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[1]
【に】〔格助〕
『接続:格助={体言・連体形・連用形・副助詞}接助={連体形}終助={未然形}』
(7)(手段)動作・作用を行なう上での方法・手段・材料などを表わす。
・・・によって。 ・・・を用いて。・・・を使って。・・・で。
*接続=体言。
*格助詞「に」の中でも難解な語義の一つで、現代日本語には残っていない。単独の「に」として捉えずに、「に+て」/「に+よりて」/「に+従ひて」/「に+免じて」のように語句を補って解釈するのが得策。(例:「我が罪、この歌<に>ゆるしてよ」・・・悪いことしたけど、この歌に免じて許しておくれ)
*英訳=「by」/「through」/「by means of」/「by virtue of」/「in virtue of」/「on account of」/「on the strength of」/「owing to」/「thanks to」。
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[2]
【の】〔格助〕
『接続:格助={体言・連体形・形容詞語幹・形容動詞語幹・形容詞シク活用終止形}』
(1)(連体格)(場所・時・所有・所属・材料など)各種の関係を持つ語句によって、直前の体言を修飾する。
・・・の。 ・・・にある。・・・の際の。・・・の時の。・・・での。・・・に属する。・・・である。・・・にあたる。・・・という。・・・製の。
*接続=体言。
*格助詞「の」の中で最頻出かつ最も安易に解釈可能(というより現代日本語の「の」の用法の祖先なのでそのまま「の」として何も問題なし)の用法がこれ・・・実際、この説明の文章の中の「の」の全てがこの「の」のタイプに属する。この用法以外の古語の「の」は、(現代語の)「の」以外の訳し方をするのが普通 ― 「同格」・「主格」・「準体法」用法なら多少無理すれば「の」と訳すも可 ― なので、何も考えずに「の」の訳し方が出来たら、それはこの「前後の体言を様々な関係で結びつける"の"」という広範なる部類(いかにも文法的な呼び名で言えば「連体修飾格の"の"」)に属すると思ってよい。
*英訳=「A of B」/「A's B」/「A in B」/「A from B」/「A which belongs to B」/「A which comes from B」/etc, etc.
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[3]
【に】〔格助〕
『接続:格助={体言・連体形・連用形・副助詞}接助={連体形}終助={未然形}』
(1)(地点)動作・作用の舞台となる空間的な場を表わす。
・・・に於いて。 ・・・で。・・・に。・・・の場で。
*接続=体言。
*格助詞「に」の最も基本的な「動作・作用の(空間的な)"場=stage"」の用法(例:「我、ここ<に>あり」)。現代日本語にもそのまま引き継がれている。この用法の「に」に接続助詞「て」が付いて(奈良時代中期から平安初期に)成立した格助詞「にて」(=に於いて)に近い語法で、訳し方も「に」及び「で」で事足りるが、その「で」は「にて→んて→んで→で」の変遷を経た語である。
*英訳=「in A」/「at A」/「on A」/etc, etc.
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[4]
【り】〔助動ラ変型〕{ら・り・り・る・れ・れ}
『接続:{四段の命令形・サ変の未然形}』
(1)(進行形)動作の継続・進行を表わす。
(今)・・・ている。 ・・・している。・・・中だ。
*接続=変則連用形(四段動詞の命令形/サ変動詞の未然形)。
*助動詞「り」の基本語義で、「継続・進行中」の意味を表わす。訳し方は「・・・ている」「・・・てある」「・・・てる」「ちょうど・・・てるところ」など、英語で言う「(動作動詞=dynamic verbの)進行形」の訳し方に近いが、英語なら「(状態動詞=stative verbの)状態」として非進行形であるべき表現にも「り」が使われるのは、現代日本語表現「・・・ている」の場合と同じである。
*英訳=「・・・(stative)」/「be ・・・ing(progressive)」/「be in the state of ・・・」/「be in the act of ・・・」
-「り」の語源は「在り」にあり-
*「継続」や「進行」はその対極に「停止」が想定できて初めて成立するものだが、「り」の表わす「継続・進行」の中には「存在」と捉えるべき意味があり、「存在」の停止・消滅を特に想定せずに用いられている例が多い。この性質は、助動詞「り」が語源学的には「動詞連用形(の名詞化したもの)+在り(あり)」の末尾「り」のみを取り出して助動詞と見立てたその来歴によるもの。例えば、「思ひ+在り=思ひあり→思へり」の音便形が、「思へ+り」と分解解釈されたのが助動詞「り」の始まりである。
-「り」が「ナ変動詞」に付かぬ理由-
*元々が「(動詞連用形による)名詞化表現+在り」であるために、助動詞「り」は決して「ナ変動詞=死ぬ(しぬ)/去ぬ(いぬ)」には付かない。「存在しなくなること」を表わす「死ぬ/去ぬ」に、存在を表わす「在り」が付くのはヘンだからである。英語なら「Nobody is there.(誰もそこにはいない)」という言い回しが成立するが、「"無人君"そこに"在り"」という日本語は(冗談以外では)成立しないのである。
*なお、「ナ変は"不在"だから、"在り"由来の"り"は付けられない」というのはあくまで「直結不可能」ということであって、「死ぬ」の名詞形「死」にサ変動詞「為(す)」を付けた「死す」の形にしてしまえば、「死せ<る>孔明、生ける仲達を走らす」のような表現も可能である。
-「り」の接続先は何故「四段の命令形」/「サ変の未然形」なのか?-
*上記の音便化作用を経て助動詞「り」が結び付く動詞の「思へ」は、形の上では「命令形」だが、文末を言い切りの形で終えるはずの「命令形」が、その後に助動詞を伴う道理がなく、実質的にこの「思へ(命令形)」は「思ひ(連用形の名詞化用法)」が「あり」との結合の結果として化けた「連用形音便」に過ぎないことを把握しておく必要がある。その意味で「助動詞"り"は命令形に接続する」という定義は非論理的・・・なのであるが、文法的ではなくとも便法としてそう覚えておくのが得策ではあろう・・・さもなくば「動詞連用形の名詞化したものに"あり"が付いた形を音便化した際に生じる語幹部の"エ(e)段音"に接続する」などという(論理的には完璧ながら)大仰すぎて学習者を威圧する定義を覚え込まねばならないのだから、「助動詞"り"は四段動詞の"命令形"の後に付ける・・・ホントは違うんだけどね」の覚え方が現実的である。
*一方、「サ変動詞("為"{せ・し・す・する・すれ・せよ})」の場合は、その連用形が名詞化した「し(為=行為)」+「あり」の「し+あり」が音便化して「せり」となる:この「せ」は「未然形」なので、「助動詞"り"はサ変動詞の場合だけは"未然形"へと続く」というもう一つの便法が成立することになる・・・「これじゃたまらん!例外だらけのザル法はやめて文法的原理に忠実に行こう」という人は、「おもひ+あり→おもへり」/「し+あり→せり」という「連用形名詞化+あり」の祖形を常に念頭に置いておけばよいだろう・・・これらの接続をまさか「おもひ+り」/「し+り」とする日本人など(よほど音感がおかしな人でなければ)存在しようがないのだから、自然と「四段動詞なら"命令形"接続/サ変動詞なら"未然形"接続」へと落ち着くはずである。
-古語は「二重母音」を嫌う-
*さて、「り」が付くのは「四段/サ変」の2つの動詞型のみであり、それ以外の活用をする動詞には接続しない。この現象については、上述の「動詞連用形が名詞化したもの+在り」という「り」の語源学的組成に、古語に於ける「二重母音忌避現象」を加味すれば説明可能となる。例えば上二段動詞「くゆ(悔ゆ)」について見れば、これを名詞化するために連用形化すると「くい(悔い)」となる。これに「在り」を付ければ「悔い+在り」だが、「(く)i+a(り)」の部分の「i+a」の母音の連続は古語では忌避される傾向があったので、上述「四段/サ変」の例に倣って「i+a=e」の音便形としたいところ・・・ながら、そうなるとこの「悔い+在り」に由来する助動詞「り」の接続は「悔え+り」となる・・・が、残念ながら上二段動詞「悔ゆ」の活用に「悔え」はない:{い・い・ゆ・ゆる・ゆれ・いよ}の形のどれにも属さぬ{え}音は、かくて、存在理由を失うわけである(これは上一段についても同様)。一方「下一段(蹴る)」と「下二段(例:受く)」の連用形ならば最初から「け(蹴)」「うけ(受け)」と「e段音」なのだから上記の上一段・上二段のような問題はないのだが(・・・「けあり」・「うけあり」のままの音で通して問題なしとしたのか、間に接続助詞「て」をはさんだ「て+あり」から「てぇり→たり」への展開によるものか)・・・とにもかくにも「四段/サ変」以外では「エ音化け」にまつわる問題から、「助動詞"り"は付けられない」のである。
-奈良時代に一時的に存在したヘンテコ表現「来り(けり)」/「着り(けり)」-
*本来の活用形の中に存在しないにもかかわらず、「i+a=e」の「エ音化け」を無理矢理演じて「り」を付けた動詞表現が、奈良時代に2つほど存在したことが知られている:「カ変動詞{こ・き・く・くる・くれ・こよ/こ}」の「来(く)」+「あり」から生まれた「来(き)+在り=きあり→けり」、並びに「上一段動詞{き・き・きる・きる・きれ・きよ}」の「着る(きる)」+「あり」から生まれた「着(き)+在り=きあり→けり」である・・・が、いずれも本来の活用形に見出されない「け」なる不思議な音をどう処理してよいのか、奈良時代の人々の戸惑いを招くばかりの厄介者だったらしい。
*結局、当時の日本人は、「着り(けり)」については「着る」とは全く別物の独立した動詞表現として扱わざるを得なくなり、平安時代になる前には(当然、というべきか)死語と化してしまったという・・・御苦労様な話である。
*一方、「来り(けり)」の方は、「来(連用形)+あり=きあり・・・けり」の形としてはやはり奈良時代のうちに滅びたが、「過去の助動詞"けり"」と化して古文世界に堂々たる存在感を示すに至っている。
*いずれにせよ、「i+a=e」の形で生じる「エ音」が本来の活用形の中に存在しない動詞型(=非四段/非サ変)に、無理矢理「り」を付けるとロクなことにならない、というお話である。
-「四段/サ変」以外への接続の必要上生まれた「たり」-
*かくて、「"継続・進行中"の意味を表わす助動詞"り"」は「四段/サ変動詞以外には付かない」という原則が奈良時代の時点で確立されたわけであるが、では、「四段/サ変動詞以外は"継続・進行中"の意味になることはない」のであろうか?・・・無論、そんな馬鹿な話はないのであって、「四段/サ変」以外の動詞にもきちんと「継続・進行」の意味を表わす手段はある:何のことはない、「連用形+て+在り」の形で「あり」とつなげればそれでよいのだ:この「て+在り」の音便形として生まれたのが、「り」と(ほぼ)同じ意味を表わす助動詞「たり(・・・てあり)」である。
*「り」と「たり」は、その表わす意味はほぼ同じだが、直前の動詞との接続関係をつぶさに眺めると、次のことが言える:
1)「り」が四段/サ変動詞に接続する場合は、「動詞の連用形が名詞化したもの」+「り」の感覚になる。
2)「たり」が非四段/非サ変動詞に接続する場合は、「動詞連用形」+「状態の接続助詞"て"」+「存在を表わす動詞"在り"」の感覚になる。
-「たり」に負けた「り」-
*名詞と動詞とでは「動詞の方が柔和な感じがする」というのが日本語の感覚である上に、状態を表わす接続助詞「て」は動詞の連用形に(その活用形が四段/サ変以外であろうとも)自在に接続する性質を持っていたので、次第に「四段/サ変にしか付けない"り"」よりも「どんな動詞にでも付く"たり"」の方が多く使われるようになって行ったのは、至極自然な成り行きである。
*平安時代初期までは「四段/サ変には"り"」/「非四段/非サ変には"たり"」という使い分けがきちんと行なわれていたが、以後は「万能助動詞"たり"」が「動詞を選り好みする"り"」を押しのけてありとあらゆる動詞に付くようになり、入試で最もよくお目にかかる平安女流文学の中での「たり」の用例の数は、「り」の5倍~8倍とも言われる圧倒的勢力となってしまった・・・以後「り」は衰微の一途を辿ることとなる。
-ちょっとおかしな現代日本語「り/たり」事情-
*現代日本語では「花が<咲き+て+ある・・・>咲いてる」とは言えても「花が<咲き+ある・・・>咲ける」とは言えない。即ち「継続・進行の助動詞としての"り"」は完全に死語となっているのに対し、「たり」はその語源学的組成「て+あり」の化けた「・・・て(い)る」の形で脈々と生きているわけである。
*その一方で、面白いことに、「花<咲き+て+ある・・・>咲きたる丘」なる表現は「古文そのもの」ということでもはや使われない(イ音便の「咲いてる丘」にしないとどうにもならない)のに対し、「花<咲き+ある・・・>咲ける丘」の表現なら「文語的表現」として現代日本語でも使用可能である。つまりここでは(上記の事情とは逆転して)「たり」は死語/「り」は文語として生存しているわけである。(○)「病める者」/(×)「病みたる者」や(○)「富める者」/(×)「富みたる者」でも事情は同様であるが、これらの表現に於いてはもはや「咲ける/病める/富める」が1語の定型句(品詞的には「形容詞」)として意識されているのであって、「咲き+あり/病み+あり/富み+あり」の語源学的来歴など完全に忘れ去られている。それに対し「咲きたり=咲き+て+あり/病みたり=病み+て+あり/富みたり=富み+て+あり」の「たり」表現は(上述のごとく)「動詞連用形+接続助詞+動詞」という語源学的組成をどうしても思い浮かべずには使えない表現・・・これでは現代日本人に使われないのも当然(「咲いてる/病んでる/富んでる」をその末裔と見れば、必ずしも死語とは言えないが)・・・「言葉は生き物」だけに(それを使う人間が意識しようとするまいと)その生存/死滅には、やはりそれなりの理由があるわけであって、その理由の発見の喜びもまた古文学習の醍醐味の一つ・・・そんなお話ではあった。
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【より】〔格助〕
『接続:{体言・連体形・連用形}』
(4)(比較対象)相対比較の基準となる物事を表わす。
・・・と比べて。 ・・・に対して。・・・より。・・・に引き替え。
*接続=体言。
*現代日本語と全く同じ「A(比較対象)より(も)」の訳し方をするもの(例:「おのが猫めきたる人は猫<より>犬好むものなめり」=One who resembles a cat seems to prefer a dog to a cat.:じぶんがねこっぽいひとはいぬのがねこよっかすきみたい)。
*英訳=「than A」/「compared with A」/「in preference to A」
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【こそ】〔係助〕
『接続:係助={終助詞及び間投助詞以外の各種の語}終助={連用形}間投助={人名}』
(2)(逆接的挿入)直前の語句を取り立てて指し示した上で、それとは反対の内容の記述を後に続ける。
・・・は確かに~だが。 ・・・こそ~なものの。
*接続=体言。
*係助詞の中には現代日本語にも(やや文語的色彩を帯びつつ)残る言い回しが幾つもあるが、この逆接の「こそ」が導く「Aこそ・・・(ながら)」の(英語風に言えば「譲歩」表現)もその一つ。現代語との相違は、古文の場合「文末=已然形」の「係り結び」になる、という点のみ。
*英訳=「though...」/「although...」/「with (all) A」/「for (all) A」/「in spite of A」/「despite A」/「notwithstanding A」/「A notwithstanding」/etc, etc.
-元来は「こそ」なしでも成立した「已然形」による「逆接確定条件」-
*上代には、「こそ」のような特別な語句を伴わずとも、「已然形」という活用形そのものが「確かに・・・ではあるが、しかし~だ」(逆接の確定条件)を表わした。しかし、「已然形」はまたそれとは正反対の「・・・なので、~だ」(順接の確定条件)をも表わした・・・これではややこしくてたまらない。そういうこともあって、中古以降の「已然形」は、次のような語句との相関表現の中でのみその機能を果たすようになって行き、単独での機能は失われて行った:
1)「已然形+ば」=「順接の確定条件」・・・なのだから、~だ:
例)人、神にしあら<ね><ば>、必ず死ぬべし。(人間は、神様ではないのだから、必ず死ぬ運命である)
2)「已然形+ど・ども」=「逆接の確定条件」・・・なのだけれども、~だ:
例)人死すれど(も)、その名は死なず。(たとえ人間は死んでも、その名は死なずに残る)
3)「こそ+已然形」
=A)「逆接の確定条件」・・・ではあるが、~だ
例A)身<こそ><滅べ>、業は滅せず。(生身の肉体は滅びるにしても、成し遂げた業績は消えたりしない)
=B)「強調用法」これぞ・・・だっ!
例B)名に負ふ業<こそ>神業<なれ>。(人々に名を知られるほどの素晴らしい仕事こそが、不死身の神にも相当する仕業なのである)
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【も】〔係助〕
『接続:係助={体言・連体形・連用形・副詞・助詞}接助={連体形・形容詞型連用形}終助={終止形・連体形・文末}』
(4)(程度の類推)軽度の事柄を挙げて、より程度の重い他の事柄を類推させる。
・・・さえも。 ・・・も。・・・でも。・・・すらも。
*接続=各種の語。
*「程度の類推」と呼ばれる語法で、現代日本語にも通じるもの。わかりやすく誇張して言えば「Aでさえも・・・(なのだから、ましてやBなどとんでもない)」という形で言外に更なる想像を促す語法の「も」(例:「従ふ者一人<も>無し:There was not a single follower.:ついて行こうという者は<ただの一人たりとも>存在しない」)・・・だが、実際にはそれほど大袈裟な訳し方は不要の場合(軽く「・・・も」だけで流してよい場合)が多い。強調的に訳すなら「・・・すらも/・・・さえも/たとえ・・・であろうとも」あたりでよいだろう。
*英訳=「even A」/「a single A」/「A, of all the ...」/etc, etc.
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[8]
【ず】〔助動特殊型〕{ず/(な)/ざら・ず/(に)/ざり・ず/○・ぬ/ざる・ね/ざれ・○/ざれ}
『接続:{未然形}』
(1)(打消)(用言の未然形に付いて)その陳述内容を否定する。
・・・ない。 ・・・しない。・・・でない。
*接続=未然形。
*その活用は2通りに分化する:
「ナ行系」{ず(な)・ず(に)・ず・ぬ・ね・○}
「ザ行系」{ざら・ざり・○・ざる・ざれ・ざれ}(・・・「ず」+ラ変動詞「あり」による補助活用)
*「ナ行」系が先発/「ザ行」系は後発である。
*打消の助動詞として、現代語「・・・ない/・・・ぬ」に通じるのが「ず」。細かい語法は現代語とは少々異なり、類似した語形の完了助動詞「ぬ」との区分などで初学者は戸惑うかもしれないが、とにかく出現頻度が極めて高い(否定文のたびに登場するのだから、当然そうなる)ので、自然と慣れてしまうだろう(・・・「ず」の具体的解説は、副詞「そ」の部分で、「な・・・そ」の否定命令文の解説に絡めてじっくりと行なうので、お楽しみに)
*英訳=「not ...」
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【けり】〔助動ラ変型〕{(けら)・○・けり・ける・けれ・○}
『接続:{連用形}』
(1)(伝聞・回想)(話者・筆者の直接体験としてではなく、他者から伝え聞いた話としての)過去の事柄について述べる。
・・・た(そうだ)。 ・・・のだそうだ。・・・ということだ。・・・との話である。
*接続=連用形。
*物語の中などで「自分自身の直接体験したものではない過去の出来事について語る」時の「伝聞過去/回想過去」などと呼ばれるのが「けり」の主たる用法である。
*英訳=(後述する通り、正確には「けり」=「過去形」ではないが)「・・・(past tense)」
-「けり」と「き」は「過去の助動詞」か?-
*一般に「けり」(及び「き」)は「過去の助動詞」と言われるが、英語の「過去形」とは本源的に異なる性質を持つ語句である。
*英語の動詞は「過去/現在/未来」のいずれかの時制に必ず属する形を取る(仮想の話として展開される「仮定法:subjunctive mood」を除く)。英語人種にとって「時の流れ」は「人間の意識」からは独立した(&人間の個人的感覚などは無視してズンズン流れる)一つの大河のようなものであり、その流れが「現に自分の目の前に在る=現在/自分の背後へと過ぎ去った=過去/眼前にはあるが自分と同じ場所には未だ来ていない=未来」という3つの時間枠の切り分け方で万事を記述する。
*日本人(これは古代も現代も同じである)には、そうした西欧人的な「未来から現在へ、そして過去へ」と連綿と続く「時の流れ」の意識がない。「時間」という大河と「自分」という小舟とを対立構図で見つめる視点がない。「自分」は「時の流れ」の上を漂う木の葉のような存在だ、などとは(詩的感慨としてそう思うことはあっても)日本人は思っていない:「自分」を取り巻く周囲のあれこれの外的状況の一つとして、日頃はまるで忘れていながら、時折り意識の表層に浮かんでくるだけの存在としての「時間」でしかないのである。この意味で、日本人は常に「現在」という固定された時間枠の中にのみ存在しており、「過去」や「未来」は不意の来客のような存在でしかない。時計やスケジュールにせっつかれる生活をし、外国語を学んで「時制の意識」を身に付けたとて、本源的に「日本人の意識にはベクトル性の時の流れは存在しない」という事実に変わりはないのである。それは(表面的には)日本語の言語学的特性に多分に左右された意識ではあるが、言語的特性そのものが日本人の意識特性にその根幹を持つものである以上、どちらが原因でどちらが結果かを論じるのも「鶏が先か/卵が先か」的な堂々巡りというものであろう。
-日本語に「過去形」なし-
*「時制としての過去」というものを持たない日本語の特性や、「一定の方向性を持って流れる時間軸」を持たない日本人の意識特性は、外国語の鏡に映してこれを見たことのない日本人には見えない現象である。大方の日本人がこれを最初に知るのは、「英語の動詞は、いちいち語尾変化させないと使えない」という面倒くさい作法に面食らう体験をした時であろう。試しに、次の日本語を英語に直してみれば、両言語の「過去形」に関する特質の相違は歴然とする:
和)「昨日、彼と一緒に映画に<<行った>>んだけど、<観てる>間じゅう彼ったらポップコーン<食べる>わ、携帯で<喋る>わ、映画の終わりの方じゃ<いびきかいて><寝る>わで、私、ほんと、はずかしく<<なっちゃった>>」
英)「Yesterday I <<went>> to see the movies with him; as we <<watched>> the film, he continually <<ate>> popcorn, <<talked>> over the cell-phone, and towards the end of the film, he not only <<slept>> but also <<snored>>; I <<was>> totally embarrassed, you know.」
*例文中、所謂「(英語的な意味での)過去形」で語られている部分は<<>>で括ってある。英文では全てが<<過去時制>>である:「Yesterday:昨日」の出来事なので、当然そうなるのだ・・・が、これに対する日本語の方では、冒頭の<<行った>>と結末の<<なっちゃった>>だけが特別な<<過去っぽい>>書き方/それ以外は全て<現在時制ふう>のノリで展開されている点に注意を促しておきたい。これは、英語ではあり得ない日本語の一特性である。
*つまり、日本人が言葉を操る時、そこに「時制」の意識は(実は)ないのである:「全て基本的に"現在"の事柄」として展開するのが日本語の(現代も古文もこの点は同じ)特性であって、時折り思い出したように出てくる<<過去っぽい>>記述は、「そうした出来事が<<あった>>わけよ・・・って、今、私はあなたに向かって<喋ってる/書いてる>わけだけどね」という散発的reminder(リマインダー=何かを思い出させる契機となるもの)でしかない:「あれこれ言ってる/書いてるけど、一応確認しとこうかな、これってもう終わった事柄の話だからね」という気分で、話者/筆者が「付けたい気分の時にだけ」付ける記号であって、英語の「常に表記を義務づけられている過去時制記号」とは本源的に異質のものである。その出来事が「過去→現在→未来という連続した流れの中で、どの時点に属するか」を示すのではなくて、その出来事が「今話している/書いている話者/筆者の意識の中で、どんな捉えられ方をしているか」を示しているのが、日本語に於ける<<過去っぽい記述>>の実体であって、西欧言語に言う「過去形」とは本質的に異質なものなのである。
-「記憶の"き"」と「伝聞の"けり"」-
*そうした「話者/筆者の意識の中での位置付け」を示す記号として、「き」と「けり」はよく似た、しかし微妙に異なる特性を持っている。共に「時制的には"過去"」に属するものであるが、前述の如く、そうした時制表示は「き/けり」の本源的な機能ではない。その「過去の出来事」が「語り手/書き手の"過去の個人的体験の記憶"の中にある」と主張する記号が「き」であり、「語り手/書き手の"個人的体験によらぬ過去の出来事の伝聞情報"として知っている」と主張する記号が「けり」である。
-「(再)発見の"けり"」-
*また、「語り手/書き手が直接に体験した過去の出来事」だったとしても、それを「忘れていた・・・のを思い出した」場合には「き」ではなく「けり」を付ける;現在眼前にある何かを見て「あれっ?!おいおい、これ見てよ、うわぁ、何とも・・・じゃないか!」というような「気付き」の感慨を表わすのも「けり」であって、この場合の対象時制は「過去」というよりむしろ「現在」と言ったほうがよいかもしれない・・・というよりも、「過去」だの「現在」だのといった「相対時間」を刻む記号ではなく、自分自身の「主観的意識」に刻み込まれた「発見」の感覚を表明する語句が「けり」なのである。
*そうしたわけで、「き」は「記憶の中に常に確実に居座り続ける過去の出来事」を表わし、「けり」は「今この瞬間に意識の表層に浮かび上がって独自の立場を主張している過去(現在)の出来事」を表わすものと言える。「気付きの"けり"」とか「詠嘆の"けり"」と呼ばれる用法は、そうした「今まではノーマークだった・・・けど今はスポットライトを浴びている」の対比から生まれるものである。
-「き」/「けり」の来歴=「来(く)」-
*語源的には、「き」も「けり」も共にカ変動詞「来(く){こ・き・く・くる・くれ・こよ/こ}」につながる語であるといわれる。この動詞とつながる時の助動詞「き」に関しては、その来歴上、<動詞「来」+助動詞「き」の「来き(きき)」の形>は成立しない:同一語句の繰り返しの感覚が忌避されたためである。仕方がないので「来+たり(きたり)」/「来+ぬ(きぬ)」のような代用表現に逃げ込む形を取るが、「来+けり(きけり)」の形は成立する。「けり」の語源は「来+あり=きあり・・・けり」であるから、字面通り解析して還元すると「来+けり=き+き+あり」となって変だが、音感的には「きけり」は問題ない組み合わせであるから、「き」とはペアを組めない「来」も「けり」とは結合可能なのである。
-そろそろ「けり」を付けましょう-
*まとめれば、「き」も「けり」も、「時制としての過去」を表わすのではなく、「記憶の中での位置付け」を表わす記号である、ということになる。「これは私が直接体験した過去の記憶として語っているんですよ」という態度を表明したければ「き」を、「私の聞いたことのある過去の話ですよ」あるいは「今思い出した/思い付いた事柄ですよ」の心的態度を明示するためには「けり」を、それぞれ付けるわけである。
*こうして確認すればわかる通り、「き」や「けり」は、あまり文中で乱発されるべき性質の語句ではない。「過去だよ、これは過去だよ、確実にあった過去の事柄として自分の記憶の中での位置付けは確かだよ」と連続して主張しては、しつこいばかりで聞く/読む方もウンザリしてしまうであろう。英語の場合には必須となる「動詞ごとに行なう時制明示」が日本語では求められない以上、「動詞は基本的に現在形で押し通す」流れの中で、折りを見て織り込む「この過去の出来事については・・・自分としてはこういう意識で見ているんですけどね」というスタンスを示す記号として用いられるのが「き」と「けり」・・・そのため、特に発話者の心的態度の表明記号としての色彩が濃い「けり」は、文頭と文末での出現確率は極めて高いが、文中ではあまり用いられない。全体としては「現在モード」で推移する文章を、出だしの部分に於いて「これは今/未来の事柄ではなく、過去の事として語らせてもらいますけどね」としてその時間的位置付けに聞き手/読み手の意識を喚起する役割を演じたら、一番最後に「さぁ、これで、私の思い出話は終わりですよ」として「けり」を付けるまでは、その出番はないのが自然なのである。
*上記の現象は、動詞の記述に厳格な時制区分を伴う英語などの西欧言語に十分習熟した上で、千年も昔の古文の「き」「けり」という助動詞の根源的特性を踏まえつつ、現代にも残る「時制明示意識のない日本語」という事実を客観的に見据えなければ、理解できない事実である・・・が、実に面白いことに、無意識のうちにもこの「最後の最後に、自らの心的態度として、事柄に締めくくりを付けるための"けり"」という性質を言い当てた言い回しが、古来、この国には存在する ― 「ケリを付ける!」がそれである。英語で言えば「put an end/a period to it:終止符/エンドマーク/ピリオドを打つ」となるところを、日本の諺では「けりをつける」と言うのである。これを以てしても、よくわかるであろう:文頭と文末以外にやたら「けり」を付ける行為が、いかにヘンテコなものであるか・・・中古の(主に男性の手になる漢文調の)古文や、後代の仏教説話の中には、こうした事情を踏まえずにやたらと「けり」だの「き」だのが文中の至る所に乱れ飛ぶ代物が多くあるが、話の流れのあちこちで「腰を折る」こうした書き方は日本語としてはいかにも不自然(・・・現在形一本で押し通す中国語で書かれた漢籍に中途半端にいそしんだ結果として妙な時制区分意識に目覚めてしまった語学音痴な著作者の不手際や、そうした"汚点"をそのまま引き継いだ後代著者の不見識を感じさせるもの)で、美しくない・・・「古文」と言えば平安中期の(「き」の出番が少なく、文頭/文末以外には滅多に「けり」を付けない)優雅なる女流かな書き文学を思い浮かべる人々が多いのも、むべなるかな、である。
*『扶桑語り』の多くは、中古女流筆者の手になる「あまりケリを付けない書きぶり」を模して書かれている;が、中には「き/けり乱発の美しくない書き方」に寄せてある(をとこ風な)作品もある・・・読み進むうちにそうした違いを肌で感じ取ることができたなら、あなたもそれなりの「古文読み」になってきた証しである。
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【より】〔格助〕
『接続:{体言・連体形・連用形}』
(2)(開始時点)動作・作用がどの時点から始まるかを表わす。
・・・から。 ・・・の時から。・・・より。
*接続=体言。
*時間的起点を表わす「より」で、現代日本語にも(空間的起点ほど頻出しない文語調ながらも)そのまま引き継がれている語法(例: 「本日<より>七日後、七色星団に於いて艦隊戦力の決戦を申し入れる」(from: 太陽系方面作戦司令長官ドメル to: ヤマト艦長殿)。
*英訳=「[ever] since A」/「from A on」/「[ever] after A」/etc, etc.
-「準体法」との絡み-
*古文の場合、直前にあるべき「時」や「頃」といった「時間を表わす名詞」が消失して「動詞連体形」のみが残っている「準体法」が「より」の接続先となっている場合が多く、この「より」にもまた準体法接続の用例が(一部に)ある。
*準体法接続の「より」は、「・・・するとたちまち」の語義で現われる。例えば「見る<より>悲し」((○)見た途端に悲しくなる・・・(×)見るのよりも悲しい)がそれで、「見る<時より>悲し」として名詞「時」を補って解釈するわけである。動作Aと動作Bとが間髪入れずにくっついている感じなので、「時間的接触」と呼ばれる語法であり、英語の有名な「on ~ing」に類する表現である。(例:On seeing me, he ran away.:私を見るなり彼は逃げた・・・<彼が私を見た>という動作と<彼が逃げ出した>という動作が<時間的に接触している=同時である>)
*この「時間的接触」の語法以外では、「より」が準体法接続することは(基本的に)ないものと思ってよい。例えば「いとけなき<頃>より」とならずに「<いとけなき>より」とするような用いられ方は(時間幅が長きにわたって「時間的接触」とは呼べないので)間違い、ということである(・・・もっとも、古典時代の筆者の誰もこの種の「間違い」を犯さない、という保証はないのだが)。
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【り】〔助動ラ変型〕{ら・り・り・る・れ・れ}
『接続:{四段の命令形・サ変の未然形}』
(2)(結果の存続)既に完了した動作の結果が今なお余韻を残していることを表わす。
(結果として)・・・てある。 ・・・ている。・・・たのだった。
*接続=変則連用形(四段動詞の命令形/サ変動詞の未然形)。
*助動詞「り」が、英語に於ける「現在完了」の「動作そのものは既に"完了"した;が、その結果や余波が今なお"継続中"の感じ」という(日本人英語学習者には最も理解困難な)用法と全く同じ意味を表わすもの。
*英訳=「have ...ed (the perfect tense)」
-現代日本語では死滅した「完了形」としての「り」「たり」-
*「り」の語源は「動詞連用形が名詞化したもの+在り(あり)」の末尾の「り」であり、「たり」の語源は「動詞連用形そのもの+(接続助詞)て+在り(あり)」の「て+あり=たり」である。いずれもその内に「在り」を含む点が、上述した「行為そのものは既に"完了"・・・したが、その余波は今なお"存続"している」の意味を生じているのである。
*現代日本語にはこうした「り」・「たり」のような「完了した事態の結果・余韻」を表わす語法が存在しない:ので、英語の「完了形」の理解も完全には出来ずじまいの学習者がほとんどである・・・そんな諸君が古文で「り/たり」を学ぶ以上、この際だから英語の完了形の復習もしておくのが妥当であろう。次の例文を見てほしい:
英文)It's been snowing all night.「一晩中雪が降り続いていた」
古文)夜すがら雪降れり/降りたり。「同上」
*英/古いずれの「完了」表現でも、「現時点では、降雪は停止している」点に注意を促しておこう:この「降雪は終わった」の観点から言えば、この完了表現の指向する時制は「過去」へと振れることになる・・・が、「昨夜の豪雪の結果として、地面には大量の積雪が残っている」という(言外の)メッセージを通して、この完了形構文はあくまでも「現在」時制へと張り付いているのである。
-「完了」表現の時制的立ち位置は「過去」ではなく「現在」-
*より本源的な言い方をすれば、この完了形構文に於いては「過去の事態(=降雪は終わった)」は「意味の本線」ではなく、「現在の事態(=降雪の余波)」にこそその主眼点がある。「今、目の前に、白い山のような雪が積もっている・・・のは、ゆうべ夜通し降り続いた大雪のせいなのだなあ」という形で、「過去の事態」は「現在の事態」を現出することとなった「原因」として脇役扱いなのである。「今」の時点で話者/筆者が言わんとする事柄の「根っこ」は「過去」にあるが、大事なのはその「根っこ」ではなく、そこから伸びた先の「幹・枝・葉として眼前にあるもの」の方・・・過去とのつながりを意識しつつ現在の事態を眺めるこの「り」・「たり」の言い回しの存在は、千年前の日本人のほうが21世紀初頭の我々よりも、言語学的に豊かな道具を手にしていた(少なくとも英語の「完了形」を理解する素養だけは現代日本人よりも高かった)ことを示すものであると言えよう。
*不愉快な気分になった日本人も多かろうし、心外だと息巻く自尊心の高い人間も現代「情報化社会(=情報だけは腐るほどある世の中;価値の高低・消化不良の問題はさておくが)」にたむろしている現状も弁えつつ、彼らの気分が正当なものであるか否か、客観的に見据えてもらうために、ここらで「雪の夜明けの今/昔」をまとめて対照して御覧いただくことにしようか:
今)「雪、降ったんだ」・「雪、降ってたんだ」・「雪が降ったのだった」・「雪が降っていたのだ」・・・
昔)「雪降りき/雪ぞ降りし」・「雪降りけり/雪ぞ降りける」・「雪降れり/雪ぞ降れる」・「雪降りたり/雪ぞ降りたる」・「雪降りぬ/雪ぞ降りぬる」・「雪降りつ/雪ぞ降りつる」
・・・いかがであろう、言葉の面から見た彼らと我らの貧富の差、感じ取っていただけたであろうか?それともまだまだピンと来ないか、はたまたカチンと来てもう立ち去りたくなったであろうか・・・。去るもまたよし ― まだほんの作品番号1/22である:「さよなら」するなら早いうちのほうがよかろう・・・が、刺激に満ちた言語学的真実の数々から目をそらさぬ勇気がおありなら、『扶桑語り』を読み進めて、更なる発見を重ね、知的背丈をもっともっと伸ばしていただきたい。
*「何もかも、後代になるほど"進化"する」という単純な思い込みは(本物の知識人を除く)人類共通の迷信だが、この「現代日本人の完了形音痴化現象」を初めとする「言語学的退化」(音感的美しさを旨とする古語の消失現象等々)の実感は、古文を熟知するほどに、あれこれたくさん得られるものである・・・が、悲嘆には及ぶまい:これだけ多くの物事をあっさりと捨て去って平然と今のような日本語に甘んじている日本人なのだから、現状の(お世辞にも素晴らしいとは言い難い)日本語にもまた、全部(あるいは大部分)作り替えた新生和語への変身の可能性が、豊富に残されているのであろうから・・・歓迎すべきことだとは思われまいか?
