語の原義は「朽ち+惜し」であり、自分の目の前で「だんだん悪い状態になって行く=朽ち果てる」状況を知りながら、それを食い止める力が自分にはないことを感じて抱く否定的感情が「くちをし=くやしい、残念だ、がっかりだ」である。
ところが、この「朽ち惜し」の表記は、いつの間にやら「口惜し」に化けてしまった。まさか画数の多い「朽ち」を嫌って単純そのものの「口」を宛てた、というわけでもあるまいが、本源的には全く意味を見出せない表記変更であるだけに、どんな理由であろうとも想定自由なのであるから、まったく困ってしまう・・・このあたりの行動に関し、日本語には「正当なルール(規則)」もなければ「不当行為に対するペナルティ(罰則)」もなく、ただ「やったもの勝ち」(正確には「広がっちゃったもの勝ち」)なのである。英語を初めとする西欧言語の厳格なる規則性に慣らされた人間にとっては、信じ難いことというか、この言語を母国語とする者としては信じたくないことというか・・・何とも「くちをしき」話である。
さて、そんな「朽ち惜し→口惜し」の宛字変更の後から生じたものか、それともこの語義が加わったからこそ「口」化けしたものかはわからない(し、別にわかろうとも望まない)が、古語の「くちをし」としては明らかに後発の語義として、「身分が低すぎて話にならない」なる社会学的差別表現がある。「あやし」や「いやし」や「かずなし」と同義語、ということになるが、この意味の「くちをし」には、実に、「口惜し」がぴったりなのである:「口に乗せて語るのが惜しまれる=話題にすべき価値すらもない」・・・それが社会的階層の低さのみに言及するものとすれば(近代以降の人権意識を持ち合わせた人類の自然的感覚としては)何とも嫌味極まる差別語であるが、世の中には確かに「こんな代物、口にするだけで自分の品性が落ちる!」と感じさせるほどに下卑た人や物がたくさんあるのだ。そういう「くちをしき」ものの数々を、現代語ではこう言い捨てる:「語るに落ちる」 ― 「語るに値する基準よりも下である」と捉えれば「口惜し」に通じ、「語っただけで、たちまち自分の口が腐る」と感じさせる点では「朽ち惜し」にも「口の朽つるを惜し」にさえもつながる表現であるところが面白い。
「くちをし」もまたそんな語の一つである。この語の原義は「朽ち+惜し」であり、自分の目の前で「だんだん悪い状態になって行く=朽ち果てる」状況を知りながら、それを食い止める力が自分にはないことを感じて抱く否定的感情が「くちをし=くやしい、残念だ、がっかりだ」である。
ところが、この「朽ち惜し」の表記は、いつの間にやら「口惜し」に化けてしまった。まさか画数の多い「朽ち」を嫌って単純そのものの「口」を宛てた、というわけでもあるまいが、本源的には全く意味を見出せない表記変更であるだけに、どんな理由であろうとも想定自由なのであるから、まったく困ってしまう・・・このあたりの行動に関し、日本語には「正当なルール(規則)」もなければ「不当行為に対するペナルティ(罰則)」もなく、ただ「やったもの勝ち」(正確には「広がっちゃったもの勝ち」)なのである。英語を初めとする西欧言語の厳格なる規則性に慣らされた人間にとっては、信じ難いことというか、この言語を母国語とする者としては信じたくないことというか・・・何とも「くちをしき」話である。
さて、そんな「朽ち惜し→口惜し」の宛字変更の後から生じたものか、それともこの語義が加わったからこそ「口」化けしたものかはわからない(し、別にわかろうとも望まない)が、古語の「くちをし」としては明らかに後発の語義として、「身分が低すぎて話にならない」なる社会学的差別表現がある。「あやし」や「いやし」や「かずなし」と同義語、ということになるが、この意味の「くちをし」には、実に、「口惜し」がぴったりなのである:「口に乗せて語るのが惜しまれる=話題にすべき価値すらもない」・・・それが社会的階層の低さのみに言及するものとすれば(近代以降の人権意識を持ち合わせた人類の自然的感覚としては)何とも嫌味極まる差別語であるが、世の中には確かに「こんな代物、口にするだけで自分の品性が落ちる!」と感じさせるほどに下卑た人や物がたくさんあるのだ。そういう「くちをしき」ものの数々を、現代語ではこう言い捨てる:「語るに落ちる」 ― 「語るに値する基準よりも下である」と捉えれば「口惜し」に通じ、「語っただけで、たちまち自分の口が腐る」と感じさせる点では「朽ち惜し」にも「口の朽つるを惜し」にさえもつながる表現であるところが面白い。
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