【陽炎】・【蜻蛉】・【かげろふ】

   [216]  【陽炎】・【蜻蛉】・【かげろふ】
「古文単語千五百Mastering Weapon」 No.【かげろふ】

 日本語は横滑り言語だから、同じ字面で、原義からどんどん外れた無関係な語義が生じる場合は数えきれぬほどあるが、「かげろふ」もやはりその一例である。
-「かげろふ」の最初の閃き
 この語は元々「かぎろひ」であり、「明け方のまだ暗い空に、ちらほらと射す朝の光」の意味であった。そこからもわかるであろうが、この「かげ」は「影」であり、それは「光そのもの」を指すとも「光が当たらず暗い部分」に言及するとも取れるもの。「ふ」は反復性の意味を添えるので、「真っ暗な空に、チラ、チラと、光が差したりまた見えなくなったり」の曙光の形容が「かぎろい=夜の陰影の移ろい」なのである。
-その後の「かげろふ」の揺らめき-
 やがてこの語義が、「夜明け時の暗闇にかすかに光る陽光」という原義から大幅にズレて、「春の晴天の日中、地面から立ち上った水蒸気が、太陽光を浴びて乱反射し、まるで炎のようにゆらめいて見える現象」へと横滑りして行くことになる・・・まぁ、こうした「陽炎」も、「上下左右にユラユラ揺れる」その様態が「反復性の’ふ’」の語感には符合するし、「影」は原義の「光」だの「暗部」だのからはズレても「実体とは異なる実体めいた何か」の意味で「蜃気楼」を表わすのもまた自然かな、とは思える話なので、無法状態に近い日本語の転義現象の中では、まずまず妥当な部類に入るであろう。
-「かげろふ」の動詞デビュー-
 こうした二つの「かげろふ」を受けて、「光がちらちら明滅する」&「明るかったものに陰りが差す」の意味を表わす動詞の意味が生じたのもまた自然な現象だったと言える。
-虫になって羽ばたいた「かげろふ」-
 しかしながら、この「かげろふ」が、「トンボ」を意味するあたりになると、いささか首をひねらざるを得ない。「陰影」とは無縁の生き物(非夜行性)であるし、ホタルじゃないんだから「明滅」もしない・・・「半透明の羽」(辛うじて「かげ」のイメージ?)をせわしなく羽ばたかせて空中の一箇所に停留(hovering:ホバリング)するその様子が「反復性の’ふ’」にも絡んで「カゲがセッセと動いてお日様の光を受けてキーラキラ」なのか・・・どうにもこうにも、トンボは「枝葉や洗濯ロープに止まってるやつの目をグルグル回して指ではさむもの」という子供時代のイメージから離れられぬ筆者には、なぜ「トンボ=かげろふ」なのか、さっぱり理解できないのである・・・。
-「ウスバカゲロウ(×)薄馬鹿下郎 (○)薄葉蜻蛉」も登場・・・数日で死んじゃうけどね-
 更にもう一つややこしい「かげろふ」が「ウスバカゲロウ」という虫である。これはトンボに似ているが、その飛びっぷりは何とも頼りなげでトンボみたいな躍動感はなく、薄黒く冴えない色合いと小さくていかにも薄っぺらい葉っぱみたいな羽をしているから子供たちにも人気はなく、成虫になってすぐ死んでしまうので、古文の世界では「はかないもの」の代名詞みたいな存在。
-そして真打ち登場!『蜻蛉日記』(西暦974以降)-
 だが、この「蜻蛉」、古文業界ではもう一つ、はかない虫とは関係ない次元で大変な有名どころなのだ ― 『蜻蛉日記』という名の(藤原道綱母の手になる)「女流日記文学の走り」を通して。「かげろう」のし出す儚い雰囲気とは、しかし、全く正反対のドロドロ濃密な作品であって、浮気者の夫「ミスター前渡り」こと藤原兼家(あの道長のお父さん・・・生ませた相手の母親は『蜻蛉日記』作者のライバルたる藤原時姫といういかにも時めきそうな名前のお姫さま)への恨み辛みを、日記文特有の省略多用の粘着質な文章でみっちりった難解なやつ・・・一体何人の受験生がこの作品に泣かされたことか。
 この作品のとーってもわかりにくい書き方が、その後の『源氏物語』や『栄花物語』といった中古女流文学の難読文体へと直結的影響力を及ぼしているのだから、大方の受験生にとっては何とも困ったやつ、ということになる。
 全くの私的憤激だのたわいもない日常の出来事にまつわる個人的感慨だのを書きっただけの文章なのに、「本は貴重品=読むべき物語自体あまり多く存在しなかった」という時代背景ゆえに、「誰もが読むべき必読作品」ということになり、「文学者ならこういうやつを書くべき見本の作品」ということにまでいつの間にやら横滑りした結果として、中古~中世~近世~近代~現代(少なくとも20世紀末)まで続く「純文学=私小説・・・要するに’日記文学’」という「独り善がりの書き散らしこそが最高の文学ジャンル」というアホっちく非文芸的な日本’文学界’の度し難き潮流を(千年も昔に!)決定付けた作品なのだから・・・やれやれ、その呪縛の濃密にして永続的なること、とてもとても短命な「蜻蛉」には例えるべくもあらず・・・むしろ成虫になる前のウスバカゲロウ(の大部分)が幼虫段階で演じるあの恐るべき「アリジゴク!」の方が、『蜻蛉日記』には(&その筆者にも)似合いのメタファー(metaphor:隠喩)というべきであろう。
 千年経ってもなお「藤原兼家って、こんなにもヒドい男なのよっ!」とばかり世間に訴え続けるその怨念の深さもまた、「一度ハマれば絶対逃げられない」蟻地獄の感あり・・・もっとも、カネイエさんというのがこれまたスゴいヒトだったから、千年コロされ続けても万年生き返って強引にあれこれやっちゃいそうな感じなんだけど・・・まぁ、細かい話はともかくとして、『蜻蛉日記』ほどに実質と標題がズレてる作品をこの筆者は他に二つと知りません。
 ついでに言うと、この「かげろふ」、俳句の季語としては「秋」だったりする・・・「トンボ」さんといえば、夏休みにさんざんお世話になった生き物たちだけに、この季節感のズレもまた、この筆者にとっては謎の残る展開・・・。

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コメント (1件)

  1. the teacher
    ・・・当講座に「man-to-man指導」はありませんが、「コメント欄」を通しての質疑応答ができます(サンプル版ではコメントは無効です)

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