▲ | ▼ [173] 【・・・のお方】が妙にお堅い敬意を表わす理由
「古文単語千五百Mastering Weapon」 No.446【方】
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「古文単語千五百Mastering Weapon」 No.446【方】
「言霊思想」については幾つかの記事の中で既に触れているが、上代(から中古あたりまで)には、「全ての言葉(こと:言)には霊魂が宿っており、その言葉を口にするということは、その言葉の霊魂(=言霊)を通して、言(こと)が表わす事(こと)に呼び掛け、その事を現実世界に呼び出すことにつながる」という考え方があったので、滅多なことでは口に出してはいけない言葉(=忌み言葉)というものが(古典時代には)沢山あったのである。
「死」につながる言葉などはその最たるものであったが、「人の固有名称」もまた忌み詞であって、自分の名を相手に呼ばれるということは、相手が自分の魂魄をその手に掴み、自由自在に操ることにも通じる。それ故に、人の名に直接的に言及することは、禁忌に触れることであり、女性などは(家族以外には)その本名は決して明かさなかったので、「**さんのうちの娘さん」(菅原孝標女:すがわらのたかすえのむすめ)だの「**くんのお母さん」(藤原道綱母:ふじわらのみちつなのはは)だのといった通り名が世に知られるばかりなのであった。
古典時代の人間の本名が後代に知られている例というのは、その人物の名称が朝廷の公式記録に残っている場合などにほぼ限定されている。この場合はさすがに「紫式部女(むらさきしきぶのむすめ)」だの「越後弁(えちごのべん)」(祖父の任国+官名)だの「弁乳母(べんのめのと)」(後冷泉天皇の養育係)だのといった通り名を記載するわけにも行かぬから「藤原堅子(ふぢはらのかたいこ/けんし)」という実名が(女性としては極めて例外的に)知られることとなるわけだが、それでもこの(ミョーに硬質な)本名よりは「藤三位(とうのさんみ)」(糖の酸味、みたいな矛盾した響きだが、実際の意味はもちろん’藤原’姓で官位は’三位‘)だの「大弐三位(だいにのさんみ)」(第二の酸味・・・第三のビール的な響きだが、その意味は、夫の役職が’太宰大弐=太宰府の副長官’で自分の官位が’三位‘)の通り名の方で語られる場合の方が多い。
このように、日本語には古来「人物の名への直接的言及」を憚る傾向が極めて強い。この体質は現代日本語にもそのまま引き継がれており、西欧人種のように素直には「Hey, MAHO:やぁマホちゃん」だの「Come on, KATAHO:おぃおぃそりゃないぜ、カタホくん」だのの「first-name basis:ファースト・ネーム上で推移する」表現には馴染めない日本人が多いわけである。
そうした日本語の「固有名称は呼ばずに済ます」特性から生まれたものとして、「人物名称の代用呼称としての’場’への言及」がある。以下にその一例を紹介しよう:
◆「かけまくもかしこき=口に乗せて語るのも畏れ多い」’天皇’への直接言及を避けて、その住居(皇居)の「立派な御門」を引き合いに出して「御(み)+門(かど)=みかど(帝)」とした。
◆一族を束ねる頭目を呼び捨てには出来ぬから、その居住区画(館)を敬って「御+館」とし、「みたち」だの「おやかた(さま)」だのと読(呼)んだ・・・「親方(様)」は後代の横滑り語。
◆「藤原道長」などと実名入りで言及するのは朝廷の公式記録の中だけのことで、通例はその(源氏最大の権勢家からもらった姉さん女房=倫子(りんし)さんの実家から引き継いだ)広大なる御殿の名を取って「土御門殿(つちみかどどの)」とか、晩年に建立した法成寺(ほうしょうじ=通称<京極御堂:きょうごくみどう>)に因んで「御堂関白:みどうかんぱく」と呼称した(・・・実際の道長は「関白」位に就任したことはないけど)。
上はいずれも「固有名称」回避の方便としての「関連場所」への言及例だが、日本語ではまた「人称代名詞」の代用表現としての「地理的位置付け語」の使用例も実に多い。「そちらのおかた」なる表現などはその代表例であって、「そっちの方(in that direction)」という多少離れた場所を遠巻きに言うことで、相手と自分との間にそれ相応の距離を置き(古語で言えば「所(を)置き」)、その遠慮が「心理的敬遠感覚」を演出することになるから、「そこそこの敬意を込めた、貴人の呼称」という性格を有することになる。