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【も】〔接助〕
『接続:係助={体言・連体形・連用形・副詞・助詞}接助={連体形・形容詞型連用形}終助={終止形・連体形・文末}』
(1)(逆接の確定条件)前述の事態が存在するにもかかわらず、それに反する後述の事態が成立する意を表わす。
・・・けれども。 ・・・だが。・・・にもかかわらず。・・・のに。・・・であるというのに。
*接続=連体形。
*「・・・だけれども」という「逆接の確定条件」を表わす接続助詞の「も」で、現代日本語にも(やや文語調で)残っている(例:「一年浪人する<も>、今春無事大学生となりました」)。
*英訳=「though ...」/「although ...」/「... but ...」/「.., still, ...」/etc, etc.
*これは多くの接続助詞に関して言えることだが、この「も」もまた格助詞としての用法が先行し、接続助詞用法はかなり後発のもの。用例が増えてくるのは鎌倉時代以降であって、平安時代の文物に接続助詞としての「も」の使用例は少ない。
*ちなみに、中古末期以前に於ける「逆接の確定条件(・・・なのに)を表わす接続助詞」には次の語がある:「ど」/「ども」/「ながら」/「に」/「ほどに」/「ものから」/「ものの」/「ものゆゑ(に)」/「ものを」/「を」
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【て】〔接助〕
『接続:格助={命令形}接助={連用形}終助={終止形・文末}』
(6)(状態)(連用修飾語を作って)後に続く動作が、ある状態で行なわれる意を表わす。
・・・状態で。 ・・・のままで。・・・の様で。
*接続=連用形。
*用例は(石を投げれば当たる、ってほどに)多くあり、「・・・(し)て」・「・・・(し)つつ」・「・・・(し)ながら」等の現代語訳にストンと落ち着く「て」の接続助詞用法で、英文法で言うところの「付帯状況/同時進行」。現代日本語にもそのまま残っている(例:「とか何とかうまいこと言っ<て>、人を煙に巻い<て>は、涼しい顔してすましている」)。
*英訳=「...ing (participial construction)」/「with A ...ing (participial construction)」/「while ...」/「as ...」/etc, etc.
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【なり】〔助動ナリ型〕{なら・なり/(に)・なり・なる・なれ・(なれ)}
『接続:{体言・連体形}』
(1)(断定)(体言・活用語の連体形に付いて)特定の状態・立場・資格にある意を表わしたり、事情を説明する。(多く、連用形「に」+「あり」の分離形を取り、間に接続助詞「て」・係助詞「か(は)」・「や(は)」・「は」・「も」・「ぞ」・「こそ」・「なむ」を挟み込む)
・・・なのである。 ・・・だ。・・・である。・・・の立場だ。・・・状態だ。・・・だからこそなのだ。
*接続=体言。連体形。
*「・・・である」と言い切る「断定」の「なり」。この助動詞が「なり」の形で用いられる場合は問題ないが、多くの場合「に+あり」の分離形で用いられる。後者の用例の「に」は、一見「なり」に結び付かないので、その盲点を突いた整序問題等の形での「受験生イジメ」に最適(←出題者側の言い草)なので、くれぐれも注意する必要がある。
*英訳=「be A」
*「に+あり」の分離形への対応には、次のような連語コンビネーションそのものを棒暗記して臨むのが現実的である:
「に+て+あり」/「に+こそ+あれ」/「に+なむ+ある」/「に+か(は)+ある?」/「に+は+あれ(ど・ども)」/「に+も+あれ(ど・ども)」/「に+ぞ+ある」
-この「に」って・・・本当に「なり」の連用形?-
*語源学的に、断定助動詞「なり」は、格助詞「に」+動詞「在り」=「にあり→なり」である・・・である以上、「に+て+あり」や「に+こそ+あれ」を「格助詞(に)+接続助詞(て)+動詞(あり)」/「格助詞(に)+係助詞(こそ)+動詞(あれ)」と分類するのが文法論理的には正しそうである・・・が、日本の古文業界ではこの「に」を「断定助動詞"に"の連用形」と断定してしまう・・・その根拠は次の一点にあるものと推測される:
<形容動詞のほぼ全てを占める「ナリ活用」(対義語は「タリ活用」)の連用形もやはり「語幹+に」であり、この形の連用形形容動詞が「副詞用法」として数多く使用されている以上、同じ形の「体言+に」もやはり「断定助動詞なり」の連用形に見立てないことには整合性が保てない>
*語源学的には薄弱な根拠ながら、分類学的にはこうした「便法=根拠あやふやながら、とりあえずそういうことにしておけば何かと(or何かに)便利な取り決め」を「文法」として受け入れるのも合法ナリ、なのだろう・・・釈然とせぬ学習者も多かろうが、こうした「いかにも日本人らしい文法理論」の中に、「日本人の法意識の現実」を見出すのもまた勉強なり、としておこう。
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【に】〔格助〕
『接続:格助={体言・連体形・連用形・副助詞}接助={連体形}終助={未然形}』
(16)(結果)動作・作用や変化の結果を表わす。
・・・に。 ・・・と。・・・へと。・・・の形に。
*接続=体言。連体形。
*「結果として到った状態」を表わす「に」(例:「人皆知る<に>至りては、今更いかがはせむ」)。現代日本語にも引き継がれている用法であり、「へと」/「に」/「まで」/「ほどに」等々の訳し方があり得るが、どんな訳出がよいかは「に」の直後に来る「動詞」が自然と決定してくれるはずだから、解釈上は特に問題はない。
*英訳=「to A」/「only to ・・・」/「to the point of ・・・」/「with the result that...」/etc, etc.
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【の】〔格助〕
『接続:格助={体言・連体形・形容詞語幹・形容動詞語幹・形容詞シク活用終止形}』
(4)(主格)(文中での従属的・連体形終止部分の)主語を表わす。
・・・が。 ・・・の。
*接続=体言。
*「の」の「主格」の用法で、<(主部)A「の」(述部)・・・する>と訳す・・・までは何の変哲もないが、その<(主)+(述)・・・>で文章を言い切る形にはならないのが特徴である。
*英訳=「A's doing/being something」/「that A does/is something」
-主格の「の」の限定性-
*格助詞「の」の形成する<A+の+・・・>の部分は「文章の全体集合」を成すことはあり得ず、必ず「文章の全体集合・・・の中の<部分集合としての主部+述部>」という下部構造としてのみ機能する。
*この特性は、現代日本語の「の」についても全く同じである。同じ主格の助詞でも、<文末を終止形で結ぶ言い切り文>を形成できるのは次のものである:
係助詞「こそ」(文末は已然形係り結び)
係助詞「ぞ」・「なむ」(文末は連体形係り結び)
係助詞「は」・「も」(・・・係り結びを招かない)
(中世以降の)格助詞「が」
*しかし、主格の「の」だけは現在に至るまで常に<部分集合(=パーツ)としての主・述関係>止まりである。
・・・以下、現代日本語にもそのまま残る助詞として、(中世以降の)「が」+「は/も/の」について、その主格となる場合の特性を個別的に見てみよう:
「が」:<「多くの高校生」が「大学に進学する」>。
・・・こうして言い切れるようになったのは平安末期以降。それまでの「が」は、「の」と同じく<部分集合としての主・述関係>を表わすのみであった。
「は」:<「一部の受験生」は「大学に落第する」>。
「も」:<「不合格の受験生」も「発表日までは合格を夢見る」>。
・・・このように(鎌倉期以降の)「が」、及び「は」「も」が導く<主部+述部>はいずれもきちんと文章を言い切る形になっている;が、「の」だけは(現代語だろうが古語だろうが)そうはいかない:
「の」:『<「諸君」の「大学に落第する」>姿は見たくない』。
・・・となって、『全体集合』の中の<部分集合>としてしか機能せぬその限界性がわかるであろう。これは古典時代から現代に至るまで連綿と引き継がれてきた「の」の特性である。
*従って、もし古文入試で(わざとらしく)「<君の大学に落つる>[姿]こそ見まうけれ。」なる文章のうちの<君+の+大学に落つる>の部分だけを取り出して「訳せ」と言われた場合、「あなたは大学に落ちる」と言い切ったならそれは落第答案である:正しくは「あなたが大学に落ちること」という(準体法込みの)<部分集合としての主・述関係>で寸止めしておかねばならない、という仕掛け・・・実にセコいが、それが古文入試の現実というものであるから、あだや注意を怠らぬように。
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【むず】〔助動サ変型〕{○・○・むず(んず)・むずる(んずる)・むずれ(んずれ)・○}
『接続:{未然形}』
(1)(未来の推量)将来の事柄について推量する。(存在・様態の表現に付いて)現在の未確認の事柄について推量する。
・・・ろう。 ・・・だろう。・・・しそうだ。
*接続=未然形。
*推量助動詞「む」とほとんど同じ「むず」で、「・・・(だ)ろう」と訳せばよい。英語の「will」に相当する語である。
*英訳=「will ...」/「shall ...」/「may ...」/「be likely to ...」/「possibly ...」/etc, etc.
-「むず」の祖形は「む+為(す)」-
*推量助動詞「む」の古い連用形「み」+「為(す)」の「みす」が「むす」になったという説と、「む」+格助詞「と」+「為(す)」の連語形が一語の助動詞と化したとの説があるが、いずれにせよ「・・・しようとする」に発する語である。
*平安中期に成立した語とされ、『枕草子』の中で清少納言が「"むとす"と言わずに"むず"と言うのはよろしくない」と書いていたりするので、当時はまだ「助動詞としての市民権」を得ていなかったらしい。
*盛んに用いられるようになるのは中世以降で、「むず」から「んず」へ、鎌倉時代以降は「うず」へと語形が変わって行くが、江戸時代に入ると衰退した。現代日本語でも当然死語である。
*「むず」の直後に現在推量の助動詞「らむ」を付けた「むずらむ」も多用され、この形は「うずらう」を経て、現代にも中部地方で用いられる方言の「・・・ずら」となった。
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【は】〔係助〕
『接続:係助={体言その他各種}終助={体言・連体形・助詞「ぞ」・「や」}』
(1)(主題)(体言・準体言に付いて)その語を主題として取り立てて示す。
・・・というものは。 ・・・は。・・・に関しては。・・・について言うと。
*接続=体言。連体形。
*現代日本語の「は」と全く同じく、体言(相当語句)に付けて「・・・というものは」としてそれを取り立てる働きをする。
*英訳=no equivalent in English・・・英語の場合、「主格」は「語順や構造」によって(「主語は文頭にある名詞相当語句」のような形で)決まるものであり、他の語句によって規定されるものではない。
-取り立てて言うべきほどのことがなくとも「とりあえず"は"」-
*「主格/主題」を表わす働きをする助詞には、「こそ」/「ぞ」/「なむ」/「は」/「も」(以上は係助詞)と、格助詞の「が」/「の」がある。
*これらのうち目立って強調的な係助詞の「こそ」(結びは已然形)/「ぞ」(結びは連体形)/「なむ」(結びは連体形)は、その使うべき場面に迷うこともない。
*また「が」と「の」は「主格」とは言っても全文言い切り形ではない部分集合としての主部・述部関係を表わすのみ、という特殊な制約がある(「が」は平安末期以降、その制約を脱したが)。
*こうして見ると、「普通の主格」に使える助詞として残るのは係助詞の「は」と「も」の二つだけ(平安末期以降はこれに格助詞の「が」も加わる)・・・意外なようだが、この状況は現代日本語までそのまま続いている。
*「は」も「も」も、係助詞のくせに後続語句の末尾に「係り結び」を招かない、という点からもわかる通り「押しの弱いやつら」である。状況によっては「私<は>あなたが好き(・・・たとえあなた<は>私を嫌いでも)」とか「あなた<も>やはりつれない人(・・・他のみんな<も>そうでした)」とかの形で「取り立てて強調」する言い回しを形成できることは確かだが、「今日<は>いい天気ですね」と言った時に必ずしも「昨日まで<は>ひどい天気でしたが」の含意があるわけでもなく、「君<も>頭が悪いやつだねぇ」と言った人が「実はワシ<も>バカなのだ」のつもりでこの「も」を使っているわけでもない・・・つまりは、「たいして意味<は/も>ないけど主格記号としてとりあえず付けてみた」的な「は/も」が現実には圧倒的に多いのである。こうした場合、古来この国の得意芸である「助詞そのものの割愛」という芸当(たいして意味ないけど)も可能だが、敢えて付けるとしたら普通(は)「は」であろう・・・が、状況によっては「は」を付けるとその相手を取り立てて強調しているように聞こえる場合もあって、そうした場合には「も」に逃げ込んでやんわりと婉曲な感じを出す・・・このあたりの芸当は(も)、現代日本人ならお手の物であろう。
*などと取り立てて論じてみたが、実のところ(は)、こうした主格の「は」・「も」には、古文解釈上は何ら注意すべきことも(は)ない。ただ、古典時代から現代に至るまで変わらぬ日本語の主格の助詞というものの曖昧な特性を指摘するために書いてみただけのこと・・・この他にも数々ある「は」や「も」の用例のいずれにも当てはまらなかった場合に、何ということも(は)ない「主格取り立ての用法」なのだ、と割り切ってもらえればそれでよい話で(は)ある。
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【む】〔助動マ四型〕{○・○・む(ん)・む(ん)・め・○}
『接続:{未然形}』
(1)(未来の推量)将来の事柄について推量する。(存在・様態の表現に付いて)現在の未確認の事柄について推量する。
・・・ろう。 ・・・だろう。・・・しそうだ。
*接続=未然形。
*未来の事態について客観的に(=自らの意志でそうしたい/そうするつもりだ、の含意を持たせずに)「・・・だろう」とする「む」の用法。現代日本語には残っていない。主語となるのは「自分(達)自身以外の誰か・何か」が多いが、「自分自身に関する客観的な未来予想図」を思い描くのに使われる場合もないではないので、いずれにせよそこに「意志性」が介在しているかいないかに注目して解釈する必要がある。
*英語=「will ...」/「shall ...」/「be likely to ...」/「perhaps ...」/「possibly ...」/「be going to ...」/etc, etc.
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【と】〔格助〕
『接続:格助={体言・連体形・連用形・文末}接助={動詞型活用語終止形・形容動詞型活用語終止形・形容詞型活用語連用形・助動詞「ず」連用形}』
(7)(引用)(「言ふ」・「思ふ」・「聞く」・「問ふ」などの語とともに用いたり、それらの動詞を省略した形で)思念や発言の内容を引用する。
・・・というふうに。 ・・・と言って。・・・と思って。・・・と。
*接続=体言。引用句。
*直後の動詞が「思念」・「発言」系の場合の「と」は「・・・(だ)と(思う・言う・聞く・etc, etc)」と訳す。このあたりは現代日本語の「と」と全く同じ(・・・<と>彼はそう断言した)。
*英訳=「that...」/「if...」/「lest...」/etc, etc.
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【て】〔接助〕
『接続:格助={命令形}接助={連用形}終助={終止形・文末}』
(3)(順接の確定条件)原因・理由を表す。
・・・ゆえに。 ・・・ので。・・・から。・・・のために。・・・のせいで。・・・のおかげで。
*接続=連用形。
*現代日本語の「・・・て」と全く同じ「原因・理由」の用法(例:電車が止まっ<て>学校に遅刻した)。前後の脈絡から「原因-結果」関係を見極めたら、「・・・(な)ので」あたりの適当な訳を宛がえばよい。
*英訳=「for ...」/「as ...」/「because ...」/「since ...」/etc, etc.
*この語法(原因・理由:...だった、それで~した)は、単なる「前後の単純な接続:...して、~した」として軽く流してしまってもよい場合が多いが、英語の「and」にも似たような現象がある ― He didn't arrive in time, and we got on the train as scheduled.(彼は時間までに来なかった;で、我々は予定の列車に乗った) ― このような接続関係の文章では、「因果関係」を訳出しなかったからといって必ずしも減点になるものでもないので、さほど気にせずともよいだろう。
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【を】〔格助〕
『接続:格助={体言・連体形}接助={連体形・(稀に)体言}終助={体言・連体形}間投助={体言・連体形・命令形・助詞}』
(1)(目的語)動作・作用・使役の対象を表わす。
・・・を。
*接続=体言。連体形。
*格助詞「を」の最も基本的な語法として現代日本語にも引き継がれているもので、動作・作用・使役等々の「対象」(英語風にいえば「目的語:object」)<を>表わすもの。
*英訳=no equivalent in English・・・英語の場合、「目的格」は「語順や構造」によって(「S+V+O: (S)She (V)loves (O)you.」/「S+V+O+O: (S)You can't (V)buy (O)me (O)love.」/「S+V+O+C: (S)The things {that you do} will (V)make (O)me (C)feel alright.」のような形で)決まるものであり、他の語句によって規定されるものではない。
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【も】〔係助〕
『接続:係助={体言・連体形・連用形・副詞・助詞}接助={連体形・形容詞型連用形}終助={終止形・連体形・文末}』
(3)(暗示)一例を挙げて、類例を類推させたり、含みを持たせたりする。
・・・なども。 ・・・なんてのも。・・・とかも。例えば・・・。
*接続=体言。連体形。
*見出しを付けるなら「暗示」の「も」だが、実に何とも説明し難い係助詞である。現代日本語の「も」もそうだが、何かを取り立てて述べるでもなく、ただ単に「Aは・・・」のような形での差別化を行なうのを避けるために使われる「も」も多い。
*英訳=no equivalent in English
-「は」避けの「も」-
*例えば「越後屋ぁ~・・・おぬし<は>ワルじゃのぉー!」とすれば「他の商人はともかく、この越後屋というやつ<だけは>とんでもない悪人」と取り立てて言う感じになってしまうので、「越後屋・・・おぬし<も>ワルじゃのぉ・・・」としているだけ、というような使い方である(・・・もっとも大方の人は、「発言者の悪代官と同様、越後屋<も>ワルだ」と思って聞いているだろうが・・・)。
*その他の「も」の用例にどうにも収まらなかったやつが、このタイプの「も」として片付けられる、という感じの何とも煮え切らない語法ではあるが、それだけに解釈や訳出に特段の注意を払う必要もない「も」ではある(・・・この点、「は」も同じ)。
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[24]
【らる】〔助動ラ下二型〕{られ・られ・らる・らるる・らるれ・られよ}
『接続:{四段&ナ変&ラ変以外の未然形}』
(2)(可能)その動作を実現することができる意を表わす。(中古までは、通例、打消の語を伴う。命令形はない)
・・・できる。 ・・・られる。・・・可能だ。
*接続=四段・ナ変・ラ変以外の未然形。
*「る/らる」は「可能」の助動詞と呼ばれ、現代日本語にもほぼそのまま通じる(例:「今もなおでき<る>と言え<る>」)が、平安時代末期までは「肯定形=・・・できる」の形では用いず、「否定形=・・・できない」/「疑問形=・・・できるか?」/「反語形=どうして・・・できよう、いや、できない」の形でのみ用いた。英語にもよくあるパターンで、俗に言う「疑・否専語(ギもん・ヒていセンもんゴ)」である。
*英訳=「can not ...」/「can A ...?」/「how can A ...?」/(肯定形での使用は鎌倉期以降)「can ...」/「be able to ...」/「have the power to ...」
*「る」は「四段活用・ナ行変格活用(「死ぬ」・「去ぬ」)・ラ行変格活用(「あり」及びその複合語)」に付き、それ以外の動詞には「らる」が付く。接続する動詞が違っても、「る/らる」の表わす意味は全く同じ。
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【らる】〔助動ラ下二型〕{られ・られ・らる・らるる・らるれ・られよ}
『接続:{四段&ナ変&ラ変以外の未然形}』
(3)(受身)他者からの作用を受ける意を表わす。(通例、無生物は主語にならない)
・・・れる。 ・・・られる。・・・される。・・・を被る。・・・の目に遭う。
*接続=四段・ナ変・ラ変以外の未然形。
*「受身」の意味を表わす「・・・る/らる」は、現代日本語「・・・れる/られる」にもそのまま残る(例:「あの学校では、まるで役立たぬことばかり教え<られ>た」)が、古語ではその対象が「人間・動物」にほぼ限られ、それ以外のもの(植物・物体など)を主役に見立てた「受身」は少ない。
*英訳=「be ...ed (passive voice)」/「get ...ed (passive voice)」/「have A ...ed」/「get A ...ed」
*「る」は「四段活用・ナ行変格活用(「死ぬ」・「去ぬ」)・ラ行変格活用(「あり」及びその複合語)」に付き、それ以外の動詞には「らる」が付く。接続する動詞が違っても、「る/らる」の表わす意味は全く同じ。
-主体/客体不明瞭な日本語では、受動態もまた発達しない-
*概して、日本語は(古文でも現代文でも)英語に比べて「受動態」があまり発達していない。純粋に論理的に割り切った場合、受動態とは、「SがOをVする」という行為を、行為者(S)の立場ではなく、被行為者(O)の立場から逆転して眺めたもの(・・・実際の英語の受動態は必ずしもそうではなく、最初から「被行為者を主役に見立てた言い回し」であって、「SVO」の裏返しではない、というのが英語人種の正しい感覚なのだが、それはこの際さて置くとして)・・・この場合「Sが、Oを、Vする」という形で「行為の主体/行為の客体/行為そのものの内容」が全て明瞭に意識されていない限りは、「SはOをVした → Oは、Sによって、Vされた」という逆転の見立てもまた成立しない。
*ところが、日本人は古来、「誰が、何を、どうした」という「行動過程の明確化」を忌避する体質を持っている(21世紀の現在に於いてさえ、相変わらずそうである)。「give someone(A) credit for something(B):誰か(A)に対し、何か(B)の功労者としての功績(credit)を与える」という形で「人と行為を明確に見据えて顕彰する」という態度が、古来、日本人には備わって来なかったのである。
*気色ばむ日本人も多数存在するであろうが、英語圏を代表格とする「クレジット文化圏(非現金払い、の意味ではない)」との対比に於いて日本国/日本人を客観的に捉える比較文化論的パースペクティブ(perspective:了見・視野・展望)を持ち、かつ、平安時代の日本語の数々の特性に対する広範にして分析的な理解を我がものとした日本人であれば、「誰が、どのような形で、何をした・・・から、Xは達成されたのだ」という図式を明確化しようという態度がこの国の人間達に(古今常に)いかに欠落しているかが、唖然(or憤然)とするほどの明瞭さで、必ずや認識されることになろう。
*とりあえず、まずは覚えておくことだ:「受動態を自在に使いこなせない者は、自/他の区分に疎い者である」という論理学的事実と、「日本語は昔も今も受動態がヘタクソ」という言語学的事実を。
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【ぬ】〔助動ナ変型〕{な・に・ぬ・ぬる・ぬれ・ね}
『接続:{連用形}』
(1)(完了)既に完了・終結した動作・作用・状態について、確認の意を込めて述べる。
・・・てしまった。 ・・・てしまう。・・・た。
*接続=連用形。
*「ある動作が既にもう完了してしまった/ある状態になってしまった」という形で、それまで行なわれていた動作や存在した状態が「今はもうない」ことに主眼点を置いて述べる「ぬ」の「完了」の用法。英語の「完了形」にあたり、現代日本語にはこの「ぬ」に相当する助動詞表現はない。
*英訳=「have ...ed (the perfect tense)」/「have finished ...ing」/「be through with A」
-完了の「ぬ」と打消の「ず」の識別-
*古文初心者(のみ)へのひっかけ問題として、同形の「ぬ」を巡る<完了の「ぬ」?打消の「ず」?>という錯覚を突くものがある。見分け方は単純で:
1)完了助動詞として「ぬ」が使われているなら、それは「終止形」であるから、後には何も続かずに文章が終わっているはず。
2)打消助動詞「ず」の「連体形」として「ぬ」が使われている場合には、直後に名詞が続くはず
・・・もし完了助動詞「ぬ」の「連体形」なら、「ぬる+名詞」の形になる。
*また、「ぬ」と「ず」は、「ね」という形をも共有しているが、次のような形で活用形が異なるので、これまた見分けは簡単である:
3)完了助動詞として「ね」が使われているなら、それは「命令形(・・・してしまえ)」であるから、後には何も続かずに文章が終わっているはず。
4)打消助動詞「ず」の「已然形」として「ね」が使われている場合には、次のいずれかの形になる:
A)「・・・ね、」の「中止法」で一旦文章を打ち切り、「たしかに・・・ないのだけれど、」として「逆接の確定条件」で後へと続く。
例)犬猫は、ものこそ言は<ね>、もの思ふべし。(わんこ・にゃんこは、言葉こそ言わないが、何かしら思うところがあるはずである)
B)「・・・ねど/ねども、」の形で一旦文章を打ち切り、「たしかに・・・ないのだけれど、」として「逆接の確定条件」で後へと続く。
例)犬猫は、言こそ口に乗せ<ね>ど(も)、気配に知らる心魂(2010 COPYRIGHT 之人冗悟:Noto Jaugo)
C)「・・・ねば」の形で一旦文章を打ち切り、「・・・ないので、」として「順接の確定条件」で後へと続く。
例)犬猫は、言もあらねばなかなかに人の言葉の嘘も知るべし(2010 COPYRIGHT 之人冗悟:Noto Jaugo)
(上代には「~も・・・ねば」の形で「~はたしかに・・・ないのだけれど」として「逆接の確定条件」となる例があるが、入試問題ではまず出ない形)
*このあたりの見極めはそれこそ瞬時に行なえるようになら<ねば・・・古語なら「ずは/ずば/ずんば」>、古文読みとしてはまだまだである。
-連用形「に」に注意-
*単独の「ぬ」ならぬ「に+き」・「に+けり」・「に+たり」等の連語形で他の(やはり過去・完了の意味を表わす)助動詞に結びつく連用形の「に」は、終止形の「ぬ」とは似ても似付かぬ形である上に、格助詞の「に」/助動詞「なり」の連用形と紛らわしい;が、「完了」の意味を含むのは「ぬ」だけなので、その点に注意すれば混同は避けられる・・・というより、上記の連語形は「組成を含め、丸暗記」しておくのが得策だろう。
-「ぬ」の語源と「ナ変」回避現象-
*「ぬ」は元々は「去ぬ(いぬ)」の末尾が助動詞化したものといわれる。つまり「今まではあった何か」が「今や、存在しなくなってしまった」という寂しさをその根底に宿した表現ということになる。
*元来が「去ぬ」だから、とういことで、完了助動詞「ぬ」は「ナ変動詞(=去ぬ/死ぬ)」には付かない、というルールがある:つまり「去に+ぬ/死に+ぬ」は御法度というわけで、これらの動詞には「去に+つ・たり/死に+つ・たり」が用いられた。但し、その語源学的事情が忘れ去られた平安末期以降になると、「死に+ぬ」と書いた古文がぼちぼち出回るようになる。
-「ぬ」と「つ」の関係-
*完了助動詞として「ぬ」と常に対比されるのが「つ」である。あちらは「棄つ(うつ)」の末尾が助動詞化したものとされ、その語源学的特性上「自らの意志で、積極的に事を終わらせる」雰囲気を色濃く漂わせる表現に用いられた。覚え方としては、「ぬ=自動詞(去ぬ)由来・・・自然的作用としての事態の終結・変化」/「つ=他動詞(棄つ)由来・・・意志的行動の結果としての事態の終結・変化」ということでよいだろう。
*音感的にも「タ行」より「ナ行」が柔和なため、平安女流文学では「ぬ」が「つ」よりも好まれる傾向があったことも付言しておこう。
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【ども】〔接助〕
『接続:{已然形}』
(1)(逆接の確定条件)前述の条件が成立するにもかかわらず、それに反する後述の事態が成立する意を表わす。
確かに・・・ではあるが。 ・・・にもかかわらず。・・・だが。・・・のに。
*接続=已然形。
*現代日本にも文語調でそのまま残る「・・・ではあるけれども」の逆接の接続助詞(例:「音はすれ<ども>姿は見えず」)。
*英訳=「... but ~」/「... and yet ~」/「... still ~」/「though ~, ...」/「although ~, ...」/etc, etc.
*語源的には、同じ働きをする接続助詞「ど」に係助詞「も」が付いたものとも、逆にこの「ども」から「ど」が生じたとも言われる。
*中古の和文(主に女性の手になる文章)では、「ども」よりも響きの柔らかい「ど」が好まれた。「ども」を好んだのは和漢混淆文(主に男性の手になる文物)で、鎌倉期後半以降は「ど」より「ども」が優勢となるが、室町末期には「けれども」の登場によって衰退、現代では文語調の中に細々と残る。
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【たり】〔助動ラ変型〕{たら・たり・たり・たる・たれ・たれ}
『接続:{ラ変以外の連用形}』
(1)(進行・継続)(非持続性の)ある動作・作用が(その記述の時点に於いては)進行・継続中である意を表わす。
・・・ている。 ・・・てある。ちょうど・・・している。・・・の最中である。
*接続=ラ変以外の連用形。
*完了助動詞と呼ばれる「たり」の中でも、「現在・・・中」という「継続性の動作・状態」を表わす語法で、「・・・ている(最中)」と訳せばよい。助動詞「り」と同じ意味であるが、接続が異なる。
*英訳=「be ...ing (progressive)」/「be in the state of ...」/「be in the process of ...」/etc, etc.
-「り」が「四段/サ変」にしか付かない理由-
*完了助動詞と呼ばれるものの中でも、最も古いのは「り」である;が、この助動詞は「四段活用(の命令形)/サ行変格活用(の未然形)」にしか接続できないという窮屈な性質を持っている・・・というより、「動詞の連用形」が「名詞化したもの」に「在り(あり)」を付けた「連用形+あり」が音便化した「・・・e+ari」の形が「・・・eri」音へと化け、その末尾の「ri」のみを取り出して「完了助動詞」としたものなので、「・・・e+ri」から「ri」を取り出した末に残る「・・・e」音を活用形の一つとして持つ動詞でなければ「ri(り)」は付けられない、という言い方が文法的には正しい。
*例えば「思ふ」という四段動詞をまず「連用形→名詞化」して「思ひ」とし、そこに存在を表わす「あり」を付けて「思ひあり」の形を作り、それが「おもへり」へと化けたものの末尾の「り」のみを取り出して、そこに「ある動作・状態が、現時点で存在・継続中」の意が宿ることに着目して、この「り」を「完了・存続の助動詞」と呼んだわけである。
*ところが、結果に於いて生じた「思へ+り」の形では、この「り」が接続する先は「思ふ」の「命令形」ということになってしまう:本来は「(名詞化作用としての)連用形」であったものが、「(相手に何かを命じる言い切りの形の)命令形」に化けて、文法理論的には筋が通らないことになってしまったわけである。これが「サ変動詞」の場合、「為(す)」→「連用形で名詞化"し"」→「し+在り」→「しあり・・・・せり」→「せ+り:に分解すると、接続先の"せ"=未然形」ということで、「"り"は、サ変動詞に対しては未然形に接続する」ということになってしまう。
*<2つの活用形で2つの異なる接続先を持つ「り」>というのも困った話だが、更にもっと困るのは<「り」は「e」段の活用形を持たない動詞には付けられない>という制約である。例えばカ変動詞「来(く)」の場合、活用形は{こ・き・く・くる・くれ・こよ/こ}であって、そこに「e」で終わる「け(ke)」の形は見られない・・・にもかかわらず「かつて、そうした状態が存在した」の意味で「在り」を付けようとすれば、「来(き・・・名詞としての連用形)+在り」→「き+あり」→「けり」という「本来の活用形の中には存在しなかったk<e>ri」なる形を無理矢理作り上げることになってしまう・・・結果的にこの「来(く)+完了助動詞"り"="けり"」という語は奈良時代に一時的に使われただけで死滅してしまった(本来の活用形を逸脱した変則語形が嫌われたためである・・・もっとも、この「けり」の形は「過去の助動詞」という全く新たな形で生まれ変わって古語世界で広く用いられるには至ったが)。
*「e段」で終わる活用形としては、「四段・サ変」以外にもう一つ「ナ変の命令形」がある。具体的には「死ね(shine)」/「去ね(ine)」の2語である:が、これは「存在しなくなる」意味を表わす動詞なのだから、「あり=在り=存在する」の意を根底に含む助動詞「り」が「死ぬ/去ぬ」に付く道理もない・・・ので、結局「り」は「四段・サ変」にしか付かないわけである。
-「e段」活用形接続の制約のない「たり」-
*このように、「e段で終わる活用形を持つ四段/サ変」にしか接続できない「り」の制約を逃れるためには、しかし、次のような作法を経ればすんなり問題は解決するのである:
1)「動詞を連用形にする」・・・悔ゆ(くゆ)→悔い(くい)
2)「連用形化された動詞に、接続助詞"て"を介して、存在を表わす"在り"をつける」・・・悔い+て+在り
3)「"連用形+て+あり"の形が音便化して"連用形+たり"に化ける」・・・悔いたり
4)「"連用形+たり"の末尾のみを取り出して、これを完了助動詞とみなす」・・・悔い+「たり」
・・・こうして成立した完了助動詞「たり」は、その構成要素たる接続助詞「て」が(四段/サ変限定でなく)あらゆる活用形の動詞連用形に接続する性質を持っていたため、制約だらけの「り」を押しのけて平安期以降多用されることとなる。中古女流文学の中では「たり > り」の勢力比は5倍とも8倍とも言わる圧倒的なものとなって、「り」は完全に衰退し、現代日本語でも「・・・たり(=てあり)」の名残りをとどめる「・・・て(い)る」は相変わらず使われている一方で、「り」の残滓は、キリスト教式結婚式の誓いの言葉「汝は***を妻/夫とし、その健やかなるときも、病め<る>ときも、喜びのときも、悲しみのときも、富め<る>ときも、貧しいときも、 これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」 ― YES / NO ― の中あたりで時折りお目にかかっては、「うわぁ・・・何とも時代がかった厳粛なおコトバ」的感覚を演出するのみにとどまっている。
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【らる】〔助動ラ下二型〕{られ・られ・らる・らるる・らるれ・られよ}
『接続:{四段&ナ変&ラ変以外の未然形}』
(4)(尊敬)動作主を敬う意を表わす。
・・・なさる。 ・・・される。お・・・になる。・・・られる。
*接続=四段・ナ変・ラ変以外の未然形。
*動詞に付けて、その動作の行為主に対する敬意を表わす助動詞が「る/らる」。現代日本語にもこの敬語表現はそのまま引き継がれている(例:「と、先生はそう言わ<れ>ました」)。但し、古語としての「る/らる」の表わす敬意はあらゆる「尊敬助動詞」の中で最も低い。
*英訳=和語の敬語に相当する表現は英語には存在しない。無理に敬意を表わそうとして「deign to ...」のような表現に持ち込むと「かたじけなくも...してくださる」などという「The Queen deigned to wash my dirty underwear by her own hands!:恐れ多くも女王陛下自ら私の汚れた下着を洗濯してくださいましたっ!」みたいなとんでもないことになってしまう。
*「る」は「四段活用・ナ行変格活用(「死ぬ」・「去ぬ」)・ラ行変格活用(「あり」及びその複合語)」に付き、それ以外の動詞には「らる」が付く。接続する動詞が違っても、「る/らる」の表わす意味は全く同じ。
-「る/らる」の「尊敬」は、「自発」の意から生じたもの-
*「る/らる」は上代(奈良時代)の助動詞「ゆ/らゆ」に由来するもので、その本義は「自発」、つまり「思わず知らず・・・してしまった」である。この語義が「自分から敢えてそうしようと思わずとも、自然な成り行きの中で・・・になっている」という「周囲の人間があれこれ動いて、自分が手を下すまでもなく状況が整ってしまう」式の「貴人の行動様態」に相応しいもの、ということで「尊敬」の助動詞と化したわけである。
*現代人が古文を読んでいて奇異に感じることの一つに、「主体的・意志的に動くこと=下賤の者どものする蔑むべきこと」という意識がある。好きだった女性を密かにその宿に訪ねた男が、「食事を食器に自らの手でよそう(現代風に言えば、よそる)」女の姿を見て「幻滅した・・・あの女とはもう会うのはよそう」という『伊勢物語』の一節に面食らった諸君も多かろう。「自分としてはそうしたい」けど「自分でそれをしたら見苦しい」から「自分の意を汲んでそうしてくれる目下の者たちが、自分に代わってそうする状況を持とう」というのが「古典時代のエラい人の心理・行動原理」なのである・・・主体的行動を尊ぶ現代(西欧流)文明の観点からすれば「・・・ったく、何を偉そうなことほざいてやがる、何様のつもりだ貴様!」となる振る舞いだが、「貴様=貴人様」は「自分は偉いので、自分の周囲の者があれこれ動いてそうするのが自然」と思っているのだから、「自然発露的他力行動の成果=自分の手柄」という貴人意識は、「それが貴人という名の奇人の美意識・・・なのであった」として認識しておくよりほかはない。
*それと同時に、この種の「蔑むべき非主体性の御膳立て指向者(&手柄だけは我が物顔)の貴人気取りの"貴様!"連中」が、現代日本に相も変わらずはびこっていないかどうか、冷徹な客観的観察者としての目を研ぎ澄ます知性もまた、いやしくも「古文を学んで古文から学ぶ」意識ある知識階層には、自然な副産物として備わって然るべきであろう。「自分は***の立場なのだから、相手は自分を***として遇するべきだ」という意識が、いったい何様の心持ちとして生じるものか、それが歴史の中でいかなる弊害を生んできたか/現状に於いてなお生じ得るものか・・・「古文から学ぶもの」がそれなりに大きい現代日本人ならば、その答えは知っていて然るべきなのだ。
-「敬語」は「日本の文化!」だけどね・・・-
*良かれ悪しかれ、日本語の敬語というものは「発話段階で自/他の立場を分け隔てる差別化語法」であり、基本的に「立場の違いを超えて分かり合うための道具」たることを指向する西欧言語にはこんな迷惑な代物はない:もし相手を殊更に持ち上げたいのならば、語句の端々で「意志的に丁寧・遠慮を演出」することで相手への敬意を表出する個別的工夫が凝らされるのが西欧言語であって、日本語のように「相手が自分より目上なら、最初から最後までずっと上目遣い話法/自分より目下なら、徹頭徹尾見下し話法」などという構造的&全体主義的差別言語とは、根源的に全く異質のものなのである。
-「時間」にloose(和風に言えば、ルーズ)で「敬語」にウルサい変な国-
*この点、「動詞の時制は、過去/現在/未来のいずれであるかをその都度必ず明示する」という西欧言語の律儀な時制的特性が和語には存在せず、「折々、自分自身の気分に従って、"心的態度としての過去モード"であることを相手に念押しするために、"き"・"けり"を付けるだけ」という「基本的にすべて"現在"モードで推移する日本人の恣意的時制感」と、「相手が目上なら常に上目遣い/目下なら常に見下しモード、という首尾一貫した敬語の枠組み」は、際立つ対照を成すものであると言えよう。
*相手との相対的序列(自分が上か、相手が上か)を決めてからでないと発話が不可能(少なくとも、極めて困難または不自然)というこの「敬語なる差別化言語構造」に邪魔されて、見知らぬ相手に対して迂闊に口も開けぬこの言語学的特性は、日本人の場合、そうした差別的言語構造と無縁の外国語(英語などはその最たるもの)に習熟した後でなければ実感をもって認識することは不可能である。それだけに、外国帰りの日本人が、自らの母国の「言語学的差別主義者の日本人たち」との対話に著しい困難を来たす、という事態が古来(といっても明治維新後の短い時間幅の中でのことだが)続出し、そのたびに「純然たる日本人たる外国語使用不能者」は、「自分たちをヘンな目で見下す外国語使用能力を持った日本人」のことを「イケ好かない異国かぶれの非国民」扱いしてきた(&今なおそうし続けている!)わけである・・・が・・・この状況、いつまで続けるつもりであろうか、この東洋の島国の住人たちは・・・この「敬語なる差別主義話法」が「数千年来続いてきた日本人の意識の言語学的infrastructure=土台」であることは(古文を学べば心底「もうイヤ!」というほど)歴然たる事実として思い知らされる事柄ではあるが、そうした「millennium-old tradition(千年来の伝統芸)の数々(真に美しい和歌とか古語とか)をいとも平然とかなぐり捨てて生きている現代日本人」という事実をもまた、溜息が出るような思いで痛感させてくれるのが「古文学習」である・・・ので、今ある言語構造をあっさり捨て去った「新生和語」の誕生もまた、夢物語ではないことを期待しつつ、この「敬語なる有害無益な差別化言語構造」の死滅を、心底より祈るこの筆者である。
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【ば】〔接助〕
『接続:係助={格助詞「を」}接助={已然形・未然形}』
(2)(原因・理由)前述の事態が原因・理由となって、後述の事態が成立する意を表わす。
・・・ので。 ・・・だから。・・・ゆえに。
*接続=已然形。
*動詞の已然形の後に続けて「・・・なのだから」という「順接の確定条件」を表わす「ば」の語法。
*英訳=「for ...」/「as ...」/「because ...」/「since ...」/etc, etc.
