▲ | ▼ [406] 「動詞」と「副詞」と「形容動詞」と「格助詞」の解剖学的文法論
「古文単語千五百Mastering Weapon」 No.【頻る】
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「古文単語千五百Mastering Weapon」 No.【頻る】
-「しく」から「しる」へ-
「雪の降り敷く朝の庭」・・・現代語だが、意味はわかるだろうか:降る雪が地面の上に「積層的に重なっている」朝の庭・・・このように「敷く」は「物理的に、同じ場所に、複数のものが、重なったり、広がったりする」のである。「宮城=天皇の住まいとしての、皇居」を意味する「百敷(ももしき)」も、「数多くの石畳を敷き詰めた」と解釈される場合がある(・・・もっとも、「百+石+木=ももいしき・・・無数の石材・木材で作られた」説もまた有力だが)。
そのような「物理的積層・展開」の「敷く(しく)」はまた、「政治的領土として君臨する」の意味の他動詞「領く(しく)」にもつながる。この「領く」の異形が「領る(しる)」である。「政治的に統治する」という行為は当然「意志的な行為」であるが、日本の貴人は「自らの意志と行動でそうせずとも、自然の成り行きとしてそのようになる」という「自然発露性」を尊んだから、自発の助動詞「る」の語感を含む「領<る>」の方が、意図的な営みを感じさせる「領<く>」よりも好まれたであろうことは想像に難くない。
この「領る(しる)」はやがて「知る」とないまぜになり、領主としての行政区画を意味する「知行国(ちぎょうこく)」なる表現の「知」となる・・・「領土の実情をよく知り、政治を行なう」の意味と説明され、それはそれで(日本語としては)妥当なのだが、語源学的には「知る」ではなく「領る」、さらには「領る」ではなく「領く」&「敷く」へとつながる、というのが正統なる「しる」の来歴なのである・・・いかがであろう、「知れば知るほど」面白いであろうか?それとも「知れば知るほどわけがわからん!」と感じるであろうか?
-「知る」も悲しき事なれど・・・-
いずれにせよ、これが日本語の(古今変わらぬ)根無し草的流動性である。文法構造レベルはともかく、個々の「語句」の生い立ち&成り行きに関しては、今ある「枝・葉」と元来の「根っこ」とが、多くの場合、まるで掛け離れているのだ・・・つまり、「学んでも学んでも、体系的には極めようがない」のが日本語(しつこいが「単語」レベルの話である:古文単語も現代用語もこの点まったく同じこと)であって、個々の語句に「それぞれの旅路」はあっても、日本語の語句全般に共通する「普遍的な原則」を見出すことは(単語レベルに於いては構造的に)不可能なのである。
英語をはじめとする西欧言語の語源学的確かさは、日本語には全く見られない。語源学的探求を重ねれば重ねるほどに、英語の場合は確実に語学力がステップアップし、その知識の適用対象は広がり、汎用的知性の高まりを実感できる・・・だから、学んでいて楽しいのである。日本語の(単語の)学習の場合、重ねれば重ねるほど、気まぐれに横滑りばかり重ねて積層的に重なることもない言葉には規則性・法則性などと呼べるものがまるで存在せぬという残念な真実を実感させられるばかり・・・これでは「学んで楽しい」わけがない。「雑学」としては(あるいは他者へのひけらかし用の蘊蓄としては)それなりの価値を認めてもよいが、知的探求としては決して体系的学問になり得ぬ(のだから面白い道理もない)ものである。そこから学べる汎用的真理の最たるものは ― 「無法」こそこの国の言語レベルに於ける「法」である、ということである。「無法」呼ばわりが気に食わねば「恣意」と換言してやってもよい;が、決してそれ以上のものにはなり得ない:日本語は(少なくとも「語句の成り立ち」次元では)拠って立つべき確たる大地を持たぬ「根無し草・無法」言語なのである。
-仕切り直して、「敷く」から「頻く」へ、そして「頻る」へ-
