▲ | ▼ [415] 「ひごろ」って、いつごろ?
「古文単語千五百Mastering Weapon」 No.522【年頃・年比】
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「古文単語千五百Mastering Weapon」 No.522【年頃・年比】
-時間意識の今・昔-
「Time and tide wait for no man.:時間の流れと時代の風潮は、人間的思惑など無視してズンズン流れる無慈悲なるもの」という意識を根底に持ち、「running against time:時間との取っ組み合いの喧嘩を演じている」西欧人に比すれば、日本人の「時間」に対する感覚は、今も昔も実に悠長なものである。古典時代に遡れば、そのtimeless(時の概念が希薄)な感じはさらに増幅されることになる・・・と思われる、であろう・・・が、現実は必ずしも然ならずなのである。
「日頃(古語では、日比、とも書く)」という言葉は現代日本語にもなお残るが、古典時代に乱用された「月頃・月比=ここ数ヶ月来」はもはや死語、ましてや「年頃・年比」ともなれば現代では「お年頃=(主に女性が)恋愛適齢期」の意味でのみ用いられ、「数年来」とか「長年」とかの意味には用いない。
物事の展開を把握する時系列的計測単位(time-span)を、「yearly:年単位」や「monthly:月単位」で捉えるような長い目で物事を見る余裕が現代日本人にはもはやなくなったからこその「日頃:daily=その日暮らし」以外全滅現象・・・というような論調に持って行きたい話の流れ・・・だが、実はこの「日頃」、現代日本人の場合は「常日頃=特定の日にちに限定せず、漠然とした’毎度’」という時系列的流れの枠外語として用いており、その意味に於いては、「数日来」だの「けっこう多くの日数」だのといった具体性ある計時語として「日頃・日比」を用いていた古典時代人よりも更に「時間的感覚が希薄」になっているのが現代日本人、という論じ方も可能なのだから、面白い話であろう?
「頃・比」を用いるコロコロ古語には、次のようなものもある:
1)「さいつころ」
・・・サイコロふたつコロがして丁半バクチしてるみたいな響きだが、「先つ頃(さきつころ)」のイ音便で「つい先だって(recently, lately, of late)」の意である。
2)「なかごろ」
・・・現代では「五月の’中頃’は、春でもなく夏でもなく、暖房も冷房もいらない、いい季節」みたいに「ある特定の期間内の中間期」の意味でのみ用いる語だが、古語の「なかごろ」は「先頃」と「昔(むかし)or古(いにしへ=往にし方)」との中間あたりに位置する「そう遠くない昔」の意味である。
現代日本語でこれらに相当する語は「この頃」・「近頃」・「先頃」あたりであろうが、時系列的区分意識は決して明確化の道を辿ってはおらず、進化よりむしろ退行している感さえある(「中頃」相当語の消滅がそのいい例である)。
こうして見ると、time-spanそのものの悠長な長さはさて置き、時間的区切り語の品揃えに関しては、現代日本語よりむしろ古語の方が豊富であり、時間的意識も逆に明敏だったのではないかと思えるのが興味深いところである。それでも無論、西欧言語の時系列語の圧倒的豊富さ・緻密さには比すべくもないが、時間の区切りというものが「時計的単位(年・月・日・時・分・秒)」の顕微鏡的(micro)&機械的(mechanical)視点にのみ偏りがちで、「時系列単位(daily, weekly, monthly, bimonthly, quarterly, yearly, decade, century, millennium)」的な巨視的(macro)&感覚的(emotive)視座を持たぬかのような現代日本語&日本人の特性は、英語に照らしても古語と比較しても、やはり一考を要するところであろう。