-「仮定条件」と「確定条件」-
*「ば」は現代日本語にも残る助詞であるが、現代語の「ば」は「もし・・・ならば」という「順接の仮定条件」(or契機)でのみ用いられている(=「確定条件・・・なので」にはもはや用いない)。その「・・・ならば」の「なら」の語形に注目すると、その活用形は古典文法でも現代日本語文法でもともに「未然形」(直後に否定の「ず」を付けて通じる形、と思えばよい)である;では、次の文章の「ば」の直前にある語形は、何形であろうか?
例文)「私に金があれ<ば>、こんな仕事はしていないだろうに」。
*直後に「ず」を付けて通じれば「未然形」という先のルールを適用すればわかる通り、この「あれ+ば」は「未然形+ば」ではない:「あれ+ず」ではダメで、「あら+ず」で初めて通じるのであるから、「あら=未然形」だが、「あれ」は未然形ではない・・・では、何形?・・・というところで、古典時代/現代の相違に関する実に面白い事実に気付かされることになる。
*現代文法では上述の「あれ」を「仮定形」と呼んでいる:なるほど「もし・・・が<あれ>ば」として仮定の意味を表わすのだから、この呼び名は自然なものに思われる・・・ところが、同じこの「あれ」の形が、古典文法では「已然形」と呼ばれ、「仮定形」ではない:「仮定形」なる活用形そのものが古典文法には存在しないのである。
*それどころか、この「已然形」の「あれ」と「ば」をつなげても、古語の場合、現代語のように「もしあれば」の意味にはならずに「現にあるのだから」の意味になってしまうのだ!つまり「仮定」ではなく「確定」になってしまうのである。もし「仮定=仮に私に金があれば」の意味を表わしたければ、古文の中では「未然形+ば=あらば」でなければいけないのだ。
*古語のルールを整理しよう:
1)「未然形+ば」=「あら+ば」ならば「もしあれば」の意味を表わす
・・・「未然形」とは「未だ然らず:いまだ、しからず・・・まだ、そのような状態にはなっていない」の意味の活用形である:がゆえに「まだそうなってはいないが、仮にそうなると仮定した場合には・・・だろう」という表現には「未然形」こそがふさわしいのである。この種の構文を「(順接の)仮定条件」と呼ぶ。
2)「已然形+ば」=「あれ+ば」ならば「あるのだから」の意味を表わす。
・・・「已然形」とは「已に然り:すでに、しかり・・・もう既にそのような状態になっている」の意味の活用形である:がゆえに「すでにもうそうなっているのだから、・・・である」という表現には「已然形」を用いるわけである。この種の構文を「(順接の)確定条件」と呼ぶ。
-現代日本語の「ば」は「仮定条件」のみを表わす-
*現代日本語の「ば」は、「確定条件」(・・・なのだから)の意味をもはや表わさない;「仮定条件」(もし・・・ならば)のみを表わす語句となっている。「確定条件:・・・なのだから、~である」自体は現代にももちろん存在するが、「ば」による確定条件は古い時代の文語に特有のものであって、現代では既に死滅しているのである。例えば(←これもまた「仮定条件:例として仮に引用するならば」の表現)、いかにも古式ゆかしき「然らば(しからば・・・古典時代には、さらば、の読みもある)」を見れば、その意味は「未然形+ば:もしそうだとすれば」(仮定条件)である;「実際、そうなのだから」(確定条件)を表わすものではない:「確定条件」にしたくば、「已然形」に続けて「しかれば(然れば・・・古語では、されば、の読みもある)」とすることになる・・・が、「未然形:しからば」も「已然形:しかれば」も時代劇のサムライ言葉そのものの堅苦しい言い回しであって現代ではその使い分けはおろか使い道そのものがない感じであるし、そもそも現代日本語文法には「已然形」という活用形自体がもはや存在しないのだ・・・と言っても「已然形」という活用形そのものが現代日本語から消え去ったわけではない ― 相変わらず存在はするが、それは「仮定形」という呼び名に化けて、もはや「已然形」とは呼ばれなくなってしまったのである:「已然形=すでにもうそうなっている」という呼び名では、「もしかりにそうなったと仮定したら」の「仮定条件」に用いるのに不自然であろう?・・・ということもあって、現代日本語文法ではこの活用形を「仮定条件に用いるのに相応しい呼び方」ということで「仮定形」と改称してしまったのである。
-「已然形+ば」による「順接の仮定条件」の登場-
*さて、ここで改めて考えてみるに、「已然形」という呼び名が「仮定形」に化けたからには、「仮定の意味を表わす」以外の機能を「已然形」がもはや果たさなくなった、ということであろう。そこで、そもそも古典時代の「已然形」がどのような機能を果たしていたか見てみると、次の3つが浮上する:
1)「順接の確定条件(・・・なのだから、~だ)」を表わす「已然形+ば」の語法。
2)「逆接の確定条件(・・・ではあるが、それでもなおかつ~だ)」を表わす「已然形+ども/ど」の語法。
3)「係り結び」を形成する「こそ+已然形」の語法。
・・・が、そのどこにも「仮定」の影も形もない。「確定」条件にせよ「係り結び」にせよ、「・・・なのである」という「確定事項」を前提として成立する語法ばかりである。これは至極当然のことだ:「已に、然り=すでにそのようになっている」こそが「已然形」本来の姿なのであって、「仮定条件」=「未だそうなってはいないが、もし仮にそうなるとすれば」の意味を表わすには当然「未然形=未だ、然らず」に続けなければならない、というのが(古典時代の)論理的必然の帰結なのである。
*ところが、鎌倉時代頃から、「もし仮に・・・だとすれば」の「(順接の)仮定条件」の語法として、古来用いられてきた「未然形+ば」と同時に、「已然形+ば」が用いられるようになってきた。已に上で見た通り、これは誤用なのであるが、時代を下るにつれてこの論理的におかしな「已然形+ば」による仮定条件が勢いを増して行き、とうとう現代日本語では「もし・・・ならば」の仮定条件には「已然形+ば」(現代では「仮定形+ば」と呼ばれる形)のみを用い、「未然形+ば」は用いない、というところまで「誤用法が正用法を駆逐」してしまったのである。「未然形+ば」の仮定条件が用いられる例は、「・・・ならば」のような定型句か、さもなくば「急<が>ば回れ」のような文語的表現のみに限定され、これも「急<げ>ば、結局、迂回路を辿ることになる」のような「已然形+ば・・・現代文法の呼び方では、仮定形+ば」に置換可能である。
-「なくは」・「ずは」の変則性-
*ちなみに、上の文にもあった文語的表現「なく+ば」の「仮定条件」では、「なく」は連用形(読点の「、」を打って休止する=「中止形」を取るのにふさわしい語形)であって「未然形」ではない(・・・ように見える;真実は、後述する)ので、「仮定条件=未然形+ば」という古典文法のルールに反するように見える・・・この点に関しては、少しばかり補足が必要であろう。
*この「なくば」の表現の「ば」は、本来清音の「は」であって濁音の「ば」ではない。この「は」は、形容詞「なく」/打消助動詞「ず」の後に続けて「なく+は」/「ず+は」の形で「(順接の)仮定条件」を表わしたものであり、時代を下るにつれて(鎌倉時代に入る頃から)「なくんば」/「ずんば」の音便形となり、それが「なくば」/「ずば」の形へと詰まった結果、元来「は」と清音であったものが濁音の「ば」に化け、接続助詞の「ば」と同形・同機能となったものである。
*では、「なく+ば」/「ず+ば」の元となった「なく+は」/「ず+は」に於ける「は」の品詞は何であろうか?・・・多くの古文業界人は「係助詞」と答え、この「は」を「接続助詞」とは呼ばない・・・何故か?・・・もしこの「は」を「接続助詞」(つまり、「ば」と同じ機能の語)と呼んだのでは、「連用形(なく/ず)+は」が「順接の仮定条件(もし・・・ないならば)」を表わすことになってしまい、「順接の仮定条件は、未然形に接続する」という古典文法の原則に反することになってしまうからである。そうした例外的事例を嫌って、彼らはこの「は」を「接続助詞」と呼ばずに「係助詞」と呼ぶことにした:係助詞の「は」ならば「連用形接続」が自然に見えるから、である。
*が、これはまさに便法(=とりあえずそうしておけば便利で、当座のごまかしは効くから、というだけで生まれた方式)であって、この「は」が果たす機能は接続助詞「ば」のそれと同じ「順接の仮定条件」であることに間違いないのであるから、その「ば」や「は」に接続する「ず」は「未然形」であって「連用形」ではなく、「なく」もまた「連用形」ではなくて「未然形」と認定するのが文法理論的に正しいのである・・・が、古文業界の便法理論的にはこれらの「ず」/「なく」は「連用形」のままである:これらの語を「未然形」と認める唯一の根拠が「ず+は/ば」・「なく+は/ば」による「<未然形+は/ば>の順接仮定条件」の語法のみであり、それ以外にこれら「ず」/「なく」の「未然形」が果たすべき役割は存在しないから、「そんな程度のことならば、いっそ連用形+係助詞扱いしてお茶を濁しておいた方がいい」というのが(古今変わらぬ)「日本人の間に合わせ的法意識」なのである。
*そういうタイプの日本人にかかると、「・・・なくば」/「・・・ずば」という「"連用形"+ば」の「順接仮定条件の変則性」は、次のようなソフィスト(sophist=詭弁家)論法でまことしやかに片付けられてしまうのだ:
・・・曰く:「なく+ば」/「ず+ば」の「ば」は元来は清音の「は」であり、「なくは/ずは」の語形が「なくんば/ずんば」の形を経て「なくば/ずば」に到ったものであり、本源的にこの「ば」は、接続助詞の「ば」ではなく係助詞の「は」である。従って、「なく+ば」/「ず+ば」の形を見ると、一見<「ば」が「仮定条件」を表わすならば「未然形」に付くはずであって、「連用形」に付くのはおかしい>ように見えるけれども、実際には<係助詞の「は」が「連用形」に付いている>例であるから、ちっともおかしくはない・・・何ともおかしな論法である:「なく」も「ず」も「"連用形"ではなく"未然形"である」と潔く認めてしまえば論理的に全く何の問題もないものを、「ものの本の活用表には、<ず>も<なく>も"連用形"と書いてある」から「"連用形"として何とか筋の通る説明を考え出してこの場を切り抜けよう」と足掻いた挙げ句のヘンテコ論法・・・憲法第九条(戦争放棄云々のくだり)と「自衛隊という名の軍隊」の整合性問題等々もそうだが、実にクダラぬ屁理屈放り散らしての非論理強弁を強引に押し通す日本的やり方の悪臭には、いい加減うんざりさせられる(うんざりしていないorそのひどさに気付いていないのは、無学・無自覚なる日本人だけ、である)・・・筋を通して物事を考え自らの身を律する術を、この国の連中には、もっと真剣に学んでほしいものである:「文法」の学習が大事な理由も実にそこにあるのだ・・・が、この国の「文部"科学"省」とかいう名の御役所の定めた「学習指導要領」とやらによれば、「英語を学ぶのに、机上の理論のごとく無味乾燥でややこしい"文法"の体系的学習は必要ない・・・"生きた英語"に触れる体験を山ほど積めばそれでいいので、文法学習中心の従来の"死んだ英語学習"は捨て去るべし」なのだそうだ・・・やれやれ・・・その結果として生じた現状の日本人全般の語学的瀕死状態の御粗末さ・・・知らぬは「語学音痴、文法知らずの、便法依存型日本人」のみである・・・やれやれ、もっとやれ、それがいいと心底思ってるようなら、死ぬまでずっとその方式でやれ!(但し、それ以外のやり方で正しく思考・行動する術を身に付けた人間からの同情・共感・慈悲など、一切期待せぬことだ:有害なる無学者どもを甘やかすほど、真の知識人は甘くはない)。
-「順接の確定条件」の代替表現-
*さて、古典文法の話に戻ろうか。現代日本語では「仮定条件」と言えば「已然形+ば」という図式が固定化したため、かつての「已然形」という呼び名を「仮定形」に名称変更するにまで至っていることについては既に述べた・・・が、「已然形+ば」による「順接の仮定条件」の語法が一般化したから、というだけの理由で「已然形→仮定形」の名称変更が行なわれる、というのは不合理な話である。「仮定条件」以外にも、上で見た1)・2)・3)の異なる機能が(・・・途中の話題が長すぎて忘れたかもしれないので、この後再び取り上げる)「已然形の役割」として古典時代には存在したわけであり、それらのいずれも「仮定」とは無関係な機能なのであるから、これらの機能を「已然形」が担い続けている限り、「已然形の呼び名が仮定形へと変わる」現象など起こる道理もない。であるから、「已然形という呼び名」が消えたからには、上の3つの「已然形の機能」もまた消滅した(あるいは他の何かの形へと代替された)と考えるべきであろう。そこで、そうした消滅/代替の過程を、以下、つぶさに追跡調査してみることにしよう。
*まずは、1)「順接の確定条件=・・・なのであるから」を表わす「已然形+ば」の消滅or代替の条件を考えてみよう:
A)他に「順接の確定条件」の意味を表わす表現が存在し、
B)その「順接の確定条件」には「已然形」を用いる必要がなく、
C)そちらの「非已然形」表現が盛んに用いられるようになれば、
・・・その場合、もはや「已然形+ば」による確定条件の存在理由はなくなる、と考えてよいのである:で、そうした「非已然形による順接の確定条件」を古典文法の中から探し出してみると・・・あるわあるわ、次のようなてんやわんやの大賑わいなのである:
*中古に用いられた「已然形接続」以外の「順接の確定条件」:
「(体言/連体形)・・・から」
「(連体形)・・・からに」
「(連体形)・・・からは」
「(連用形)・・・て」
「(連体形)・・・に」
「(連体形)・・・ほどに」
「(連体形)・・・ものから」
「(連体形)・・・ものゆゑ(に)」
「(連体形)・・・ものを」
*時代背景的に制約のある「順接の確定条件」:
「(終止形)・・・がに」(上代)
「(連体形)・・・がね」(上代)
「(体言/連体形)・・・のあひだ」(中世以降)
「(連体形)・・・さかひ」(近世)
「(体言)・・・を(形容詞語幹)~み」(上代/歌語)
*これら「非已然形による順接確定条件表現」の大集団に対し、「已然形」接続による「順接の確定条件」は「(已然形)・・・ば」/「(已然形)・・・ばこそ」のたった2つ(数え方によっては1つ)のみ・・・これでは、消え入るもまたむべなるかな、の感が強い。
*上記の大所帯のうちから、現代日本語では、「・・・から」/「・・・て」が生き残り、あるいは「・・・だから」/「・・・(の)で」/「・・・もので」等への変形を経て「順接の確定条件」の代表選手として頑張っているわけである・・・が、そこにもはや「(已然形)・・・ば」の影も形もない。
-「逆接の確定条件」の代替表現-
*次に、「已然形」の機能その2)「・・・ではあるが」の「逆接の確定条件」を「已然形以外の接続」で果たす表現を拾い上げてみよう。これもなかなかの大集団である:
*「已然形」以外に接続する「逆接の確定条件」の表現:
「(連体形)・・・が」
「(連用形)・・・して」
「(連用形)・・・つつ」
「(連用形)・・・て」
「(連用形)・・・ても」
「(体言/連体形/終止形)・・・といへども」
「(体言)・・・ところに」
「(連用形)・・・ながら」
「(連体形)・・・に」
「(連体形)・・・ほどに」
「(連用形)・・・も」
「(連体形)・・・ものから」
「(連体形)・・・ものの」
「(連体形)・・・ものゆゑ(に)」
「(連体形)・・・ものを」
「(連体形/体言)・・・を」
*対する「已然形」接続による「逆接確定条件」は、「・・・ど」/「・・・ども」のたった2つ(数え方によっては、1つ)のみ・・・これまた肩身の狭い話である。もっとも、現代日本語にもこの表現はしっかり残り、「・・・けれど(も)/・・・だけれど(も)/・・・だけど(も)」の形で日常的に使われている。その語形をよくよく見れば「けれ」の部分は「已然形」そのものだ・・・けれども、今更誰もそれを「おゃ、懐かしい、已然形サン、こんなところにおいでなさったか!」などと取り立てて言ったりはしない ― 「けど(も)/けれど(も)」それ自体が単体の定型句であって、「已然形」だろうが「以前形」だろうが、そんなの知ったこっちゃない ― それが現代日本語使用者の通常感覚であって、そこに「ど/ども」は生きてはいても、「已然形が生きている」という論法は成立しないのである。
-「こそ+已然形」の「係り結び」の消滅-
*さて、こうなると「已然形」最後の砦は、機能その3)「こそ+已然形」による「係り結び」であるが・・・検証の必要も感じぬ向きも多かろう:「係り結び」なる時代がかった語法自体、現代日本語にはもはや残ってはいないのだから。
*そもそも、「係り結び」と言われる古典時代特有の(係助詞・疑問詞と呼応しての)文末の締めくくり方のうち、「已然形」で結ぶのは唯一「こそ」のみであって、それ以外の係助詞(並びに、疑問詞)はみな「連体形」で締めくくるものと相場が決まっている。この感覚は、現代日本語でもなお生き残っている「逆接確定条件としての"・・・こそ"」の言い回しを吟味してみれば納得できるであろう。次の2例を見てほしい:
1)「あの力士、体格<こそ劣"れ"(ど/ども)>、巨漢の相撲取りに一歩も引けを取らない」・・・已然形接続
2)「あの力士、体格<こそ劣"る"が>、巨漢の相撲取りに一歩も引けを取らない」・・・連体形接続
・・・どちらの言い回しも現代日本語として通じるが、どちらの表現(已然形の「劣れ」/連体形の「劣る」)がより自然に受け入れられるであろうか?・・・やはり「連体形:こそ劣る+が」であろう。
*しかし、ここでもう一つ注目すべき事実がある:末尾に逆接の語句(例:「が/けど/けれども」)を付けねば「逆接の確定条件」を形成できない連体形の「劣る」と異なり、已然形の「劣れ」は、「ど/ども」なしでも逆接になる:即ち、「こそ+已然形」が「逆接」の意味を表わしている、ということである(先ほどは「死語」扱いした係り結びが、已然形に於いて生き残っている稀少例である)。
*実は、「こそ」なしの「已然形」そのものには本源的に(・・・少なくとも、奈良時代あたりまでは)その形自体で「逆接」の意味が宿っていたのである。その逆接の意味を強調するための添え物として登場したのが係助詞「こそ」であると言われているのだ。
*しかし、「逆接」の形で文章の流れを逆転させる言い回し(逆接の確定条件)は、已に検証した通り、「已然形」に頼るまでもないほどに豊富に存在する。「已然形そのもの」だけで「逆接」を表わしたのは上代(奈良時代頃)までの話であって、以後は「こそ」・「ど」・「ども」等のアクセサリーこそが「逆接の主役」となり、「已然形」という活用形は後景へと追いやられたのである・・・そうして、この「已然形」を背景に従えることのない「連用形/連体形」接続型の対抗勢力の勢いに圧倒される形で、「已然形そのもの」の存在理由が先細りして行き、鎌倉時代以降は(本来なら「未然形」の役割だったはずの)「順接の仮定条件=もし・・・ならば」の意を表わす「(誤用としての)已然形+ば」のみが(何とも皮肉だが)「已然形の唯一の存在理由」となり、「已に然り」ならぬ「未だ然らず」を前提とする「もし・・・ならば」の表現を表わす(だけの)活用形として「已然形・仮定形」という改名までをも施されて現代に至っている、というわけである・・・嗚呼、哀しき哉、已然形・・・時の流れとともに、言葉というものがいかに移ろい行くものか、「言語学的正統性」なるものがどれほど脆弱なものでしかないか、この一例を見てもよーくわかるであろう・・・かつて「已然形=すでに、しかり」として確定事態を受け止めていたこの活用形は「已に、然らず」、今や「仮に、そうであると定めたならば」の「仮定形」となって、その揺るぎなかった(ハズの)存在の土台は、仮想の中空にふわふわ漂うばかりなわけである。
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[31]
【を】〔格助〕
『接続:格助={体言・連体形}接助={連体形・(稀に)体言}終助={体言・連体形}間投助={体言・連体形・命令形・助詞}』
(6)(期間)(時間的継続の意を表わす動詞と共に用いて)その動作が継続する期間を表す。
・・・の間。 ・・・を。
*接続=体言。連体形。
*現代日本語にもそのまま通じる「時間幅」の語法で、「・・・の間」と訳せばよい(例:「長き冬<を>いかに過ごさむ」)。
*英訳=「for A」/「during A」/「while ...」
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[32]
【む】〔助動マ四型〕{○・○・む(ん)・む(ん)・め・○}
『接続:{未然形}』
(2)(意志・願望)(自分自身が)ある行動を取る意志・願望・予定がある意を表わす。(勧誘)(自分達が)ある行動を取ることを積極的に促す。
・・・しよう。・・・したい。・・・するつもりだ。 ・・・を望む。・・・することになっている。
*接続=未然形。
*英語に於ける「意志未来」に相当する「む」(あるいは「むず」)の用法で、自らの意志として「・・・しよう/・・・したい」の意を表わす。当然その主語は「自分(を含む集団)」であり、英語の代名詞で言えば「I」・「we」・「you and me」・「our family/company/group」あたりとなる。現代日本語には、ガチゴチの文語体で、「英語を完璧に修得せ<ん>と欲するなら、単語だの会話だのの前にまず文法の全領域を理知的に把握せよ」のような形で残る。
*英訳=「will ...」/「be going to ...」/「want to ...」/「wish to ...」/「have it in mind to ...」/etc, etc.
*主語が自分自身(を含む集団)の「一人称(単数のI/複数のwe)」であれば必ず「意志未来」になる、というわけではないが、「意志含みの"む/むず"や"will"」なのに「・・・だろう」などと「意志・積極性の感じられぬ第三者的推量」の訳し方をすれば手ひどい減点を喰らうのは必定であるから、「む/むず/will」に関しては「そこに主体的意志はあるか?」を即座に観測する態度が必要、というのが古文/英語のイロハ(基本的心得)である。
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[33]
【たり】〔助動ラ変型〕{たら・たり・たり・たる・たれ・たれ}
『接続:{ラ変以外の連用形}』
(2)(残余型完了)既に完了した事態・動作・作用の結果が(その記述の時点に於いてなお)残存し、余韻を感じさせる意を表わす。
・・・た。 ・・・てある。・・・となっている。
*接続=ラ変以外の連用形。
*完了助動詞「たり」の中でも、「既に過去のものとなった動作・状態・・・の結果や余波が、現在に至るまで残っている」という、英語の「完了形」と同様の(=現代日本人にとって最もその感覚がつかみづらい)語法。
*英訳=「have ...ed (the perfect tense)」
-「勝手知ったる」?「かつて知ったる」?-
*現代日本語には「完了形」表現というものが存在しないから、英語の「完了形」も、古典助動詞「つ」・「ぬ」・「り」・「たり」あたりの語感も、現代人には正確にはわかり辛いものである。一応、現代語にも「勝手知っ<たる>他人の家」(よそんちのことながら、付き合いが深いためにその内実がよーくわかってる)のような「完了・存続」の「たり」含みの表現は残ってはいるが、これだけでかつて存在した(が、今は死語と化した)「たり」の内実を知ったる気分になるのは語学音痴の身勝手な思い上がりというものである;から、もう少し詳しく眺めてみる必要があろう。
*例として、「来たり」=「来」の連用形+「たり」について見てみよう。「来訪した」という動作そのものに着目すれば、これは「ごめんくださーい!・・・やぁ、いらっしゃい!」の時点で「過去の一点に於いて既に完了」している一過性の行為である。だが、そうして来訪した来客が、その家にお邪魔してあれこれ話したりもてなしを受けたりしつつなんのかんのと居座っている間じゅう、「来た・・・で、まだ帰らず、ずっと来客としてそこに存在している」の状態は継続中であって、その一定の時間幅の全てに於いて、既に過去のものとなっているはずの「来」の余韻は、連続した「現在」として意識される時の流れの中で、続いているのである。
*これが、単なる「来+し」や「来+けり」(過去の事実としての来訪)と「来+たり」(過去に始まる現在の事態としての来訪)との相違である。「彼?昨日来たよ」と「彼?いま来てるよ」の違い、と言えばわかったような気にはなるが、実際の「完了形」が(日本の古語/英語で)表わす「過去に発する現在までの幅をもった動作・状態」を言い当てるには至らないであろう・・・「いま来てる」の表現の中には、「・・・たり」の表わす(過去寄りの)完了形よりも、「・・・いる」の表わす現在進行形の感覚の方が強く、「過去への広がり」があまり感じられないのである・・・結局、「り」/「たり」や「つ」/「ぬ」といった「完了表現」を既に捨て去ってしまった現代日本語の中で、これらの語法の正確な理解を得るためには、「英語の完了形」あたりを完璧にわがものとする語学体験を経ねばならぬ、ということになるようである。日本の古文は、それが「日本語」であり、文法的にも現代語に通じるところが多い(ように少なくとも英語よりは感じられる)ということで「わかった気になる」ものではあるが、よくよく突き詰めてみればわかってない誤解・誤読が、実に多いものなのだ。「り/たり」の完了のニュアンスといい、「き/けり」の表わす「過去(といいつつ、時制としてではない話者の心的態度表明としてのもの)」といい、英語あたりの外国語との対比の中で立体的に捉えねば「掴み損ねの知ったかぶり」も実に多いのである。
-「来たる」に関する知ったかぶり-
*完了の「たり」関連で知ったかぶりの誤解の話題が出たところで、もう一つ(明治時代末までずーっと)日本人が長らく文法的に「知ったかぶり」してその実よく知らなかった表現である「来たる」の話をしておこう。
*この「来たる」、現代でもなお「来たるX月Y日、Z公会堂にて、A先生の講演会が開かれます」みたいな形で使われる歴史の長い文語表現であるが、その内容からもわかる通り「未来」に関する語であって「過去」や「完了」の話ではない:「完了した過去の話」として「まだ開かれてもいない講演会」のことを触れ回られては、「A先生」としても来演者が減ってしまって何とも困った話になるであろう。
*ところが、その「未来」に属するはずの「来たる」を、<動詞「来」+完了助動詞の「たり」>として片付けて平然としている、という不出来な受験生みたいな態度が、数百年来この日本では続いていたのである・・・そうした中で、この「来たる」の意味が次の2通りに分化することを指摘した偉い国学者がいた:
1)完了の意味の「来たる」=既にもう来て、いま、そこに存在している
2)予定の意味の「来たる」=これからやって来ることになっている
・・・この事実を初めて指摘した学者は、有名な本居宣長(1730-1801)(in『玉勝間』)である。こうした先人の研究成果のおかげで現在の我々はかなり楽な形で効率よく古文・古語の学習ができるのであるから、頭が下がる思いがするのだが、その宣長ほどの大国学者にしてからが、なぜ「来たる」は「過去寄り/未来寄り」という意味の二極分化を起こすのか、という疑問には答えられずじまいであった。それは、彼がこの「来たる」を「来而有=来+て+有り」に由来するものと(誤って)捉えていたためである。「来て、現に、ここに在る」というのでは、「来+たり」の完了表現と何ら変わらないのだから、「未来」への意味の広がりを手にすることは不可能であるし、文法的に言っても「有り・在り・存り」の活用形{ら・り・り・る・れ・れ}(ラ行変格活用)の終止形は「り」であるはずのものが、何故か「来たる」では「る」音終止に化けてしまって「来たり」ではない、という新たな謎をも生じる結果となってしまったのであった。
*この疑問に決着が付くまでには、更に一世紀の時間が必要となる:1911(明治44)年、柴田猛緒という研究者が「来字の活用及語源考」(國學院雑誌)なる論文の中で「来たる:来(く)+到る(いたる)=きいたる・・・きたる」変形説を発表してようやく、「来たる」の問題にスカッと明晰な謎解きがもたらされたのである。
*それ以来、約百年、古文業界では<「来たる」=1)完了「来+たり」/2)予定「来+到る」>の意味の二面性が、さも「言い古された古典文法の常識」のような顔をして語られるようになってしまった・・・が、実情は上のごとしであって、本居宣長の最初の指摘から百年以上もの長きにわたってずっと手つかずで放置された「コロンブスの卵」が「来+到る」なる(言われてしまえば誰でもわかるが、誰かが言うまで誰にもわからぬ)説だった、という顛末である。
*かくのごとく、「知ったかぶり」した無学の徒が、世には多いのである・・・そもそも、諸君は知っていたか ― 「しったかぶり」は実は「知ったかのような振り」に由来する語ではなく、「しれたかぶり」がその語源であり、漢字表記すれば「痴れ(しれ・・・知性低劣な状態となる)+たる(・・・そんな状態になり、今なおそこから抜け出せぬままの)+頭(かうぶり・・・冠や被りにも通じる語で、この文脈での意味は当然、頭脳)」である、という衝撃(or笑劇)の事実を・・・?「しったかぶり」は、真実を知らずに「ウン、ウン」と首を縦に振り続けて平然としている「痴れたる頭」から生まれるもの・・・知ってしまえば笑えるものの、知らずにおれば笑い事では済まぬもの・・・知れば知るほど、「知らぬが仏」の大衆の悪臭漂う痴的体臭が、我慢ならなく感じられるもの・・・「痴れたる者」の無知蒙昧ぶりを脱して「知りたる者」となるのは、存外、覚悟のいること(ロクに真実も見えぬ無学者のままで居続けるほうが、見たくないものを見ずに済む分、かえって幸せだったりするもの)なのである。
*それでもなおかつ、古文の世界の真実への目利きとなる意欲があり、かつ、現実の日本語・日本人・日本国の見たくもない姿を直視することに耐える勇気があり、かつ、そうした現実をより良いものへと変える力として自らの知性を活かす気概がある者のみ、『扶桑語り』にお付き合い願おう:「無知の幸」を尊び「無知の知」を嫌がる諸君は、早々にお引き取り願おう(・・・そのほうが、無知蒙昧への寛容度と耐性が異様に強く、それに反比例する形で知的向上心・恒常的現状改善意欲が極端に低い、何とも残念な日本の人々に取り巻かれて一生を暮らすことになるであろう諸君の「人間的幸福」のためには、むしろ幸いなことかもしれないのだから)。
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[34]
【て】〔接助〕
『接続:格助={命令形}接助={連用形}終助={終止形・文末}』
(1)(単純接続)前後の事柄を単純につなぐ。
・・・て。 ・・・して。・・・であって。
*接続=連用形。
*接続助詞「て」の中でも最もありふれた&解釈上何の注意も必要ない「前後を単純につなぐだけ」の語法(例:「来たり<て>、語り<て>、夜さり<て>、去れり」)。現代日本語では「来<て>、語っ<て>、夜になっ<て>、去った」というふうに大部分が促音便(「っ」へと詰まる音)と共に用いられる「て」である。
*英訳=「...and ...」/「.., ...」
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【など】〔副助〕
『接続:{体言・連体形・引用句・連用形・助詞}』
(1)(例示)ある物事を、類似の事例の一つとして引き合いに出す。
例えば・・・など。 ・・・か何か。・・・あたり。
*接続=連用形。連体形。体言。引用句。助詞。
*現代日本語「・・・など」と全く同じ「例示」の語法(例:「書<など>読みて時を過ぐさむ」)。「何故?」の意味になる「など」との混用にさえ注意すればよいだけのもので、「名詞+など」なら「例示の副助詞の"等"」/「など+事態」の形で最後に「?」が付けられそうな話の流れなら「疑問副詞の"何ど"(・・・何ぞ、あるいは、謎、と絡めて覚えておけばよい)」である。
*英訳=「such as ...」/「like ...」/「including ...」/「for example, 」/「for instance, 」/「... to cite a few」/etc, etc.
