■__に【に】『接続:格助={体言・連体形・連用形・副助詞}接助={連体形}終助={未然形}』〔格助〕 (1)〈(地点)動作・作用の舞台となる空間的な場を表わす。〉・・・に於いて。・・・で。・・・に。・・・の場で。 (2)〈(方向・帰着点)動作の指向・到達する空間的な地点を表わす。〉・・・の方に。・・・へ。・・・に。・・・へ向けて。 (3)〈(時点)動作・作用の発生する時間的な場を表わす。〉・・・の際に。・・・の時に。・・・の折に。・・・の場面で。・・・に。 (4)〈(対象)動作・作用の対象・相手を表わす。〉・・・に対して。・・・へと。・・・に向けて。・・・に。・・・と。 (5)〈(目的)動作・作用の目的を表わす。〉・・・ために。・・・を狙って。・・・のつもりで。 (6)〈(原因・理由)前述の事柄が、後述の結果を招くことになる意を表わす。〉・・・ゆえに。・・・のせいで。・・・・のおかげで。・・・によって。・・・のために。 (7)〈(手段)動作・作用を行なう上での方法・手段・材料などを表わす。〉・・・によって。・・・を用いて。・・・を使って。・・・で。 (8)〈(動作主)(受身・使役の表現で)その動作が誰によって行なわれたかを表わす。〉・・・によって。・・・に。・・・の手で。・・・を使って。 (9)〈(婉曲な主体表示)(敬うべき主語を、多くその本来の呼称の代わりに「存在する場所+には・にも」の形で表現して)主語となる人物への敬意を込めて遠回しに言う。(主語の取り立て)(敬意の対象外の主語について)他の存在と対比させる形でその主語を取り立てる。〉・・・におかれましては。・・・については。・・・様には。・・・は。 (10)〈(様態)その場の様子・状況を表わす。〉・・・の様で。・・・の様子で。・・・状態で。・・・で。 (11)〈(立場)(資格・地位などを表わす語の直後に用いて)そのような存在として判断・処遇・行動する意を表わす。〉・・・として。・・・ということで。・・・の資格で。・・・の立場で。・・・役で。 (12)〈(比較対象)相対比較の対象となる他の何かを表わす。〉・・・に比べて。・・・より。・・・に対して。・・・のように。 (13)〈(累加)既にある物事に、同種の何かが更に加わる意を表わす。〉・・・の上に。・・・の他に。・・・に加えて。・・・に。・・・更にまた。 (14)〈(比喩)類似・関連性を持つ他の何かに例える形で事物を表現する。〉・・・のように。・・・みたいに。・・・に似て。・・・よろしく。あたかも・・・の如く。 (15)〈(強調)(多く「ただ」・「いや」・「ひた」を伴って)同一の動詞・形容詞の間に置いて、その語の意味を強める。〉ただもう・・・。それはもう・・・。ひたすら・・・。・・・に・・・。 (16)〈(結果)動作・作用や変化の結果を表わす。〉・・・に。・・・と。・・・へと。・・・の形に。 (17)〈(引用)(「思ふ」・「知る」・「見る」・「聞く」などの動詞と共に用いて)知覚・思念などの内容を提示する。〉・・・であると。・・・というふうに。・・・と。 (18)〈(関連)対象となる方面・分野を表わす。〉・・・に於いて。・・・に関して。・・・について。・・・面で。・・・に。 〔終助〕 (1)〈(上代語)(他者への希望)その実現が自身の意志・行動に依らない事態を、他者に対して望む。〉・・・てほしい。・・・てもらいたい。 〔接助〕 (1)〈(単純接続)前後の事柄を単純に接続する。〉・・・が。・・・と。 (2)〈(契機)直前に述べた事柄が、後続の事柄の発生やそれを認識するきっかけとなる意を表わす。〉・・・ところ。・・・すると。・・・と。 (3)〈(順接の確定条件)前述の内容が原因・理由となって、後続の事態が成立する意を表わす。〉・・・ので。・・・から。・・・ために。・・・ゆえに。 (4)〈(逆接の確定条件)前述の条件が成立するにもかかわらず、それに反する後述の事態が成立する意を表わす。〉確かに・・・ではあるが。・・・にもかかわらず。・・・だが。・・・のに。 (5)〈(累加)既にある物事に、同種の何かが更に加わる意を表わす。〉・・・の上に。・・・の他に。・・・に加えて。・・・に。・・・更にまた。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【に】〔格助〕(1)(地点)動作・作用の舞台となる空間的な場を表わす。・・・に於いて。 ・・・で。・・・に。・・・の場で。 *接続=体言。
*格助詞「に」の最も基本的な「動作・作用の(空間的な)"場=stage"」の用法(例:「我、ここ<に>あり」)。現代日本語にもそのまま引き継がれている。この用法の「に」に接続助詞「て」が付いて(奈良時代中期から平安初期に)成立した格助詞「にて」(=に於いて)に近い語法で、訳し方も「に」及び「で」で事足りるが、その「で」は「にて→んて→んで→で」の変遷を経た語である。
*英訳=「in A」/「at A」/「on A」/etc, etc.