時の流れの中で自分がどの位置にいるのかを俯瞰的に見定められぬ者は、無慈悲な時流に無自覚に流された末に溺死するのが必然の定め ― 極めて西欧的発想ながら、好むと好まざるとにかかわらず、21世紀初頭の世界はそうして流れて行くもの ― であるから、「自分を中心とした’現在’・’現状’」しか見えず、自らの姿を客観視する能力に欠ける日本人の言語学的&社会学的生存様態は、致命的危うさを宿したものと言わざるを得ないのである。「流行の最先端を行く」つもりで「時流の波頭で踊らされた末に泡のごとく消えて行く」ばかりの物事や人物たちを、もうこの国の人間たちは、過去数十年に渡って十分すぎるほど沢山見てきたであろうに・・・。目先しか見えぬ日本人には、十年前も千年前も「歴史の教科書に書いてあるみたいな古い(=今を生きる自分とは別世界の)事」であり、「歴史を教科書(=今を生きる指標)とする芸当」など、夢のまた夢、なのである。
-腐れ「decade」の意味するもの-
そもそも、現代日本語にはいまだに英単語「decade(キリスト紀元に於ける100年=centuryを更に10年単位に区切ったもの)」に相当する和語がない。そもそもの時間意識が希薄なのだから無理もない話ながら、その「decade」を「ディケイド」と読んで「仮面ライダー・ディケイド(!)」などと銘打って一連の変身ヒーローものの’10周年or10作目記念作品’のタイトルにしてしまうあたりを見ると、「DECAYED・・・あぁ、ライダー・シリーズも、本郷猛・一文字隼人(精一杯オマケして風見志郎)の頃までが華・・・もぅ、玩具メーカー&芸能プロダクションの金儲け手段へと’腐敗堕落=decay’した(ed)んだなぁ・・・」の感を催させる掛詞となっている点が何ともシブいというかニガいというかイタいというか・・・さすがは日本語、といった感じ、原典無視もここまで来ると完全に(笑えない)「和風漫才芸」である。
本当の「decade」は「デッケィド」であって、この「デッカ」は「(1962年1月1日に、あの不世出の大グループThe Beatlesをオーディションでみすみす落第させて大損失を招いた)Decca Records:デッカ・レコード」や、ルネッサンス文芸の代表的一作&近代小説の開祖として受験生が棒暗記させられる「Decameron:デカメロン(・・・オッパイがメロン並みにデカい、の意味じゃぁない;まぁ、エロいユーモア満載の大人の小説なんだけど、’十日物語’なる時系列性に由来する標題で、全100話の短編集)」(ボッカチオ=Boccaccio:1313-1375作)に絡めてしまえば<「ディケ」ちゃうで、「デカ」やで>いうこってすんなり「ぁあ、そうでっか」と納得できそうなものを・・・時系列意識のなさもさることながら、語学的関連性に思いが至らぬ倭人が横文字使う時の横滑り語感のクサれ具合は、何とも残念なことと言わざるを得ない。
-「クサレ」と「おサレ」の境界線-
もっとも、このあたりの滅茶苦茶さかげんは、一応(地理上の)同朋人たる筆者だからこそ「残念!」と言いたくなるものであって、ゲスト格たるガイジンさんの目から見れば、そのハチャメチャな乱れ具合はまるで「しのぶもぢずり」、秩序もへったくれもないanarchy(アナーキー=無秩序・無法状態・・・和風に言えば「ルール?あるっちゃぁあるけど、ザルみたいなもんで、至る所に’穴開きぃー’みたいな?んなボロボロな感じー」)がいかにも「不思議の国ニッポン」らしくて「クサレ」ならぬ「おサレ!(’オシャレ・お洒落’を21世紀ワカモノ言葉風に言うと、こーなる)」な魅力にもなるらしい。
なんのかんのと長々嘆いてみせたが、最後にひとつ、日本滞在歴がそこそこある外国人の多くが「これはいかにも和風で、実に便利!」と太鼓判を押す「時系列的みたいでー、その実、何の具体的時間も指していないけどー、それでいてこぃつを使えば対人関係は丸く収まっちゃう魔法の挨拶コトバ、みたいなー」やつを紹介して、timelessな和語の特性への泣き言を延々と繰り広げたこの一節の結びとしよう・・・曰く・・・「ぁあ、その節はどうも」・・・’その節’って’どの節’?などと問う者は日本人ではない:直視せず、何となく受け流してこそ、時間も言葉も流れ行く・・・それがニッポン、不思議の国でありんす。
