▲ | ▼ [1391] よ【世・代】〔名〕
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〈A〉
よ【世・代】
《竹の「節」(現代では「ふし」だが古語では「よ」)と同音・同発想の語。成長の節目ごとに刻まれるこの「よ」を「時間的区切り」と意識して生じた語が「世・代」で、その根底にあるのは「画期」であって「区画」ではない(=時間系の語であって空間系の語ではない)。》
〔名〕
(1) 〈(人が)生まれてから死ぬまでの間の時間・経験。または、その長さ。〉 一生。寿命。生涯。一代。年齢。齢。 (2) 〈(仏教語)前世(生まれる前の世)・現世(この世)・来世(生まれ変わる世)の三世。または、正法・像法・末法の三つの時代区分。〉 三世。前世。現世。来世。正法。像法。末法。 (3) 〈(歴史的に)特定の支配者(天皇や将軍など)が君臨した時代として、他の時代と区分される時代。〉 ・・・期。時代。治世。年代。御代。世。代。 (4) 〈(社会的に)様々に移り変わる人間世界全般。また、(歴史的に)その時代特有の風潮によって他の時期とは区分される世の中。〉 世間。時勢。世の中。世間。浮き世。社会。風潮。動向。時世。流行。トレンド。 (5) 〈(人・物事が)今の状態とは異なる状態で存在したある特定の時。〉 時期。時節。季節。機会。・・・の折。・・・の際。・・・の時。・・・の頃。 (6) 〈(社会的に)人が置かれた立場の軽重。(経済的に)人の暮らしの状態。〉 境遇。貧福。身の上。身分。時の利。出世運。世の覚え。栄華。暮らし向き。貧富。 (7) 〈(地理・政治的に)人間が暮らす領域。〉 世界。この世。現世。天下。国。 (8) 〈(出家・隠遁した立場の人間から見て)世俗的欲望に満ちた世界、また、その世界の人々やその欲望。〉 俗世間。世俗的欲望。濁世。 (9) 〈(経済学的に)生きるためにしなければならない営みや、その状態。〉 生活。暮らし向き。人生。暮らし。所帯。生計。家計。やりくり。身過ぎ。メシのタネ。仕事。生業。 (10) 〈(世間から見た)社会的な評価や位置付け。〉 世評。名声。評判。評価。権勢。世の覚え。 (11) 〈(愛情の濃淡から見た)男女間の関係の緊密さ。〉 (夫婦)仲。恋人との関係。愛の情熱。恋愛温度。相手への熱意。
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〔名〕
(1) 〈(人が)生まれてから死ぬまでの間の時間・経験。または、その長さ。〉 一生。寿命。生涯。一代。年齢。齢。 (2) 〈(仏教語)前世(生まれる前の世)・現世(この世)・来世(生まれ変わる世)の三世。または、正法・像法・末法の三つの時代区分。〉 三世。前世。現世。来世。正法。像法。末法。 (3) 〈(歴史的に)特定の支配者(天皇や将軍など)が君臨した時代として、他の時代と区分される時代。〉 ・・・期。時代。治世。年代。御代。世。代。 (4) 〈(社会的に)様々に移り変わる人間世界全般。また、(歴史的に)その時代特有の風潮によって他の時期とは区分される世の中。〉 世間。時勢。世の中。世間。浮き世。社会。風潮。動向。時世。流行。トレンド。 (5) 〈(人・物事が)今の状態とは異なる状態で存在したある特定の時。〉 時期。時節。季節。機会。・・・の折。・・・の際。・・・の時。・・・の頃。 (6) 〈(社会的に)人が置かれた立場の軽重。(経済的に)人の暮らしの状態。〉 境遇。貧福。身の上。身分。時の利。出世運。世の覚え。栄華。暮らし向き。貧富。 (7) 〈(地理・政治的に)人間が暮らす領域。〉 世界。この世。現世。天下。国。 (8) 〈(出家・隠遁した立場の人間から見て)世俗的欲望に満ちた世界、また、その世界の人々やその欲望。〉 俗世間。世俗的欲望。濁世。 (9) 〈(経済学的に)生きるためにしなければならない営みや、その状態。〉 生活。暮らし向き。人生。暮らし。所帯。生計。家計。やりくり。身過ぎ。メシのタネ。仕事。生業。 (10) 〈(世間から見た)社会的な評価や位置付け。〉 世評。名声。評判。評価。権勢。世の覚え。 (11) 〈(愛情の濃淡から見た)男女間の関係の緊密さ。〉 (夫婦)仲。恋人との関係。愛の情熱。恋愛温度。相手への熱意。
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中古の女性の【世】って何よ?