閑話休題。「しく」の話に戻ろう。さて、先述のごとく「敷く(しく)」の意味は「物理的な一定箇所への蓄積・展開」であるが、このように「空間的な広がり」を手にした言葉は、ほとんど決まって「時間的な広がり」へと発展を遂げるものである(「語句の組成」レベルでは法則性に乏しい日本語と言えども、こうした「言語学的発展過程」の普遍的原則にまでは背を向けたりしない)。すると次に生まれる単語は「頻く(しく)」である:「同じ事柄が、一定の時間幅をまたいで、繰り返し起こる」というこの語義には、「頻度(ひんど)」の熟語でお馴染みの「頻」の字が宛てられている。これがやがて「頻る(しきる)」なる異形につながるわけだ。
先ほどは「一定の法則性のない恣意的無法性が持ち味」と指摘した日本語だが、「漢字の宛て字も自由自在」というその性質ゆえに、多くの場合、辞書など見ずとも字面でその語義が類推できる取り柄もある(・・・宛字そのものが杜撰だと、類推もまた誤導に流れる嫌いはあるが・・・)。古語の「しきる(同じ事柄が度重なって起こる)」を覚える際に、仮名文字の「しきる」だけで覚えようとするのは愚かなことである ― 「頻る = 高頻度で・頻繁に・頻々と・頻出する形で・・・頻発する」のように漢字を宛てれば、どんな感じかはイメージで把握できる。どの道「厳密なる語源学的正統性」も乏しければ「明晰なる論理性」にも欠ける日本語なのだから(反論するつもりなら、まず英語・フランス語あたりの文法&語彙を極め尽くしてから「物申す!」と叫ぶがよい)、この種の「漢字の感じ」の助けを借りることこそが「日本語を極める王道」なのである・・・昨今の「哺乳類→ほ乳類」型ひらがな改編主義者連の知的劣悪性(劣弱性、とは呼ばない)の罪深さが、これを以て少しは感じられたことであろう。
-「頻る」から「頻り」(連用形)を経て「頻りに」(副詞形)へ-
さて、「頻る(しきる)」の旅路はまだ終わってはいない。時間的頻発性を表わすこの種の語句は、日本語だろうと英語だろうと、洋の東西を問わず、副詞的表現としての使用頻度が極めて高いものである。筆者は、日本の古語のみならず、英語の「単語」及び「熟語」の意味範疇別データベースをも構築しているが、その中でも数多くの語句を包含する最大グループの一つに「時間系表現」がある。日本人に比較すれば英語人種の「時間」という概念に対する執着度・綿密性は遥かに高いと言えるが、時間にloose(英語はルース/和語だとルーズ)な日本語といえども「時間系表現=副詞表現の大所帯」という言語学的事実に変わりはない。
さて、上述のような過程を経て誕生したこの「しきる(頻る)=一定の時間幅をまたいで、同一事例が、繰り返し発生する」なる「動詞」を、「副詞」と化す場合の作法は(いくら「無法」言語の日本語といえども)常に一定している ― 動詞「しきる」を連用形「しきり」に直して名詞化したものに格助詞「に」を付ける ― それで副詞「しきりに(頻りに)」の出来上がりである。
-「動詞」連用形+「に」の「副詞」を巡る文法的問題-
そういうわけで、作法としての「副詞作り」は単純明快だが、次なる問いへの答えはなかなかに複雑である:
問い1)動詞「連用形」(しきり)に付けて「副詞」と化す格助詞「に」は、どういう用法なのか?
答え1)「・・・の状態に於いて、・・・(であるもの)と(して)」の意味を表わす。
ここで、多少なりとも古典文法に詳しい学習者ならば、更なる問いを持ち出すであろう:
問い2)「動詞」連用形(しきり)+格助詞「に」=「副詞」(しきりに)は、「形容動詞」連用形と、どう違うのか?
答え2)同一。何も違わない。
そうなると次なる必然の問いはこうである:
問い3)「動詞」連用形+「に」=「副詞」と、「形容動詞」連用形とが、全く同じものだというのならば、例えば「とみに(頓に)」(=急に)の「品詞は何か?」と問われた場合、「副詞」と答えたらよいのか、それとも「形容動詞<頓なり>の連用形の<頓に>」と答えたらよいのか?