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[36]
【き】〔助動特殊型〕{(せ/け)・○・き・し・しか・○}
『接続:{連用形(カ変&サ変には特殊な接続あり)}』
(1)(体験としての過去)(話者・筆者・作中人物が直接的に体験した)過去の事柄について述べる。
・・・た。 ・・・した。
*接続=連用形(カ変・サ変には特殊な接続)。
カ変連用形(き)+{し}{しか}カ変未然形(こ)+{し}{しか}サ変連用形(し)+{き}サ変未然形(せ)+{し}{しか} ・・・カ変連用形(き)+{き}/サ変連用形(し)+{し}の接続はしない。
*話者/筆者が「自分自身が過去に直接体験した事柄」として述べるものとして「直接体験過去」と呼ばれる「き」の語法。この意味で、「自身が体験したものではない過去の事柄」として述べる「伝聞過去」の「けり」と対比をなすもの。
*英訳=「...ed (past tense)」・・・実際には、以下に述べる通り、英語の「過去形」が「時制表示記号」であるのに対し、日本の古語の「き」・「けり」は「心的態度表明記号」であって、その性質は異なる。
-「き」と「けり」は、過去時制表示記号に非ず-
*よく「過去の助動詞」と呼ばれる「き」と「けり」だが、西欧言語の文法用語としての「過去」と、日本の古語の「き/けり」が表わす「過去」とは、質的に全く別のものであることを認識せねばならない。純然たる文法的観点から言えば、日本の古語には(この意味では、現代語にも)「過去形は存在しない」のである。過去形はなく「全ての動詞は現在形」が基本であって、そこに「過去の色彩を添えたい」場合にのみ、「これ、自分の体験として個人的記憶の中にある出来事なんだけどね」という場合には「き」を、「これって、人から聞いた話なんだけどね」あるいは「これ、他人事じゃないけど、今の今まで気付かずにいて、ふっと今思いついた話なんだけどね」という場合には「けり」を付ける、というのが「日本の古語に於ける過去形の実体」なのである・・・この点、「・・・た」の形で(古語「たり」の名残りの残る表現を用いて)「過去の演出」を折々添えるだけの現代日本語も全く同様であって、「日本語には、古来、西欧言語でいうところの"動詞の時制区分"は存在しない=全ての動詞は現在形のみである」という事実を、この際だから、学んでおくべきであろう。
-英和対照「過去形」の姿-
*上記の事実を日本人が思い知るには、やはり、きちんとした時制区分のある外国語という「鏡」に映してみる必要がある。現代日本人にとっては「英語」がその最適任外国語であろうから、英語の動詞を例にとって論を進めることにしよう。
英語の例)I <went> to the park yesterday and <saw> an old friend of mine by accident, who <told> me that I <looked> much thinner and even <asked> how I <[had] reduced> my weight; I <told> her simply that I <was> a married and worried woman now.
日本語訳)昨日公園に<<行った>>ら、古い友達と<<会った>>の。で、その人が<言う>のよ、私ったら前よりずっと痩せて<見える>って。で、どうやって<<痩せた>>のかなんてことまで<聞いて>くるから、私、彼女に一言<<言った>>の:「私も今じゃ既婚者の悩み多き女<なの>よ」って。
*英語の場合、「全ての動詞は、その属する時点に応じて、過去/現在/未来、のいずれかの形態へと語尾変化させて使用すること」というルールが厳密に守られるため、終始「過去モード」で推移する上記の英文では、登場する8つの動詞の全てが「過去形」である。
*一方、同じ文章の日本語訳では、<<過去モード>>で語られているのは8つの動詞のうちの半分の4つだけ、残りはすべて<現在モード>である。話者が「そこに特段の時制のズレを演出する必要はない」と感じたなら、「動詞の時制はすべて現在のこととして流す」のが日本語のルールであって、上の文章で<<過去モード>>となっている4つについては、「ここは、現在/過去、の時間の対比を強調したほうがいい」と話者が感じたから、その「話者の心的態度(モード、というより、ムード)」に応じて、<<行った>>(話の出だしだから、過去であることを強調)/<<会った>>(左に同じ)/<<痩せた>>(その話の時点に至るまでの数ヶ月、あるいは数年に渡る「ダイエット努力の道のり」を、「過去の思い出話」として引き出そうとして過去モードにしている)/<<言った>>(話の最後の締めの部分なので、「これ、過去のお話、でした」として時制の再確認の意味を込めて過去モードにしている)、という「恣意的な時制演出」を行なっているだけなのが、日本語の特性なのである。
-「時制区分」がそもそも不可能な「漢字」・「中国語」との関係-
*こうした「話者の心的態度に応じて、現在/過去、の時制を好きに演出」するという日本語の特性は、日本語の表記記号である「漢字」(&その生みの親たる「中国語」)の言語学的特性と無縁ではない。例えば英語で「I live」(現在形)と書けば、日本語なら「私は生きる」/中国語なら「我生」となろう。では「I lived」(過去形)ならどうなるか・・・日本語なら末尾に「過去を演出する"た"」を付けて「私は生きた」で過去を演出できるが、中国語だと「我生」のままである ― 他にどうしようもあるまい:「我生過」とでもできるのならともかく、そんな「過去演出記号」は中国語には存在しないのである・・・逆に考えれば、たとえ存在したとしても、過去の話だからといって一々すべての動詞の直後にそんな「過去演出記号」を付けて動詞の字数をその都度増やしていたのでは、煩雑で口幅ったくて面倒でやってられないであろう。そんな面倒を敢えて抱え込むよりも、「前後の脈絡から、これは過去の話だ、ということはわかるはず」と割り切った上で「時制の明示など、一切しない!」と開き直ったルールの上で事を運ぶのが、中国語の潔い割り切り方なのである。
*その中国語の表記記号としての(=時制明示不可能文字たる)「漢字」を引き継ぐのみならず、時制無視の現在形一辺倒の割り切った「感じ」をも引き継いでいるのが日本語の特性なのである。それでいて、「基本的には、ぜぇーんぶ現在形!」としておきながらも、時折り「ここは、気分的に、過去で語りたい感じ」という場面では「き」だの「けり」だの(現代語なら「た」あたり)で、何かを思い出したかのように時の彼方へと視線を転じる気まぐれを演じつつ展開するのが日本語だから、逆に外国人にとっては(明快に割り切ってかかれる「現在オンリー」の中国語と違って)タチが悪い。「漢字御本家」の中国人からも「なんで現在一本にしないのか?」と問われそうなところだが、特に西欧人にとっては「中国語と違って、過去形がきちんと存在する」ように見えるのが日本語なのだから、その過去形を使ったり使わなかったりの「身勝手極まる時制ひっかき回し話法」は、心理的に落ち着きが悪い代物である:「何できちんと全ての動詞ごとに過去形にしないのか?」と彼らはイライラすることであろう・・・実際には「き/けり」は「過去形に非ず」なのだが、その事実の認識を彼らに求めるのは難しかろう:当の日本人ですら「き/けり=過去の助動詞」と(ほぼ全員が)勘違いしているくらいなのだから・・・「日本人は筋を通すってことができない連中なのか!?」と西欧人が感じる物事は実に数多いものであるが、日本語を学ぼうとする西欧人にとってはこの「身勝手時制言語(・・・本当は、時制を持たない心的様相表明一辺倒言語、が正しい言い方)」という特性もまた確実にその一つであろう。
*逆に、日本人が英語あたりを学ぶ時に、最初の大きな障壁となるのが「動詞時制の律儀な統一」という「筋の通し方」である:言語学的&心理学的に極めて身勝手な流儀で育ってきた日本人にとっては、この種の透徹した論理性のゲームを100%の正確性で演じ切ることは、極めて困難なことなのだ・・・が、そうして「首尾一貫したルールへの几帳面なまでの忠義立て」を自らの言語学的体質とした後で、「筋を通さぬ日本語/日本人/日本国のやり方」に従来慣らされてきた日本人が学び取ることになる事柄には、単なる語学的修得以上の大きなものがあることもまた(語学音痴の日本人の面々には不愉快な話であろうが)、重要な事実なのである。
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【に】〔格助〕
『接続:格助={体言・連体形・連用形・副助詞}接助={連体形}終助={未然形}』
(4)(対象)動作・作用の対象・相手を表わす。
・・・に対して。 ・・・へと。・・・に向けて。・・・に。・・・と。
*接続=体言。連体形。連用形。
*「動作」の向かう対象を表わす「に」は、現代日本語にもそのまま「に」で訳して通じるもの(例:「踊り子さん<に>手を触れないでください」)。「行動」の対象としての「に」は少々ややこしく、そのまま「に」とするのではなく「(する事)に」あたりの補足を経ねばすんなりとは落ち着いてくれない(例:「語る<に>落ちる」→「話題として取り上げるには、水準が低すぎて、話にもならない」)。
*英訳=「to A」/「toward A」/「for A」/「for the sake of A」/「in the name of A」/「on the pretense of A」/etc, etc.
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【つ】〔助動タ下二型〕{て・て・つ・つる・つれ・てよ}
『接続:{連用形}』
(1)(完了)動作・作用・状態が既に完了・終結した意を表わす。
・・・てしまった。 ・・・てしまう。・・・た。
*接続=連用形。
*完了助動詞と言われる「つ」が「動作・状態の完了」を表わす最も基本的な語義・・・のはずであるが、詳細に見るとこの「完了」の語義は更に2種類に細分化される(いずれも現代日本語にはもはや引き継がれてはいない):
1)「動作・状態の完了の瞬間に心理的焦点があるもの」
・・・ほとんどの「つ」が表わす完了はこれである。現代日本語で「宿題、終わった!」と叫ぶ小学生の心理を表わすもの、と思えばわかるであろう。
2)「それまで連綿と続いてきた動作・状態が終わり、もう今後それが継続することはない、という変化に心的焦点があるもの」
・・・用例としては少ないが、余韻としては深い語法がこれ。「この3月で、学校生活は終わった・・・」としみじみ語る卒業生の寂寥感のようなニュアンスを感じさせる語法である。
*いずれの語法も「既に・・・は終わった(ので、もはや・・・していない)」の意味では共通するが、その意識が「終点」にのみ張り付いていれば「もう・・・た」、「過程」に向ける目があれば「それまでずっと・・・してきた」と訳し分ければよいだろう。
*英訳=「have ...ed (the perfect tense)」/「have been ...ing (the perfect progressive tense)」
-「つ」と「ぬ」-
*完了助動詞と呼ばれるものの中でも、「つ」と対照を成すのが「ぬ」である。語法も訳し方もほぼ同じながら、「つ」は他動詞に付き、「ぬ」は自動詞に付く、という現象が(時代が古いほど)指摘される。
*この現象を論理的に煎じ詰めれば、「行為者の意志により行なわれる動作・状態の完了」については「つ」を、「人の意志によらずに自然的にそうなる状態・動作の完了」については「ぬ」を用いた、ということが言える。
*上述の「つ」の意志性/「ぬ」の自発性という相違が何に起因するかを考えると、「つ」は「棄つ(うつ)」/「ぬ」は「去ぬ(いぬ)」に由来するという語源学的事情に行き着く。
*こうした(語法というよりもムード上の)特性の違いから、平安女流文学では、自動詞/他動詞という使い分けからではなく、やんわりと自然的な「ぬ」の方が、意志性が強く断定的な「つ」よりも多く用いられる、という現象が生じた。
*「つ」も「ぬ」も時代が下るとともに衰えて、室町時代以降の完了助動詞としては「たり」のみが残り、それが現代語「・・・た/・・・だった」へとつながる。
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【に】〔接助〕
『接続:格助={体言・連体形・連用形・副助詞}接助={連体形}終助={未然形}』
(4)(逆接の確定条件)前述の条件が成立するにもかかわらず、それに反する後述の事態が成立する意を表わす。
確かに・・・ではあるが。 ・・・にもかかわらず。・・・だが。・・・のに。
*接続=連体形。
*活用語の連体形に続けて、逆接の確定条件「・・・(な)のに」の意を表わす接続助詞の「に」(例:「卯月のすゑなる<に>、風いまだ寒し」)。現代日本語では「に」単独でこの意味は表わせず、「のに」等の形を取る(例:「あれほど勉強した<に>→<のに>・<というのに>・<っつーに>・<くせに>、落ちた」)。
*英訳=「... but ...」/「... and yet ...」/「..., still ...」/etc, etc.
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【る】〔助動ラ下二型〕{れ・れ・る・るる・るれ・れよ}
『接続:{四段&ナ変&ラ変の未然形}』
(1)(自発)意識せずとも自然発露的にそうなる意を表わす。(通例、打消の語を伴わない。命令形はない)
自然と・・・られる。 思わず・・・する。・・・ずにはいられない。
*接続=四段・ナ変・ラ変の未然形。
*「る/らる」が「特に意識せずとも、自然とそうなる」の意を表わす「自発」の語法で、現代日本語にもそのまま残るもの。
*英訳=「feel ...」/「feel like ...ing」/「it seems like ...」/「it looks as if ...」/「it looks as though ...」/etc, etc.
*「る」は「四段活用・ナ行変格活用(「死ぬ」・「去ぬ」)・ラ行変格活用(「あり」及びその複合語)」に付き、それ以外の動詞には「らる」が付く。接続する動詞が違っても、「る/らる」の表わす意味は全く同じ。
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【ても】〔接助〕
『接続:{連用形}』
(4)(順接の仮定条件)前述のような場面に於いて、後述の陳述が成立する(場合がある)意を、例示の形で述べる。
・・・の時などに。 例えば・・・の際に。
*接続=連用形。
*現代日本語で言えば「・・・につけても」(例:それにつけても、腹の立つ話だよ)あたりに落ち着く「例示」の「ても」。
*英訳=「in ..ing」/「when ...」/「while ...」/「in times like ...」/「in such cases as ...」/etc, etc.
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【と】〔格助〕
『接続:格助={体言・連体形・連用形・文末}接助={動詞型活用語終止形・形容動詞型活用語終止形・形容詞型活用語連用形・助動詞「ず」連用形}』
(8)(自発)(「おのれ」・「こころ」・「われ」などとともに用いて)ある行為が何に発するものであるかを表わす。
・・・から。 ・・・の命ずるところに従って。
*接続=体言。
*「自然<と>」・「自ず<と>」などの表現の中で現代日本語にも残る「その行為が何に発するものか」を示す格助詞「と」の語法で、その意味は「から」(語源は「柄」)に近い。
*英訳=「of A」/「out of A」/「prompted by A」/etc, etc.
*先の現代語の例からもわかる通り、単独の格助詞として把握するよりも連語として熟語的に処理するのが妥当なもの。古語では「おのれと」・「心と」・「我と」などの表現がそれ。
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【に】〔接助〕
『接続:格助={体言・連体形・連用形・副助詞}接助={連体形}終助={未然形}』
(2)(契機)直前に述べた事柄が、後続の事柄の発生やそれを認識するきっかけとなる意を表わす。
・・・ところ。 ・・・すると。・・・と。
*接続=連体形。
*行動や認識のきっかけとなる物事を示す「契機」の格助詞「に」。現代日本語では(接続助詞「に」の用法は全部)死語であるが、「・・・際に(は)」などとして捉えればよい。(例:「花見る<に>今更気付く齢かな」2010 COPYRIGHT 之人冗悟:Noto Jaugo)
*英訳=「in ..ing」/「when ...」/「while ...」/「in times like ...」/etc, etc.
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【ど】〔接助〕
『接続:{已然形}』
(1)(逆接の確定条件)前述の条件が成立するにもかかわらず、反対の内容を持つ後述の事態が成立する意を表わす。
・・・のに。 ・・・だというのに。・・・けれども。・・・にもかかわらず。
*接続=已然形。
*現代日本語(文語)の「・・・ど」と同じ意味を表わす逆接(・・・だけど)の接続助詞(例:「匂いはすれ<ど>姿は見えぬ・・・気付けばぐったりあの世行き・・・生物兵器は恐ろしい」)。同じ意味は「・・・ども」でも表わせるが、堅い響きから漢文訓読調の文章向き;中古女流文学では柔和な「・・・ど」が好まれた。
*英訳=「~ but ...」/「~ and yet ...」/「though ~, ...」/「although ~, ...」/etc, etc.
*語源学的には、「ど」に係助詞の「も」が付いた語という説もあれば、逆に「ども」から「も」が落ちて「ど」になったとの説もある・・・が、どちらにせよ本源的に同じ古語である。
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【ば】〔接助〕
『接続:係助={格助詞「を」}接助={已然形・未然形}』
(3)(順接の仮定条件)前述の条件が成立した場合、後述の事態が成立するだろうとの想定を表わす。
もし・・・なら。 ・・・たら。仮に・・・とすれば。
*接続=未然形。
*接続助詞「ば」が「未然形(未だそうなってはいない)」の後に続いて「もし・・・ならば」の「仮定」を表わす(順接の仮定条件)。だが、時代が下ると仮定条件の接続先は必ずしも「未然形」とは限らなくなってくる(後述)。
*英訳=「if ...」/「in case ...」/「provided ...」/「providing ...」/「suppose ...」/「assuming ...」/「assume ...」/etc, etc.
-「已然形+ば」による「順接の仮定条件」-
*現代日本語では、「已然形+ば」が「順接の確定条件:・・・なので」ではなく、「順接の仮定条件:もし・・・ならば」の意味を表わす。こうした逆転現象は中世以降(鎌倉時代あたり)から始まり、それ以降徐々にその勢力を増して現代に至っている(&現代文法ではかつての「已然形」が「仮定形」へと改称されている)。
*もっとも、日本の大学入試が「ば」を問題とする場面では(そういう場面は実に多いが)、ほぼ常に「已然形+ば=すでにそうなっている・・・確定条件」/「未然形+ば=未だそうなっていない・・・仮定条件」という分かり易い古典文法の使い分けが成立していた「中古=平安時代」の文物を対象としているから、<「已然形+ば」だとしても、それが中世以降の文章の中でなら、もしかしたら「確定条件」ではなくて「仮定条件」かもしれない>という心配は、現実的には不要である。もし「已然形+ば」による「仮定条件」を出題するならば、「この文章は、鎌倉時代に書かれた『徒然草』の一節である」的なわざとらしい時代背景の断わり書きを添えた上で、「中世以降に於ける已然形仮定条件」という例外的文法知識を問題とする(何ともヲタクな)題意となり、大学入試古文問題としての適格条件を疑われる代物となってしまうだろう。
-現代日本語に「已然形」の出番なし-
*ともあれ、現代では「未然形+ば」による「仮定条件」は(「・・・ならば」のような定型句以外では)死滅し、「已然形+ば」のみが残っている、という事実は重要である;そしてそれと共に、古典文法時代の呼び名「已然形」は、現代日本語文法では「仮定形」へと名称変更されてもいることを覚えておくべきでもあろう。
*これらの事実から、次の2つの考え方が、古典時代~現代文法に至るまでのいずれかの段階で、支配的になったものと想定される:
1)「仮定」の意味をもたらす本体は、「已然形」や「未然形」といった活用形ではなく、接続助詞「ば」の方である。
・・・論理的に考えれば、「仮定=実現してはいない事柄を、仮に実現したと想定した上で述べること」に相応な活用形は「未然形:未だ然らず・・・まだそうなってはいない」のはずであり、「已然形:已に然り・・・もう既にそうなっている」という確定事実を述べた言い方は、「仮定」には相応しくないはずだ。にもかかわらず「未然形+ば」ならぬ「已然形+ば」で「仮定条件」が成立するとすれば、その「仮定」をもたらすものは「ば」であり、「ば」さえ付ければ「未然形」だろうが「已然形」だろうが無関係に「仮定」は成立する、という考え方あればこそ、であろう。「本来なら未然形+ば・・・だけど・・・已然形+ば、でも仮定条件成立」という事態は、「活用形(未然or已然)による構造的な意味の表現」よりも「単語(ば)による個別的な意味の表現」に重きを置くことになった現われであると見るべきである。
2)「已然形」という活用形の果たす機能は、「已然形+ば」による「仮定条件」以外、度外視してもよい。
・・・「已然形+ば」による「仮定条件」に由来する「仮定形」という名称への変更が行なわれるからには、この語法以外にかつて「已然形」が果たしていた機能は「もはや無視してもよい;重要なのは仮定条件のみである」という割り切りが成立する必要がある。
・・・で、実際、かつての「已然形」が果たしていた次の3つの機能が、時代の流れとともに、衰退したり他の類似語法によって代替されたりする中で「もはや不要」ということになった結果として「已然形→仮定形」という名称変更が行なわれたのである:
已然形の機能A)「已然形+ば」による「順接の確定条件:・・・なので」
已然形の機能B)「已然形+ど/ども」による「逆接の確定条件:・・・ではあるが」
已然形の機能C)「こそ+已然形」による「係り結び」
*来歴的には上記の3つこそが「已然形の正用法」であるのに、鎌倉期以降「誤用法」として生じた「已然形+ば」による「順接の仮定条件」に押されて「もはや已然形ではない・・・仮定形こそが妥当な呼び名である」というこの言語学的転変劇を見ただけでも、「言葉は生き物であり、時代と共にその姿は変わって行く」という事実と、「かつて正しかったことが、いつまでもずっと正しいとは限らない」という「文法的正当性」なるものの脆弱さ(よく言っても「相対性」)が、よくわかるであろう。
*誰かさんの言葉尻をとらえては「その言葉使いは間違い」などとエラそうに鬼の首でも取ったかのごとき態度で指摘したがる(まるでわかってない)日本人は古来掃いて捨てるほどいるが、連中の行為のほとんど全てが「言語学的に盲目な知的劣弱者の、無知ゆえの思い違い」でしかないという事実は、この筆者がここで敢えて検証するまでもあるまい(無知・無能な連中など、知的考察の興味ある対象とはなり得ぬのだ);筆者としては(そして、知的高みを目指す諸君としても)、「言語学的考察」の果てに「言葉の世界は絶えず流動を続けるもの」という実感を体得した上で、そうした事実をまるで知らぬ「言語学的蒙昧層」が「たまたま自分が知っているというだけの理由で"正当"と思いこんでいる用法」から少しでも外れた何かに対して示す「それはマチガイ」の反応を見たら、「それは思い違い(もっと言えば、キチガイ!)」として(心中で)連中への評価ポイントをその分下げればそれでよいのだ・・・但し、連中に面と向かってその知的劣弱性を指摘する愚挙は避けたほうが無難である:無知蒙昧な人間の共通特性は「自分こそは正しい」という無根拠な思い上がりであり、この筆者がこの作品集の中で行なっているような律儀な形での「何がどう正しく、何がどう間違っているかを、実証的に証明するための論証作業」は、ああした連中には無縁のもの:たとえこちらの方が正しいことを100%実証する証拠を突き付けても、連中はそれを見ようとはしないばかりか、むしろムキになって否定・抹殺しにかかるものである・・・「自分こそ正しい!」という絶対的前提を崩すものは、相手が正しかろうと何だろうと(否、むしろ、相手が正しければ正しいほど)、無知なる衆生は「無視!or抹殺!」に走るものなのだから、そうした連中に対しては当方としても「無視」が正しく、なまじ「是正」のために手を差し伸べるような真似は(少なくとも、面と向かって、は)せぬのが現実的に最善の策なのである。「本当に正しい事柄」は、「お前は間違っている;正しくは、これだ!」という形で愚昧層の眼前に叩き付けることは決してせず、しかしそんな連中でもその気になれば密かに覗き見して真実を知ることができるような形でどこかにさりげなく置いておくのが、正しい啓蒙のあり方というものである。超絶的な知識と卓抜した発想を持ったSF作家H.G. Wells(あの「タイムマシン」なる物語を書いた人)は、良いことを言っている ― Man hates to be put right, and yet also he wants to be right.:人は誰しも「正しくありたい」と願うもの・・・だが、「是正される」のはキライなもの。
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【に】〔格助〕
『接続:格助={体言・連体形・連用形・副助詞}接助={連体形}終助={未然形}』
(12)(比較対象)相対比較の対象となる他の何かを表わす。
・・・に比べて。 ・・・より。・・・に対して。・・・のように。
*接続=体言。連体形。
*比較対象を表わす格助詞の「に」(例:「もののふを犬<に>なずらふはいかにぞや」=「武士を犬<と>比較する/犬<に>例えるのは、ちょっとどうかと思う」)。現代語では「に」の他に「と」を宛がうこともできる語法。
*英訳=「as compared with A」/「in contrast to A」/「against A」/「to A」/etc, etc.
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【に】〔格助〕
『接続:格助={体言・連体形・連用形・副助詞}接助={連体形}終助={未然形}』
(6)(原因・理由)前述の事柄が、後述の結果を招くことになる意を表わす。
・・・ゆえに。 ・・・のせいで。・・・・のおかげで。・・・によって。・・・のために。
*接続=体言。連体形。
*原因・理由を表わす格助詞の「に」(例:「酒<に>ゑふ」)。20種近くある「に」の格助詞語法の中でも比較的面倒なものの一つで、現代語訳する時に単に「Aに」で通じる場合も少なくないが、多くは直前に語句を補って「・・・故に/・・・のために」としたり、「・・・によって/・・・のせいで/・・・のために」などの表現に置き換えたりする必要がある。
*英訳=「because of A」/「on account of A」/「due to A」/「thanks to A」/etc, etc.
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【や】〔係助〕
『接続:係助={体言・連体形・連用形・副詞・助詞}終助={終止形・已然形・体言・言い切り文}接助={連用形}間投助={連体修飾語・接続語以外の様々な語}』
(2)(確定的推量)(推量助動詞「む」・「らむ」・「けむ」などと共に用いて)確信のある事柄を疑問文の形で述べたり、相手に問いかけて答えを引き出そうとする。
・・・ではないのか。 きっと・・・だろう。・・・に違いない。
*接続=各種の語句。
*疑問を表わす係助詞の「や」の中でも、単純な「・・・だろうか?」ではなく、「きっと・・・なのではなかろうか?」という確信ある推量の意を疑問文の形で相手にぶつける珍しい言い回し。現代日本語にも定型句的に残っていて、「さぞや・・・だろう(=きっと・・・なことだろう)」に於ける「や」がこの語法にあたる。その特性上、推量の助動詞「む」・「らむ」(・・・現在の推量)/「けむ」(・・・過去の推量)と共に用いられる表現である。
*英訳=「I believe ...」/「perhaps ...」/「probably ...」/「in all likelihood ...」/「more likely than not ...」/「as likely as not ...」/etc, etc.
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【けむ】〔助動マ四型〕{○・○・けむ(けん)・けむ(けん)・けめ・○}
『接続:{連用形}』
(1)(不確実な過去の推量)過去に存在したと思われる事態について想像して述べる。
・・・ただろう。 ・・・たのであろう。
*接続=連用形。
*確認できない過去の事柄について、「・・・だったのだろう」として推量する「過去推量助動詞」と呼ばれる「けむ」の基本的語法。
*英訳=「might have ...ed/been A/been ...ing」/「I believe ...」/「perhaps ...」/「probably ...」/「in all likelihood ...」/「more likely than not ...」/「as likely as not ...」/etc, etc.
-「けむ」の来歴-
*「けむ」は「過去の推量」であるから、その語源としては当然「過去助動詞き(未然形け)」+「現在推量助動詞む」が想定されるところであるが、その他にも次のような語源説がある:
◆「来(き)+経(へ)+推量助動詞む」
◆「過去助動詞き+推量助動詞古形あむ」
・・・いずれの説ももっともらしいが、どれが真説かは定かではない。いずれにせよ、「む」の過去版と響く「けむ」ではあるが、実際には「む」よりも「らむ」の対照語と言うほうが正しいのが「けむ」である。
-「らむ」と「けむ」とは似たものどうし-
*推量の対象となる時制が「現在」なら「らむ」/「過去」の推量なら「けむ」というだけで、語法的には「らむ/けむ」は鏡に映したように瓜二つである。一方、「む」の語法は「らむ」より多岐に渡るため、「けむ」と並べて把握すべき相手はやはり「らむ」であって「む」ではないと言える。
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【や】〔間投助〕
『接続:係助={体言・連体形・連用形・副詞・助詞}終助={終止形・已然形・体言・言い切り文}接助={連用形}間投助={連体修飾語・接続語以外の様々な語}』
(1)(詠嘆)感動の意を表わす。
・・・だなあ。 ・・・なことよ。・・・であるよ。
*接続=各種の語句。
*文章の末尾など、切れ目の部分に置いて、詠嘆の響きを出す「・・・だなぁ」の意の「や」。現代関西弁の「・・・や(なぁ)」のほか、和歌・俳句の中でもよくお目にかかるタイプの間投助詞(例:古池<や>・・・蛙飛び込む水の音・・・)である。
*英訳=「.., I should say」/「.., isn't it?」/「.., don't you think?」/「.., you know.」/「How ...!」/「What ... !」/etc, etc.
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【も】〔係助〕
『接続:係助={体言・連体形・連用形・副詞・助詞}接助={連体形・形容詞型連用形}終助={終止形・連体形・文末}』
(2)(累加)既にある事柄に、類似した別の事柄を更に付け加える意を表わす。
・・・もまた。 ・・・までも。更に・・・も。その上・・・まで。
*接続=各種の語句。
*現代日本語にもそのまま残る「累加:右に同じ」の意を表わす係助詞「も」の語法(例:花は散り、人<も>つひにははかなくなる)。
*英訳=「.., too」/「also ...」/「the same goes for A」/etc, etc.
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[52]
【も】〔係助〕
『接続:係助={体言・連体形・連用形・副詞・助詞}接助={連体形・形容詞型連用形}終助={終止形・連体形・文末}』
(6)(強調・含意)文意を強めたり、明示・断定を避けて含みを持たせたりする。
・・・も。 ・・・でも。・・・なども。・・・なんか。
*接続=各種の語句。
*係助詞「も」の、なんとももにゃもにゃとしてはっきりせぬ語法。見出しは一応「含意」だの「強調」だのと付いてはいるものの、「力説」したいのか「遠慮」したいのかよくわからぬやつで、要するに、その対象となるものを取り立てていうのに付ける係助詞として、「Aは」を付けたのではその「A」をあまりにも特別視しすぎるきらいがあって好ましくないから、仕方なしに「A+も」に逃げ込んだような感じとでも言うべきか・・・それでいて時にはきちんと強調の含意があって「せっかくのAといえど<も>」のような形で隠れたパンチを繰り出したりする場合もあったりして、とにかく(いかにも日本語の助詞らしい)「ウナギのようにクネクネとして捉え所<も>ない」語法である(例:「はぁ・・・君<も>わからん人だねぇ・・・」)。このもやもや感は現代日本語にもそのまま引き継がれている。
*英訳=「even A」/「things like A」/「such as A」/etc, etc.
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[53]
【る】〔助動ラ下二型〕{れ・れ・る・るる・るれ・れよ}
『接続:{四段&ナ変&ラ変の未然形}』
(3)(受身)他者からの作用を受ける意を表わす。(通例、無生物は主語にならない)
・・・れる。 ・・・られる。・・・される。・・・を被る。・・・の目に遭う。
*接続=四段・ナ変・ラ変の未然形。
*「受身」の意味を表わす「・・・る/らる」は、現代日本語「・・・れる/られる」にもそのまま残るが、古語ではその対象が「人間・動物」にほぼ限られ、それ以外のもの(植物・物体など)を主役に見立てた「受身」は少ない。
*英訳=「be ...ed (passive voice)」/「get ...ed (passive voice)」/「have A ...ed」/「get A ...ed」
*「る」は「四段活用・ナ行変格活用(「死ぬ」・「去ぬ」)・ラ行変格活用(「あり」及びその複合語)」に付き、それ以外の動詞には「らる」が付く。接続する動詞が違っても、「る/らる」の表わす意味は全く同じ。
-主体/客体不明瞭な日本語では、受動態もまた発達しない-
*概して、日本語は(古文でも現代文でも)英語に比べて「受動態」があまり発達していない。純粋に論理的に割り切った場合、受動態とは、「SがOをVする」という行為を、行為者(S)の立場ではなく、被行為者(O)の立場から逆転して眺めたもの(・・・実際の英語の受動態は必ずしもそうではなく、最初から「被行為者を主役に見立てた言い回し」であって、「SVO」の裏返しではない、というのが英語人種の正しい感覚なのだが、それはこの際さて置くとして)・・・この場合「Sが、Oを、Vする」という形で「行為の主体/行為の客体/行為そのものの内容」が全て明瞭に意識されていない限りは、「SはOをVした → Oは、Sによって、Vされた」という逆転の見立てもまた成立しない。
*ところが、日本人は古来、「誰が、何を、どうした」という「行動過程の明確化」を忌避する体質を持っている(21世紀の現在に於いてさえ、相変わらずそうである)。「give someone(A) credit for something(B):誰か(A)に対し、何か(B)の功労者としての功績(credit)を与える」という形で「人と行為を明確に見据えて顕彰する」という態度が、古来、日本人には備わって来なかったのである。
*気色ばむ日本人も多数存在するであろうが、英語圏を代表格とする「クレジット文化圏(非現金払い、の意味ではない)」との対比に於いて日本国/日本人を客観的に捉える比較文化論的パースペクティブ(perspective:了見・視野・展望)を持ち、かつ、平安時代の日本語の数々の特性に対する広範にして分析的な理解を我がものとした日本人であれば、「誰が、どのような形で、何をした・・・から、Xは達成されたのだ」という図式を明確化しようという態度がこの国の人間達に(古今常に)いかに欠落しているかが、唖然(or憤然)とするほどの明瞭さで、必ずや認識されることになろう。
*とりあえず、まずは覚えておくことだ:「受動態を自在に使いこなせない者は、自/他の区分に疎い者である」という論理学的事実と、「日本語は昔も今も受動態がヘタクソ」という言語学的事実を。
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[54]
【ぞ】〔係助〕
『接続:{体言・連体形・連用形・副詞・助詞}』
(1)(強調)(文中で用いて)上の語句を取り立てて叙述全体を強調する。
・・・が。 ・・・こそ。・・・はまさに。・・・は実に。
*接続=独立語以外の各種の語句。
*「ぞ」が(文末ではなく)文中に用いられた場合は「直前の語句を強調する係助詞」で、その強調語法の一環として、これと呼応する文末の動詞の活用形は「連体形」で締めくくる「係り結び」となる。
*英訳=「this is the A」/「nothing but A」/「none other than A」/「the very A」/etc, etc.
*「ぞ」が文末に置かれた場合は係助詞ではなく終助詞で、その場合の語法は1)「文章全体の意味を強調する」2)「文中の疑問詞を受けて、疑問・反語の意を表わす」のいずれかとなる。現代日本語には「これ<ぞ>真の黒田節」のような強調語として残っている。
-「係り結び」を招く語句-
*係り結びを形成する語句には大きく分けて2つあり、その語句と呼応する文末は基本的に「連体形係り結び」となる(唯一、「こそ」の場合のみ「已然形」で結ぶ):
1)疑問の意味を表わすもの(例:「何ぞ」・「何故に」・「などか」・「何時かは」・「何でふ」等々)
・・・単純に言えば、「古文では、疑問文の終わりは連体形で結ぶ」と思えばよい。
2)係助詞・・・その意味/結びの形は以下の通り
-連体形で文末を結ぶ係助詞とその意味-
A)「ぞ」=直前の語句を強調する
B)「なむ」=直前の語句を特に指示する形で取り立てる
C)「や/やは」=疑問・反語の意を表わす
D)「か/かは」=1)疑問・反語の意を表わす 2)(「とか」の形で)不確かな事柄として語る 3)(「AかBか」の形で)どれか特定できない事柄を列挙したり、その中から選択したりする意を表わす
-已然形で文末を結ぶ係助詞「こそ」とその意味-
E)「こそ」=1)直前の語句を強調する 2)直前に述べられた事態とは逆の方向性を持つ逆接の陳述を後に続ける 3)(「もこそ」・「ばこそ」の形で)懸念を含む仮想の話(・・・したら大変だ/・・・というのならばともかく、さもなくば)として語る
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【かし】〔終助〕
『接続:終助={終止形・命令形・終助詞・副詞・感動詞}副助={副詞「なほ」「よも」「さぞ」}』
(1)(聞き手に向けて)念を押す。
・・・よ。 ・・・だからね。・・・なのだ。
*接続=終止形。命令形。終助詞。
*眼前にいる相手に向かって「・・・(なの)(だ)よ」と諭したり、念を押したり、訴えかけたりする終助詞「かし」の語法(例:「詮無き事はやめよ<かし>」=「無駄な真似はおやめなさいな」)。現代日本語には引き継がれてはいない。
*英訳=「.., you know.」/「.., mind you.」/「.., I'm telling you.」/「.., yes.」/etc, etc.
