【なかなか】の「いっそ・・・せぬがまし」の語義をなかなか覚えられぬ人向け解説

   [426] 【なかなか】の「いっそ・・・せぬがまし」の語義をなかなか覚えられぬ人向け解説
「古文単語千五百Mastering Weapon」 No.1341【なかなか】
 古語の多く(否、ほとんど、とさえ言いたい)は、現代日本語と意味が全然違うものだが、この「なかなか」もまたその掛け離れ具合&錯覚による受験生の落第率の高さからすれば、横綱・大関級であろう。
 「Aはなかなかなり」を見れば、現代高校生の反応は間違いなく「Aって、けっこうイケてるじゃん!」であろう;が、この種の「悪くはない(Not bad)」の語義は中世以降のものであって、大学入試出題ゾーンの「平安時代古文」ではこの意味の「なかなか」は「なかなか出ない」どころか「ほぼ絶対出ない」と言ってよい(現代語と同じにしかならぬ古語を、わざわざ出す意味がどこにある?)。出るのは決まって「Aなんて・・・ダメダメすぎて、こんなことならいっそ、存在しない方がまだマシなんとちゃう?」という否定的語義だけ;それが入試版「なかなか」である。
 この種の語義を覚え込むのに苦労する人と、スイスイ覚えて忘れない人との違いはどこにあるか?「頭の良し悪し」の違い?・・・そうならいっそ事は簡単で苦労はない:鍛えれば良くなるのが頭脳の良いところで、鍛錬一つで決着が付くわけだから、語学の勉強なんて数学みたいなもの:直線的な練習の蓄積が(まるで0と1の二進法で突き進むコンピュータのように)諸君の知性を加速度的に増進させてくれるハズ・・・だが、現実には「語学」は「数学」とはだいぶ違う。
 結局、語学でモノを言うのは「視点」であって「頭脳」ではない。「頭の使い方(&え方)」の問題ではなくて「目の付け所(の磨き方)」の問題なのである。
 「なかなか」に戻ろうか。この古語の語義をなかなか覚えきれぬ人は、「語義」という意味にのみ張り付いてガンバっているからダメなので、語学上手はそんな表層的知性の使い方はしない。次のように考えてすんなり(とはなかなか行かないが、とにかくめでたく)「なかなか」を我がものとしてしまうのである:
1)「なかなか」の畳語性に注目し、「なか」に当てるのに適切な漢字を探す。
・・・これは意外と簡単だ。「仲」の字もあるが、「にんべん」外せば「中」なのだから、「中」と見て考察を進めるのが妥当であろう。
2)「中」の表わす意味を探す。
 ・・・これはなかなか難しい:
 2A)「外」に対する「中」・・・例:屋<外>から家の<中>に入る
 2B)何らかの状態の「中」・・・例:今、勤務<中>?いいえ、勤務時間<外>です
 2C)「上」・「中」・「下」の「中」・・・店屋物好きなら「松」・「竹」・「梅」の「竹」と思えばよい
 2D)「近く」でも「遠く」でもない「中程」・・・例:御乗車の皆様は、一箇所にかたまらず、<中>ほどへお進みくださいますよう御協力お願いします。
 ・・・どれにヒットさせたら「なかなか」に当たるのやら、この状態でわかったら「天才!」か「嘘つき!」のどちらかである。そこで、次なる手を考えねばならない。
3)「中」に近い別字(語)を探す。
 ・・・類義語を探せ!は、語学的イメージをらます際の第一の心得である。無論、ただ闇雲に「中」の字の仲間を捜そうとしても無理で、何らかの方向性がないことには、「撥」だの「」だの「東」「南」「西」「北」「一萬」だのに走って途方に暮れるばかりである・・・から、何らかの観点を定めて、探索の方向性を絞り込む必要がある。