答え3)どちらも正解。より正確に言えば、次の解答法が正しい:
3A)形容動詞「頓なり」連用形「頓に」の副詞的用法
または、
3B)副詞「頓に」
既に考察した通り、「副詞」の生成過程は<「名詞」+「に」>である。その時点でおしまいで、それ以上の発展はない。
これに対し「形容動詞」とは、<「名詞」+「に」>の生成過程を持つ点までは「副詞」と同じだが、その形を含めて以下のような断定助動詞「なり」と同一の活用形を全て(・・・とは現実には必ずしもならないが、理論上は全て)備えるに至ったものを言う:
{なら・なり/に・なり・なる・なれ・なれ}
・・・この連用形「に」の一点に於いて、「副詞」と「形容動詞」が交差するわけである。
・・・これ以外に、数は極めて少ないものの、「と+あり」の化けた断定助動詞「たり」と同一の次のような活用形を具備するに至った形容動詞もある:
{たら・たり/と・たり・たる・たれ・たれ}
・・・この連用形「と」の一点に於いて、「副詞」と「形容動詞」が交差するわけである。
これら2系統の形容動詞は、同一活用形の助動詞の名にちなんで、それぞれ{ナリ活用}/{タリ活用}と呼ばれている。後者は漢文訓読調の古文に用いられ、中古の女性かな文学の中にはほとんど登場しない。『扶桑語り』の中に登場するのは「朦朧たり」の1語のみである。同じ語は『源氏物語』にも出てくるが、モロに漢文由来とはっきりわかるこの語さえ、女性たる紫式部の手にかかれば「ナリ活用」に化けてしまうのである!!・・・この事実のみを以てしても、「タリ活用形容動詞」が和文にいかに馴染まぬものであるかが、感じ取れるのではなかろうか・・・え、感じ取れない?・・・まぁ、朦朧たる意識の読者もいるかもね・・・それなら、次の資料ではどうだろう:
1)「えうぜんたり」
2)「かうかうたり」
3)「ががたり」
4)「さくさくたり」
5)「さだたり」
6)「さつさつたり」
7)「ちょうでふたり」
8)「まんまんたり」
9)「もうろうたり」
10)「りんりんたり」
11)「ろうろうたり」
12)「わうじゃくたり」
・・・約3万5千語を収録する『角川 全訳古語辞典』中から拾い集めた{タリ活用形容動詞}の全ラインナップが以上の12語である(まぁ、取りこぼしもあるだろうが、それでも全収録語中の0.03%が3%に化ける、というようなことはないだろう)。嘘みたいな本当の話である。これで〔形動タリ〕の古文に於ける位置付けがどんな感じか、わかったであろう?・・・え、何でひらがなだけで漢字がないのか?・・・ちぇっ、朦朧としてるかと思ったらけっこう細かに見てやがらぁ・・・ほれ、さっき言ったであろう、「形容動詞のタリ活用は漢文臭くて古文には馴染まぬ・・・ほどだから、その漢字もやたら難しい・・・ので一々辞書引いてかな漢字変換するのも面倒臭い・・・し、どうせ古文には縁遠い連中だから、ひらがなだけで御勘弁」というような具合である。
このように、「副詞」と「形容動詞」とは、「名詞+に」(ナリ活用形容動詞の場合)または「名詞+と」(タリ活用形容動詞の場合)の一点(数え方によっては、二点)で共通するものであるから、「頻りに(しきりに)」/「頓に(とみに)」/「皓皓と(かうかうと)」/「朦朧と(もうろうと)」といった語句を引っ張り出して、「これは、形容動詞か、副詞か、二者択一で答えよ」などと言われた日にゃぁ、出題者側の気分次第で100%不正解をもらってしまうトンデモ試験、という絡繰りである。
-助動詞「なり」連用形「に」/助動詞「たり」連用形「と」の正体-
以上の形容動詞{ナリ活用}/{タリ活用}を巡る考察を経ればもう確実にわかることとは思うが、ここで最後の問いである:
問い4A)断定助動詞「なり」の連用形には、何故「なり」だけでなく、全然違う語形の「に」があるのか?
問い4B)断定助動詞「たり」の連用形には、何故「たり」だけでなく、全然違う語形の「と」があるのか?