◆【に】〔格助〕(2)(方向・帰着点)動作の指向・到達する空間的な地点を表わす。・・・の方に。 ・・・へ。・・・に。・・・へ向けて。 *接続=体言。
*現代日本語にも「Aに」と訳してそのまま通じる「方向・帰着点」の「に」。
*英訳=「at/on/in/to/etc, etc. A」
-「へ」と「に」-
*動作・作用の到達点・目的地を示す方向性の格助詞としては、「に」の他に「へ」もあるが、両者には次のような相違がある:
◆「へ」=「辺」に由来し、元来「遠隔地への移動」の意を含んだため、一定の空間的広がりを持つ対象に用いるのが自然。このため、平安中期までは「行く」系語のみと共に用い、「来(く)」系の語とは共存しなかった。
◆「に」=「最終到着地点」に焦点を当てる語のため、距離の大小にかかわらず用いられるが、「にて」の語感からもわかる通り、一点集中型&近場の雰囲気がある。
・・・現代日本語でもこの語感はそのまま生きており、「へ」には「遠く<へ>行く」のが相応しい響きがある:
例文1:「宇宙の彼方イスカンダル<へ>放射能除去装置コスモクリーナーDを受け取りに行く・・・」
例文2:「・・・途中、木星<に>立ち寄って伝説の浮遊大陸を波動砲で宇宙の塵にしてしまう」
・・・Japanese animated SFの古典『宇宙戦艦ヤマト』の話を知らぬ人をおいてけぼりにしても悪いので、次の例文で、「遠くはやっぱ<へ>ざんしょ?」の感じを味わってもらって終わりにしよう:
例文3:「週末はどちら<へ>お出かけですの、奥様?」 ― 「ちょっと、おフランス<に>買い物に行って来ようと思うざぁますのょ、おほほほほ・・・」
◆【に】〔格助〕(3)(時点)動作・作用の発生する時間的な場を表わす。・・・の際に。 ・・・の時に。・・・の折に。・・・の場面で。・・・に。 *接続=体言。連体形。
*(時間的な)場面を表わす格助詞の「に」で、現代日本語で説明的に表わせば「・・・の際<に>」の感じ(例:「夏の終はり<に>飽きがくる」)。
*英訳=「at A」/「in A」/「during A」/「while ...」/etc, etc.
◆【に】〔格助〕(4)(対象)動作・作用の対象・相手を表わす。・・・に対して。 ・・・へと。・・・に向けて。・・・に。・・・と。 *接続=体言。連体形。連用形。
*「動作」の向かう対象を表わす「に」は、現代日本語にもそのまま「に」で訳して通じるもの(例:「踊り子さん<に>手を触れないでください」)。「行動」の対象としての「に」は少々ややこしく、そのまま「に」とするのではなく「(する事)に」あたりの補足を経ねばすんなりとは落ち着いてくれない(例:「語る<に>落ちる」→「話題として取り上げるには、水準が低すぎて、話にもならない」)。
*英訳=「to A」/「toward A」/「for A」/「for the sake of A」/「in the name of A」/「on the pretense of A」/etc, etc.
◆【に】〔格助〕(5)(目的)動作・作用の目的を表わす。・・・ために。 ・・・を狙って。・・・のつもりで。 *接続=体言。連体形。連用形。
*格助詞「に」が「目的」を表わす用法で、「・・・(用)に」と訳せばよい。現代日本語にも残っている用法。
*英訳=「for A」/「for the sake of A」/「to ...」/「in order to ...」/「so as to ...」/「with the view of ...ing」/「with a view to ...」/etc, etc.
-目的の「に」へと続くもの-
*この種の「目的」の格助詞「に」の直前に来る語句は、「体言」(例:花見<に>遅し)/「連体形」(例:死ぬる<に>早し)が基本だが、時には「連用形」(例:経読み<に>行く)のような形で「連用形接続」となる場合もある。
*こうして書くと「連用形」だけが殊更特殊な例外のようにも見える;が、よくよく考えてみれば<「連用形」とは「動詞」を「名詞化」するための活用形である>という日本語文法の基本に行き着く。
*上例の「経読み」とて、「[(S)我](O)<経>を(V)<読む>・・・の連用形「読み」:(S)I (V)read (O)Buddhist sutra.」と考えれば「動詞の連用形」だが、「経読み」は「論語読み」だの「棒読み」だの「秒読み」だの「音読み/訓読み」だのと並べてみればわかる通り、実は「名詞そのもの」なのである。
*英語でも、「reading」なる動名詞を、「読むということ」と解釈すればいかにも動詞的だが、「読書」と訳せば名詞そのものとなる(この事情は「to read」でも同じだが、不定詞のほうは動名詞に比すればやや動詞的色彩が濃い)。
*というわけで、日本語の場合、「連用形」が、「英語に於ける動名詞=~ing/不定詞=to ~」と同じ<名詞化作用>を持っている、という事実を思い起こす契機にすればよいのが、この「目的」の「に」の「連用形接続」、ということにしておこう。
◆【に】〔格助〕(6)(原因・理由)前述の事柄が、後述の結果を招くことになる意を表わす。・・・ゆえに。 ・・・のせいで。・・・・のおかげで。・・・によって。・・・のために。 *接続=体言。連体形。
*原因・理由を表わす格助詞の「に」(例:「酒<に>ゑふ」)。20種近くある「に」の格助詞語法の中でも比較的面倒なものの一つで、現代語訳する時に単に「Aに」で通じる場合も少なくないが、多くは直前に語句を補って「・・・故に/・・・のために」としたり、「・・・によって/・・・のせいで/・・・のために」などの表現に置き換えたりする必要がある。
*英訳=「because of A」/「on account of A」/「due to A」/「thanks to A」/etc, etc.