*相手に対して用いるにせよ、自分自身に念押しするにせよ、直前の語句を強めるにせよ、終助詞「かし」(近世以降は副助詞としても用いた)の語法は「強調」のみで、訳し方は文脈に応じて自然に決めてよいが、よく用いられるのは「・・・(の)(だ)よ」・「・・・(の)だ(なぁ)」あたりである。
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【は】〔係助〕
『接続:係助={体言その他各種}終助={体言・連体形・助詞「ぞ」・「や」}』
(3)(整調・強調)語調を整えたり、叙述を強める働きをする。
(特定の訳語はない)
*接続=各種の語句。
*文中に置かれて、語調を整えたり強調したりするのに用いられる係助詞の「は」の語法(例:「いかでかく<は>こころあしからむ・・・どうしてこうも意地悪なんだろう?」)。取り去っても何ら意味が変わらない空気のように軽い「は」である。現代日本語には残っていない。
*英訳=「... o ...」/「... oh ...」/「... ah ...」/「... yeah ...」/etc, etc.
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【る】〔助動ラ下二型〕{れ・れ・る・るる・るれ・れよ}
『接続:{四段&ナ変&ラ変の未然形}』
(4)(尊敬)動作主を敬う意を表わす。
・・・なさる。 ・・・される。お・・・になる。・・・られる。
*接続=四段・ナ変・ラ変の未然形。
*動詞に付けて、その動作の行為主に対する敬意を表わす助動詞が「る/らる」。但し、「る/らる」の表わす敬意はあらゆる「尊敬助動詞」の中で最も低い。
*英訳=和語の敬語に相当する表現は英語には存在しない。無理に敬意を表わそうとして「deign to ...」のような表現に持ち込むと「かたじけなくも...してくださる」などという「The Queen deigned to wash my dirty underwear by her own hands!:恐れ多くも女王陛下自ら私の汚れた下着を洗濯してくださいましたっ!」みたいなとんでもないことになってしまう。
*「る」は「四段活用・ナ行変格活用(「死ぬ」・「去ぬ」)・ラ行変格活用(「あり」及びその複合語)」に付き、それ以外の動詞には「らる」が付く。接続する動詞が違っても、「る/らる」の表わす意味は全く同じ。
-「る/らる」の「尊敬」は、「自発」の意から生じたもの-
*「る/らる」は上代(奈良時代)の助動詞「ゆ/らゆ」に由来するもので、その本義は「自発」、つまり「思わず知らず・・・してしまった」である。この語義が「自分から敢えてそうしようと思わずとも、自然な成り行きの中で・・・になっている」という「周囲の人間があれこれ動いて、自分が手を下すまでもなく状況が整ってしまう」という「貴人の行動様態」に相応しいもの、ということで「尊敬」の助動詞と化したわけである。
*現代人が古文を読んでいて奇異に感じることの一つに、「主体的・意志的に動くこと=下賤の者どものする蔑むべきこと」という意識がある。好きだった女性を密かにその宿に訪ねた男が、「食事を食器に自らの手でよそう(現代風に言えば、よそる)」女の姿を見て「幻滅した・・・あの女とはもう会うのはよそう」という『伊勢物語』の一節に面食らった諸君も多かろう。「自分としてはそうしたい」けど「自分でそれをしたら見苦しい」から「自分の意を汲んでそうしてくれる目下の者たちが、自分に代わってそうする状況を持とう」というのが「古典時代のエラい人の心理・行動原理」なのである・・・主体的行動を尊ぶ現代(西欧流)文明の観点からすれば「・・・ったく、何を偉そうなことほざいてやがる、何様のつもりだ貴様!」となる振る舞いだが、「貴様=貴人様」は「自分は偉いので、自分の周囲の者があれこれ動いてそうするのが自然」と思っているのだから、「自然発露的他力行動の成果=自分の手柄」という貴人意識は、「それが貴人という名の奇人の美意識・・・なのであった」として認識しておくよりほかはない。
*それと同時に、この種の「蔑むべき非主体性の御膳立て指向者(&手柄だけは我が物顔)の貴人気取りの"貴様!"連中」が、現代日本に相も変わらずはびこっていないかどうか、冷徹な客観的観察者としての目を研ぎ澄ます知性もまた、いやしくも「古文を学んで古文から学ぶ」意識ある知識階層には、自然な副産物として備わって然るべきであろう。「自分は***の立場なのだから、相手は自分を***として遇するべきだ」という意識が、いったい何様の心持ちとして生じるものか、それが歴史の中でいかなる弊害を生んできたか/現状に於いてなお生じ得るものか・・・「古文から学ぶもの」がそれなりに大きい現代日本人ならば、その答えは知っていて然るべきなのだ。
-「敬語」は「日本の文化!」だけどね・・・-
*良かれ悪しかれ、日本語の敬語というものは「発話段階で自/他の立場を分け隔てる差別化語法」であり、基本的に「立場の違いを超えて分かり合うための道具」たることを指向する西欧言語にはこんな迷惑な代物はない:もし相手を殊更に持ち上げたいのならば、語句の端々で「意志的に丁寧・遠慮を演出」することで相手への敬意を表出する個別的工夫が凝らされるのが西欧言語であって、日本語のように「相手が自分より目上なら、最初から最後までずっと上目遣い話法/自分より目下なら、徹頭徹尾見下し話法」などという構造的&全体主義的差別言語とは、根源的に全く異質のものなのである。
-「時間」にloose(和風に言えば、ルーズ)で「敬語」にウルサい変な国-
*この点、「動詞の時制は、過去/現在/未来のいずれであるかをその都度必ず明示する」という西欧言語の律儀な時制的特性が和語には存在せず、「折々、自分自身の気分に従って、"心的態度としての過去モード"であることを相手に念押しするために、"き"・"けり"を付けるだけ」という「基本的にすべて"現在"モードで推移する日本人の恣意的時制感」と、「相手が目上なら常に上目遣い/目下なら常に見下しモード、という首尾一貫した敬語の枠組み」は、際立つ対照を成すものであると言えよう。
*相手との相対的序列(自分が上か、相手が上か)を決めてからでないと発話が不可能(少なくとも、極めて困難または不自然)というこの「敬語なる差別化言語構造」に邪魔されて、見知らぬ相手に対して迂闊に口も開けぬこの言語学的特性は、日本人の場合、そうした差別的言語構造と無縁の外国語(英語などはその最たるもの)に習熟した後でなければ実感をもって認識することは不可能である。それだけに、外国帰りの日本人が、自らの母国の「言語学的差別主義者の日本人たち」との対話に著しい困難を来たす、という事態が古来(といっても明治維新後の短い時間幅の中でのことだが)続出し、そのたびに「純然たる日本人たる外国語使用不能者」は、「自分たちをヘンな目で見下す外国語使用能力を持った日本人」のことを「イケ好かない異国かぶれの非国民」扱いしてきた(&今なおそうし続けている!)わけである・・・が・・・この状況、いつまで続けるつもりであろうか、この東洋の島国の住人たちは・・・この「敬語なる差別主義話法」が「数千年来続いてきた日本人の意識の言語学的infrastructure=土台」であることは(古文を学べば心底「もうイヤ!」というほど)歴然たる事実として思い知らされる事柄ではあるが、そうした「millennium-old tradition(千年来の伝統芸)の数々(真に美しい和歌とか古語とか)をいとも平然とかなぐり捨てて生きている現代日本人」という事実をもまた、溜息が出るような思いで痛感させてくれるのが「古文学習」である・・・ので、今ある言語構造をあっさり捨て去った「新生和語」の誕生もまた、夢物語ではないことを期待しつつ、この「敬語なる有害無益な差別化言語構造」の死滅を、心底より祈るこの筆者である。
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【らむ】〔助動ラ四型〕{○・○・らむ(らん)・らむ(らん)・らめ・○}
『接続:{終止形・ラ変の連体形}』
(3)(現在の事柄の原因に関する疑問)(原因・理由を表わす表現は伴わず、疑問の意を表わす語を伴って)現在の事柄の生じた原因・理由がわからない意を表わす。
何故に・・・なのだろう。 どうして・・・だろうか?・・・なのは~か?
*接続=終止形(ラ変のみ連体形)。
*現在推量助動詞「らむ」が疑問を表わす語を伴った場合、単純な「現在の未確認事態の推量:・・・だろう」にはとどまらず、その現在の事態の背後にある事情を推量する「(***に)・・・なのだろうか?」の意を表わす。「らむ→らう→ろう」と転じて現代日本語にも残る言い回しである(例:「どうして自分はこうも覚えが悪いのだ<ろう>?」)。
*英訳=「where...?」/「how...?」/「when...?」/「why...?」/etc, etc.
-原因推量の「らむ」&「けむ」-
*古典文法の常識として、推量助動詞「らむ」と「けむ」とは、対象となる時点が「現在(らむ)/過去(けむ)」と異なるだけで、語法は(ほぼ)同じ、という事実を踏まえておく必要がある。その「らむ(現在推量)」/「けむ(過去推量)」の語法は、大きく分けると次の3通り(「らむ」は数え方によっては4通り)になる:
1)「単純推量」
・・・現在/過去に於いて「存在している/存在した」とは確認できない事態について、「現時点で・・・だろう」/「過去の時点で・・・だったろう」という推量を表わす。
2)「原因推量」
・・・現在/過去に於いて「存在している/存在した」と確認されている事態について、「どうして・・・なのか/・・・だったのか」という原因・理由(その他の事情)についての推量または疑問の念を表わす。
3)「伝聞」
・・・現在/過去に於いて「存在している/存在した」と自分自身が確認したわけではない事態について、他者から聞いた情報として「・・・だそうだ/・・・だったそうだ」という又聞きの形で述べる。
・・・この「伝聞」語法の変形として、現在推量の「らむ」にはまた、自身に確信がある事態について、敢えて断定回避のために「伝聞情報ふう」を装うことで「婉曲」に述べる語法もある。
*このうち、特に注意を要するのは「らむ/けむ」が「原因推量」を表わす語法であり、これらは更に次のような形で2つに細分化される:
2A)「原因・理由に関する不確実な見解」(疑問詞は伴わず、原因・理由を表わす語句を伴う)
・・・確信はないが「恐らく~だからこそ・・・ということになるのだろう/なったのだろう」として自らの意見を述べる。
2B)「原因・理由に関する疑問(散文型)」(原因・理由を表わす語句は伴わず、疑問詞を伴う)
・・・「何のために/どうして/どうやって/どこに/いつ/etc, etc.」のような疑問の語句を伴って、確認されている事態の背後にあると想定される「未確認の何か」を相手に尋ねたり、不思議がったりする。
*更にまた、現在推量の「らむ」に関しては、次のような特殊な用例が(特に和歌の中で)見られる:
2C)「原因・理由に関する疑問(詩文型)」(原因・理由を表わす語句は伴わず、疑問詞をも表面的には伴わないが、言外に疑問詞が含意されている)
・・・本質的には2B)と同じだが、語数に制約のある和歌の中に織り込むために「本来あるべき疑問詞が省略された形」なので、解釈する際にはその被省略疑問詞(「など=why」等)を補足して読む必要がある。
・・・五七七五七七の語数に収めねばならぬ都合上、やむなく生じた「和歌語法」とでも言うべき修辞法だが、詩文から飛び火する形で散文の中で用いられている場合もある。用例こそ少ないが、見えない疑問詞を脈絡から補足する必要がある難解な語法だけに、入試問題の「受験生イジメ」では格好の狙い目となる。
・・・論理的には、この現在推量「らむ」の「疑問詞省略語法」は、過去推量「けむ」にも生じ得るものであるが、用例が少ない(orない?)ということか、入試でこの語法が問題になるのは決まって「らむ」の場合のみである。
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【も】〔係助〕
『接続:係助={体言・連体形・連用形・副詞・助詞}接助={連体形・形容詞型連用形}終助={終止形・連体形・文末}』
(1)(列挙)同類の事柄を並べて述べる。
・・・も・・・も。 ・・・から・・・まで。・・・いずれも。・・・のどれもこれも。・・・みんな。
*接続=各種の語句。
*「Aも、そしてまたBも」の形で、類似した事例を複数重ねて用いる係助詞「も」の語法で、現代日本語にもそのまま残るもの(例:すもももももももものうち・スモモモモモモモモノウチ・李も桃も桃の内)。
*英訳=「such as A, B, ...」/「including, A, B, ...」/etc, etc.
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【と】〔格助〕
『接続:格助={体言・連体形・連用形・文末}接助={動詞型活用語終止形・形容動詞型活用語終止形・形容詞型活用語連用形・助動詞「ず」連用形}』
(6)(結果)(「す」・「なる」・「なす」などの語とともに用いて)変化の結果を表す。
・・・へと。 ・・・に。・・・という結果に。
*接続=体言。
*直後に「す(為)」・「なる(成る)」・「なす(成す・為す)」等の動詞を伴って、「Aにする」の意を表わす格助詞「と」の語法。英語で言えば、「なる:S+become+C」/「す・なす:S+make+O+C」の構文に於ける「C=補語:complement」に相当するもの(例:「妻<と>す/なる/なす」)。現代日本語にも残っているので、殊更難題<と>するにはあたらない。
*英訳=「S+V+<C>(subjective complement)」/「S+V+O+<C>(objective complement)」
*英語では「・・・へと」の意味は構文上の語順で表わし、特定の語句で表わさないのが普通だが、次のような構文で考えれば、この格助詞「と」は、英語の前置詞「into」や「as」、及び「to do」のような句に近いと言える:「make A into B」/「render A into B」/「regard A as B」/「consider A to be B」/etc, etc.
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【のみ】〔終助〕
『接続:{体言・連体形・副詞・助詞}』
(1)(限定)ただそれだけで他には何もない意を表わす。(断定)強調・詠嘆の意を添える。
・・・だけである。 ・・・であるに過ぎない。ただ・・・のみ。
*接続=体言。連体形。副詞。助詞。
*限定あるいは強調を表わす副助詞「のみ」(文末に置かれた場合は終助詞扱いとなる)。現代日本語の文語表現同様「ただ・・・だけ」と訳してよい場合(例:「猫<のみ>いたはる・・・ネコばっか可愛がる」)は「限定」の意味と解釈し、それでは通じない場合(例:「いたはり<のみ>せらる・・・自然と可愛がりたくて仕方ない気分になる」)は古文特有の「強調・断定・詠嘆」用法として、「それはもう・・・だ」などと訳せばよい(が、両者の区分が曖昧な場合も少なくない)。
*英訳=「only ...」/「just ...」/「nothing but ...」/「simply ...」/etc, etc.
-「のみ」と「耳」-
*文末にあって断定的力説に使われる終助詞「のみ」は、漢文訓読調の堅苦しい文章に多い。漢文に於ける限定性文字「のみ」(耳・爾・已など)の影響と考えられ、それ自体にはほとんど何の意味もない。敢えて言えば、文末に「かな」や「けり」を付ければ「詠嘆調」/「のみ」や「き」や「つ」を置けば「断定調」、といったニュアンスを添えるためにのみ使われる「雰囲気演出記号」と思えばよい。「限定:ただ・・・だけである」/「断定:とにかくもう・・・ったらないのだよ」の見分けが困難な「のみ」であるが、「耳」と置き換えて「こんなのただ置かれてるのみの字」と感じられれば「断定記号」と思えばよいだろう。
-「のみ」の「身」-
*この副助詞「のみ」の語形は、上代に、格助詞「の」+名詞「身」=「そのものズバリ」の形から生まれ、限定・強調の意を表わす語となったものと言われる。
-「のみ」と「ばかり」-
*中古の和文では、限定性を表わすには類義語の「ばかり」ばかり用いて、「のみ」は漢文などの文語のみに用いられるようになった。現代日本語に於ける口語の「・・・ばっか」/文語の「・・・のみ」の関係は、平安時代に既に確定されていたわけである。
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【ものゆゑ】〔接助〕
『接続:{連体形}』
(1)(逆接の確定条件)前述の事態が存在するにもかかわらず、それに反する後述の事態が成立する意を表わす。
・・・のに。 ・・・けれども。・・・だが。・・・にもかかわらず。
*接続=連体形。
*現代日本語にもそのまま残る「ものゆえ」、その感覚からすれば古語の「ものゆゑ」も「順接の確定条件」になりそうだが、現実の古文ではほぼ常に「逆接の確定条件」、即ち「・・・ではあるけれども」となるので、錯覚から誤読に陥りやすい要注意古語である。
*英訳=「though ...」/「although ...」/「in spite of A」/「A notwithstanding」/etc, etc.
-時代と共に移り変わる「ものゆゑ」-
*「ものゆゑ」の「順接」用法は、上代には全く存在しない:元来「逆接」表現なのである。中古に於いても逆接用法が主流であるが、「誤用」の形で順接の意味でも用いられるようになった(但し、「順接」の用例は平安期の文物にはごく僅かしか存在しない)。
*中世以降は、「順接」としての用例が「逆接」を上回るようになり、現代日本人の語感の源流をなしている・・・が、この時代にはすでに「雅語」扱いなので用例自体が少ない(それも決まって誤用なのが、いかにも日本の古語らしい・・・「来歴無視」の「見た感じ錯覚語感に依拠した恣意的言葉遣い」が古来罷り通るものゆゑ、これを見ている諸君は「ものゆゑ」の解釈は、くれぐれも慎重に・・・)。
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【ものゆゑに】〔接助〕
『接続:{連体形}』
(1)(逆接の確定条件)前述の事態が存在するにもかかわらず、それに反する後述の事態が成立する意を表わす。
・・・のに。 ・・・けれども。・・・だが。・・・にもかかわらず。
*接続=連体形。
*「ものゆゑ」に接続助詞「に」が付いただけの語である「もの故に」、その意味は「ものゆゑ」と全く同じであり、現代日本語にもそのままの形で通じそう・・・だが、そこに落とし穴がある。現代日本語感覚では「・・・ものゆゑ=・・・なものだから」という「順接の確定条件」になりそうだが、現実の古文ではほぼ常に「逆接の確定条件」、即ち「・・・ではあるけれども」となるので、錯覚から誤読に陥りやすい要注意古語なのである。
*英訳=「though ...」/「although ...」/「in spite of A」/「A notwithstanding」/etc, etc.
-時代と共に移り変わる「ものゆゑ(に)」-
*「ものゆゑ」の「順接」用法は、上代には全く存在しない:元来「逆接」表現なのである。中古に於いても逆接用法が主流であるが、「誤用」の形で順接の意味でも用いられるようになった(但し、「順接」の用例は平安期の文物にはごく僅かしか存在しない)。
*中世以降は、「順接」としての用例が「逆接」を上回るようになり、現代日本人の語感の源流をなしている・・・が、この時代にはすでに「雅語」扱いなので用例自体が少ない。それも決まって誤用なのが、いかにも日本の古語らしい・・・「来歴無視」の「見た感じ錯覚語感に依拠した恣意的言葉遣い」が古来罷り通るものゆゑに、これを見ている諸君は「ものゆゑ(に)」の解釈は、くれぐれも慎重に・・・。
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【む】〔助動マ四型〕{○・○・む(ん)・む(ん)・め・○}
『接続:{未然形}』
(4)(仮想・婉曲)(連体形・準体法で文中に用いて)ある事柄が仮に実現した場合の、その事柄について、仮想の形で、または、遠回しに述べる。
もし・・・したとして、その~。 仮に・・・としてその~。例えば・・・のような。
*接続=未然形。
*推量助動詞「む」の中でも、最も訳しづらい(というか、多くの場合、訳さないほうが自然な日本語になる)語法で、「婉曲」と呼ばれるもの。常に「連体形」または「準体法(後続部にあるべき体言を省略しつつ、あたかもその体言が存在するかのように扱う)」で用い、厳密に解釈すれば「もし仮に・・・するとして、その・・・」という持って回ったものになる。(例:「君の入ら<む>大学」=「君が入学する・・・とした場合のその・・・大学」)
*英訳=「should/would/might/etc, etc. (subjunctive mood)」
-古語にはあっても現代語にはない「仮定」のニュアンス-
*英語の「仮定法」に通じる語法で、例えば「人の知ら<む>も面映ゆからむ」は、英語でなら「I <should> feel embarassed if somebody else <should> know it.:他の誰かがそれを知った<としたら>自分としてはばつの悪い思いをすること<だろう>」となるが、この仮定法表現を<・・・としたら、それは・・・だろう>と律儀に訳すのは、この種の仮定表現の厳密性を重んじない(むしろ、嫌う)現代日本語では不自然な感がある:「他の誰かが知ったら、ばつが悪い」として<・・・としたら>も<・・・だろう>もお引き取り願ってしまうほうがよかったりもするのだ。
*そうした次第で、この「婉曲」の「む」もまた、古典時代には存在したものの、現代日本語では死語と化している語法の一つ、というわけである。ちなみに、「むず」/「らむ」にも同様の「婉曲語法」がある。
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[65]
【さす】〔助動サ下二型〕{させ・させ・さす・さする・さすれ・させよ}
『接続:{四段&ナ変&ラ変以外の未然形}』
(1)(使役)他の人物や物事に、何らかの動作を取らせたり事態の発生を促したりする意を表わす。
・・・させる。
*接続=四段・ナ変・ラ変以外の未然形。
*「す/さす」(四段・ナ変・ラ変には「さす」/それ以外には「す」を用いる)の最も根本的な「(自分以外の他者・物事に、自分に代わって)・・・させる」の「使役」の語義。現代日本語にも「大学・会社・役職の格をもって自身の拙き知性・能力・人格に代替<させる>」というような形で残っている。
*英訳=「make A ...」 /「have A ...」/「get A to ...」/「order A to ...」/etc, etc.
-なぜ「す」・「さす」には「使役」と同時に「尊敬」の意があるのか-
*「自分では事を為さず、他者を介して事が成る」のを尊ぶのが古典時代の貴人の美意識であったため、「使役=他者に・・・させる」の「す/さす」が「貴人にふさわしい行動様態=尊敬」の意を表わすようになったのである・・・が、それと同時に「使役」の語義をも相変わらず有していた「す/さす」だけに、文脈に応じて「使役」と解釈したり「尊敬」で訳したりと、読み手としては非常に困るのが古語の「す/さす」による敬語表現である。
-現代語「させる」は古語では「為+さす」-
*現代日本語では、「尊敬」はもっぱら「・・・れる/られる」の役割であって、「す/さす」の末裔の「・・・せる/させる」は専ら「使役」の意味を表わすのみである。注意すべきは、現代の使役表現「させる」は一語扱いだが、古語の場合はあくまで「せ(為)+さす」の連語扱い、という点。
*古語で「させる」に出くわしたらそれは「使役」ではなく、「然+為る(+事)」の形で「たいした事」の意味であり、多く否定形で「たいしたこともない」の意を表わす全くの別表現となる・・・現代文語では「さしたること(もない)=然+為たる+事(も無し)」がこれにあたる。
-「尊敬」助動詞にみる作為性・自然発露性の違い-
*「尊敬」を表わす古典助動詞には、「す/さす」以外にも「る/らる」がある。この語が「尊敬」の意を表わすのは、「自分が意識的に事を為そうとせずとも、周りの者達があれこれ手を回して、気付けば自然と・・・になっている」という、これまた「為す、より、成る」を尊ぶ「貴人意識の非主体性」が生んだ現象である。
*現代日本語で「使役」由来の「す/さす」ではなく「自発」由来の「る/らる」を敬語に宛がうのは、「す/さす」が持つ「他者をアゴでこき使う感じ」が嫌われたからかもしれない・・・が、「る/らる」が感じさせる「自分であくせくガツガツ動かずとも、周りが根回しして事が成る」のを「理想的」とみなす意識が現代日本人にまで引き継がれているとすれば・・・「個人的努力&営為」を「集団全体としての功績」にすり替えた末に「集団内で一番偉い人の手柄」と化してしまう日本型組織への嫌気から、数多の優れた個人的才能がこの国を捨てて諸外国(主に欧米だが)へと活躍の場を求めている現実に照らし合わせて、日本国&日本人のありようについて、じっくり考えてみる契機になる話ではあるまいか?
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【つ】〔助動タ下二型〕{て・て・つ・つる・つれ・てよ}
『接続:{連用形}』
(2)(確述)(推量助動詞「む」・「まし」・「べし」・「らむ」や、補助動詞「あり」・「なし」・「侍り」、状態を表わす形容詞・形容動詞などと共に用いて)その実現が確実視される未来の事態や未確認の現在の事態について、確信を持って強調的に述べる。また、命令形で用いて強い希望を表わす。
きっと・・・。 確かに・・・。間違いなく・・・。全く・・・。
*接続=連用形。
*完了助動詞「つ」が、ある事態が「完了した」ことではなく、その事態が「確かにそこに存在する」ことを表わす語法。「完了」と対比して「確述」と呼ばれる。現代日本語にはない語法である。
*英訳=「surely ...」/「certainly ...」/「for sure」/「for certain」/「by all means」/etc, etc.
-語形ごとに見分ける「確述」の用法-
*この「確述」の語法は、その事態の「確実性」、事態に対する話者の立場、対象となる時点、及び、語形に応じて、更に次の3つに細分化される:
1)「あり/なし表現・形容詞・形容動詞の強調」
=「あり+つ」/「はべり+つ」/「なかり+つ」や、形容詞・形容動詞+「つ」の形で用いる。
例)「いぬのわがををおふもをかしかり<つ>」(=わんこが自分のシッポを追っかけるのも<実に>面白い)
・・・客観的観察から「確実に・・・だ」と述べるのではなく、主観的力説の形で「たしかに・・・だ」と述べる(心理上の)強調語法。
・・・対象となる時点は、「過去」及び「現在」。
2)「未確認事態の確実な推量」
例)「ねこのいぬいへゐにもいぬはゐ<つ>べし」(=にゃんこの居ぬ家屋にもわんこは居るだろう)
=推量助動詞を伴った「つ+む=てむ」・「つ+べし=つべし」・「つ+らむ=つらむ」の形で用いる。
・・・眼前にある事態について「すでに・・・した」と確認するのではなく、確認はできぬものの確実視される事態について「きっと・・・だろう」と述べる推量語法。
・・・対象となる時点は、「現在」及び「未来」。
3)「実現への希望」
=推量助動詞を伴った「つ+む=てむ」・「つ+べし=つべし」や、命令形「・・・てよ」の形で用いる。
例)「わがやのとりそこなひしねこをい<てよ>」(=うちの鶏をギッタギタにしちゃったネコを弓矢で射ておくれっ!)
・・・2)の語法の延長線上にある言い方で、「きっと・・・になる・・・はずだろう?」と相手に訴えかけることで、その事態の実現を強く促す疑似命令文的語法。
・・・対象となる時点は、「未来」。
-「てよ」→「よ」のなよなよ語感-
*上の3)の語法は、現代日本語でも「・・・して/・・・してよ」の形での相手への訴えかけとしてそのまま残る。
*単なる命令文の「・・・しろ/・・・せよ」に比べて、「・・・し+てよ」にやんわりソフトな語感があるのは、「眼前の相手に直接行動を命じる話法(・・・しろ/・・・せよ)」と異なり、「未来に於いて確実視される事態を述べて、相手がその実現に向けて動くことを間接的に期待する話法(・・・てよ)」だからこそである。
*この種のソフト化表現は、日本語よりむしろ英語の得意とするところであって、次の2つの英文を比べれば、直接性/間接性の使い分けが生む婉曲語感の相違は歴然たるものがある:
英文1)I want you to persuade him to come and join us.「彼が我々に加わるよう、君が彼を説得してほしい」
英文2)I would appreciate it if you would persuade him to come and join us.「彼が我々に加わるよう、君が彼を説得してくれたなら、それはもう有り難いことなのだけれど・・・」
-「ブタに真珠」を投げてみる・・・-
*この種の丁寧話法に関して、大方の日本人は「日本語(及び日本人)は得意/英語(特にアメリカ人)は不得意」という先入観を抱いている(・・・語学的に鋭い観察眼を持つ人間の目には日本人のこの種の偏見は歴然たることだ)が、日本人が「ていねい」に見えるのは、「持って回ったわざとらしい言い回し」が「言語構造的に日本語に固着している」からこそであって、意識的使い分けレベルでの「婉曲表現」に於いては、英米人のpoliteness(礼儀正しさ)の水準には、日本人など到底及ぶべくもないのである。「言語構造レベルで慇懃・・・多くの場合むしろ慇懃無礼・巧言令色少なし仁」の言語生活に惰性的に慣らされている日本人は、逆に、「意識レベルで丁寧」を演じることがヘタクソなのだ。
*そうした事実を思い知るためにも、自分達が日常的に使っている(がゆえに無意識の霧の中に霞んでいる)現代日本語とは別に、最低1つは「自らを映す鏡」を持つのが、「洗練された教養人」としての最低限の嗜みなのである。西欧人が「外国語も知らぬ者=粗野な非教養人」とみなすのは、なにも「外国語が使えると、実用上便利」とか「カッコよく見える」とかの(日本人の英語観に類する)素朴な理由によるものではなく、「自分自身の真の姿を知るための"他人の目"を自らの内面に有すること」が、己の思考・感覚・行動を正しく&美しく律する上での必須条件であることを、古来、西欧人たちがよく弁えてきたからこそなのである。
*多くの国々が国境線を挟んでひしめき合い、「よそ者」が常にそばにいる異邦人寄り合い所帯の西欧世界では、この種の「客観的視座」の重要度が(今も昔も)極めて高いのだ・・・が、翻ってこの日本国では、「よそ者は排除する」横並び一線意識が異様に根強く、「よそ者が横/内にいる状態」は「一刻も早く是正すべき異常事態」と感じられてしまう・・・真に丁寧な振る舞いは「相手の立場になって事態を眺める」ことから始まるものである以上、「相手の立場」と「自分の立場」が「対立構図を描くのは望ましくない;から、横一線に均してしまわないと落ち着かない」という日本人に、「真の丁寧話法」が根付く道理がないのである。
*「丁寧語法・慇懃作法」ばかりで「誠意の行動」がない日本人の姿は、西欧の流儀を弁えた教養人には歴然と目立つものである・・・が、彼らはその事実を敢えて日本人に向かって直言したりはしない:ズバリ言い放っても、どうせ「第三者の視線」を持たない相手がそれを実感することは不可能なのだから、「不当な中傷だ!」と息巻いて折角の忠言の主を嫌うばかりなのは目に見えている ― 西欧には「Don't cast pearls before swine.:ブタに真珠を投げるべからず・・・価値あるものを与えてやったのに、逆に、攻撃されたと勘違いして、怒って突進して来るから、二重の意味で損失だ」という格言があるのだ・・・にもかかわらず、この『扶桑語り』の筆者がそうした「愚挙」を承知で敢えて「日本人の、語学的観点/異邦人の目から見た、醜悪さ」を指摘するのは、筆者もまたその「デフォルト状態では醜い(ことの実に多い)日本人」の一員だからである:同胞諸君に、いつまでもブタのままでいてほしくないからこそ、である。「語学」を通して学び取れる「美学」があれば、一人でも多くの日本人にそれを知らしめて、醜→美の展開を促したいのだ・・・「美しくなれ!(Be beautiful!)」と強圧的に命じるつもりはない ― こうした事実を知れば、当然、美しく<なり+つ+べし>・・・You <should certainly be> the more beautiful for this knowledge.・・・の気分で、豚(の顔面ならぬ側面)に真珠を投げる営みを続けているわけである(から、怒って突進して来ないようにし<てよ>)。
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【に】〔格助〕
『接続:格助={体言・連体形・連用形・副助詞}接助={連体形}終助={未然形}』
(3)(時点)動作・作用の発生する時間的な場を表わす。
・・・の際に。 ・・・の時に。・・・の折に。・・・の場面で。・・・に。
*接続=体言。連体形。
*(時間的な)場面を表わす格助詞の「に」で、現代日本語で説明的に表わせば「・・・の際<に>」の感じ(例:「夏の終はり<に>飽きがくる」)。
*英訳=「at A」/「in A」/「during A」/「while ...」/etc, etc.
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【す】〔助動サ下二型〕{せ・せ・す・する・すれ・せよ}
『接続:{四段&ナ変&ラ変の未然形}』
(1)(使役)他の人物や物事に、何らかの動作を取らせたり事態の発生を促したりする意を表わす。
・・・させる。
*接続=四段・ナ変・ラ変の未然形。
*「す/さす」(四段・ナ変・ラ変には「さす」/それ以外には「す」を用いる)の最も根本的な「(自分以外の他者・物事に、自分に代わって)・・・させる」の「使役」の語義。
*英訳=「make A ...」 /「have A ...」/「get A to ...」/「order A to ...」/etc, etc.
-なぜ「す」・「さす」には「使役」と同時に「尊敬」の意があるのか-
*「自分では事を為さず、他者を介して事が成る」のを尊ぶのが古典時代の貴人の美意識であったため、「使役=他者に・・・させる」の「す/さす」が「貴人にふさわしい行動様態=尊敬」の意を表わすようになったのである・・・が、それと同時に「使役」の語義をも相変わらず有していた「す/さす」だけに、文脈に応じて「使役」と解釈したり「尊敬」で訳したりと、読み手としては非常に困るのが古語の「す/さす」による敬語表現である。
-現代語「させる」は古語では「為+さす」-
*現代日本語では、「尊敬」はもっぱら「・・・れる/られる」の役割であって、「す/さす」の末裔の「・・・せる/させる」は専ら「使役」の意味を表わすのみである。注意すべきは、現代の使役表現「させる」は一語扱いだが、古語の場合はあくまで「せ(為)+さす」の連語扱い、という点。
*古語で「させる」に出くわしたらそれは「使役」ではなく、「然+為る(+事)」の形で「たいした事」の意味であり、多く否定形で「たいしたこともない」の意を表わす全くの別表現となる・・・現代文語では「さしたること(もない)=然+為たる+事(も無し)」がこれにあたる。
-「尊敬」助動詞にみる作為性・自然発露性の違い-
*「尊敬」を表わす古典助動詞には、「す/さす」以外にも「る/らる」がある。この語が「尊敬」の意を表わすのは、「自分が意識的に事を為そうとせずとも、周りの者達があれこれ手を回して、気付けば自然と・・・になっている」という、これまた「為す、より、成る」を尊ぶ「貴人意識の非主体性」が生んだ現象である。
*現代日本語で「使役」由来の「す/さす」ではなく「自発」由来の「る/らる」を敬語に宛がうのは、「す/さす」が持つ「他者をアゴでこき使う感じ」が嫌われたからかもしれない・・・が、「る/らる」が感じさせる「自分であくせくガツガツ動かずとも、周りが根回しして事が成る」のを「理想的」とみなす意識が現代日本人にまで引き継がれているとすれば・・・「個人的努力&営為」を「集団全体としての功績」にすり替えた末に「集団内で一番偉い人の手柄」と化してしまう日本型組織への嫌気から、数多の優れた個人的才能がこの国を捨てて諸外国(主に欧米だが)へと活躍の場を求めている現実に照らし合わせて、日本国&日本人のありようについて、じっくり考えてみる契機になる話ではあるまいか?
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【そ】〔終助〕
『接続:{連用形・動詞型活用助動詞連用形・カ変未然形・サ変未然形}』
(1)(副詞「な」と呼応した「な+動詞連用形:カ変・サ変は未然形+そ」の形で)相手にやんわりと自制を求める穏やかな禁止の意を表わす。
・・・しないでほしい。 ・・・してくれるな。
*接続=連用形(カ変・サ変のみ未然形)。
*副詞の「な」と呼応して、「な+動詞(連用形)+そ」の形で「穏やかな禁止命令文」を形成する語法。
*英訳=「please do not ...」/「don't .., please」/「I'd hate it that you should ...」/etc, etc.