「あなた」・「そなた」・「そち」・「そこもと」などの「座標系」人称代名詞代用語の「丁寧度」は、その指し示す場所が話者からどの程度の距離にあるかを手掛かりに推測すればよい。あまりに近すぎる座標を代用呼称とする相手は、「自分と同等か自分より格下」とみなされているわけである。「こやつ(此奴)」(こいつ)が現代に至るまで罵倒語である理由もこれでわかるであろう:「ここ」は自分の立ち位置と全く同一であり、足で踏み付けにされるような地点へと心理的に追いやられているからこそ、「かのひと(彼の人)」や「あのひと(彼の人)」よりも貶されている感じになるわけである。
「死」につながる言葉などはその最たるものであったが、「人の固有名称」もまた忌み詞であって、自分の名を相手に呼ばれるということは、相手が自分の魂魄をその手に掴み、自由自在に操ることにも通じる。それ故に、人の名に直接的に言及することは、禁忌に触れることであり、女性などは(家族以外には)その本名は決して明かさなかったので、「**さんのうちの娘さん」(菅原孝標女:すがわらのたかすえのむすめ)だの「**くんのお母さん」(藤原道綱母:ふじわらのみちつなのはは)だのといった通り名が世に知られるばかりなのであった。
古典時代の人間の本名が後代に知られている例というのは、その人物の名称が朝廷の公式記録に残っている場合などにほぼ限定されている。この場合はさすがに「紫式部女(むらさきしきぶのむすめ)」だの「越後弁(えちごのべん)」(祖父の任国+官名)だの「弁乳母(べんのめのと)」(後冷泉天皇の養育係)だのといった通り名を記載するわけにも行かぬから「藤原堅子(ふぢはらのかたいこ/けんし)」という実名が(女性としては極めて例外的に)知られることとなるわけだが、それでもこの(ミョーに硬質な)本名よりは「藤三位(とうのさんみ)」(糖の酸味、みたいな矛盾した響きだが、実際の意味はもちろん’藤原’姓で官位は’三位‘)だの「大弐三位(だいにのさんみ)」(第二の酸味・・・第三のビール的な響きだが、その意味は、夫の役職が’太宰大弐=太宰府の副長官’で自分の官位が’三位‘)の通り名の方で語られる場合の方が多い。
このように、日本語には古来「人物の名への直接的言及」を憚る傾向が極めて強い。この体質は現代日本語にもそのまま引き継がれており、西欧人種のように素直には「Hey, MAHO:やぁマホちゃん」だの「Come on, KATAHO:おぃおぃそりゃないぜ、カタホくん」だのの「first-name basis:ファースト・ネーム上で推移する」表現には馴染めない日本人が多いわけである。
そうした日本語の「固有名称は呼ばずに済ます」特性から生まれたものとして、「人物名称の代用呼称としての’場’への言及」がある。以下にその一例を紹介しよう:
◆「かけまくもかしこき=口に乗せて語るのも畏れ多い」’天皇’への直接言及を避けて、その住居(皇居)の「立派な御門」を引き合いに出して「御(み)+門(かど)=みかど(帝)」とした。
◆一族を束ねる頭目を呼び捨てには出来ぬから、その居住区画(館)を敬って「御+館」とし、「みたち」だの「おやかた(さま)」だのと読(呼)んだ・・・「親方(様)」は後代の横滑り語。
◆「藤原道長」などと実名入りで言及するのは朝廷の公式記録の中だけのことで、通例はその(源氏最大の権勢家からもらった姉さん女房=倫子(りんし)さんの実家から引き継いだ)広大なる御殿の名を取って「土御門殿(つちみかどどの)」とか、晩年に建立した法成寺(ほうしょうじ=通称<京極御堂:きょうごくみどう>)に因んで「御堂関白:みどうかんぱく」と呼称した(・・・実際の道長は「関白」位に就任したことはないけど)。
上はいずれも「固有名称」回避の方便としての「関連場所」への言及例だが、日本語ではまた「人称代名詞」の代用表現としての「地理的位置付け語」の使用例も実に多い。「そちらのおかた」なる表現などはその代表例であって、「そっちの方(in that direction)」という多少離れた場所を遠巻きに言うことで、相手と自分との間にそれ相応の距離を置き(古語で言えば「所(を)置き」)、その遠慮が「心理的敬遠感覚」を演出することになるから、「そこそこの敬意を込めた、貴人の呼称」という性格を有することになる。
「あなた」・「そなた」・「そち」・「そこもと」などの「座標系」人称代名詞代用語の「丁寧度」は、その指し示す場所が話者からどの程度の距離にあるかを手掛かりに推測すればよい。あまりに近すぎる座標を代用呼称とする相手は、「自分と同等か自分より格下」とみなされているわけである。「こやつ(此奴)」(こいつ)が現代に至るまで罵倒語である理由もこれでわかるであろう:「ここ」は自分の立ち位置と全く同一であり、足で踏み付けにされるような地点へと心理的に追いやられているからこそ、「かのひと(彼の人)」や「あのひと(彼の人)」よりも貶されている感じになるわけである。
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