答え4AB)本当は、「に」だの「と」だのは「格助詞」であって、断定助動詞「なり」・「たり」の「連用形」ではない。ただ、次の理由から便宜上これらの「格助詞」を「連用形」としているに過ぎない:
便法4A)形容動詞{ナリ活用}の連用形として「名詞(or形容動詞語幹)+に」の形(例:「しきりに」/「とみに」)を「副詞用法」として認めざるを得ず、この場合の「に」を語幹の「しきり」/「とみ」と切り離して「格助詞」扱いすることは構造的に不可能であるため、形容動詞{ナリ活用}の連用形は「語幹+に」で一体化することとなる・・・からには、その{ナリ活用}の名の由来ともなった断定助動詞「なり」の「連用形」にも、やはり「に」の語形を認めるのが妥当であろう、というだけのこと。その際、断定助動詞「なり」の連用形とされる「に」はほぼ常に「に+あり/に+はあらず/に+やあらむ/etc, etc.」の形で「格助詞"に"+動詞"あり"」の語形へと分断解釈可能、という事実には、便宜上、目をつぶることとする。
便法4B)形容動詞{タリ活用}の連用形として「名詞(or形容動詞語幹)+と」の形(例:「かうかうと」/「もうろうと」)を「副詞用法」として認めざるを得ず、この場合の「と」を語幹の「かうかう」/「もうろう」と切り離して「格助詞」扱いすることは構造的に不可能であるため、形容動詞{タリ活用}の連用形は「語幹+と」で一体化することとなる・・・からには、その{タリ活用}の名の由来ともなった断定助動詞「たり」の「連用形」にも、やはり「と」の語形を認めるのが妥当であろう、というだけのこと。その際、断定助動詞「たり」の連用形とされる「と」はほぼ常に「と+して/と+てetc, etc.」の形で「格助詞"と"+接続助詞」の語形へと分断解釈可能、という事実には、便宜上、目をつぶることとする。
・・・こうした日本の古語(というか、日本語、というか、日本人)の「便法だらけで本物の法意識がない(に近い)」残念な特質に対しても、この『扶桑語り』では一切、目をつぶることはせず、冷徹な客観観察者の知性の目でこれを直視し、その真の姿を読者の眼前に遠慮会釈なしに提示することとする。
「雪の降り敷く朝の庭」・・・現代語だが、意味はわかるだろうか:降る雪が地面の上に「積層的に重なっている」朝の庭・・・このように「敷く」は「物理的に、同じ場所に、複数のものが、重なったり、広がったりする」のである。「宮城=天皇の住まいとしての、皇居」を意味する「百敷(ももしき)」も、「数多くの石畳を敷き詰めた」と解釈される場合がある(・・・もっとも、「百+石+木=ももいしき・・・無数の石材・木材で作られた」説もまた有力だが)。
そのような「物理的積層・展開」の「敷く(しく)」はまた、「政治的領土として君臨する」の意味の他動詞「領く(しく)」にもつながる。この「領く」の異形が「領る(しる)」である。「政治的に統治する」という行為は当然「意志的な行為」であるが、日本の貴人は「自らの意志と行動でそうせずとも、自然の成り行きとしてそのようになる」という「自然発露性」を尊んだから、自発の助動詞「る」の語感を含む「領<る>」の方が、意図的な営みを感じさせる「領<く>」よりも好まれたであろうことは想像に難くない。
この「領る(しる)」はやがて「知る」とないまぜになり、領主としての行政区画を意味する「知行国(ちぎょうこく)」なる表現の「知」となる・・・「領土の実情をよく知り、政治を行なう」の意味と説明され、それはそれで(日本語としては)妥当なのだが、語源学的には「知る」ではなく「領る」、さらには「領る」ではなく「領く」&「敷く」へとつながる、というのが正統なる「しる」の来歴なのである・・・いかがであろう、「知れば知るほど」面白いであろうか?それとも「知れば知るほどわけがわからん!」と感じるであろうか?