-平安末期以降の誤用としての「・・・そ」による否定命令文-
*終助詞「そ」は、係助詞「ぞ」の遠い昔の祖先であるから、その表わす意味は単なる「強調」のみ・・・即ち、「な+・・・+そ(=・・・するな)」構文の「否定」の意味は「な」が受け持つものであって、「そ」は強調のために末尾に添えられただけの整調語でしかない。
*にもかかわらず(さすがは日本語、というべきか)、「な+・・・+そ」の構造から冒頭の「な」が消失した「・・・+そ」の形のみで「・・・するな」の意を表わす間違い用例が、平安時代も末になると出現するようになる。
*当時の文物は、原板から大量出版される活版印刷ならぬ、手書き写本の形で人から人へ、ある時代から次代へと伝えられるものだったため、写本者の誰か一人がうっかり「な」の書き漏らしをすれば、そのインチキ表記がまた次なる写本へとそのままの形で伝わる・・・そうした「粗漏の産物」は古語に数多く残るが、この「・・・そ」のみの禁止命令文もまたその一つとみなすことができよう。
-和語には希有なる「な+・・・+そ」の語順の異質性-
*そうしたわけで、「・・・そ」による否定命令文の粗略さそのものは(純粋な論理性から見て)溜息を誘うばかりの代物でしかないが、そうしたいい加減な形にせよ、冒頭の「な」が担うべき否定の役割が文末の「そ」へとすり替わったこの現象そのものの背後には、見るべきものがまた宿っている・・・そうした「見えない原因」の観察所見としてでなければ、単なる「愚かな現象」の揚げ足取りなど、現象そのものの醜悪さ以上に蔑むべき「鬼の首でも取ったかのような得意気な振る舞い」と指弾されて当然なのだから、ここからはいよいよその「現象面から原因面へ」の掘り下げツアーの開始である・・・例によって、「外国語の鏡に映して」見てみよう。今回は、毎度お馴染みの「英語」ではなく、「仏蘭西語」が主役である:
仏語)<Ne> parlons pas de malheur.
英語)Do <not> say evil things [or something bad may really happen.]
古語)禍言<な>言ひそ。
現代和語)不吉な事は言う<な>(さもないと、凶事が本当に起こるかもしれないぞ)
関西弁のオマケ)ケッタイ(卦体が悪い)なこと言い<な>[ぁゃ]。
*< >で括った部分が「否定辞」である。こうして並べるとよくわかる特色として、次の諸点を挙げることができる:
1)日本語では、否定の意味を担う語句は、今も昔も<な>である。
・・・先述の「・・・+そ」の否定命令文の非論理性はこの事実からも再確認できる。
・・・ところが、実に面白いことに、否定辞に関しては、英語の<not>もフランス語の<ne>も、和語の<な>と酷似した「N」系語である。反対の意思表明の「No!」もそうであるし、ロシア語の「Niet!(ニエット=否)」もまた然り・・・どうも「エヌ音」は ― 日本語の「なし」も含めて ― 「無」へとつながる音のようである・・・nihilism・・・null・・・and then there was none...
2)西欧言語では、文意が「否定」である旨は文頭で明示するが、和語は最後の最後まで「否定?肯定?」がわからない構造である
・・・フランス語は第1語目<Ne・・・NON!・・・これは、あってはならぬこと!>で/英語でも第2語目<not・・・NO!・・・だめだよ、これをしちゃあ!>で、その文章が持つ<否定の指向性>を早々と明示している。
・・・これに対し、和語の否定辞<な>が登場するのは文章の最後である:「賛成<YES!>なわけ?それとも反対<NO!>なわけ?」という態度表明が最後の最後まで行なわれないじれったさがあるわけで、西欧言語で育った人々にとっての日本語構造(&日本人の行動様態)の最もケッタクソ悪い(=卦体糞悪い)点の一つである。
・・・が、そんな和語の中でも、古語の<な+・・・+そ>は、やや特異な構造を有している点にお気付きであろうか?・・・そう、この否定表現に限って、否定辞<な>が、動詞「・・・」よりも先行しているのである。改めて眺めてみよう:
古語)<な>+言ひ(連用形)+<そ>・・・フランス語の「<Ne>+parlons+<pas>」と全く同じ構造である
現代日本語)言う(終止形)+<な>・・・これは、英語の古式否定文「Speak+<not>」と同じ構造。
現代関西ことば)言い(連用形)+<な>・・・連用形「言ひ」の形で後続の終助詞<な>に続くのは非文法的(「な」は終止形接続のはず)だから、これは「<な>+言ひ(連用形)+<そ>」(連用形接続の終助詞)の<そ>を「時代遅れの死語」として切り捨て、代わりにその位置に<な>を置いた簡便話法であると考えるべきであろう。
・・・現代日本語(非関西ローカル)ではまた「んなこと言い<な>さん<な>」なる言い回しもあって、表面的にこれは「言い+なさる+な」の形ではあるが、本質的には「言ひ+<な>」という「動詞連用形+<な>の違和感」を解消するための「逃げ口上」であろう。
-「<な>+動詞連用形」による<そ>なし否定命令文-
*そうした「動詞連用形+<な>」の現代関西弁とは逆の「<な>+動詞連用形」の語形で、末尾に<そ>を伴わない否定命令文もかつて ― 奈良時代(=上代)の日本には ― 存在した・・・というよりも、この語形こそがすべての始まりであって、その末尾に強調の係助詞<そ>を伴った「<な>+動詞連用形+<そ>」は後から(=平安期に入ってから)登場したのである。
*が、そもそも<な>だけで否定の意を表わすはずの表現の文末に、どうして<そ>が添えられることになったのか?・・・問題はここである:即ち、冒頭部で<な>と言っただけでは、「この文章は否定文」ということが(文末段階ではすでにもう)忘れ去られてしまうのではないか、と心配になったので、末尾に強調の<そ>を添えることで、相手に対して「・・・ということ・・・を、してはいけない、のですよ!」と再度力説したかったからこそ、否定の含意があるわけでもない<そ>が最後の最後になってまた引っ張り出された、という絡繰りをそこに読み取ることができるわけである。
*より本質的な言い方をすれば、日本語・日本人は、「文末の形」を見て「肯定(YES)/否定(NO)」の方向性を確認するのである・・・冒頭部の<ne>/<not>を以て「否定の方向性」を最初から明示する西欧言語/西欧人とは、言語学的にも思考パターンとしても、全く正反対の立ち位置にいるのが日本語/日本人なのであって、彼らの立場は「最後の最後にどう振る舞うか」で決するのであり、「最後の最後まで態度は保留」が(言語学的にも社会学的にも)日本流のやり方なのである。
*こうした本質的「後出し指向」ゆえにこそ、次のような言語学的亜種が様々生まれることになったわけである:
亜種1)否定辞先出しの「<な>+動詞連用形」(上代限定表現)のみでは物足りずに、「<な>+動詞連用形+<そ>」の(平安調)語形が生まれた。
・・・平安期の古文の中で受験生が最もよくお目にかかる形がこれであるが、この「な・・・そ」は主に女性が好んだ言い回しと言われる。男性は、次に示す形を好んだらしい:
亜種2)否定辞は先出しせず、後置き形の「動詞終止形+<な>」にして禁止を表わす語形が生まれた。
・・・この「後出しタイプ」こそ和語に最も相応しい形であることは、現代にまで脈々と引き継がれる「和製否定文の定型」となっていることからも確認できるであろう。この形では当然、「文末の<そ>」は駆逐されて影も形もない。本来その<そ>が担っていた「強調」の語感を<な>が引き継ぐこととなっているので、二段構えの「<な>+動詞連用形+<そ>」の表現よりも、「動詞終止形+<な>」の語形では<な>に否定の意味+力説の響きが二重に宿ることになり、その力強さから「男性的命令文」とみなされたので、平安女流文学の中では(男性語として以外は)まずほとんど用いられない。現代日本語でも「言うな!」の「終止形+な」表現が使われる場合よりむしろ、「言わないで」の「未然形+なし+α」や「言うのはやめてくれ」のような「連用形+否定表現+α」の方が圧倒的に多いという事実に鑑みれば、「な+動詞連用形+そ」 > 「動詞終止形+な」という古典時代の勢力図もまたすんなり納得できるであろう。
亜種3)否定辞<な>の代用品として、文末の<そ>に否定の働きを持たせた「動詞連用形+<そ>」の否定命令文が生まれた。
・・・先述した通り、これは誤用であるが、「否定の意味は、文末に置かれる語句に宿るもの」という和語の特性を証明するものであることを改めて確認できる事例ではあろう。それが<な>であろうと<そ>であろうと、「文末にあって、それまでの文章の意味全体を否定の色に染めるもの」が、日本語の否定文には付き物なわけである。
亜種4)「動詞連用形+<そ>」の語形の<そ>には否定の含意がないことに鑑みて、<そ>→<な>に変えた現代関西弁「動詞連用形+<な>」の否定命令文が生まれた。
・・・これも先述した通り、文法的には「動詞終止形+<な>」になっているべき破格表現だが、元来の語形「<な>+動詞連用形+<そ>」が持っていた「婉曲な否定」の響きを「連用形」を通して引き継ぎたかった、という意識が働いてのことであろう。「それを言うな!」vs.「んなこと言ぃいなァ(ゃ)・・・」の語感の相違を体感できる現代(主に、西)日本人なら、表面的非論理性の陰に宿った言語学的必然性を感じ取ることができる表現が「動詞連用形+<な>(+間投助詞「や」・・・この場合は"関西助詞"と呼びたい感じ)」である。
-「な」の祖先は「無(な)」・・・その「無」から生まれた助動詞「ず」-
*文末に置かれて全文を否定一色に染める「な」は「終助詞」とされ、「な+動詞連用形[+そ]」の形で動詞直前に添えられて否定の意とする「な」は「副詞」とされるが、文中での位置や機能に応じて変わる呼び名はともかくとして、これら2語が語源学的にも機能上も同じものであることは言うまでもなく、その共通の祖先は形容詞「なし」の語幹の「な・・・無」である(対義語は当然「あり・・・有り・存り・在り」)。
*この「な」・「ne」・「not」・「niet」などの「N系語」が、否定辞として言語の違いを越えて西欧語にも共通する不思議な現象は上で指摘した通りであるが、形容詞としての「なし」以外にも、古語ではこの「N系」、打消助動詞「ず」(の一部)としても次のような形で機能している点を確認しておこう:
{な(ず)・に(ず)・ず・ぬ・ね・○}
・・・ここから先の主役は「そ」でもなければ「な」でもなく、打消助動詞「ず」の確認編である。
*さて、この「ず」は実に面白い語であって、上記の「N系」の他に以下のような(後発型の)「Z系」活用が同居している(連用形の「に」+形式動詞「す」=「にす」が化けて「ず」になった、とされている):
{ざら・ざり・ず・ざる・ざれ・ざれ}
*終止形の「ず」が最初に成立し、そこに「あり」の様々な活用形を付加した「ず+あら=ざら」(未然形)・「ず+あり=ざり」(連用形)・「ず+ある=ざる」(連体形)・「ず+あれ=ざれ」(已然形・命令形)が加わった形である。
・・・以下、打消助動詞「ず」の本源的形である「N系」について考察することにしよう:
*上の「N系」活用表のうち、連用形としての(ず)を(カッコ付き)にしたのは、それが本来の「N系」ではなく、そこから派生した後発の「Z系」だからである。これ以外にも、その変則性ゆえに注釈が必要な活用形が、「ず」には数々存在する・・・以下、しらみつぶしに見て行こう。
-「ず」命令形に関する不思議-
*「N系」の「ず」には、命令形は存在しない;こうした場合、古語辞典の活用表は○となる。相撲の星取表では「白星=勝利」だが、動詞・助動詞活用表では「黒星=不在」に相当する記号である。
*では、なぜ「命令形が存在しない」のか?それは、「ず」の性質によるものである。一連の事態「・・・」の記述が終わったところに付け加えて「・・・ではない」の形で文意を否定一色に染めるのが「ず」の性質である以上、その事態「・・・」自体は常に成立してしまうのであって、この事態の成立自体を「ず」で打ち消して「・・・をnullify(無効)にしてしまえ!」などと命令すれば、記述そのものが元も子もないことになってしまう。従って、「ず」には(少なくとも「N系」としては)本源的に命令形がなかったのである。
*それでも敢えて「・・・」という事態の成立に対して否定的な命令文を形成するには、「ず」一語だけでは論理的に無理だ:「・・・<ず>」としてまず「・・・ない」という事態を「成立」させてしまった後に、「そのような(というか、そうでないような)状態で<あれ>」とする二段構え表現が必要になるのだ。そこから生まれた「・・・ず+あれ」が1語化したものが「・・・ざれ」という(「後発Z系ず」の)表現であって、これが一般には「ず」の「命令形」と呼ばれている。
*が、よくよく考えてみればこれもヘンな話であって、上で確認した通り「あり・・・有り・存り・在り」と「な・・・無・・・から生まれた<ず>」は対義語なのだから、「・・・<ず+あれ>」の表現は「マイナス+プラス」・「物質vs.反物質」・「水と油」・「コブラとマングース」みたいな呉越同舟のライバル語どうしの共存状態、何とも矛盾をはらんだ表現ということになる。「行け行け飛雄馬、Don't行け!」(from『巨人の星』主題歌、ちょい改変)みたいな感じで、行くべきか行かざるべきか、本質まで突き詰めて見つめると何とも迷ってしまう戯れ言ふう表現が「・・・ざれ」なのだ。
*が、現実にはこの種の迷いに悩む必要はほとんどない:「ず」命令形としての「ざれ」が用いられる場合は実はほとんどなく、実際には上でさんざん考察した次のような形こそが「否定命令文」としては常用されるのだから:
1)「な+動詞連用形」/2)「な+動詞連用形+そ」/3)「動詞終止形+な」/4)「動詞連用形+そ」 (関西版号外 5)「動詞連用形+な」)
-打消助動詞「ず」の未然形「ず」の扱い-
*未然形としての(ず)もまた「Z系」としてカッコ付きだが、この活用形については「未然形の"ず"そのものが存在しない」とする学説もある。その理由についても考察してみよう。
*「未然形」とは、「未だ然らず=いまだしからず・・・まだそういう状態になってはいない」の意味である。いわば「可能性の卵」の形であり、以下のいずれかの形を取って初めてその意味が確定する:
未然形の機能Ⅰ)<未然形+打消助動詞(ず)>の形で、「・・・ではない」意味を表わす。
・・・「ず」の未然形が、直後に自分自身(「ず」)を従える道理はない。
未然形の機能Ⅱ)<未然形+「ず」以外の各種助動詞>の形で、何らかの意味を添える。
・・・この形でもまた、打消助動詞「ず」の未然形が、後続部に他の助動詞を従える道理はない。既に上でじっくり見てきた通り、打消助動詞「ず」は「記述の最後にあって、全文の意味内容を否定一色に染める語」(数学で言うところのnull:ヌル記号)であるから、他の助動詞と「ず」が共存する場合でも、その助動詞の意味を否定に染めたければ、必ず<他の助動詞の未然形+ず>(例:「たら+ず」・「なら+ず」・「べから+ず」・「られ+ず」・「れ+ず」)の語順となり、<ず(未然形)+他の助動詞>の語順にはなり得ないのである。
・・・<ず+他の助動詞>の語順になっている例に於いては、必ず<ず+あり+他の助動詞=ざり+他の助動詞>の形であって、そこでの「ず+あり=ざり」は「未然形」ではなく「連用形」であり、<文末の「ず」による否定化作用>が既に完了した後に、他の助動詞が続く形となっているのに過ぎないのだ:
例Ⅱ)「然りとは知らざらむ=<然りとは知らず>+あら+む・・・<そうであるとは知らない>状態であるのだろう」
・・・この例では、助動詞「ず」の否定作用は直前にある動詞「知る」の未然形「知ら」に対して及ぼされているが、後に続く助動詞「む」の作用が助動詞「ず」に対して及ぼされているわけではない:<然りとは知らず>という文章全体に対して「そうなのだろう」という形で及ぼされる文修飾の形であり、そうした形で「ず」と「む」がつながるための方便として「ず+あら」の語形から転じた「Z系ず」の「ざら」が生まれたが、その祖形に於ける「ず+あら」は「連用形+あら」であり、結果として生じた「ざら」が「未然形」であるとしても、後に助動詞「けり」が続くとはいえ「(未然形の)ず+(助動詞の)む」の形になっているとは言えない:本源的には「(連用形の)ず・・・+(未然形の)あら+(助動詞の)む」の形でしかないから、<「ず」の未然形として「ざら」がある>と言うことは可能でも、<「ず」の未然形として「ず」がある>とは言えないわけである。
未然形の機能Ⅲ)<未然形+接続助詞「ば」・・・古くは「は」>の形で、「もし・・・ならば」の意味(順接の仮定条件)を表わす。
・・・実に、この機能に於いてのみ、「ず」の未然形を認める必要が生じるのである。
*次の(『古今和歌集』にある在原業平の歌である)例文を見てみよう:
「今日来ずは 明日は雪とぞ 降りなまし 消えずはありとも 花と見ましや(・・・春の庭に咲く花は、雪と見まごうばかりだなぁ。今日こうして来てみれば、なるほど花だとわかるけど、明日来てみたなら雪のように消え去って跡形もないだろう。いや、たとえ散らずに残っていても、雪と見分けが付かなくて、花としてこれを賞美できるかどうか、怪しいものだ)」(春上・六三)
例ⅢA)「今日来<ず><は>=もしも今日来<ない><としたら>」
・・・上例に於ける「来ず+は」の形は、「未然形+は」である(「連用形+は」ではない!)。「仮定条件」の形としては一般的な「未然形+ば」の濁音形ではないが、「来ずは」→「来ずんば」→「来ずば」の形で(中世初期には)「ず+ば」で通じる形となる。
*もし上例の「は」を係助詞として捉えれば、その直前の「ず」は「連用形」となり、「未然形」ではないことになる。そうなると上の「ず+は」は、「未然形+は」ではない「連用形+は」ということになるわけだ・・・が、同じ「ず+は」の形であっても、次例の「連用形+は」とは質的に全く異なることに気付かねばならない:
例ⅢB)「消え<ず><は>ありとも=たとえ消えずに存在しているとしても」
・・・この「は」は、「もし・・・ならば」の意を表わす「接続助詞」ではなく、語調を整えるためだけに置かれた「係助詞」でしかない:その証拠にこの「は」を取り去って次の形にしても(語調こそ変わるが)意味は全く変わらない:
例ⅢC)「消えずありとも」
・・・この場合の「消え<ず>」は、直後の用言(あり)へと連結する形だから「連用形」であって「未然形」ではない。「ず+あり」をまとめて「ざり」へと化けさせてしまってもやはり「連用形」であって、「未然形+は」による「順接の仮定条件」とは異質のものである。「消えずはありとも」部の意味は「散らずに残っていたと仮定しても」の「仮定条件」だが、その「仮定条件」を表わす働きを担うのは「ずは」ではなく、後続の接続助詞「とも」の機能であって、係助詞「は」には「仮定条件」を表わす機能が全くない点に注意を促しておきたい。
*これに対し例ⅢA)「今日来<ずは>」の表現に於いては、「ず+は」が「順接の仮定条件」を表わしている。そして、その仮定条件の働きを担っているのは間違いなく「は」である:即ち、この部分での「は」は係助詞(=単なる整調語)ではなく接続助詞(=前後の文章を一定の関係でつなぐ語)であるとみなすのが当然の考え方であり、その「接続助詞」としての「は」につながって「仮定条件」を表わす「ず」は「未然形」であって「連用形」ではない、と結論するのが文法的に正しい考え方である。
*もしこの「ず」を「連用形」とみなしてしまえば、<「仮定条件」=「未然形+は/ば」>という大原則に対し、<「ず+は/ば」(+「なく+は/ば」)の場合だけは「連用形」接続>という唯一の例外則を付記せねばならなくなる・・・たった一つの「特例」でパッチを当てればとりあえず「原理」のほころびはふさげるだろう、という取って付けの(古語で言えば「うちつけなる」)考え方であるが、「文法」は、こうしたところから「便法」化し、崩壊して行くものなのである。
*もし「たった一例」の重みを生かすつもりなら、<「(連用形の)ず+は/ば」なる変則的一例>に固執するよりも、<「(未然形の)ず+は/ば」という原則に忠実な一例>を「たった一つしかないから」という理由で排除せずに直視し、<打消助動詞「ず」の未然形としての「ず」は、唯一「・・・ずは/ずば」の形で「もし・・・ないならば」の順接の仮定条件を表わす場合のみに出現する語形・・・それ以外には「(未然形)ず」の出番なし>という形で<一例>に敬意を表するのが正しいやり方というものであろう(・・・が、日本の古文業界は必ずしも「正しいこと」に敬意を表さず、この「ず」は「連用形!」/それに続く「は」は「係助詞!」と強弁したりするから、論理に依拠して学習を進めようとする学究の徒としては何とも困ってしまうのだ・・・)。
-「ず」の「N系」活用の個別的要注意語法-
*さて、「命令形」・「未然形」の考察だけでずいぶんと深入りしてしまった感じだが、改めて、助動詞「ず」(の「N系」活用)の特徴的な働きを以下に整理してみよう:
1)未然形「な」
・・・単独の「な」は、古文の中では何の働きもしない、と言ってもよいだろう。唯一注意すべきはその「な」に「く」が付いた「ク語法」と呼ばれる(上代の)名詞化表現で、「・・・なく=・・・ないという事」の形を取るが、これは更に逆接の接続助詞「に」を伴った「・・・なくに=・・・ないというのに」の定型表現として棒暗記するのが得策である。この定型句は存外重要なので、しっかり大学受験生の印象に残るよう、現代大学生標語風(おとこのこむき)の例文をプレゼントしとくからしっかと心に刻むように ― 「何故にいく金もあら<なくに>歌舞伎町・・・身のみにて足る女にもあら<なくに>」(2010 COPYRIGHT 之人冗悟:Noto Jaugo・・・品行方正な女子の前ではあまりうたわぬように)
2)連用形「に」
・・・連用形が「に」になるのは助動詞「なり」と同様で、語形的には格助詞・接続助詞(上代には終助詞でも用いた)「に」とも同じだが、打消助動詞「ず」連用形としての「に」の用法は、実に、次の2例のみに限られるので、これまた「棒暗記要員」である:
2A)「・・・がてに=・・・できないままの状態で」
・・・本来は清音の「かてに」であり、その組成は上代の補助動詞「かつ=・・・可能」+「に=・・・不可能」の組み合わせ。「出でがてに=出るに出られず」等の表現で、平安期の古文にもそれなりに頻出するので、あだやおろそかにせぬ用心が必要な定型句である。
2B)「知ら+に=・・・知らずに」
・・・これまた定型句だが、上代の文献に限定されるので、平安期以降に偏る傾向のある入試古文では無視してよい形。唯一、この「に」に「す」が付いた「にす」が、終止形「ず」の語源となっている、という点には敬意を表すべきかもしれないが、これまた「アダムとイブが引っ付いて子が生まれたのが人類の始まりなのだから、敬いなさい(・・・神様の言いつけ守れずにエデンの園を追われたしょーもない祖先だとしても)」というような迂遠すぎてピンとこない話ではある。
3)終止形「ず」
・・・上述の古式連用形の「に」に形式動詞「す(為)」が付いた「に+す」が転じたものが「ず」の始まり(終止形)と言われる。そこから(さらに「あり」を介した「ず+あら」・「ず+あり」・「ず+ある」・「ず+あれ」・「ず+あれ」の活用形をも加える形で)次の「Z系」の「ず」の活用が生じた:
{ざら・ざり・ず・ざる・ざれ・ざれ}
・・・こうして、本来「N系」から発達した「ず」だが、やがて「Z」系が主力の助動詞となり、元来の「N系活用」の中では(上述の上代語としての「未然形」・「連用形」は衰えたので)、次の2つのみが残ることとなった:
4)連体形「ぬ」
・・・直後には「名詞」を従える。現代日本語でも文語表現として残る語である(例:「口語=知らない人/文語=知らぬ人」)。
5)已然形「ね」
・・・前後の語句に応じて、次のように意味が二分する:
5A)「逆接の確定条件」
・・・直後に逆接の接続助詞「ど/ども」を従えたり、逆接語句を伴わずに「中止法(=その部分で一旦文章を停止する形)」で、「・・・ないけれども」の意味を表わす。
*後者の(逆接接続助詞を伴わない已然形のみの)「中止法・・・ないけど」は、多く「Aこそ・・・ね」の形の「こそ+已然形係り結び」を取るが、「は/も・・・ね」の形(例:「名<は>知ら<ね>」)もある。意外なところでは、現代日本語の(主に女性語の)「・・・かしらね」の表現の祖先が「・・・か(は)知らね(ども)=・・・かどうか定かではないが」という事実もある。
5B)「順接の確定条件」
・・・直後に順接の接続助詞「ば」を従えて、「・・・ないので」の意味を表わす(例:「世の中を 憂しと恥しと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあら<ねば>」『万葉集』五・八九三・山上憶良)。
*「已然形」そのものの働きは本来「逆接」である。上述5A)の「中止法」の「ね」が逆接確定条件になることからもそれはわかるであろう(例:「人はいさ心も知ら<ね>・・・人の心はどうかはよくわかりませんけど」)。従って、この「<順接>確定条件・・・ないので」の語法は、「ね」の已然形が表わすものではなく、接続助詞「ば」に全面的に依存する用法である・・・その証拠に、「已然形=逆接」の語感が確実に生きていた上代に於いては、上の憶良の歌と同じ「ね+ば」の表現でも「<逆接>の確定条件・・・ないけれども」になる例も確認されている。時代が下るにつれて、「已然形」本来の機能である「逆接=直前までの記述とは異なる内容の記述を後に続ける」は忘れ去られ、「ど・ども」を従えれば「逆接」/「ば」を従えれば「順接」という形へと形骸化して行ったのが「已然形」である・・・そうして、中世(鎌倉期)以降には「已然形+ば=・・・ならば」という(本来ならば「未然形+ば」が担っていたはずの)「仮定条件」表現専用語としての道を辿った挙げ句の果てに、現代日本語文法では「已然形=既に、然り」の名が「仮定条件」には不似合いだからという理由で、「已然形→仮定形」という名称変更までをも施されるに至ったわけである・・・が、「已然形」本来の機能は「逆接」であることは、ここで再確認しておくべきであろう。
*いかがだったであろうか・・・本来終助詞「そ」の解説だったものが、係助詞「ぞ」/副詞&終助詞「な」/打消助動詞「ず」の解説(+友情出演の「こそ」/「ど・ども」/「ば」/「とも」/マングース・星飛雄馬・アダム&イブ等々)へと思い切り脱線してなだれ込んでしまったが、語学とはそうした雪崩現象の連続の中で展開して行くものであり、板書+講義の一本道の上をすんなり進行する性質のものでは全くないのである。一定のカリキュラムに沿って効率よく何かを教え込む教場型授業で身に付くのはごくごく初歩的な「読み書きそろばん」のみであって、本格的な学問は、呆れ果てるほどの幅と深さをもった寄り道の連続の中からしか生まれないものなのだ・・・英語の「school:スクール=学校」や「scholar:スカラ=学者」の語源となった古代ギリシア語の「skhole:スコレ」の意味は、「Hold back...保留。まだいまいち、納得できないとこあるから・・・Stop!ちょっと待って!・・・We should rest here, shall we?ここでちょっと長居してみない?・・・at leisure.たっぷり時間取って、さ」である・・・が、諸君に、それが出来るであろうか?・・・スケジュール通りにずんずん進みたがる学校や塾ではそれが「出来ぬ相談」であることは今更言ふべきにもあらねど、『扶桑語り』にてはいかならむ?・・・学びの「深さ・広さ」は当方で保証する:「濃厚なる時の使い方」と「執念深さ」だけは、あふなあふな(ounouno=おのおの)、おいおい身に付けてくれたまえ。
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【むず】〔助動サ変型〕{○・○・むず(んず)・むずる(んずる)・むずれ(んずれ)・○}
『接続:{未然形}』
(4)(仮想・婉曲)(連体形・準体法で用いて)ある事柄が仮に実現した場合の、その事柄について、仮想の形で、または、遠回しに述べる。
もし・・・したとして、その~。 仮に・・・としてその~。例えば・・・のような。
*接続=未然形。
*推量助動詞「む」にあるのと全く同じ「むず」の語法。最も訳しづらい(というか、多くの場合、訳さないほうが自然な日本語になる)語法で、「婉曲」と呼ばれるもの。常に「連体形」または「準体法(後続部にあるべき体言を省略しつつ、あたかもその体言が存在するかのように扱う)」で用い、厳密に解釈すれば「もし仮に・・・するとして、その・・・」という持って回ったものになる(例:「君の入ら<むずる>大学」=「君が入学する・・・とした場合のその・・・大学」)。
*英訳=「should/would/might/etc, etc. (subjunctive mood)」
-古語にはあっても現代語にはない「仮定」のニュアンス-
*英語の「仮定法」に通じる語法で、例えば「人の知ら<む/むずる>も面映ゆからむ」は、英語でなら「I should feel embarassed if somebody else <should> know it.:他の誰かがそれを知った<としたら>自分としてはばつの悪い思いをすること<だろう>」となるが、この仮定法表現を<・・・としたら、それは・・・だろう>と律儀に訳すのは、この種の仮定表現の厳密性を重んじない(むしろ、嫌う)現代日本語では不自然な感がある:「他の誰かが知ったら、ばつが悪い」として<・・・としたら>も<・・・だろう>もお引き取り願ってしまうほうがよかったりもするのだ。
*そうした次第で、この「婉曲」の「む/むず」もまた、古典時代には存在したものの、現代日本語では死語と化している語法の一つ、というわけである。ちなみに、「らむ」にも同様の「婉曲語法」がある。
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【にて】〔格助〕
『接続:{体言・連体形}』
(3)(手段)動作・作用を行なう上での方法・手段・材料などを表わす。
・・・によって。 ・・・を用いて。・・・を使って。・・・で。
*接続=体言。連体形。
*現代日本語にも(文語で)残る「手段」の用法の「にて」(例:「お支払いは銀行振り込み<にて>お願いします」)。「によりて」でも同じ意味になるし、「によって」と訳せばすんなり現代語にもつながる(が、一般的には「で」で換言したほうがすっきりする)。
*英訳=「by A」/「through A」/「by means of A」/「by virtue of A」/「in virtue of A」/etc, etc.
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【ばかり】〔副助〕
『接続:{体言・連体形・終止形・副詞}』
(6)(限定)(体言に付いて)それだけに限定する意を表わす。
・・・だけ。 ・・・のみ。
*接続=体言。連体形。終止形。副詞。
*現代日本語にもそのまま残る「限定:・・・だけ」を表わす副助詞「ばかり」(例:「社長の周りはイエスマン<ばかり>」)の用法。「のみ」でも同じ意味になるが、限定性を表わす語としては中世以降は「ばかり」ばかり使われるようになり、「のみ」は文語(漢文調)の中でのみ細々と生き残りつつ現代に至っている。
*英訳=「only ...」/「just ...」/「merely ...」/「simply ...」/「nothing but A」/etc, etc.
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【など】〔副助〕
『接続:{体言・連体形・引用句・連用形・助詞}』
(3)(卑下・強調)対象を見下したり、否定・反語の意を強める。
・・・なんざ。 ・・・なんか。・・・のごときは。・・・ふぜいが。たかが・・・。
*接続=体言。連体形。連用形。引用句。助詞。
*名詞に付けて、「Aなんて!」と見下した調子を添える副助詞「など」の用法で、現代日本語にもそのまま引き継がれている(例:「古文<など>英語ほどには難しくないさ」)。
*英訳=「things like A」/「such things as A」/「A or something like that」/etc, etc.
-「など」の語源は「何と」-
*「なに+と」は元来「原因・理由」を表わす表現で、仏語なら「pourquoi」、英語で言えば「for what」となる・・・後者を「WHY?・・・どうして?」とすればそのまま詰問調になるように、あまり好ましくない事態に言及する言い回しとして「なにと・・・なんと・・・なんど・・・など」の変遷を経てできた語(いったい何だってこんなしょーもないやつが・・・)が、この「侮蔑調など」である。
*その過程で生じた「・・・なんぞ」の表現は、現代日本語でも(かなりキツい軽蔑調で)使われる(例:「テメェなんぞ、ギッタギッタのコテンパンに叩きのめしてやるから、首洗って待ってやがれってんだぃ、コン畜生めが!」)。
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【らる】〔助動ラ下二型〕{られ・られ・らる・らるる・らるれ・られよ}
『接続:{四段&ナ変&ラ変以外の未然形}』
(1)(自発)意識せずとも自然発露的にそうなる意を表わす。(通例、打消の語を伴わない。命令形はない)
自然と・・・られる。 思わず・・・する。・・・ずにはいられない。
*接続=四段・ナ変・ラ変以外の未然形。
*「る/らる」が「特に意識せずとも、自然とそうなる」の意を表わす「自発」の語法で、現代日本語にもそのまま残るもの(例:「今からこんな調子じゃ、先が思いやら<れる>」)。
*英訳=「feel ...」/「feel like ...ing」/「it seems like ...」/「it looks as if ...」/「it looks as though ...」/etc, etc.
*「る」は「四段活用・ナ行変格活用(「死ぬ」・「去ぬ」)・ラ行変格活用(「あり」及びその複合語)」に付き、それ以外の動詞には「らる」が付く。接続する動詞が違っても、「る/らる」の表わす意味は全く同じ。
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【たり】〔助動ラ変型〕{たら・たり・たり・たる・たれ・たれ}
『接続:{ラ変以外の連用形}』
(3)(終結型完了)ある動作・作用が既に完了し、確定した既成事実となってしまった意を表わす。
・・・した。 ・・・た。もう・・・した。既にもう・・・てしまった。もはや・・・となった。
*接続=ラ変以外の連用形。
*完了助動詞「たり」が、「動作・状態の完了」を表わす語法。「すでにもう・・・してしまった;ので、今はもう・・・していない」という形で、「・・・という動作・状態はすでにもう終わったこと/今やもう関係ない過去のもの」の感じが強く、この種の完了助動詞をもはや持たない現代日本人にとってもわかり易い「たり」の語法ではあるが、現代日本語に直接引き継がれず、「・・・た」の形に簡略化されて、その意味のほうも「完了」というよりは「過去」の表現へと単純化されてしまった。
*英訳=「have ...ed (the perfect tense)」
*厳密に言えば、「既に・・・してしまった」とはいえ、これまで続いていた「・・・の動作・状態」との関連性が完全に断ち切られたわけでもないのだが、ともあれ、これまでの「ON」に対して今では「OFF」にスイッチが切り替わった感じというか、「今までとははっきりと違った段階に入ってしまった」ことに描写の力点がある表現である。この意味で「過去のこと」と割り切って考えられる分、「・・・た」へと換言して現代日本語に置き換えて考えやすい(完了、というよりは完結型の)「たり」である。
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【を】〔格助〕
『接続:格助={体言・連体形}接助={連体形・(稀に)体言}終助={体言・連体形}間投助={体言・連体形・命令形・助詞}』
(2)(離合の対象)(「会ふ」・「背く」・「別る」などの動詞と共に用いて)接近したり離別する対象を表わす。
・・・と。 ・・・に。・・・に対して。・・・を。
*接続=体言。
*格助詞「を」の中でもかなり変則的な用法で、「会ふ(あふ)」・「背く(そむく)」・「別る(あかる・わかる)」・「去る(さる)」等の「離合」系動詞と共に用いて「接近したり、離れたり」の対象を表わすもの。現代日本語でならば「を」ではなく「と」・「に(対して)」・「へ」あたりで代用するのが自然な用法である。
*英訳=「part with A」/「part from A」
*この離合の「を」を伴う表現で最も有名なのは、「世を背く」であろう。現代語の感覚では「を=対象」なので、「世間をあざむく」の意味と錯覚しやすいが、現実には「俗世間<へ>背を向ける」つまり「出家する」の意味の連語である。
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【や】〔係助〕
『接続:係助={体言・連体形・連用形・副詞・助詞}終助={終止形・已然形・体言・言い切り文}接助={連用形}間投助={連体修飾語・接続語以外の様々な語}』
(1)(疑問)確信のない事柄について、問い掛ける意を表わす。
・・・か? ・・・なのか?・・・ろうか?