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-女の世界は「愛こそはすべて」?-
「世」や「世の中」、さらには「世界」・・・なんとも広大な響きの語だが、中古女流文学にかかるとこれらは大方「彼との間の恋模様」なる純私的な語義に化ける、ということは、古典読みなら確実に押さえておかねばならぬ必須知識である。
意地悪な想像を巡らせば、「中古は妻問婚だから、女はひたすら男の慈悲にすがるしかなかったので、男から自分への愛情がそれほどの重大事だったのさ」とか、「所詮、女にとっては自分を取り巻く個人的な枠組みだけが全世界。身の幅一杯でしか生きられぬ小さな生き物でしかないのさ」ということになりそうだが、そうした論調で事を片付ける前に、「世」を巡る古語事情として、次の事実をも踏まえてからものを言うべきであろう(・・・特に、女性の前で言う時には)。
-「よ」=「世」&「節」の節目感覚-
「よ」の音を持つ古語は実に多いが、「世」と最も密接に結び付くのは「節」である。これは現代では「せつ」や「ふし」であるが、古語では「よ」の音が優勢であり、「竹」や「芦・葦・蘆(あし)」のような「節目」を持つ植物の、「節目ごとに刻まれた空間的分け目」が「節」ならば、「幾つかの出来事ごとに刻まれた時間的分け目」が「世」なのであった。ある特定の「天皇が統治する時代」として捉えれば、この「世」は「代」(御代)となる。音も同じなら、その区分感覚もまるで同じ古語が「よ=節&世・代」なのである。
そのような「画期的な何か」によって節目ごとに分けられた時間の集合体として人生を捉えた場合、「ある特定の男性との出会い~別れ」というtime-span(タイム・スパン:計時単位)で、「Aくん時代」・「Bさん時代」・「C殿時代」・・・という風に人生を区切る人生観は、中古の女性のみの態度ではあるまい。現代女性だってこうした意識で物事を捉える体質は確実に引き継いでいるし、この感覚は男にとっても決して無縁なものではない。「プロジェクトA時代」・「キャンペーンB時代」・・・などと「出来事」系のタグ(tag:表札)付けで人生を区切る体質が濃密な男といえども、その出来事の折々に関わった人々との個人的思い出が彩ってくれぬ限りは、男の人生もやはり味気ないもの。「A子ちゃん時代」や「B子さん時代」といった区切りで「’節’という名の’世’」と向き合う体質は「自分にはない!俺は男だ!」などと言い張る御仁は、「御立派」というよりは「オメデタイ」というか「おかわいそうに」といった感じでしかあるまい(・・・まぁ、人生の思い出が異性ばかりに偏るような男は少々薄っぺらであることは確かだが)。
そういう次第であるから、一夫多妻制&妻問婚で、女性も男性も特定の異性とだけ一生添い遂げるわけでもなかった平安時代に於いては、人生の画期的出来事としての「ある特定の男性(or女性)との関係を中心に回っていたあの頃」という形での「世」が、今より遥かに自然な妥当性を有していた、という事実だけは踏まえた上で、古典的「世・世界・世の中」の回り方に対しては、小馬鹿にするなり、納得して我が身を振り返るなりの態度を、各人各様に定めていただきたいと思う。
「世」や「世の中」、さらには「世界」・・・なんとも広大な響きの語だが、中古女流文学にかかるとこれらは大方「彼との間の恋模様」なる純私的な語義に化ける、ということは、古典読みなら確実に押さえておかねばならぬ必須知識である。
意地悪な想像を巡らせば、「中古は妻問婚だから、女はひたすら男の慈悲にすがるしかなかったので、男から自分への愛情がそれほどの重大事だったのさ」とか、「所詮、女にとっては自分を取り巻く個人的な枠組みだけが全世界。身の幅一杯でしか生きられぬ小さな生き物でしかないのさ」ということになりそうだが、そうした論調で事を片付ける前に、「世」を巡る古語事情として、次の事実をも踏まえてからものを言うべきであろう(・・・特に、女性の前で言う時には)。
-「よ」=「世」&「節」の節目感覚-
「よ」の音を持つ古語は実に多いが、「世」と最も密接に結び付くのは「節」である。これは現代では「せつ」や「ふし」であるが、古語では「よ」の音が優勢であり、「竹」や「芦・葦・蘆(あし)」のような「節目」を持つ植物の、「節目ごとに刻まれた空間的分け目」が「節」ならば、「幾つかの出来事ごとに刻まれた時間的分け目」が「世」なのであった。ある特定の「天皇が統治する時代」として捉えれば、この「世」は「代」(御代)となる。音も同じなら、その区分感覚もまるで同じ古語が「よ=節&世・代」なのである。
そのような「画期的な何か」によって節目ごとに分けられた時間の集合体として人生を捉えた場合、「ある特定の男性との出会い~別れ」というtime-span(タイム・スパン:計時単位)で、「Aくん時代」・「Bさん時代」・「C殿時代」・・・という風に人生を区切る人生観は、中古の女性のみの態度ではあるまい。現代女性だってこうした意識で物事を捉える体質は確実に引き継いでいるし、この感覚は男にとっても決して無縁なものではない。「プロジェクトA時代」・「キャンペーンB時代」・・・などと「出来事」系のタグ(tag:表札)付けで人生を区切る体質が濃密な男といえども、その出来事の折々に関わった人々との個人的思い出が彩ってくれぬ限りは、男の人生もやはり味気ないもの。「A子ちゃん時代」や「B子さん時代」といった区切りで「’節’という名の’世’」と向き合う体質は「自分にはない!俺は男だ!」などと言い張る御仁は、「御立派」というよりは「オメデタイ」というか「おかわいそうに」といった感じでしかあるまい(・・・まぁ、人生の思い出が異性ばかりに偏るような男は少々薄っぺらであることは確かだが)。
そういう次第であるから、一夫多妻制&妻問婚で、女性も男性も特定の異性とだけ一生添い遂げるわけでもなかった平安時代に於いては、人生の画期的出来事としての「ある特定の男性(or女性)との関係を中心に回っていたあの頃」という形での「世」が、今より遥かに自然な妥当性を有していた、という事実だけは踏まえた上で、古典的「世・世界・世の中」の回り方に対しては、小馬鹿にするなり、納得して我が身を振り返るなりの態度を、各人各様に定めていただきたいと思う。
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