-「知る」も悲しき事なれど・・・-
いずれにせよ、これが日本語の(古今変わらぬ)根無し草的流動性である。文法構造レベルはともかく、個々の「語句」の生い立ち&成り行きに関しては、今ある「枝・葉」と元来の「根っこ」とが、多くの場合、まるで掛け離れているのだ・・・つまり、「学んでも学んでも、体系的には極めようがない」のが日本語(しつこいが「単語」レベルの話である:古文単語も現代用語もこの点まったく同じこと)であって、個々の語句に「それぞれの旅路」はあっても、日本語の語句全般に共通する「普遍的な原則」を見出すことは(単語レベルに於いては構造的に)不可能なのである。
英語をはじめとする西欧言語の語源学的確かさは、日本語には全く見られない。語源学的探求を重ねれば重ねるほどに、英語の場合は確実に語学力がステップアップし、その知識の適用対象は広がり、汎用的知性の高まりを実感できる・・・だから、学んでいて楽しいのである。日本語の(単語の)学習の場合、重ねれば重ねるほど、気まぐれに横滑りばかり重ねて積層的に重なることもない言葉には規則性・法則性などと呼べるものがまるで存在せぬという残念な真実を実感させられるばかり・・・これでは「学んで楽しい」わけがない。「雑学」としては(あるいは他者へのひけらかし用の蘊蓄としては)それなりの価値を認めてもよいが、知的探求としては決して体系的学問になり得ぬ(のだから面白い道理もない)ものである。そこから学べる汎用的真理の最たるものは ― 「無法」こそこの国の言語レベルに於ける「法」である、ということである。「無法」呼ばわりが気に食わねば「恣意」と換言してやってもよい;が、決してそれ以上のものにはなり得ない:日本語は(少なくとも「語句の成り立ち」次元では)拠って立つべき確たる大地を持たぬ「根無し草・無法」言語なのである。
-仕切り直して、「敷く」から「頻く」へ、そして「頻る」へ-
閑話休題。「しく」の話に戻ろう。さて、先述のごとく「敷く(しく)」の意味は「物理的な一定箇所への蓄積・展開」であるが、このように「空間的な広がり」を手にした言葉は、ほとんど決まって「時間的な広がり」へと発展を遂げるものである(「語句の組成」レベルでは法則性に乏しい日本語と言えども、こうした「言語学的発展過程」の普遍的原則にまでは背を向けたりしない)。すると次に生まれる単語は「頻く(しく)」である:「同じ事柄が、一定の時間幅をまたいで、繰り返し起こる」というこの語義には、「頻度(ひんど)」の熟語でお馴染みの「頻」の字が宛てられている。これがやがて「頻る(しきる)」なる異形につながるわけだ。
先ほどは「一定の法則性のない恣意的無法性が持ち味」と指摘した日本語だが、「漢字の宛て字も自由自在」というその性質ゆえに、多くの場合、辞書など見ずとも字面でその語義が類推できる取り柄もある(・・・宛字そのものが杜撰だと、類推もまた誤導に流れる嫌いはあるが・・・)。古語の「しきる(同じ事柄が度重なって起こる)」を覚える際に、仮名文字の「しきる」だけで覚えようとするのは愚かなことである ― 「頻る = 高頻度で・頻繁に・頻々と・頻出する形で・・・頻発する」のように漢字を宛てれば、どんな感じかはイメージで把握できる。どの道「厳密なる語源学的正統性」も乏しければ「明晰なる論理性」にも欠ける日本語なのだから(反論するつもりなら、まず英語・フランス語あたりの文法&語彙を極め尽くしてから「物申す!」と叫ぶがよい)、この種の「漢字の感じ」の助けを借りることこそが「日本語を極める王道」なのである・・・昨今の「哺乳類→ほ乳類」型ひらがな改編主義者連の知的劣悪性(劣弱性、とは呼ばない)の罪深さが、これを以て少しは感じられたことであろう。
-「頻る」から「頻り」(連用形)を経て「頻りに」(副詞形)へ-
さて、「頻る(しきる)」の旅路はまだ終わってはいない。時間的頻発性を表わすこの種の語句は、日本語だろうと英語だろうと、洋の東西を問わず、副詞的表現としての使用頻度が極めて高いものである。筆者は、日本の古語のみならず、英語の「単語」及び「熟語」の意味範疇別データベースをも構築しているが、その中でも数多くの語句を包含する最大グループの一つに「時間系表現」がある。日本人に比較すれば英語人種の「時間」という概念に対する執着度・綿密性は遥かに高いと言えるが、時間にloose(英語はルース/和語だとルーズ)な日本語といえども「時間系表現=副詞表現の大所帯」という言語学的事実に変わりはない。
さて、上述のような過程を経て誕生したこの「しきる(頻る)=一定の時間幅をまたいで、同一事例が、繰り返し発生する」なる「動詞」を、「副詞」と化す場合の作法は(いくら「無法」言語の日本語といえども)常に一定している ― 動詞「しきる」を連用形「しきり」に直して名詞化したものに格助詞「に」を付ける ― それで副詞「しきりに(頻りに)」の出来上がりである。
-「動詞」連用形+「に」の「副詞」を巡る文法的問題-
そういうわけで、作法としての「副詞作り」は単純明快だが、次なる問いへの答えはなかなかに複雑である:
問い1)動詞「連用形」(しきり)に付けて「副詞」と化す格助詞「に」は、どういう用法なのか?
