▲ | ▼ [508] 【マホ】はトンガリ?のっぺらぼう?
「古文単語千五百Mastering Weapon」 No.1069【真秀】【真面】
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「古文単語千五百Mastering Weapon」 No.1069【真秀】【真面】
現代日本の女性名にも残る「まほ」(近頃「真穂」は「真央」に押され気味)だが、この語の語源には「穂=稲穂など、物理的にとんがった先端部」と「帆=船が推進力を得るために張り渡す、平坦な布きれ」という全然違う語が共存している。
「穂」は「穂に出づ(ほにいづ)」の形で「他に比べて明らかに際立つ形で抜きん出る」の成句にも使われるほどの「優秀性」を示す語で、それに「真」を付けるぐらいだから「まさしく最高」(英語で言えば「the very best」)・・・組成を知ってしまえば、親として娘に付けるには「名前負け」を危惧したくなるほどの「真穂」であるが、「美人」の意味もあるのだからやはり付けたくなるのが親心というべきか。その意味では「優美(ゆみ)」などとよく似た「優秀な上に美人」という欲張り語である。
ところが、「まほ」にはもう一つ「本格的」なる語義がある。「優秀」や「美人」からどうして「本格」が生じるのか疑問に思う人は、日本語の持つ「真秀(完璧)」ならざる特性を認識していない人である。「ほ」の字に「穂・秀」ならぬ「帆」を宛がう程度の機転があれば、「真帆=大きく帆を広げて風を真正面から受け止める」なる別表記が「真正面=ド真ん中ストライク=中途半端な素人芸やおなぐさみではなく、本式のもの」という別語義を生じるのを感じ取るのはさしたる難儀ではない。日本語は本源的にそういう横滑り型言語なのだから、考察者側の視点もそれに合わせてスライドさせないと、いつまでも「真帆」ばかり張っていたり「真秀」の完璧性に固執したりしていたのでは、この国の言葉とまともに渡り合うことなどできはしないのだ。
この「まほ」の古語としての当て字は「真秀」・・・語源学的正統性(「穂」)よりも派生的語義(「秀」)を重んじつつ、もう一つの「帆」は無視するという非「真秀(100%)」性も日本語の伝統芸である。そしてこの完璧なる「真秀」の対義語が「片秀(かたほ)」。意味は当然「不完全・拙劣」及び「見苦しい(もっと言えば、不細工・不器量・ブス・醜男)」であるが、「かたほ」と「かたは(片端・片輪)」の取り違えから「身体的欠陥がある」の意に用いられることもある。このあたりもまた「真秀」ならざる「片秀」を通り越して「がたぼ(=ガタガタ・ボロボロで、原型が何だかもうさっぱりわからん)」と言いたくなるこの国の言葉らしい代物ではある。
「穂」は「穂に出づ(ほにいづ)」の形で「他に比べて明らかに際立つ形で抜きん出る」の成句にも使われるほどの「優秀性」を示す語で、それに「真」を付けるぐらいだから「まさしく最高」(英語で言えば「the very best」)・・・組成を知ってしまえば、親として娘に付けるには「名前負け」を危惧したくなるほどの「真穂」であるが、「美人」の意味もあるのだからやはり付けたくなるのが親心というべきか。その意味では「優美(ゆみ)」などとよく似た「優秀な上に美人」という欲張り語である。
ところが、「まほ」にはもう一つ「本格的」なる語義がある。「優秀」や「美人」からどうして「本格」が生じるのか疑問に思う人は、日本語の持つ「真秀(完璧)」ならざる特性を認識していない人である。「ほ」の字に「穂・秀」ならぬ「帆」を宛がう程度の機転があれば、「真帆=大きく帆を広げて風を真正面から受け止める」なる別表記が「真正面=ド真ん中ストライク=中途半端な素人芸やおなぐさみではなく、本式のもの」という別語義を生じるのを感じ取るのはさしたる難儀ではない。日本語は本源的にそういう横滑り型言語なのだから、考察者側の視点もそれに合わせてスライドさせないと、いつまでも「真帆」ばかり張っていたり「真秀」の完璧性に固執したりしていたのでは、この国の言葉とまともに渡り合うことなどできはしないのだ。
この「まほ」の古語としての当て字は「真秀」・・・語源学的正統性(「穂」)よりも派生的語義(「秀」)を重んじつつ、もう一つの「帆」は無視するという非「真秀(100%)」性も日本語の伝統芸である。そしてこの完璧なる「真秀」の対義語が「片秀(かたほ)」。意味は当然「不完全・拙劣」及び「見苦しい(もっと言えば、不細工・不器量・ブス・醜男)」であるが、「かたほ」と「かたは(片端・片輪)」の取り違えから「身体的欠陥がある」の意に用いられることもある。このあたりもまた「真秀」ならざる「片秀」を通り越して「がたぼ(=ガタガタ・ボロボロで、原型が何だかもうさっぱりわからん)」と言いたくなるこの国の言葉らしい代物ではある。
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