4)「中」に似た字(語)で、畳語で使って、「中中」同様に「A・・・こんなもんなら、ないほうがマシ!」の意味(かそれに近いやつ)を表わすものを探す。
・・・この段階でモノを言うのは「単漢字力」ではない:「熟語力」である。幾多の言い回しのレパートリーを頭の中に持っている者ならば、「生中(なまなか)」なる(大方の現代人は知るまいが、古語の「中中」に相当する)現代日本語表現がすっと(魔法のように)浮かんでくるであろう・・・まぁ、浮かばなかった人も「自分は、ダメだ」などとうなだれずに、「生中」を自ら探り当てたものという仮想的状況下で更にお付き合いいただきたい。
5)「生中(なまなか)」の「生」が表わす意味を考える。
・・・懸案の「中」と並べて使われているぐらいだから、「生=中」と見てよいであろう。夏場のサラリーマンなら「とりあえず、生ビール、中ジョッキで!」的冗談に走りそうだが、真面目に検討してみてもなお謎の多い「生」である・・・ので、今度はまた発想を変えてみる。
6)「生」だけを畳語化した「生生」の表現が可能かどうか調べる。
・・・で、実に、これがまた可能なのである。その意味は「中途半端」で、「中」の字にヒットする。この時点で、先ほど2)で考えた「中中」の「中」の意味は「遠くも近くもない真ん中あたり」だろうと当たりがつく。すると「生」の意味もやはり「中途半端」であって、「生兵法(なまびょうほう=知ったかぶりの戦術論)」だの「生ぬるい(=冷たくもなく、十分な熱さもない、感覚的にパッとしない温度)」の「生=中」のイメージが鮮明になるわけだから、まったく「生中」さまさま、である・・・が、こうして「中間地点」の意味の「生/中」だと判別がついたのだから、もう少し連想を広げてみよう。
7)「まん中あたり」の意味で、「A・・・こんな中途半端な程度なら、いっそないほうがまし」の意味になる別表現を、「中中」/「生中」以外に探す。
・・・運が良ければ、古語辞典の「生中」の別字として、「生半」が目に飛び込んでくるであろう。そうなればもう ― ここまでの探求過程を着々と歩んで来たほどの半端じゃない語学的好奇心の持ち主であればきっと ― 「生半可(なまはんか)」の熟語が頭の中から飛び出してくるはずだ。
8)「生半(なまなか)」及び「生半可(なまはんか)」から、更なる表現でイメージを膨らます
・・・「生中/生半」や「生半可」を知らない日本人でも、「まなじっか」・「なまじ」を知らぬ人はいるまい。こちらは「生強ひ(なまじひ・・・嫌がる相手の意向を無視し、完全な合意もない中途半端な状況下で、見切り発車の形で強引に事を運ぶこと)」に由来するので、その組成上の系統としては「中中」から遠い感じはするが、意味の上では「なまじ/なまじっか・・・するぐらいなら、いっそ・・・せぬほうがまし」という形で、「中中」の訳語としては最高の適合感を与えてくれるものである。
 このような過程を経て、語学上手は「なかなか」をものにするのである。「なかなか」だけではなく、「中中」・「生中」・「生半」・「生半可」・「なまじっか」・「なまじ」・「生強ひ」という連想ネットワークの力で絡め取る形で、最初はみ所がなかった「A?・・・ダメダメじゃんそんなの!んな程度のハンパなやつなら、なまじやらずにおいたほうがまだマシなんじゃないの?」の意味を、心に刻んで忘れなくなるのである・・・7つもの異なる窓から覗いて見つけたこの意味を、どうして忘れられるものか!たとえ1つ2つ(否、3つでも4つでも)意識の中から抜け落ちたとしても、残る連想仲間はまだまだいくつもあるのだから、忘れた語義もまた、連想の鎖をたぐり寄せれば戻ってくるのが構造的必然であろう?