「Time and tide wait for no man.:時間の流れと時代の風潮は、人間的思惑など無視してズンズン流れる無慈悲なるもの」という意識を根底に持ち、「running against time:時間との取っ組み合いの喧嘩を演じている」西欧人に比すれば、日本人の「時間」に対する感覚は、今も昔も実に悠長なものである。古典時代に遡れば、そのtimeless(時の概念が希薄)な感じはさらに増幅されることになる・・・と思われる、であろう・・・が、現実は必ずしも然ならずなのである。
「日頃(古語では、日比、とも書く)」という言葉は現代日本語にもなお残るが、古典時代に乱用された「月頃・月比=ここ数ヶ月来」はもはや死語、ましてや「年頃・年比」ともなれば現代では「お年頃=(主に女性が)恋愛適齢期」の意味でのみ用いられ、「数年来」とか「長年」とかの意味には用いない。
物事の展開を把握する時系列的計測単位(time-span)を、「yearly:年単位」や「monthly:月単位」で捉えるような長い目で物事を見る余裕が現代日本人にはもはやなくなったからこその「日頃:daily=その日暮らし」以外全滅現象・・・というような論調に持って行きたい話の流れ・・・だが、実はこの「日頃」、現代日本人の場合は「常日頃=特定の日にちに限定せず、漠然とした’毎度’」という時系列的流れの枠外語として用いており、その意味に於いては、「数日来」だの「けっこう多くの日数」だのといった具体性ある計時語として「日頃・日比」を用いていた古典時代人よりも更に「時間的感覚が希薄」になっているのが現代日本人、という論じ方も可能なのだから、面白い話であろう?
「頃・比」を用いるコロコロ古語には、次のようなものもある:
1)「さいつころ」
・・・サイコロふたつコロがして丁半バクチしてるみたいな響きだが、「先つ頃(さきつころ)」のイ音便で「つい先だって(recently, lately, of late)」の意である。
2)「なかごろ」
・・・現代では「五月の’中頃’は、春でもなく夏でもなく、暖房も冷房もいらない、いい季節」みたいに「ある特定の期間内の中間期」の意味でのみ用いる語だが、古語の「なかごろ」は「先頃」と「昔(むかし)or古(いにしへ=往にし方)」との中間あたりに位置する「そう遠くない昔」の意味である。
現代日本語でこれらに相当する語は「この頃」・「近頃」・「先頃」あたりであろうが、時系列的区分意識は決して明確化の道を辿ってはおらず、進化よりむしろ退行している感さえある(「中頃」相当語の消滅がそのいい例である)。
こうして見ると、time-spanそのものの悠長な長さはさて置き、時間的区切り語の品揃えに関しては、現代日本語よりむしろ古語の方が豊富であり、時間的意識も逆に明敏だったのではないかと思えるのが興味深いところである。それでも無論、西欧言語の時系列語の圧倒的豊富さ・緻密さには比すべくもないが、時間の区切りというものが「時計的単位(年・月・日・時・分・秒)」の顕微鏡的(micro)&機械的(mechanical)視点にのみ偏りがちで、「時系列単位(daily, weekly, monthly, bimonthly, quarterly, yearly, decade, century, millennium)」的な巨視的(macro)&感覚的(emotive)視座を持たぬかのような現代日本語&日本人の特性は、英語に照らしても古語と比較しても、やはり一考を要するところであろう。