*接続=各種の語句。
*係助詞「や」を文中で(動詞の直前に)用いて、呼応する文末を(多く「推量助動詞:む/らむ/けむ等」を伴った)「連体形」で締めれば「疑問文」となるのが、古典文法の基本中の基本(例:「人<や>ある」・・・誰か、いますか?)。
*文末に置かれれば「終助詞」扱いとなるが、いずれにせよ古語の「や」は、英文に於けるクエスチョン・マークに相当する疑問文形成語句である。現代日本語ではこの種の疑問詞は文中に置く係助詞ではなく文末に置く終助詞扱いであり、そこで用いられるのは「や」ではなく「か」である。
*英訳=「... ? (question mark)」
-終助詞「や」の接続先-
*係助詞「や」は、直後に「動詞」が来るので接続先の問題も何もないが、終助詞の「や」の場合は、その直前に来る「動詞」の活用形をどうするかの問題についても考えねばならない・・・のだが、実に、これが一定しないのである。
*基本的には「終止形+や」なのだが、中世以降は「連体形+や」が一般的になり(理由は後述)、また(特に和歌の中で)「已然形+や」の形も少なからず用いられた。
*こうなるともう、その他で残る形は「未然形」・「連用形」・「命令形」だけであるが、「命令形」はその時点で記述が終わるので、直後に「や」が付いても(実際、しばしば付くのであるが)それは勢いを添えるだけの「や」であるから「終助詞」というより「間投助詞」である。また、用言でもない「や」を文末に置いて「連用形+や」の形もないものであろう。「未然形」は、直後に助動詞が付いて何らかの意味を添えるか、「は」/「ば」が付いて「仮定条件」を表わすための活用形なので「や」には無関係である。
*こう考えると、くっつき得る活用形のすべてと「や」は結びついていることになる。誰とでもひっつくお調子者みたいなこの特質は、「や」が本来「間投助詞」であったことを強く感じさせるもの・・・自分自身の存在の重みがまるでない「間投助詞」は、相手に合わせて「ヤッ!」とか「ヨッ!」とか「ハッ!」とか相槌打つだけなので、付くべき相手を選り好みしない、ということかもしれない。
-「や」疑問文の結びの消失-
*古文にはまた、「や+動詞(+推量助動詞)+連体形」の表現であるべきところを、「や」で止めてしまい、後続の[動詞(+推量助動詞)+連体形]が丸ごと省略されている例が実にしばしば登場する。「省略」とは「頻出するから、なくてもわかる」とみなしての語法であるから、「消え失せて見えない」部分は「定型句」として予め覚えておかねばならぬことになる・・・ので、その「ない部分」を紹介するわけだが、それは「あり」である・・・冗談言ってるみたいだが、次のような形で「<あり>含み表現が、ない」のが「"や"止め疑問文」のお約束なのである:
例1)「かの人は猫を憎む<にや>[あらむ?]・・・あの人、猫が嫌いなのかにゃあ?」・・・これは<や>というより<にや>で覚えておくほうがよい表現。
例2)「奥山に猫又といふものありて、人をくらふなる。さる事<や>[ありし?]・・・山奥にネコマタとかいう妖怪がいて人間を取って食うとかいう話だけど、そういう事件が実際あったのかニャァ?」
*この種の「連体形語尾のないシッポ抜け表現」は平安時代から数多く用いられたが、中世末期(室町時代あたり)に入ると、そもそも活用語の「連体形」と「終止形」の区別そのものが曖昧になってくる:「係り結びによる連体形」が多用されるにつれて、「連体形」が「終止形」と錯覚されるようになるのである・・・そうなれば、「文中に係助詞の<や>を置き、文末を<連体形>で締める疑問文」は必然的に減少し、「文末に終助詞の<や>を置いて疑問文とする」形が主流を占めるようになる・・・現代日本語の疑問文は、そうして出来上がったものである:但し、そこで用いられる文末の終助詞は<や>ではなく<か>である(例:「えっ、そうなの<か>?!」・・・「あぁ、そうなん<や>。'や'を文末に置いても詠嘆にしかならへんの<や>」)。
*文末の「や」は「詠嘆・整調語」として関西弁に残った(そうや、そぅや、その通りなんや)が、「か」の方は「日本語に於ける疑問文締めくくりのクエスチョンマーク」としての普遍的位置付けを確立して現代に至っているわけである・・・これまた「やっ!」とか何とか調子のよい響きでその場を和ませるだけの働きしかしない「間投助詞」としての「や」の特質のせいであろうか?一方の「か」の出自は「彼(か・かれ)」とか「斯く(かく)」にも通じる指示代名詞の「か」なので、具体的に何かを指さして「これって、あれなのかニャア?」と首をかしげる表現には「か」が「や」を押しのける形で生き残った、ということかもしれない。
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[78]
【が】〔格助〕
『接続:格助={体言・連体形}接助={連体形}』
(4)(主格)(文中で従属的または連体形終止となっている部分の)主語を表わす。
Aが・・・する。 Aの・・・したこと。
*接続=体言。連体形。
*格助詞「が」が主格を表わす用法・・・だが、現代日本語にも通じる<Aが・・・する。>の形で文末を「終止形で言い切る」用法(例:「ビートルズ<が>やって来る。」)は、平安時代末期以降になって初めて登場したもの、という点に注意を要する。それ以前の「が」が表わしたものは、「全文の構成の中の部分集合としての主格」でしかなかったのである。
*英訳=no equivalent in English・・・英語に於ける「主格」は、特定の語句により表わされるものではなく、文章構造の中の位置付けで決まる(例えば、文頭にあって、直後に動詞を従える名詞成文は<主語:subject(S)>という形で)。
-「主格」助詞の時代的制約-
*受験生が大学入試でお目にかかる古文の大部分は「平安末期以前」のものであるから、そこで主格の「が」が使われていたら、「全体構造の中の部分集合としての<主部+が+述語>」と思う必要がある。
*鎌倉期以降に成立した古典の名作も数々ある ― 随筆の名作『方丈記』(鴨長明)・『徒然草』(吉田兼好)も、軍記物の傑作『平家物語』・『太平記』も、みな「非平安文物」である ― が、これらの作品に登場する古文の中には、「由緒正しき平安文法の制約から外れる」書き方も登場するので、「平安期の約束事が通じない」ということで、入試問題のメインストリーム(main stream=主流)からは外されている、という現実がある。そもそも、現代日本語に近くて読み解きに(平安期よりはずっと)苦労を伴わない鎌倉期以降の古文を、入試出題者はあまり好まないのである・・・とにもかくにも、殊更に「語法問題」として出される古文なら、それは「平安中期までの女流文学」である、という(古文業界固有の)図式は常識的に覚えておいた上で、次の(平安文法に普遍的な)主格「係助詞/格助詞」を巡る文法的構図は論理的に明確におさえておくべきであろう:
1)係助詞「こそ」/「ぞ」/「なむ」/「は」/「も」
・・・これらの係助詞は、<主格>で「文末(終止形・已然形・〔連体形〕)言い切り」が可能。
・・・「は」と「も」は文末に「係り結び」を招かない(終止形で終わる)が、「こそ」は末尾を「已然形」で結び、「ぞ」・「なむ」は「連体形」終止となる。
2)格助詞「が」/「の」
・・・これらの格助詞は、次のような限定的な形の<主格>しか表わさない(平安末期以降、「が」はこの制約を脱することになる):
2A)<A+が/の+・・・する>の後に<接続助詞+別文>が続く・・・文法的な言い方をすれば「従属成文中の主格」に過ぎない、ということになる。
例:「秋田刈る仮庵を作りわ<が>居れ・・・ば、衣手寒く露ぞ置きにける」『万葉集』巻十・二一七四(詠み人知らず)
・・・接続助詞「ば」を通じて、前/後の句どうしが連携してはじめて全体が成立する「部分集合」の中の「主格」扱いである。
2B)<A+が/の+・・・する[事]>の部分が『より大きな全体構造の中の<主語>』として働く・・・文法的な言い方をすれば「連体形終止による全文の主語」ということになる。
例:「この翁は、かぐや姫<の>やもめなるを嘆かしければ」『竹取物語』(火鼠の皮衣)
・・・「かぐや姫<の/が>独身であるということ」(「事」は省略されていてもあるのと同じ扱いの「準体法」になっている)は、後続の「嘆かしければ」の「主語」である:つまり「全文の主役」ではなく、「主語というパーツの中の主役」でしかないわけである。
・・・なお、ここでの「が/の」とは関係ない語法ながら、上例の格助詞「を」も面白い用法であって、直後にある形容詞「嘆かし」が「動詞的色彩(=嘆きたい)」を帯びているため、その「嘆く」を他動詞として用いた場合の「目的語」として直前の「かぐや姫がヤモメであるという事実」を指向する「目的格」の「を」なのである。
・・・ついでに言えば、「かぐや姫=やもめ」も現代的には「えっ、カグヤヒメって、実はオカマさん?」と錯覚しそうな図式であるが、古典時代の「やもめ」の語源は「八面女・八方女(・・・まだ特定の一人の男性だけのものにはなっておらず、四方八方いろんなところの男性との関係を模索中の独身女性)」であって、本来は「女性」を指す語であり、男性の場合は「やもを(寡男・鰥夫)」となる。
2C)<A+が/の+・・・する>の直後に、断定助動詞「なり」が続く(または、省略されている)場合・・・文法的な言い方をすれば「<連体形+なり>の全体構造の中の、部分集合に於ける主語」ということになる。
例:「雀の子を犬君<が>逃がしつる[なり]」『源氏物語』(若紫)
・・・直後にあるべき「なり」は、このように消失している例が実に多く、その結果として残る「連体形終止・・・上例で言えば、逃がし<つる>」が「終止形」と錯覚されることともなり、「連体形係り結び」による「連体形終止文」の激増が「文末にある連体形=実質的終止形」の感覚を招いたこととも相まって、平安末以降「が」という格助詞が「終止形言い切り」を獲得する強力な手助けをした表現がこれ、と考えられる。
*以上が「<が>の主格言い切りが認められるに到るまで」の道のりなりけり。
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[79]
【か】〔係助〕
『接続:係助={体言・連体形・連用形・副詞・助詞}終助={体言・連体形}』
(3)(不確実)(疑問を表わす語を伴って)確実にはわからない事態について、疑念をまじえつつ述べる。
・・・か。 ・・・なのか。・・・だろうか。
*接続=各種の語句。
*係助詞「か」の語法としては特殊なもので、「疑問・・・なのか?」/「反語・・・ということはあるまい」の訳し方はできず、「列挙・・・Aか、Bか、はたまたCか」の解釈も当たらない場合にはこの「不確実性・・・何だかよくわからないけど、とりあえずAとか」の語法と思えばよい。もっとも、現代語訳にはさほど気を使うまでもなくすんなりと「か」で通ってしまうので、苦労はない。
*英訳=「whoever/whatever/whichever/whenever/wherever/however」
-疑問表現とペアの「か」-
*上の英訳にも通じるが、この不確実性の「か」の語法には「疑問を表わす語」が付き物、という特徴がある。「<いつ>の日<か>」/「<いか>ばかり<か>」/「<いづ方>に<か>」/「<いか>なること<か>」等々、いずれも疑問詞(英語で言えば、when/how/who[m]/what)との抱き合わせ表現である点に注目したい。
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[80]
【とて】〔格助〕
『接続:{体言・連体形・文末}』
(2)(目的)ある行為の動機・意図・目的を表わす。
・・・ために。 ・・・として。・・・を目指して。・・・を目論んで。・・・と思って。・・・ということで。
*接続=体言。連体形。文末。
*体言(名詞)や活用語の連体形に続けて、「・・・ということで」の意を表わす格助詞「とて」の「目的」の用法(例:「ゐんのおほんまもり<とて>ほくめんさぶらひたり」=上皇の御警護役ということで北面の武士は伺候している)。コテコテの文語調でなら、現代日本語にも通じる「とて」である。
*英訳=「for the sake of A」/「with a view to ...ing」/「in order to ...」/「so as to ...」/etc, etc.
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【で】〔接助〕
『接続:格助={体言}接助={未然形}』
(1)(打消接続)前文の内容を打ち消して後文に続ける。
・・・ずに。 ・・・ないで。・・・することなく。
*接続=未然形。
*活用語の未然形に接続して、「・・・ずに」という否定の意味を添えながら前文を後文に続ける接続助詞が「で」。
*英訳=「without ...ing」/「... not ~ing」
*現代日本語の接続詞「で」は、古語の「で」のような「否定の含意」は持たず、ただ単に「・・・で/そして/それから」であり、英語の「and」に相当する単純接続の意味しかない。これに対し、古語の「で」(接続助詞の場合)は常に「・・・ない状態で」という打消接続となる(格助詞の場合は異なる)。出現頻度の高い語なので、古文読解経験がそこそこ重なれば「自然に訳せる」ようにはなるだろう;が、「何故そこに否定の意味が宿るのか」の理由についても知っておくのが望ましい。
-格助詞の「で」と接続助詞の「で」-
*古語の「で」には格助詞/接続助詞という2つの用法があるが、それぞれの語源は異なる:
1)格助詞としての「で」=格助詞「にて」の転
・・・平安末期に現われた語。鎌倉時代以降「にて」に代わって盛んに用いられるようになり、「んて→んで」を経て現代日本語の「・・・で」につながった。意味としては次の4種類がある:
1A)時間・空間的な「場」(・・・で)
1B)「手段・道具」(・・・を用いて)
1C)「原因・理由」(・・・によって)
1D)「状態・資格」(・・・状態で。・・・として)
2)否定の接続助詞としての「で」=打消助動詞「ず」の古式連用形「に」+接続助詞「て」が、「にて」→「んて」→「んで」を経て「で」となった。
・・・打消助動詞「ず」連用形+接続助詞「て」=「ずて」の転、として説明される場合もあるが、いずれにせよ「で」に含まれる否定の意味は、打消助動詞「ず」に由来するものである。
*上代(奈良時代)には、「・・・ない状態で」の意味を表わすためには「ずして」/「ずて」が用いられていたが、平安期以降「で」がこれに取って代わった。
-「ず」・「で」と現代日本語「・・・ないで」の関係-
*現代日本語には「・・・(動詞未然形)+で」の形での否定的付帯状況表現は引き継がれていない。この意味を表わす現代日本語表現は「・・・ないで/・・・ずに」である。
*「・・・ずに」の組成は単純である。古語の「で」が<打消助動詞「ず」連用形+接続助詞「て」=「ずて」>の転として説明されたように、現代語「ずに」は<打消助動詞「ず」連用形+接続助詞「に」=「ずに」>で簡単に説明がつく。
*一方、ややこしいのは「・・・ないで」の表現のほうである。以下、どのようにしてこの現代版語形が生じたか、「知らないで」を例に取って説明しよう:
1)動詞の未然形(「知る」→「知ら」)に、打消助動詞「ず」の古式未然形「な」+名詞化語尾「く」=「なく」を付けた所謂「ク語法」の「知らなく」を作る・・・その意味は「知らないこと」(not knowing / being ignorant)
2)ク語法「知らなく」(体言相当語句)に、格助詞「にて」から転じた格助詞(接続助詞ではない)「で」を付けた「知らなくで」を作る・・・その意味は「知らない状態で」(without knowing / while being ignorant)
3)「知らなくで」はウ音便化作用を経て「知らなうで」や「知らなうて」の語形となり、それが「知らなくて」/「知らないで」となって、現代に至る。
-「・・・んで」の復活-
*現代日本語にはまた、「知らないで」と同様の意味を「知らんで」の形で表わす(ややくだけた調子の)語法も残っている(例:「親の気も知ら<んで>いつまで遊び歩いとるかこのバカ息子めがっ!」)。これは、上で解説した否定の接続助詞「で」がその形を獲得するまでの途中経過段階にあった語形「んで」が復活した形である。
*こうして概観してみると、「・・・で」の訳し方が「・・・ないで」/「・・・ずに」の2系統へと分化するのに気付く:これは即ち、「で」の根っこにある打消助動詞「ず」そのものが、「N系活用:{な(ず)・に(ず)・ず・ぬ・ね・○}」と「Z系活用:{ざら・ざり・○・ざる・ざれ・ざれ}」に二分化するのをそのまま継承しているわけである。
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[82]
【が】〔格助〕
『接続:格助={体言・連体形}接助={連体形}』
(1)(連体格)後続の語が直前の語の所有物・従属的立場である意を表わす。
AのB。 Aに属するB。Aが持つB。Aの所のB。
*接続=体言。連体形。
*「A(名詞)+が+B(名詞)」の形で、「AのB」という所有・所属関係を表わす「連体格」の格助詞「が」の用法。現代日本語では文語の定型句のみに残り、一般的には「の」が引き受けている語法である。
*英訳=「A's」/「for the sake of A」/「for A's sake」/「for A」
*現代語に於ける「が」の所有格は、「我が子」・「我らが母校」・「誰が為に鐘は鳴る」のような文語の感覚となるが、東北地方の方言としては今も残っている(例:「おらが春」・「わぁ(吾)が+名詞」)。現代人の語感では「わが」で1語の「連体詞」のようにも感じるが、「我らが」や「誰が」までそうして1パック化し出すと収拾がつかなくなるから、きちんと分解して把握すべき「A+が+B」である。
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【で】〔格助〕
『接続:格助={体言}接助={未然形}』
(4)(状態)動作・作用が行なわれる際の状態・資格などを表す。
・・・として。 ・・・状態で。・・・で。
*接続=体言。
*格助詞「で」が「・・・状態で」・「・・・という立場で」・「・・・として」等の意味を表わす用法で、現代日本語にもそのまま通じる「で」である(例:「蝶<で>舞う時ゃあチヤホヤするが、芋虫・蛹<で>いる時や、飛び続けるにはくたびれすぎた頃にゃ、目もくれないのが男ってもんさ・・・命短し恋せよ乙女、蝴蝶の舞も永からず」)。
*英訳=「as A」/「while ...」/「in the state of A」/etc, etc.
-打消接続の接続助詞「で」と、格助詞「で」の識別-
*古語の「で」には、接続助詞/格助詞の2種類がある。それぞれの用法とその区別の仕方は以下の通り:
A)接続助詞「で」=打消接続(・・・しないで)の形で前後の記述をつなぐ。
・・・「接続助詞」の場合、「で」の直前には「活用語の未然形」が来る。
B)格助詞「で」=その用法は4種類:
1)時間・空間的な「場」を表わす(・・・で)
2)「手段・道具」を表わす(・・・を用いて)
3)「原因・理由」を表わす(・・・によって)
4)「状態・資格」を表わす(・・・として)
・・・「格助詞」の場合、「で」の直前には「体言(=名詞・代名詞)」が来る。
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【じ】〔助動特殊型〕{○・○・じ・じ・(じ)・○}
『接続:{未然形}』
(3)(打消勧誘)(自身以外の主語の動作について)その行動を取らぬよう希望する。また、その行動が不穏当だとする判断を表わす。
・・・ないでほしい。・・・するのはよくない。 ・・・してほしくない。・・・されると困る。どうか・・・ないでください。・・・べきではない。
*接続=未然形。
*打消推量助動詞「じ」の用法の中で最も珍しい「打消勧誘」の語法で、自分自身以外の誰かに対し、「・・・ということはしないでほしい」という否定的意志表示をする言い回し。
*英訳=「I'd hate it that ...」/etc, etc.
-あくまで「打消推量」の延長線上にある「じ」の打消勧誘-
*第三者を主語に立てての「・・・じ」が「・・・ないでほしい」の意を表わす、と言っても、それは「な・・・そ」や「・・・な」の否定命令文に比較すれば消極的な意思表示で、「・・・するのはよくないでしょう・・・から、そんなことは実現しません・・・よね?」という感じである。つまり、「・・・するな」と相手に直接命じるのではなく、「・・・しないだろう」という形で「事態の不成立」を予測することで、相手がその事態の成立を回避する方向へと動き出すのを期待しているわけである。
*直接自ら事を「為す」のを「卑しいこと」として見下し、周囲の他者が自分に代わってあれこれやってくれることで事が「成る」のを尊んだ古典時代の日本語にはいかにもふさわしい「持って回ったおねだり表現」であると言える。
-「じ」の裏返しとしての「む」・「むず」-
*この否定的な「じ」のちょうど裏返しにあたるのが、第三者を主語に立てての「・・・む」や「・・・むず」が「(私としてはあなたに)・・・してほしい」の意になる表現である。「当然・・・になることでしょう・・・から、あなたとしてもその実現に向けて動いてくれるはずです・・・よね?」という形で、「相手」そのものに「ある事態を実現せよ」と直接に訴えかけるのではなく、その「事態の実現」を当然のこととして「推量」する形を取ることで、その実現に向けて相手が自然と(・・・というには何とも作為的だが)動き出すことを促すのが、推量助動詞「む」・「むず」による「要請」の特性である。
*これら「じ」/「む」・「むず」の表現の主語は、当然、「自分自身以外」となる;が、そうした「主語」を手掛かりにこの用法だと当たりを付けることは、まず、不可能である ― 古文ではそもそも「主語」が明示されている場合の方が珍しいぐらいなので、省略されている主語を文脈からまず補って解釈せねばならず、そうして主語を正確に探り当てたとしても、これらの「持って回った他人への訴えかけによる勧誘型命令文」は、現代人の感覚からは全く想像もつかぬほどの意外性に満ちたくねくね迂回型表現なので、受験生が足をすくわれてすっ転ぶ危険性が極めて高い表現であることに間違いはない。出現頻度も極めて低いため、いくら古文読みの経験を重ねても習熟することは困難・・・であるから、「習うより慣れよ」ではなく「慣れずとも習え」方式で、<じ vs. む・むず>の対照の図式ともども、理知的に脳裏に焼き付けておくべし。
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【じ】〔助動特殊型〕{○・○・じ・じ・(じ)・○}
『接続:{未然形}』
(2)(打消意志)(多く、自身を主語として)その行動を取るつもりがない意を表わす。
・・・ないつもりだ。 ・・・するものか。・・・まい。・・・したくない。・・・するのはいやだ。
*接続=未然形。
*打消推量助動詞「じ」が、(多くの場合、自分自身を主語に立てて)「・・・しないつもりである」の「打消意志」を表わす用法。
*英訳=「I won't ...」/「I wouldn't ...」/「I'm not going to ...」/「I have no intention of ...ing」/etc, etc.
-「じ」・「まじ」は、「む」・「むず」の裏返し-
*古典助動詞を体系的に把握するためには、「同類」のもの/「対照的」なものをまとめておさえておくのが得策であるが、この「じ(及び「まじ」)=・・・するつもりはない」は、「む」及び「むず」の「・・・するつもりである」という「意志未来」の用法と180度逆になる表現であることを覚えておくとよいだろう。
-「じ」の連体形の使い道-
*打消推量助動詞「じ」の活用形は限られていて、「終止形」と「連体形」のみである。厳密に言えば、「こそ+じ」の形の文献が極めて少数発見されているので、「已然形」も存在するとは言えるものの、「已然形」の大事な用法たる「順接の確定条件)已然形+ば=・・・なのだから」や「逆接の確定条件)已然形+ど/ども=・・・ではあるけれども」の用例としての「已然形」は「じ」には1例も見つかっていない・・・ので、「じ」には「已然形」はない、という扱いを受ける場合が多い。
*そして、「連体形」としての「じ」もまた、次の2用法のみに限定される:
連体形じ用法1)直後に「ものを」・「を」・「に」を従えての「逆接・・・ないだろうというのに」の表現で用いる。
連体形じ用法2)直後に体言を従えた慣用句として用いる。
・・・現代語にも残る「負けじ魂」などがそれで、そうした定型句以外での「じ+体言」の結合例はない。
-窮屈な「じ」/自由自在の「まじ」-
*こうして見ると、ほとんど「終止形」専用語のような限定された使い方しかされていなかった不思議な助動詞が「じ」である。それでいてこの「じ」、先述のごとく、「む」・「むず」の否定版なのである。「む」の活用範囲の広さを思えば、この「じ」の不自由さは問題であろう?・・・いったい、こんな助動詞でどうやって「む」のマイナス版を演じ切れたのか、と思いませんか?・・・まぁ、「思はじ」と言われたら話が進まないので早速答えを言ってしまうと、古典時代の「打消推量」助動詞としては、「じ」とほぼ同じ意味ながら、自由度が遥かに高い「まじ」という同類があったから、人々はそちらを多用していたので何も問題はなかった、というわけである。
*「じ」は「まじ」の略形として生じたものとされるが、上述の通り実に不自由な助動詞だったせいもあって、室町時代に入ると(少なくとも口語では)ほとんど死滅してしまい、今の日本語には「負けじ魂」のような定型句でしか残っていない。その一方で、「まじ」の方は「あるまじき振る舞い」のような形で今なお文語表現の中に健在である。
*「言葉」は一種の「道具」であるから、自由度が高く使い勝手のよい存在のほうが、そうでない同類を押しのけて、いつまでも使い続けられる、という一例である。もっとも、どんなに使い勝手の悪い最低の道具でも、同類の互換品が存在しない場合、我慢して使い続けねばならぬわけだから、生き残りのための方便としては<1)より自由度の高い良い道具を目指す>以外に<2)自分と同類の他の道具の存在を許さない>というやり口もあることになる・・・どちらが使い手にとって幸福/不幸かは、言うまでもないことではあろうが・・・この『扶桑語り』は当然<自身の向上>を通しての卓抜を目指すのであるが、これを見ている諸君は、「より良い道具を選別して使っている」であろうか/「他に選択肢がないから仕方なくしょーもない道具を使って」不自由な思いをしながら『扶桑語り』にいそしんでいるのであろうか・・・
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【けむ】〔助動マ四型〕{○・○・けむ(けん)・けむ(けん)・けめ・○}
『接続:{連用形}』
(2)(過去の状況の推量)(疑問の語を伴わずに)過去に存在した事態の背後にある事情について、その原因・方法などに関する確信のない推量を表わす。
・・・たからこそだろう。 ・・・ゆえのことだろう。・・・だったということであろう。・・・ということであろう。
*接続=連用形。
*推量助動詞「けむ」が、疑問詞を伴わず、原因・理由にあたる記述と共に用いられた場合、「~ゆえにこそ、・・・なのだろう」という「原因に関する、確信のない推量」の意を表わす。
*英訳=「... possibly because ...」/「may ... because of A」/「may ... for the sake of A」/「may ... on account of A」/「may ... to/for/in/at/etc, etc. A」/etc, etc.
*この「けむ」の語法は、時制を現在に移し替えれば「らむ」にも共通するもの。
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【か】〔係助〕
『接続:係助={体言・連体形・連用形・副詞・助詞}終助={体言・連体形}』
(4)(列挙)複数の事柄を並べ、そのいずれかを選択したり、いずれであるかが不明である意を表わす。
・・・か、~か。 ・・・なのか、それとも~なのか。果たして・・・か~か。
*接続=各種の語句。
*現代日本語にもそのまま残る係助詞「か」の用法で、「Aか、はたまたBか」という形で複数の事例を並べ、そのうちの「どれであるか、よくわからない」とか「どれかを選ぶ」とかの形の記述をなす「列挙」と呼ばれるもの。
*英訳=「A or B (... or C ...)」
-「係助詞」か「副助詞」か「並立助詞」か-
*この種の「どれかよぉわからん・・・なんでもえぇから選んだれゃ」的「か」は、「係助詞」の用法として片付けるには前後の語句との関係からして難がある場合も多いので、「副助詞」扱いしたり、更には「並立助詞」という特別な呼び名を付けて別物扱いする学者もいる。
*しかし(純粋な分類学的観点以外の)文法上の観点からは、この「か」が「副助詞」だろうが「並立助詞」だろうがどうでもよいことなので、『扶桑語り』ではこれを「係助詞」の中に(多少強引に)含めてしまうことにした・・・その上で、「並立助詞」として別立て扱いされるほどに特徴的な「列挙」の用法を持つ語句を、以下にまとめて提示することで、学習者の注意を喚起するにとどめておく:
並立助詞1)「AかBか」(例:裏か表か)
並立助詞2)「AとBと」(例:天と地と)
並立助詞3)「AやBや」(例:とやかくや)
並立助詞4)「AやらBやら」(熊やら猫やらパンダやら)
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【に】〔格助〕
『接続:格助={体言・連体形・連用形・副助詞}接助={連体形}終助={未然形}』
(5)(目的)動作・作用の目的を表わす。
・・・ために。 ・・・を狙って。・・・のつもりで。
*接続=体言。連体形。連用形。
*格助詞「に」が「目的」を表わす用法で、「・・・(用)に」と訳せばよい。現代日本語にも残っている用法。
*英訳=「for A」/「for the sake of A」/「to ...」/「in order to ...」/「so as to ...」/「with the view of ...ing」/「with a view to ...」/etc, etc.
-目的の「に」へと続くもの-
*この種の「目的」の格助詞「に」の直前に来る語句は、「体言」(例:花見<に>遅し)/「連体形」(例:死ぬる<に>早し)が基本だが、時には「連用形」(例:経読み<に>行く)のような形で「連用形接続」となる場合もある。
*こうして書くと「連用形」だけが殊更特殊な例外のようにも見える;が、よくよく考えてみれば<「連用形」とは「動詞」を「名詞化」するための活用形である>という日本語文法の基本に行き着く。
*上例の「経読み」とて、「[(S)我](O)<経>を(V)<読む>・・・の連用形「読み」:(S)I (V)read (O)Buddhist sutra.」と考えれば「動詞の連用形」だが、「経読み」は「論語読み」だの「棒読み」だの「秒読み」だの「音読み/訓読み」だのと並べてみればわかる通り、実は「名詞そのもの」なのである。
*英語でも、「reading」なる動名詞を、「読むということ」と解釈すればいかにも動詞的だが、「読書」と訳せば名詞そのものとなる(この事情は「to read」でも同じだが、不定詞のほうは動名詞に比すればやや動詞的色彩が濃い)。
*というわけで、日本語の場合、「連用形」が、「英語に於ける動名詞=~ing/不定詞=to ~」と同じ<名詞化作用>を持っている、という事実を思い起こす契機にすればよいのが、この「目的」の「に」の「連用形接続」、ということにしておこう。
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[89]
【ものゆゑ】〔接助〕
『接続:{連体形}』
(2)(原因・理由)前述の事態が原因・理由となって、後述の事態が成立する意を表わす。
・・・ので。 ・・・から。・・・ゆえに。・・・からこそ。
*接続=連体形。
*「ものゆゑ(に)」が「順接の確定条件=・・・なものだから」の意味を表わす用法で、現代日本語にもそのまま残る「ものゆえ(に)」、すんなり理解できるであろう・・・が、これは中世以降の語法(というより、誤法)であって、「ものゆゑ(に)」の原義はあくまで「逆接の確定条件=・・・ではあるけれども」である点を覚えておく必要がある。
*英訳=「because ...」/「as ...」/「since ...」/「for ...」/etc, etc.
-伝統歪曲こそ日本の伝統芸なれ(orなり?)-
*「ものゆゑ」の「順接」用法は上代には全く存在せず、「逆接」専用語である。中古に於いても逆接用法が主流であるが、「誤用」の形の順接例もぼちぼち出回り始める・・・それでも「順接」用法は平安期にはあくまでも「例外的」なものでしかない。
*この「ものゆゑ(に)」が「順接」の形で(誤解の形で)広く認識されるようになったのは、中世以降である。当時はすでにもう「雅語」として「古い時代の言い回し」扱いだったものを、その肝心の「平安期までの正用法たる逆接確定条件」にはせずに「順接確定条件」専用にすり替えてしまったわけで、「知ったかぶりして古いものを取り上げては、本来の形以外のものへといびつに変えての偉そうな取り澄まし顔」が「日本の伝統芸!」というしょーもない事実を思い知らされる一例ではある。
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【らむ】〔助動ラ四型〕{○・○・らむ(らん)・らむ(らん)・らめ・○}
『接続:{終止形・ラ変の連体形}』
(1)(現在の事柄の推量)自身が直接経験しているわけでない現在の事柄について推量する意を表わす。
今頃は・・・だろう。 ・・・のであろう。・・・ていよう。
*接続=終止形(ラ変のみ連体形)。
*現在推量助動詞「らむ(現在)」/「けむ(過去)」の中でも最も単純な「(今)・・・だろう/(昔)・・・たのだろう」(現在/過去の未確認事態の推量)の語法。
*英訳=「will be A/be ...ing」/「might have ...ed/been A/been ...ing」/「I believe ...」/「perhaps ...」/「probably ...」/「in all likelihood ...」/「more likely than not ...」/「as likely as not ...」/etc, etc.
*推量助動詞の「らむ」は「現在」を対象とし、「けむ」は「過去」を対象とする:時制の違いこそあれ、両者の語法は(ほぼ)同一である。
*現在推量の「らむ」は、中古以降「らん」と表記される例が増え、これが鎌倉期に入ると「らう」に化けて、現代日本語の「・・・ろう/・・・だろう」へとつながる(例:「そうして化けていなければ、今頃日本語はラムとランとが入り乱れてさぞやうるせえやつになっていた<ろう>」)。
*過去推量の「けむ」も中古以降「けん」の表記例が増えるが、鎌倉期に入ると衰退してしまう。「けむ」の代わりに「つらう:つ(=完了助動詞)+らう(=らむ音便形)」が優勢となったためである(「つらむ」の表現自体は上代からある古いもの)。この「つらう」が化けたものが、現代日本語「・・・たろう」である。
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【とて】〔格助〕
『接続:{体言・連体形・文末}』
(1)(引用)会話・思念などの内容を引用する。
・・・というふうに。 ・・・と言って。・・・と思って。・・・と。
*接続=体言。連体形。文末。
*現代日本語にも(文語で)残る「とて」の「引用」用法(例:精進料理とは、「殺生は罪」<とて>、草木を殺し、肉に見立てて食らうこと、と見つけたり)。直前に誰かの「台詞」や「思考」の内容を述べた後に「・・・とて」を付けて、「・・・ということで」の意味を表わす、英語で言えば「"..."・クォーテーション・マーク」的な語。
*英訳=「"..." (quotation marks)」/「quotes ... off-quotes」/「.., so A says/thinks/etc, etc.」
*現代語訳する際には、直後に「言ふ」「思ふ」等の動詞が省略されているものとみなして、「...と言って」/「...と思って」などとすると自然にまとまる。
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【に】〔格助〕
『接続:格助={体言・連体形・連用形・副助詞}接助={連体形}終助={未然形}』
(10)(様態)その場の様子・状況を表わす。
・・・の様で。 ・・・の様子で。・・・状態で。・・・で。
*接続=体言。連体形。
*格助詞「に」の「様態」の語法。現代日本語にもそのまま通じ、「・・・な状態で」と解釈する(例:「思うがまま<に>振る舞って、それが賞賛に値する者はBritish gentlemen(英国紳士)。わがまま<に>振る舞って世間の耳目を引きたがる者はJapanese celebrities(和風セレブ=小集団内の人気者)」)。
*英訳=「as ...」/「the way ...」/「so ... as to ...」/「in such a way as to ...」/etc, etc.