答え1)「・・・の状態に於いて、・・・(であるもの)と(して)」の意味を表わす。
ここで、多少なりとも古典文法に詳しい学習者ならば、更なる問いを持ち出すであろう:
問い2)「動詞」連用形(しきり)+格助詞「に」=「副詞」(しきりに)は、「形容動詞」連用形と、どう違うのか?
答え2)同一。何も違わない。
そうなると次なる必然の問いはこうである:
問い3)「動詞」連用形+「に」=「副詞」と、「形容動詞」連用形とが、全く同じものだというのならば、例えば「とみに(頓に)」(=急に)の「品詞は何か?」と問われた場合、「副詞」と答えたらよいのか、それとも「形容動詞<頓なり>の連用形の<頓に>」と答えたらよいのか?
答え3)どちらも正解。より正確に言えば、次の解答法が正しい:
3A)形容動詞「頓なり」連用形「頓に」の副詞的用法
または、
3B)副詞「頓に」
既に考察した通り、「副詞」の生成過程は<「名詞」+「に」>である。その時点でおしまいで、それ以上の発展はない。
これに対し「形容動詞」とは、<「名詞」+「に」>の生成過程を持つ点までは「副詞」と同じだが、その形を含めて以下のような断定助動詞「なり」と同一の活用形を全て(・・・とは現実には必ずしもならないが、理論上は全て)備えるに至ったものを言う:
{なら・なり/に・なり・なる・なれ・なれ}
・・・この連用形「に」の一点に於いて、「副詞」と「形容動詞」が交差するわけである。
・・・これ以外に、数は極めて少ないものの、「と+あり」の化けた断定助動詞「たり」と同一の次のような活用形を具備するに至った形容動詞もある:
{たら・たり/と・たり・たる・たれ・たれ}
・・・この連用形「と」の一点に於いて、「副詞」と「形容動詞」が交差するわけである。
これら2系統の形容動詞は、同一活用形の助動詞の名にちなんで、それぞれ{ナリ活用}/{タリ活用}と呼ばれている。後者は漢文訓読調の古文に用いられ、中古の女性かな文学の中にはほとんど登場しない。『扶桑語り』の中に登場するのは「朦朧たり」の1語のみである。同じ語は『源氏物語』にも出てくるが、モロに漢文由来とはっきりわかるこの語さえ、女性たる紫式部の手にかかれば「ナリ活用」に化けてしまうのである!!・・・この事実のみを以てしても、「タリ活用形容動詞」が和文にいかに馴染まぬものであるかが、感じ取れるのではなかろうか・・・え、感じ取れない?・・・まぁ、朦朧たる意識の読者もいるかもね・・・それなら、次の資料ではどうだろう:
1)「えうぜんたり」
2)「かうかうたり」
3)「ががたり」
4)「さくさくたり」
5)「さだたり」
6)「さつさつたり」
7)「ちょうでふたり」
8)「まんまんたり」
9)「もうろうたり」
10)「りんりんたり」
11)「ろうろうたり」
12)「わうじゃくたり」
・・・約3万5千語を収録する『角川 全訳古語辞典』中から拾い集めた{タリ活用形容動詞}の全ラインナップが以上の12語である(まぁ、取りこぼしもあるだろうが、それでも全収録語中の0.03%が3%に化ける、というようなことはないだろう)。嘘みたいな本当の話である。これで〔形動タリ〕の古文に於ける位置付けがどんな感じか、わかったであろう?・・・え、何でひらがなだけで漢字がないのか?・・・ちぇっ、朦朧としてるかと思ったらけっこう細かに見てやがらぁ・・・ほれ、さっき言ったであろう、「形容動詞のタリ活用は漢文臭くて古文には馴染まぬ・・・ほどだから、その漢字もやたら難しい・・・ので一々辞書引いてかな漢字変換するのも面倒臭い・・・し、どうせ古文には縁遠い連中だから、ひらがなだけで御勘弁」というような具合である。