 語学の達人は、かくて、仲間増やしに余念がないものである。そうでない人々の頭の中には「友達が少なすぎる!」のである。
 語学ベタの人間は、学習過程で労苦を惜しみ、少しでも短い訳語/一つでも少ない語義/なるべくわずかな同義語・類義語/etc, etc.といった形で、「連想の鎖を短く分断する作業」にばかり血道を上げているのだから、自分で自分の首を絞めているようなもの・・・これでは語学に上達できる道理がないことぐらい、論理的思考のイロハを弁えておれば(否、そのわきまえがなくとも上の筆者の解説をみれば)どんな語学音痴でもわかること・・・なのに、多くの人間は相変わらずその労苦を惜しむ・・・ので、「語学は苦手」の状態に陥る・・・ので、言語生活は貧弱になる・・・ので、言語を媒介とするあらゆる知的活動(実質的に、人文系のみならず、自然科学系をも含めた全ての学問領域)に対する苦手意識が蓄積する・・・ので、高級なる知的営みには自ら背を向ける・・・のみならず、高級なる知的営みに嬉々として興じる人々にも背を向ける・・・のみならず、その種の「知的に優秀な人間を気取っていやがるイケ好かない連中」を目の敵にし、事あるごとにその揚げ足を取ろうとする・・・絵に描いたような悪循環が、彼らを(そして、困ったことには、知識人たちをも)待っているわけである。
 諸君、よくよく覚えておきたまえ:知的に優れた人間は、自分が「知的に劣っているか、優れているか」など一切まったく考えていないものだ。ただ単に「楽しくて楽しくて仕方のない知的ゲーム」を、「誰に気兼ねするでもなく自らの頭の中で楽しんでいる」だけであって、その結果として自分が辿り着いた知的高みを、他者に対してひけらかすような真似などしない:ゲームに忙しい人間にとっては、そのゲームの素晴らしさを他者に説明するヒマさえ惜しいのである。「求道者は、なかなか、伝道者にはならぬもの」という心理・真理は、覚えておいたほうがよい。「私、知識人でーす!」と自ら主張するような連中に、真の知識人はなかなかに少ないのだ。
 にもかかわらず、そのゲームの楽しさをこうして他者に説き、楽しくプレイするコツをこのように解き明かす筆者のような人間は、「真の知識人に非ず」という論法も成り立ちそうに思える・・・であろうか?・・・まぁ、別に筆者を「バカ」とみようが「知識人気取りのイケ好かぬタコ」とそうがそんなことは筆者にとっては全くどうでもよいことだ。こうしてゲーム回しの論法を書く(&その過程をまた楽しむ)ことまでが筆者の仕事であって、それを読者がどう受け止めるかなど(それを生かして大学に受かろうが、生かしきれずに落ちようが、それも)実は、どうでもよいことなのだ。
 どうでもよくないこと、どうにかせねばならぬことはただ一つ:言語学的貧弱さ(&それと相関関係をなす知的・道義的劣悪性)が、現代日本人の大部分をむ、看過し得ぬ病理現象となっていることを痛感しているからこそ、「知的観点から見た"病人"向けの処方箋」として、本来なら「なかなか」のこうした「語学バカ脱却の勧め」を(御苦労さまなことに)書き続けているわけである。
 こちらとしては、ここまでしてやったのだから、これでなおかつ連中があのまま、というのなら、それはもう連中の問題・・・こちら側の努力不足でもなければ罪でもない・・・そう言い切れる「中中」ならぬところまで論を進めたら、あとはただ、彼らの行く末を(もはや、一客観観察者として)冷ややかに見据えてやろうと思っているまでのこと ― それもこの筆者にとっては「ゲーム」なのである。
 ・・・などと、なかなか誰も言わぬようなことを(なかなかに言わずもがなの気もするが)言ってしまったところで、長々続いた中中講義はこれにて修了。Have a nice game, folks!

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コメント (1件)

  1. the teacher
    ・・・当講座に「man-to-man指導」はありませんが、「コメント欄」を通しての質疑応答ができます(サンプル版ではコメントは無効です)

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