-断定助動詞「なり」連用形「に」との関係-
*この「様態」の格助詞「に」は、実質的に、断定助動詞「なり」の連用形「に」と同じものである。「なり」の活用表は、以下の通り:
{なら・なり/に・なり・なる・なれ・なれ}
・・・連用形の「に」だけがはっきりと異質な形をしているのに気付くであろう:これは「格助詞」を無理矢理「助動詞」扱いしているからこそ異様なわけである。
*断定助動詞「なり」の語源は、格助詞「に」+存在を表わす動詞「在り(あり)」の「にあり」が「なり」に転じたものであって、「・・・にある/・・・である」と言い切るその言い回しのうち、前半の「に」はあくまでも「格助詞」の「に」であり、後半の「ある」が動詞「在り」の意味を担っている。
*こうして生まれた「なり」の活用形のうち、大部分の形は「に+あり」の祖形を感じさせない<動詞「在り」寄り>の形態となっているが、「連用形」の「に」だけは<格助詞「に」寄り・・・というより「に」そのもの>となっている・・・実際、格助詞そのものなのだから、これを<「なり」の連用形>とするのにはそもそも難があるのである。
*では、どういう場合にこの<「なり」連用形としての「に」>が登場するか、と言えば、次のような定型句に於いてである:
「なり」連用形として「に」が用いられる定型句)「・・・にあり」/「・・・にこそあれ」/「・・・にはあらず」/「・・・にもあらず」/「・・・にやあらむ」/「・・・にや」/等々
・・・最後の「にや」(直後の「あらむ」は省略されている)はともかくとして、その他の表現はみな「に+在り」という「なり」の祖形そのものである:この場合の「に」は「格助詞」以外の何物でもなく、その「に」には「動詞性=・・・である」は一切宿らない:「・・・である」の意を担うのは「在り」の方なのだから、「に」は「・・・な状態で」という「格助詞」としての役割しか持たないのは明白なことである。
*にもかかわらず、日本の古文業界では、こうした<「に+あり」分離型表現>に於いても、「に」を「格助詞」とはせず、断定助動詞「なり」の「連用形」に組み入れてしまうのである・・・文法的には無茶な話だが、一方で、こうした便法的処理が好都合な別の事情もまたあるのだから、まぁ、仕方がないと言えばいえる事態である・・・その「便法的(文法的、ではない)根拠」は、次の一点にあると見てよいだろう:
-「形容動詞」の「連用形」=「副詞用法」との関係-
<形容動詞(ナリ活用)活用表>={なら・なり/に・なり・なる・なれ・なれ}
*こうして見ればわかる通り、「形容動詞」の活用は、断定助動詞「なり」の活用と同一であり、その語源が「に+あり」である点まで、全く同じ来歴を持った品詞なのである。
*「形容動詞」の名が示す通り、この品詞は基本的に「形容詞」に近いが、「形容詞」には真似できない特別な(そして極めて大事な)用法をも持っている:それは「連用形にすれば、副詞として用いることができる」というものである。元来が「副詞」だったものに「に+あり」が付いてできた語だ、という説もあるが、いずれにせよ「形容動詞の連用形=副詞」という図式に変わりはない・・・そして、この「形容動詞の連用形」が「副詞」として働く場合の語形が、ここで問題になっている「形容動詞語幹+に」の形なのである。
*「副詞」は、「形容詞」に比べても、断定助動詞「なり」と比べても、文中での独立性が高い・・・つまり、元来は「に+あり」であったとしても、「に」までの部分だけで独立した重みを持っているから、その重みを重視して「に」までの部分だけで「連用形!」と言い切ってしまって全然かまわない感じになるのである。次の例で確認しよう:
副詞として用いられた形容動詞「明らかに」連用形の例)「こは<明らかに>過ちにやあらむ・・・これって明らかに間違いじゃないのかなぁ」
動詞的に用いられた形容動詞「明らかに」連用形の例)「その過ちは<明らか>にやあらむ・・・その間違いは明白じゃないのかなぁ」
*並べて見れば一目瞭然、「動詞的連用形」の「明らかに」の場合、<形容動詞「明らか」+格助詞「に」+動詞・助動詞「あら・む」>のように「に」を「明らか」から切り離して解釈することが可能だけれども、「副詞用法連用形」としての「明らかに」は、<形容動詞「明らか」+格助詞「に」>のような分断をはっきりと拒絶するほどの一体感を持っている:こうした形容動詞連用形副詞用法の「明らかに」内部の「に」を「格助詞」扱いすることは、明らかに不可能な芸当である。
*こうして、「形容動詞連用形」としての「に」を「格助詞扱い」することが不可能な以上、それと全く同じ来歴・活用形を持つ断定助動詞「なり」の連用形「に」もまた、「格助詞扱いせず、助動詞連用形として扱う」のが妥当、という結論に到達したとしても、それはあながち悪くはない、と言えるだろう。
*無論、文法的には、断定助動詞「なり」の連用形としての「に」は、全ての場合に於いて「に+あり」として分断解釈可能な構造的特性を持っているのだから、「形容動詞連用形」としての「に」とは明らかに異質であり、形容動詞の類例からは切り離して<「なり」の「に」化けは「連用形」ならぬ「格助詞」への先祖返り>という形で処理するほうが文法理論的には正当ではあろう・・・が、「正当・正論に非ずんば、生くること能はず」とまで厳しい論理性が貫かれている世界でもないのが日本の古文業界なのであるから、この「なり」と「に」の問題については、以下のような形でお茶を濁しておけば、まぁ、それでよいのかもしれない:
1)形容動詞連用形「に」が「副詞用法」として用いられる場合の「に」は、「連用形」であることに間違いはない。
2)形容動詞連用形の「に」でも「副詞用法」以外なら、そして、断定助動詞「なり」の連用形「に」に関しては、本源的には格助詞「に」である;が、これを「連用形」扱いしても、それは分類学上の便法としてはある程度まで許されることであり、殊更指弾するには当たらない。
・・・唯一、「形容動詞連用形副詞用法以外の<に>」を「格助詞」扱いした者に向かって、「否!それは間違い!この<に>は連用形であって、格助詞ではない!」などと、まるで鬼の首でも取ったかのようなエラそうなバカヅラ下げて指摘する愚か者に対してだけは、この筆者による上記の文法的考察と、古文業界の便法的取り決めに関する考察文でも突き付けて、「お前の言ふ様は明らかに過ちにやあらむ?」と言ってやるもよし、「ブタに真珠を投げるべからず」の処世訓に照らして(フ、フン!)と心の中で相手への評価を下げるだけにとどめおく大人の対応もまたよし、といったところであろう・・・ともあれ、ブタさんがわんさかいる「入試古文問題」の世界で、この種の「に」がエラそうにフンぞり返ってる場面では、それは100%「なり連用形なり!」なる便法の上でいなないているものと明らかに読めるのだから、そうした場合の諸君のあるべき対応は決まってる:「(クソっ、また出たな・・・ほんとは格助詞なんだけど・・・)はい、それは、連用形です!」と答えてやれば、それでいいのである。
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【のみ】〔副助〕
『接続:{体言・連体形・副詞・助詞}』
(1)(限定)他のものを除外して、ただそれだけに限定する意を表わす。
・・・だけ。 ・・・ばかり。・・・のみ。
*接続=体言。連体形。副詞。助詞。
*「限定=他のものと区別して、ただひたすらAのみ」の意味を表わす副助詞「のみ」。現代日本語の文語表現「のみ」(例:ロン。タンヤオ<のみ>1300点!)とほぼ同じだが、古語の「のみ」には、「限定」というよりも「断定」と感じられる用例も少なくない。「他の何かとの相対比較」を含まず、ただ一つの物事のみを取り上げて断定調で力強く述べているだけの「のみ」ならば、「限定」というより「断定・強調・詠嘆」の語法・・・ということになるのだが、両者の区分は必ずしも厳密に付かぬ場合も多い。
*英訳=「only ...」/「just ...」/「nothing but ...」/「simply ...」/etc, etc.
-「のみ」と「only」の共通性-
*古語の「のみ」は英語の副詞「only」に、次の点でよく似ている:
1)「限定」と「強調」の二つの意味を持つ。
2)被修飾語との位置関係が自由である。
英文例1)I can <only> do so with his help.
古語例1)我は彼の人の助けによりてそれを為せる<のみ>。
・・・このように文末に置かれた場合、「のみ」は副助詞ではなく終助詞扱いとなる;が、その本質に変化はない。
・・・「可能」の助動詞「る」をこのように肯定形で用いられるのは、鎌倉期以降であり、中古までの(可能の)「る/らる」は「疑問文/否定文/反語」でしか用いられない。
現代語訳1A)私はあの人の助力があるからこそそれを行なえる・・・<ただそれだけ>のことです。
・・・<only>/<のみ>を「断定・強調」と解釈した場合の訳し方。この場合の被修飾語は「I can do so」/「我はそれを為せる」・・・即ち「文修飾(sentence modifier)」となる。
現代語訳1B)私にそれが出来るのは<唯一>彼の助力が得られた場合<のみ>です。
・・・<only>/<のみ>を「限定」と解釈した場合の訳し方。この場合の被修飾語は「with his help」/「彼の人の助けによりて」・・・即ち「語修飾(word modifier)」となる。
*このように、<only>や<のみ>は、どの部分を修飾語とするかによって、「限定」にも「強調」にもなり得る。英文法では「movable 'only':変幻自在にあちこちに置けるonly」として有名な現象であるが、これは古語の「のみ」にも共通する特性である。上例での「のみ」は文末以外の位置には置けないが、一般には(次例で見る通り)「のみ」は「movable」なのである:
古語例2)長雨<のみ>降る
古語例3)長雨降る<のみ>
現代語訳2)長雨<ばかり>降っている(語修飾=限定)
現代語訳3)長雨が降って<ばかり>いる(文修飾=強調)
・・・文末に「のみ」が置かれた場合、文章全体を修飾語とする感じが強くなるので、その分「文修飾=強調」に傾きやすいが、それでも「限定」の意味を表わさないとは限らないし、文中に置かれた「のみ」が必ずしも「語修飾=限定」になるわけではなく「文修飾=強調」として働く場合もある・・・とにかく「のみ」の解釈は、その名に似合わず「ただこれだけ!」と一筋縄で決め付けるわけには行かないのである。
*こうした「文修飾=強調/語修飾=限定」の紛らわしさを解消して「限定」の意味へと解釈を限定するためには、英語の場合、「only」を次の位置にずらせばよい:
英文例2)I can do so <only> with his help.
・・・が、古文の場合、この位置に<のみ>を置くことはできない・・・こうした場合は<ただ>で代用することになる:
古語例4)我は<ただ>彼の人の助けによりてそれを為せる。
・・・この場合でも、文末に<のみ>を置くことが多い:
古語例5)我は<ただ>彼の人の助けによりてそれを為せる<のみ>。
・・・こうなると、しかしまた事態は振り出しに逆戻りであって、<ただ>は「語修飾=限定・・・彼の助力こそが<唯一>の手段」の感じなのに、文末の<のみ>は「文修飾=強調・・・私がスゴいわけではなく、彼の助けがあったからこそ出来たというだけの話、<ただそれだけのこと>」の雰囲気を漂わせている・・・結局、「のみ」を使う限り、こうした「限定/強調」の二面性のシーソーゲームからは逃れられないわけである。
-「のみ」ばかりが持つ「only」性-
*上述の「限定/強調」両刀遣いの性質と、被修飾語との位置関係の変幻自在性という「英語のonlyに通じる特質」は、副助詞「のみ」にのみ備わるものであって、類義語としてしばしば言及される「ばかり」にはない。副助詞「ばかり」は「限定」の色彩が濃密で、「強調」の働きは(全然ない、とは言えないが)薄いのである。
*中古の和文では、「限定」を表わす語句としては「ばかり」が主流であって、「のみ」の影は薄かったが、そこには次のような理由が想定できるであろう:
1)「限定」にも「強調」にも変幻自在な「のみ」に対し、「限定」一本に徹する「ばかり」のほうが紛れがなくてよかった。
2)「のみ」は、その文中での位置や修飾/被修飾関係の自在性を生かして、「限定」よりは「強調」へと傾斜しがちであった。
3)「のみ」は、漢文に於ける限定性文字「耳・爾・己」にも通じ、堅苦しい響きがある男性語と意識されたので、かな書き和文には多用されなかった。
*こうした事情から、「限定性記号」としては「ばかり」が主流となり、「強調的男性語」としての「のみ」は堅苦しい文語の中に細々と残るのみ、という現代日本語の勢力図も確立されたわけであろう。
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【まで】〔副助〕
『接続:副助={体言・連体形・副詞}終助={終止文・助動詞「ぢゃ」}』
(3)(程度)動作や状態の及ぶ程度を表す。
・・・なほど。 ・・・なぐらい。・・・なまで。
*接続=体言。連体形。
*現代日本語にもそのまま残る副助詞「まで」の語法で、体言・連体形に続けて「程度・段階」を表わす(例:「肉体と精神に変調をきたす<まで>勉強する」)。
*英訳=「so ... as to ...」/「so ... that ...」/「to such an extent that ...」/「... such that ...」
-元来「から」・「より」とペア表現-
*この用法の「まで」は本来「格助詞」であって、次のような形の(列車の時刻表みたいな)相関表現で用いたもの:
A地点「から」・「より」 ~ B地点「まで」
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【らむ】〔助動ラ四型〕{○・○・らむ(らん)・らむ(らん)・らめ・○}
『接続:{終止形・ラ変の連体形}』
(5)(伝聞)(多く連体形で用いて)他者から伝え聞いた情報について、断定回避的に述べる。
・・・とかいう。 ・・・だそうだ。・・・との話だ。
*接続=終止形(ラ変のみ連体形)。
*確信のない推量を基本義とする推量助動詞の「らむ(現在)」/「けむ(過去)」が、派生的に「自分としては確認していないが、他者から聞いた話によれば・・・だとのことだ」の形で「伝聞情報」の形で物事を述べる語法。連体形「らむ+名詞/けむ+名詞」の形で用いられる場合が多く、「・・・とかいうA」あたりの他人行儀な訳し方で事足りることが多い。
*英訳=「the supposedly ... A」/「what they call A」/「the so-called A」/「A, which is said to ...」/「A, as X says is ...」/etc, etc.
*この語法は、「このAというのは、私が言うのではなく、世間がそう言うのだ」という断定回避のために用いられるほか、「私自身としては、このAというやつの信憑性を疑わしく思うのだけれどね」という否定的見解の含みを帯びる場合もある。このあたり、英語の「supposed[ly]」や「so-called」の響きに通じるものがある。
*この語法は、「けむ」については死語となったが、「らむ」の方は室町時代以降の語形「らう」から転じた「・・・(だ)ろう」として現代日本語にも残っている(例:「肩書きからすればさぞや高いのであ<ろう>その知性水準が、この文面からはまるで伝わってこない」)。
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【と】〔格助〕
『接続:格助={体言・連体形・連用形・文末}接助={動詞型活用語終止形・形容動詞型活用語終止形・形容詞型活用語連用形・助動詞「ず」連用形}』
(9)(資格)ある行為がどのような資格に於いて為されるかを表わす。
・・・として。 ・・・の立場で。
*接続=体言。連体形。文末。
*格助詞「と」の「資格・状態」を表わす用法。別の古語で換言すれば「とて」・「として」となる。現代日本語にも(やや文語的に)「・・・とある」(例:名刺には「昨秋浪人宮本何某」<と>ある)や「・・・となったら」(例:いざ<と>なったら予備校に行くさ)、「・・・ともなれば」(例:二浪生<と>もなれば勉強&パチンコの二刀流、ってわけにも行かぬ)のような表現で引き継がれている。
*英訳=「as A」/「to be A」
-断定助動詞「たり」との関係-
*この「資格」を表わす格助詞「と」に、状態を表わす動詞「あり」を付けた「と+あり」が転じたものが、断定助動詞「たり」であり、その原義は「・・・という資格で存在している/・・・としてそこにある」である。
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【や】〔終助〕
『接続:係助={体言・連体形・連用形・副詞・助詞}終助={終止形・已然形・体言・言い切り文}接助={連用形}間投助={連体修飾語・接続語以外の様々な語}』
(3)(反語)疑問文の形を取りながら、実質的に否定の内容を表わす。
・・・ということがあろうか?否・・・ない。 ・・・あるまい。・・・なものか。
*接続=終止形。(上代には已然形にも付いた)
*「や」が文末に置かれ、形式上「疑問文・・・だろうか?」でありながら、実質的には「否定文・・・ということはなかろう」の意を表わす「反語」の終助詞用法(または、係助詞の文末用法)。現代日本語には引き継がれていない。終止形接続だが、上代には已然形接続例も見られる(「一般:ねこはをこなり<や>/上代:猫は烏滸なれ<や>=猫は馬鹿だろか?ぃや、そーじゃない」)。
*英訳=「・・・? (rhetorical question)」/「Do you really think ...?」/「I don't believe ...」/「I doubt that ...」/etc, etc.
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【は】〔終助〕
『接続:係助={体言その他各種}終助={体言・連体形・助詞「ぞ」・「や」}』
(1)(詠嘆)感動の意を表わす。
・・・よ。 ・・・なあ。・・・なことだ。
*接続=体言。連体形。助詞「ぞ」。助詞「や」。
*「は」の用法のほとんどは「係助詞」だが、文末に置かれ、体言や連体形に接続し(あるいは係助詞を受けて「ぞは」・「やは」の形で)「詠嘆」の意を添えるだけの場合は「終助詞」となる。まったくもって無意味な語句だけに、特定の訳し方もなにもない。同様に「詠嘆」の意を表わす各種の語(「かな」・「や」・「よ」・「を」等)に倣って「あぁ・・・」とか「・・・だなぁ」とか「・・・なことよ」とかで逃げを打つか、いっそ無訳で通してしまえばよい。現代日本語には引き継がれていないが、「は」ならぬ「はぁ」・「ぁぁ」・「ゎぁ」あたりの脱力系嘆息音はそれに近いかもしれない。
*英訳=「ah...」/「o...」/「oh...」/etc, etc.
-無意味が一番困るのだ-
*この「詠嘆」に代表されるような、しっかりとした意味のない語ほど「外国語学習」で困るものはない。例えば、次の英文など、「英語人種」にとっては何ということもないが、「外国人の英語学習者」にとってはコケ易いものである:
英語例)Hey, come on, little girl, take a little chance with me.
ダメ和訳例)へい、おいでよ小さい少女、少しだけ僕と共に危険を冒してよ。
まともな和訳例)ヘイ、かわい子ちゃん、ちょっぴり一緒に冒険しちゃおうよ。
*<little girl>の「little」は相手への親愛の情を表わすだけの無意味な語/「girl」は「少女」ではなく眼前にいる女性への親しげな呼びかけの語なので、「かわいぃ君」あたりが妥当であって、「小さな少女」では「白い白馬」や「年老いた老人」・「プロっぽい専門家」みたいな感じで、ばかばかしいにもほどがある。
*この種の「雰囲気語」は、文字通り空気みたいなフワフワ感で文中を漂っているばかりなので、なまじそうした無意味な語に意味の重みを乗せて解釈しようとすると、何ともおかしなことになる。そこに込められたニュアンスさえ読み取ったら、それ以上の特別な扱いはせずに軽くスルーするのが正しい・・・のだが、そもそもその「微妙な空気」の気配は、その言語に日常的に馴染んだ人間以外には感覚的に読み取れないものなのだから、困ってしまうのだ・・・結局、この種の「雰囲気語」の解釈を「外国人」が行なうには、次のような面倒くさい2段階を経なければならないのである:
1)同じ語形が表わし得る全ての用法を逐一(辞書・参考書・自分自身の記憶のストックから)確認して脈絡に当てはめ、「有意語義」のどれ一つとしてその文脈では妥当性を有さないことを確認する。
2)最後に残った「無意味語義」こそが妥当であることに思い至り、特定の訳出を放棄して無訳のまま流す。
・・・この1&2の過程を幾度も繰り返すうちに、ようやく英語の「little=親愛」や古語の「は=詠嘆」の漠然とした雰囲気がなんとなくわかった気になる、というわけである。
*逆に言えば、「有意語義」の全ての検証作業を解釈者に強いるものであるだけに、「外国語試験」に於ける「無意味語」の出題は、最も過酷な課題ということになる。「母国語試験」としてこれを出せば「即座の反射的解釈」ができるか否かが着眼点になるが、現代日本人にとっては明らかに「外国語」である「古文入試」で「終助詞」の「は」の「詠嘆語法」を問題にするのは、<「係助詞」としての意味ある「は」の全てを(限られた解答時間の中で)すべて確認してそのどれにも該当するものがないことを確認せよ>と言っているのに近い・・・これは、不当なまでに過大な作業を受験者に押しつけるものであるだけに、入試問題としては妥当ではないであろう・・・が、このあたりがわかっていない(解答する側の立場に立って物事を見つめるほどの知的余裕など持ち合わせていない)半可通の出題者も少なくないのが日本の大学入試なので、受験生にとってこの種の「雰囲気語の空気読み」は、けっこう重要な課題だったりするのである・・・ので、最後に一つアドバイスをば:
<しっかりとした意味を持たぬ「雰囲気語」の見極めは、しっかりとした意味を持つ「有意語義」の検出作業を全て終えて最後に残ったものに「無意味」の烙印を押すことで初めて可能となるもの・・・なればこそ、日頃から、「有意語義」はスラスラと短時間で検出可能な状態を整えておき、いざ「無意味語義」に出会ったなら、「自分の実力からすれば、意味ある語ならとっくに検出できてるハズ・・・なのにまだ適当な語義にヒットしない・・・自分ほどの実力者がこれだけ意味判定に悩む以上、この語は無意味語であるに違いない」という形で「自らの反応時間の遅さ」を「無意味語の判定基準」へと代替可能にしておくべし>・・・「自分がこれだけやってこのザマなら、相手のほうが悪い」という知的体表感覚を「無意味を見抜く切り札」として使えるようになれば、受験生としてもう何も怖いものはない(・・・自分自身の「実力に不相応な思い上がり」以外は)。
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【まし】〔助動特殊型〕{ましか/(ませ)・○・まし・まし・ましか・○}
『接続:{未然形}』
(1)(仮想)(主に「・・・ましかば+~まし」のように、条件文+帰結文の構成で用いて)事実に反する、または、実現可能性の低い事柄について、仮想的に述べる。
もし・・・なら~だろう。たとえ・・・でも~だろう。 仮に・・・だとしたら~だろう。よしんば・・・だとしても~だろう。
*接続=未然形。
*助動詞「まし」の「反実仮想」と呼ばれる語法。活用語の未然形に接続し、多く「・・・ましかば(仮に・・・だとすれば)=条件文」+「~まし(~であろう)=帰結文」の形で、事実に反する仮定を、あくまで仮想の形で述べる(反実仮想)。また、想定される事態は必ずしも「実現不可能な絵空事」ではなく、「可能性は低いが、実現可能な事柄」である場合もある。
*英訳(subjunctive past)=「if ...ed, - would ...」/「if were to .., - would ...」/「if should .., - would」/etc, etc.
*英訳(subjunctive past perfect)= 「if had ...ed, - would ../would have ...ed」/etc, etc.
-「まし」以外の語句を伴う場合-
*帰結文には必ず「まし」を伴うが、条件文は必ずしも「・・・ましかば」の形とは限らない点に注意を促しておきたい。また、「帰結文」のみで「条件文なし」の場合もあれば、「条件文のみ」で「帰結文なし」の場合もある(このあたり、英語の同種表現でも事情は同じである):
例)「花のごと世の常なら<ば>過ぐしてし昔はまたも返り来な<まし>」(『古今集』春下・九八)・・・例年春が来れば花は咲くが、そのように常に変わらぬ循環性が世の中全般に満ちているなら<ば>、過ぎ去った昔が再び戻ってくることもある<だろうになぁ>。
*上例では、条件文を「仮想」の形で導くのは「未然形+ば」(ならば)であって、「ましかば」ではない。
-接続先からみた「まし」の特異性-
*また、上の例文では、帰結文も「かへりこ<まし>」(未然形+まし)ではなく、「かへりきな<まし>」(連用形+「ぬ」未然形+まし)の形になっている。このように、「まし」単独ではなく、連用形接続の完了助動詞(未然形)との連語形「ぬ+まし=なまし」/「つ+まし=てまし」の形を取る場合は少なくない。この場合の「ぬ」・「つ」の意味は、「既にそうなってしまった、と仮定すれば(完了)」ではないし、「間違いなくそうである、と仮定すれば(確述)」の意味と取るにも難があるので、「未然形接続」を嫌って「連用形接続」へと持ち込むための音調的方便として「なまし」/「てまし」を用いたのだ、と考えるべきであろう。
*確認として、「まし」以外の推量助動詞の接続する活用形を見てみると:
未然形接続=「む」(未来の推量)・・・まだ起こっていない未来の事態についての推量だから、「未だ然らず」の「未然形」に接続するのは当然であろう。
終止形接続=「らむ」(現在の推量)・・・確認はできぬものの、現時点で展開しているであろう事態についての推量だから、「終止形」接続は妥当であろう。
連用形接続=「けむ」(過去の推量)・・・過去の事態についての推量だから、過去助動詞「き」・「けり」と同様の「連用形」接続は自然であろう(語源学的に「けむ」=過去助動詞「き」+推量助動詞「む」とも言われる)。
*こうして見ると、「まし」が「未然形」に接続することの意味が、改めて疑問視されるところである。「未然形」とは、「まだ起こっていない未来の事態」について想定する形であるから、「む」にこそふさわしいものの、「今眼前にある事態」を「それはそれで確定してしまったこと」と認めつつも、「あぁ・・・そうでなかったらいいのになぁ」とないものねだりする「まし」の「反実仮想性」を思えば、「未然形」はいかにも不自然である。さりとて「まし」を「終止形」に続けたのでは(「らむ」の例に見るように)眼前の事態を事実として「確定」してしまって終わり、の感がある:この点は「已然形」でも同じである。「連体形」・「命令形」に接続したのでは意味をなさないのは言うまでもない・・・そうなると、残る唯一の活用形は「連用形」である。
*連用形に接続するのは過去推量助動詞「けむ」(及び、過去助動詞「き」・「けり」)であり、「まし」を連用形に接続すればやはり「過去」への傾斜が強まることになるが、これは英語の「仮定法」の時制遡行現象に照らしても、文法論理的に妥当なことであろう。
*「まし」が、「眼前にはAという現実がある」中で「仮に、AではなくてBだったとしたならば」と想定するものである以上、「眼前のAという現実を除去してBという事態へと(想念の中で)置き換える」ためには、その「<現在>のAという現実を生んだ原因が存在する時点である<過去>へと意識を立ち戻らせ、そのAの原因を取り除いて、代わりにBを置く」のが論理的に自然な流れなのである・・・そう考えれば、「未来指向」の「未然形」(「む」御用達)よりも、「過去指向」の「連用形」(「けむ」御用達)接続の方が、反実仮想の「まし」には妥当な活用形、との感が強まってくるはずである・・・その場合に妥当性を有するのが、先述の「てまし」/「なまし」という「完了助動詞+まし」の連語形、というわけである。これらの連語に含まれる助動詞「つ」・「ぬ」が、「てまし/なまし」に於いて表わす意味は「完了・・・すでにもうそうなっている」でないことは確かだが(現実になっていない事態を想定するのだから、完了ではおかしい)、「つ/ぬ」が持つ「現在よりも過去へと意識を向かわせる性質」は、「まし」の反実仮想性との親和性が高いし、何よりも「つ/ぬ」との結合によって「連用形接続」を得られる(=「き」・「けり」・「けむ」の雰囲気に近付く)ことの意味のほうが大きいのである。
*こういうわけで、「未然形+まし」よりむしろ自然とも思われる「連用形+てまし」/「連用形+なまし」が、多用されるようになったものと思われる・・・この推論が正しかろうとなかろうと、いずれにせよ、助動詞「まし」に関しては(4つある用法の全てに於いて)「てまし」/「なまし」の連語形が多用されたという事実に間違いはないので、あだやノーマークにせぬことである。
-「・・・ましかば、~まし」と英語の「仮定法」-
*「まし」は、英語の「仮定法」に相当する仮想表現である(現代日本語にはこれに相当する語はない)。
*英語の「仮定法」の場合、想定する時制に応じて次のように動詞の形が分化する:
1)仮想対象時点が「現在~未来」=「仮定法過去」・・・動詞は「過去形」
例:If I had enough money now, I'd buy that book.もしもいま十分な金があれば、あの本を買うのだがなぁ。
2)仮想対象時点が「過去」=「仮定法過去完了」・・・動詞は「過去完了形」
例:If I had had enough money then, I'd have bought that book.もしもあの時十分な金があったなら、あの本を買っていたのだがなぁ。
・・・これに対し、古語の「まし」は、時制に応じての変化というものを持たない:仮想の対象となる時点が「過去」/「現在」/「未来」のいずれだろうと、全く同じ「・・・ましかば、~まし」の形であって、「・・・ましかりければ、~ましかりつべし」みたいな面倒な変化は一切しない。このあたりにも「時制にウルサい英語/基本的に現在一本槍で時制に無頓着な和語」の特性が表われている。
*一方、英語の「仮定法」/古語の「まし」の両者に共通する特性として、想定される事態は多く「現実に反する事柄」や「実現不可能な事柄」であるが、必ずしもそれのみにとどまらず、「現実性は低いが、実現可能な事柄」、その他の事柄を想定する場合もある・・・大方の日本人が錯覚している点(Japanese fallacy)がこれである。「・・・ましかば/~まし」=「反実仮想」というレッテルをそのまま鵜呑みにしたり、英語教科書によくある「If I were a bird, I would fly to you.もし私が鳥だったら、あなたのところへ飛んで行くでしょうに」のような絵空事ばかりに引きずられて、「現実にはあり得ない事柄<だけ>を想定すること=反実仮想」という図式のみで「仮定法」や「まし」を短絡解釈しているのである・・・が、きちんと英語を学んだ人間なら知っていることであろう ― 現実の英語仮定法が想定する実現可能性には、次のような各種レベルがあるのだ:
A)「現にある事態に、敢えて反する事柄を想定」
例:If dogs could talk, they wouldn't make such good friends with us humans.もし犬が話せたら、我々人間とこんな友好的関係ではあり得ないだろう。
B)「実現可能性の低いことを絵空事として(多く、冗談めかして)想定」
例:If I won a million dollars in the lottery, you could have half of it.宝くじで100万ドル当たったら、君に半分やるよ。
C)「それを想定すること、または、その想定を人に語ることに関し、何らかの心的抵抗感がある事柄について、遠慮がちに想定」
例:If you were to die tomorrow, what would you do today?もし君が明日死ぬとして・・・ごめんよ、ヘンな話で・・・その場合、君なら今日、何をする?
・・・「君が明日死ぬこと」は、あり得ない事柄ではないが、そんな不吉な事柄をアッケラカンと口にするのは相手への非礼にあたる;ので、「通常時制=現在形」よりも1つ分過去にさかのぼらせた不思議な時制で「遠慮」を表わすのが「仮定法過去」である。
*この「心理的抵抗感」は、次のような形の「仮定法過去」としても現われる:
例:If I told you I could get us two premium tickets for the concert of that world-famous pianist, would you kindly accept my offer?あの世界的に有名なピアニストのコンサートの上席のチケット、二人分手に入るんですが・・・と言ったら、あなたは受け取ってくださいますか?
・・・「チケットあるから、一緒に行こうよ」と気軽に誘うのには照れがあるような場合に、遠慮がちにおずおずとこうした「仮定法過去」のオブラートに包んで相手への好意(or下心)を表わすわけである。
*古語の「まし」とて、それが昔の日本で「仮定法」的に使われていた以上、「あり得ない事柄」(ワンコがしゃべる/宝くじで100万ドル当てる/君は明日死ぬ)ばかりを想定する硬直化した使われ方をしていた道理がない・・・現代日本語には「まし」も「仮定法」もないので、大方の日本人はこのあたりの感覚に実に疎いが、上の英語の例文を見れば、その感じが少しはわかるであろう。
-「まし」の活用形とその使い道-
*助動詞「まし」の活用表は以下の通りである:
{ましか(ませ)・○・まし・まし・ましか・○}
*「まし」に「連用形」がないのは当然で、「もし・・・ならば」と想定する(条件文)にせよ、「~だろう」と想定する(帰結文)にせよ、そこで想定される一連の仮想的事態(・・・/~)は「(想像の中で)1つの完結形として存在する」のであるから、不完全終止の形で、直後に別の用言が続く道理がない(=連用形は必要ない)わけである。
*「まし」に「命令形」はない。「仮想として想定」するだけの語なのであるから、「現実の世界の中に、実体化せよ!」と命じるための命令形はあり得ないことになるし、「頭の中の絵空事」としてならば、想像した時点で何事であろうとも「仮想的に現実のものとなる:be a virtual reality」、即ち、「現実になれ、と命令」するまでもない、ということになる。
*「未然形」は、「ましか+ば」の形で条件文を想定するのが平安時代の定型だが、上代には「ませ+ば」という未然形も用いられた。中古以降でも、和歌の中で字数合わせをするために「ませば」の形を用いることはあったが、用例はあまり多くない。
*帰結文の結びは「~まし(~なことだろう)」の終止形が基本であるが、古文には「係り結び」という特殊な相関構文があるので、これに対応するための活用形もまた必要であった。即ち:
1)係助詞「ぞ」・「なむ」と対応する「まし」=連体形の「まし」
2)係助詞「こそ」と対応する「まし」=已然形の「ましか」
・・・上の2つの場合への対応のみを唯一の使い道とする「連体形(まし)」・「已然形(ましか)」もまた存在した;が、係り結びを形成するため以外にこれらの活用形が用いられることは(極めて稀な例外を除いて)なかった。
*上の「連用形」・「命令形」で考えたのと同じ理屈で、「まし」の直前までの部分で「一連の仮想事態の記述は完結している」のだから、「文中にあって直後に体言を従える形」の連体形「まし」は成立し得ない。わずかに、「・・・と想定した場合の、そのA」という形で(「む+A」・「むずる+A」によくあるような)「婉曲」の用例と、直後の体言が消失した「・・・と想定したその場合」という形の(これも「む」・「むずる」にも見られる)「準体法」の用例が、少数見られるのみである。
連体形「まし」による「婉曲」の例)「高光る我が日の皇子の万代に国知らさ<まし>島の宮はも」(『万葉集』二・一七一)・・・<もしも御存命だったとしたならば長らくこの日本国を統治なさったことであろうところの>日本国の宮様(=草壁皇子)よ
連体形「まし」による準体法の例)「おほかたの儀式などは、内裏に参り給は<まし>[事]に変はることなし」(『源氏物語』竹河)・・・儀式のあらましは、<仮に入内して宮中に入ると想定した場合[の事]>と変わりありません。
・・・こうした連体形の使われ方は例外中の例外であって、「まし」連体形は基本的に「係り結び専用形」と考えてよい。
*また、「已然形」に関しても完全に「係り結び専用形」であって、それ以外の已然形の用法としてあり得る次の3つの場合は、「まし」に関しては不成立である:
(×)「已然形+ど/ども」による逆接の確定条件=「ましか+ど/ども・・・と想定する、けれども」
・・・「・・・と想定する、ので、~だと思う」が「・・・ましかば、~まし」の仮定表現なのだから、「順接」のみ成立して「逆接」などはあり得ない。
(×)「已然形+ば」による順接の確定条件=「ましか+ば・・・と想定する、ので」
・・・この「ましかば」の形なら「未然形+ば」と解されて「もしかりに・・・ならば」の仮定条件になるわけで、「・・・と想定するので」の確定条件にはなり得ない。
(×)(鎌倉期以降の)「已然形+ば」による順接の仮定条件=「ましか+ば・・・と想定する、ならば」
・・・「仮に・・・と想定するならば」の仮定条件の解釈はよいとしても、この形なら「未然形+ば」の「ましか+ば」とみなすのが妥当であって、「已然形+ば」ではない。
*このように「まし」は、活用形に関する限りでは、「条件文を成立させるための活用形=未然形」と「帰結文を成立させるための活用形=終止形(+連体形・已然形)」しか持たない硬直的な使われ方をした助動詞なのであった。活用形の少ない助動詞というものはまた、その使われ方が一定の定型表現に限定され、やがてその表現が廃れるとともに死語と化す場合が多い・・・この「まし」も例外ではなく、鎌倉時代にはすでにもう口語としては使われなくなり、文章語として細々と生きながらえる状態に入っている・・・そうして、英語の「仮定法」に相当するロジックもまた、日本語から消滅して行くのである。
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【まし】〔助動特殊型〕{ましか/(ませ)・○・まし・まし・ましか・○}
『接続:{未然形}』
(4)(推量)(中世以降、助動詞「む」と同様に用いて)事実に反するわけでも実現可能性が低いわけでもない、普通の推量の意を表わす。
・・・ろう。もし・・・ならば。 ・・・だろう。・・・よう。・・・であろう。
*接続=未然形。
*助動詞「まし」は基本的に、英語で言う「仮定法」的な推量に用いられる語句であるが、それが「む」・「むず」と全く同じ単なる(=仮定法的な色彩を持たない)「推量・・・だろう/もし・・・なら」の意味に用いられたもの。
*英訳=「will ...」
-中世以降の「まし」の「む/むず」化現象-
*古語の「まし」が果たした「仮定法」的な役割は、現代日本語にはもはや残っていないが、そうして「仮定法的ニュアンスを失った、単なる推量助動詞」への道を「まし」が歩み出したのは、平安時代も終わり、鎌倉時代に入った頃(=中世以降)である。
*この時代にはすでに、「まし」は口語では用いられなくなっていたらしい。文章中に登場する場合でも、「未然形+まし」にも増して「連用形+てまし」/「連用形+なまし」の語形で用いられる例が多く見られる。この形は、中古には、未然形接続を忌避する形で連用形接続する完了助動詞「つ」・「ぬ」との組み合わせを選んだ感が強いが、中世には「まし」自体の衰退とともに、「てまし」/「なまし」が、単なる推量の(=仮定法的色彩を持たない)定型句として意識されていたのかもしれない。鎌倉期には、「てまし/なまし」と同様、「つ」・「ぬ」と推量助動詞「む」の連語形の「てむ(つ+む)」/「なむ(ぬ+む)」もまた多用されており、「てむ=てまし」/「なむ=なまし」の感覚で「む=まし」の同一視現象を促進した感がある。
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