このように、「副詞」と「形容動詞」とは、「名詞+に」(ナリ活用形容動詞の場合)または「名詞+と」(タリ活用形容動詞の場合)の一点(数え方によっては、二点)で共通するものであるから、「頻りに(しきりに)」/「頓に(とみに)」/「皓皓と(かうかうと)」/「朦朧と(もうろうと)」といった語句を引っ張り出して、「これは、形容動詞か、副詞か、二者択一で答えよ」などと言われた日にゃぁ、出題者側の気分次第で100%不正解をもらってしまうトンデモ試験、という絡繰りである。
-助動詞「なり」連用形「に」/助動詞「たり」連用形「と」の正体-
以上の形容動詞{ナリ活用}/{タリ活用}を巡る考察を経ればもう確実にわかることとは思うが、ここで最後の問いである:
問い4A)断定助動詞「なり」の連用形には、何故「なり」だけでなく、全然違う語形の「に」があるのか?
問い4B)断定助動詞「たり」の連用形には、何故「たり」だけでなく、全然違う語形の「と」があるのか?
答え4AB)本当は、「に」だの「と」だのは「格助詞」であって、断定助動詞「なり」・「たり」の「連用形」ではない。ただ、次の理由から便宜上これらの「格助詞」を「連用形」としているに過ぎない:
便法4A)形容動詞{ナリ活用}の連用形として「名詞(or形容動詞語幹)+に」の形(例:「しきりに」/「とみに」)を「副詞用法」として認めざるを得ず、この場合の「に」を語幹の「しきり」/「とみ」と切り離して「格助詞」扱いすることは構造的に不可能であるため、形容動詞{ナリ活用}の連用形は「語幹+に」で一体化することとなる・・・からには、その{ナリ活用}の名の由来ともなった断定助動詞「なり」の「連用形」にも、やはり「に」の語形を認めるのが妥当であろう、というだけのこと。その際、断定助動詞「なり」の連用形とされる「に」はほぼ常に「に+あり/に+はあらず/に+やあらむ/etc, etc.」の形で「格助詞"に"+動詞"あり"」の語形へと分断解釈可能、という事実には、便宜上、目をつぶることとする。
便法4B)形容動詞{タリ活用}の連用形として「名詞(or形容動詞語幹)+と」の形(例:「かうかうと」/「もうろうと」)を「副詞用法」として認めざるを得ず、この場合の「と」を語幹の「かうかう」/「もうろう」と切り離して「格助詞」扱いすることは構造的に不可能であるため、形容動詞{タリ活用}の連用形は「語幹+と」で一体化することとなる・・・からには、その{タリ活用}の名の由来ともなった断定助動詞「たり」の「連用形」にも、やはり「と」の語形を認めるのが妥当であろう、というだけのこと。その際、断定助動詞「たり」の連用形とされる「と」はほぼ常に「と+して/と+てetc, etc.」の形で「格助詞"と"+接続助詞」の語形へと分断解釈可能、という事実には、便宜上、目をつぶることとする。
・・・こうした日本の古語(というか、日本語、というか、日本人)の「便法だらけで本物の法意識がない(に近い)」残念な特質に対しても、この『扶桑語り』では一切、目をつぶることはせず、冷徹な客観観察者の知性の目でこれを直視し、その真の姿を読者の眼前に遠慮会釈なしに提示することとする。
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