時の流れの中で自分がどの位置にいるのかを俯瞰的に見定められぬ者は、無慈悲な時流に無自覚に流された末に溺死するのが必然の定め ― 極めて西欧的発想ながら、好むと好まざるとにかかわらず、21世紀初頭の世界はそうして流れて行くもの ― であるから、「自分を中心とした’現在’・’現状’」しか見えず、自らの姿を客観視する能力に欠ける日本人の言語学的&社会学的生存様態は、致命的危うさを宿したものと言わざるを得ないのである。「流行の最先端を行く」つもりで「時流の波頭で踊らされた末に泡のごとく消えて行く」ばかりの物事や人物たちを、もうこの国の人間たちは、過去数十年に渡って十分すぎるほど沢山見てきたであろうに・・・。目先しか見えぬ日本人には、十年前も千年前も「歴史の教科書に書いてあるみたいな古い(=今を生きる自分とは別世界の)事」であり、「歴史を教科書(=今を生きる指標)とする芸当」など、夢のまた夢、なのである。
-腐れ「decade」の意味するもの-
そもそも、現代日本語にはいまだに英単語「decade(キリスト紀元に於ける100年=centuryを更に10年単位に区切ったもの)」に相当する和語がない。そもそもの時間意識が希薄なのだから無理もない話ながら、その「decade」を「ディケイド」と読んで「仮面ライダー・ディケイド(!)」などと銘打って一連の変身ヒーローものの’10周年or10作目記念作品’のタイトルにしてしまうあたりを見ると、「DECAYED・・・あぁ、ライダー・シリーズも、本郷猛・一文字隼人(精一杯オマケして風見志郎)の頃までが華・・・もぅ、玩具メーカー&芸能プロダクションの金儲け手段へと’腐敗堕落=decay’した(ed)んだなぁ・・・」の感を催させる掛詞となっている点が何ともシブいというかニガいというかイタいというか・・・さすがは日本語、といった感じ、原典無視もここまで来ると完全に(笑えない)「和風漫才芸」である。
本当の「decade」は「デッケィド」であって、この「デッカ」は「(1962年1月1日に、あの不世出の大グループThe Beatlesをオーディションでみすみす落第させて大損失を招いた)Decca Records:デッカ・レコード」や、ルネッサンス文芸の代表的一作&近代小説の開祖として受験生が棒暗記させられる「Decameron:デカメロン(・・・オッパイがメロン並みにデカい、の意味じゃぁない;まぁ、エロいユーモア満載の大人の小説なんだけど、’十日物語’なる時系列性に由来する標題で、全100話の短編集)」(ボッカチオ=Boccaccio:1313-1375作)に絡めてしまえば<「ディケ」ちゃうで、「デカ」やで>いうこってすんなり「ぁあ、そうでっか」と納得できそうなものを・・・時系列意識のなさもさることながら、語学的関連性に思いが至らぬ倭人が横文字使う時の横滑り語感のクサれ具合は、何とも残念なことと言わざるを得ない。
-「クサレ」と「おサレ」の境界線-
もっとも、このあたりの滅茶苦茶さかげんは、一応(地理上の)同朋人たる筆者だからこそ「残念!」と言いたくなるものであって、ゲスト格たるガイジンさんの目から見れば、そのハチャメチャな乱れ具合はまるで「しのぶもぢずり」、秩序もへったくれもないanarchy(アナーキー=無秩序・無法状態・・・和風に言えば「ルール?あるっちゃぁあるけど、ザルみたいなもんで、至る所に’穴開きぃー’みたいな?んなボロボロな感じー」)がいかにも「不思議の国ニッポン」らしくて「クサレ」ならぬ「おサレ!(’オシャレ・お洒落’を21世紀ワカモノ言葉風に言うと、こーなる)」な魅力にもなるらしい。
なんのかんのと長々嘆いてみせたが、最後にひとつ、日本滞在歴がそこそこある外国人の多くが「これはいかにも和風で、実に便利!」と太鼓判を押す「時系列的みたいでー、その実、何の具体的時間も指していないけどー、それでいてこぃつを使えば対人関係は丸く収まっちゃう魔法の挨拶コトバ、みたいなー」やつを紹介して、timelessな和語の特性への泣き言を延々と繰り広げたこの一節の結びとしよう・・・曰く・・・「ぁあ、その節はどうも」・・・’その節’って’どの節’?などと問う者は日本人ではない:直視せず、何となく受け流してこそ、時間も言葉も流れ行く・・・それがニッポン、不思議の国でありんす。
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