おもひやる【思ひ遣る】〔他ラ四〕

   [365] おもひやる【思ひ遣る】〔他ラ四〕

〈B〉 おもひやる【思ひ遣る】
《「遣る」(こちら→遠方)の方向性を内包する語で、現代語にも残る「(相手を)気遣う」の語義もあるが、古語では、「(自身の)気晴らしをする」・「(遠く離れた人・物に)思いを馳せる」・「(眼前にない状況を)想像する」の語義の方が重要。》
〔他ラ四〕 {ら・り・る・る・れ・れ}
  (1) 〈(心の中に溜まった)思いやいを、何らかの行動によって解消する。〉 気を晴らす。心をめる。胸のつかえを取る。思う存分・・・して楽になる。気が済むまで・・する。洗いざらいぶちまける。ぱぁーっとやってスカッとする。   (2) 〈(眼前にいない人・物について)心の中であれこれ思う。〉 思いをせる。遠くからおいする。どうしていることかと思う。   (3) 〈(よくわからない状況について)自分の知り得る限りの情報から、何らかの判断を組み立てる。〉 推量する。想像する。推察する。推論する。察しを付ける。   (4) 〈(相手のためになるようにと)あれこれと気を配る。〉 気遣う。心を配る。いたわる。思いやる。配慮する。
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【思ひやり】の二面性
 現代日本語の「思いやり」は「相手へのいたわり」という利他的行動・心情を表わす、仏様・キリスト様が喜びそうな語であるが、古語の「おもひやる」は、この語義のみにとどまらない。むしろ、受験生イジメを職能的必然とする出題者の場合、わざとこれ以外の語義を出題する可能性が高いのだから、そちらに力点を置いて学習せよ、と助言するのが、筆者から諸君への「思ひ遣り」というべきであろう・・・ということで、2つほど紹介しておく。
 まず、現代語「思いやり」に近いが微妙に違うものとして、「眼前に存在せぬ誰か・何か」について、「思いを馳せる」語義がある。「相手のためによかれと思って」そうするのではない:「あぁ、懐かしいなぁ、また会いたいなぁ・行きたいなぁ・やりたいなぁ・etc, etc.」という「自己の懐古的欲求充足モード」の表現である点で、相手本意の現代的「思いやり」とは方向性が逆である。それでもやはり「相手に引かれて」思いが吸い寄せられるのだから、まだ「利己的」だの「自己中心的すぎ!」だのの誹りを受けるほどではないが、次の表現ともなればその種の非難を受けても仕方がないだろう:
 「胸の内に溜まった思いを、外界に向けて表出する」・・・所謂憂さ晴らし」・「ストレス発散」のぶちまけ行動の語義、これこそ意外性ある「思ひ遣り」として「受験生イジメ」の定番となっているやつである。その「発散手段」は多く「音楽・和歌」などの「遊び」であるから、現代的脈絡でイメージすれば「うゥーっ、もぉーッやってられないっ!カラオケいこう、カラオケ!クラブでもディスコでもゴーゴーでモンキーダンスでもいいけどさ、とにかく歌って踊ってパァーッといこうよ!胸にたまったモヤモヤのガス抜きしないと、息が詰まってやってられないよー!」という感じである。そうして自己の鬱憤を晴らす過程では、他人を「思いやる」余裕などさらさらない。周囲の迷惑顧みず、音程ハズして歌おうが、サンバのリズムに盆踊りのノリでゆらゆら揺れようが、酔いに任せてグダグダくだ巻いて愚痴りまくって座を白けさせようが、とにかく「自分の胸さえすっきりすれば、それでよし」というタイプの「思いを遣る=内面から外界へ、胸中の思いをぶちまける」表現である。
 もっとも、現代日本人がよく晒すその種の迷惑な醜態ほどの一方的に自己中心的な「思ひ遣り」は、古文ではさすがにであって、よく出てくるのは、「好き、の気持ちを打ち明けられずに、胸中に募る想いを、優雅な中にも微妙な揺らぎが(感受性の鋭い人の耳には)感じ取れるような笛の音に乗せて、空の彼方へ(できれば、あの人のもとへ)と吐き出して、束の間の代償的満足(vicarious satisfaction)を得る」というような雅びなる脈絡での「思ひを遣る」であることだけは、付言しておくべきであろう。「相手本意」とまでは言えないが、「相手不在」の現代人みたいな無粋な自己中心性からは遠いのだ。その種の現代的「ジコチュー」は、平安人には(少なくとも文物の中では)最も嫌われるものなのである。
 より普遍的な知識として、この種の「自己→外界」/「こちら→あちら」の方向性(vector=ベクトル)で対象へと歩み寄ったりすっ飛んで行ったりする接尾辞が「遣る(やる)」であるのとは逆に、「外界→自己」/「あちら→こちら」の形で、対象を自分の方へと引き寄せようとする(この意味で、自己中心的な)指向性を持つ接尾辞は「遣す(おこす)」である、ということをも覚えておくべきだろう。現代語「よこす(寄越す)」に置き換えればこの感じはわかりやすい:「相手」から「自分」の方へと「寄り来る」/「相手の立場から当方の立場へと引っ越す」のを、意図的に招請(または強制)する言い回しが「寄越す(よこす)」であり「遣す(おこす)」なのである。
 「遣」の字は共通なのだから、こうした「遣る(やる)」と「遣す(おこす)」の違いを生むのは、例の、「る=自発、自然的現象」/「す=使役、意図的行為」の対照の図式であることは言うまでもない。そしてまた、現代日本人が、「相手が自分の方へと一方的に歩み寄る」ことを強要する(平安人が最も激しく嫌悪したタイプの)自己中心性を、もはや「ジコチュー」とすら感じられぬほどの「生き方の基本的ベクトル」としている生き物であることもまた、言うまでもないことであろう。
 「見遣す(みおこす)=オマエがオレ/アタシの方を見ろ!オレ/アタシにオマエへの歩み寄りを求めるな!」的処世態度がもはや現代日本人の常態と化しているという事実の実証的証明が欲しくば、逆に、「見遣る(みやる)=あぁ、この人はいま、こういう気持ちで、こういうことを求めているんだろうなぁ・・・それなら、さぁどうぞ、こんな感じではいかが?」的行動・発言・心理の実例を探すことだ ― 周囲の人々の中にそれを見出すことが出来たなら・・・あなたは、幸せな人、である。見つからなければ、あなたは(&あなたの友人・知人も)ごくごく普通の現代日本人、ということである。

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コメント (1件)

  1. the teacher
    ・・・当講座に「man-to-man指導」はありませんが、「コメント欄」を通しての質疑応答ができます(サンプル版ではコメントは無効です)

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