◆【に】〔格助〕(7)(手段)動作・作用を行なう上での方法・手段・材料などを表わす。・・・によって。 ・・・を用いて。・・・を使って。・・・で。 *接続=体言。
*格助詞「に」の中でも難解な語義の一つで、現代日本語には残っていない。単独の「に」として捉えずに、「に+て」/「に+よりて」/「に+従ひて」/「に+免じて」のように語句を補って解釈するのが得策。(例:「我が罪、この歌<に>ゆるしてよ」・・・悪いことしたけど、この歌に免じて許しておくれ)
*英訳=「by」/「through」/「by means of」/「by virtue of」/「in virtue of」/「on account of」/「on the strength of」/「owing to」/「thanks to」。
◆【に】〔格助〕(8)(動作主)(受身・使役の表現で)その動作が誰によって行なわれたかを表わす。・・・によって。 ・・・に。・・・の手で。・・・を使って。 *接続=体言。
*受身や使役の表現で用いて、その動作が誰・何によって為されたものかを表わす「動作主」の用法の格助詞「に」。現代日本語にもそのまま残る(例:「親<に>言われて大学入試、金<に>飽かしてカテキョー雇い、運<に>任せてのらくら過ごし、ライバル<に>負け浪人暮らし」)。
*英訳=「by A」/「with A」/「through A」/「by means of A」/etc, etc.
◆【に】〔格助〕(10)(様態)その場の様子・状況を表わす。・・・の様で。 ・・・の様子で。・・・状態で。・・・で。 *接続=体言。連体形。
*格助詞「に」の「様態」の語法。現代日本語にもそのまま通じ、「・・・な状態で」と解釈する(例:「思うがまま<に>振る舞って、それが賞賛に値する者はBritish gentlemen(英国紳士)。わがまま<に>振る舞って世間の耳目を引きたがる者はJapanese celebrities(和風セレブ=小集団内の人気者)」)。
*英訳=「as ...」/「the way ...」/「so ... as to ...」/「in such a way as to ...」/etc, etc.
-断定助動詞「なり」連用形「に」との関係-
*この「様態」の格助詞「に」は、実質的に、断定助動詞「なり」の連用形「に」と同じものである。「なり」の活用表は、以下の通り:
{なら・なり/に・なり・なる・なれ・なれ}
・・・連用形の「に」だけがはっきりと異質な形をしているのに気付くであろう:これは「格助詞」を無理矢理「助動詞」扱いしているからこそ異様なわけである。
*断定助動詞「なり」の語源は、格助詞「に」+存在を表わす動詞「在り(あり)」の「にあり」が「なり」に転じたものであって、「・・・にある/・・・である」と言い切るその言い回しのうち、前半の「に」はあくまでも「格助詞」の「に」であり、後半の「ある」が動詞「在り」の意味を担っている。
*こうして生まれた「なり」の活用形のうち、大部分の形は「に+あり」の祖形を感じさせない<動詞「在り」寄り>の形態となっているが、「連用形」の「に」だけは<格助詞「に」寄り・・・というより「に」そのもの>となっている・・・実際、格助詞そのものなのだから、これを<「なり」の連用形>とするのにはそもそも難があるのである。
*では、どういう場合にこの<「なり」連用形としての「に」>が登場するか、と言えば、次のような定型句に於いてである:
「なり」連用形として「に」が用いられる定型句)「・・・にあり」/「・・・にこそあれ」/「・・・にはあらず」/「・・・にもあらず」/「・・・にやあらむ」/「・・・にや」/等々
・・・最後の「にや」(直後の「あらむ」は省略されている)はともかくとして、その他の表現はみな「に+在り」という「なり」の祖形そのものである:この場合の「に」は「格助詞」以外の何物でもなく、その「に」には「動詞性=・・・である」は一切宿らない:「・・・である」の意を担うのは「在り」の方なのだから、「に」は「・・・な状態で」という「格助詞」としての役割しか持たないのは明白なことである。
*にもかかわらず、日本の古文業界では、こうした<「に+あり」分離型表現>に於いても、「に」を「格助詞」とはせず、断定助動詞「なり」の「連用形」に組み入れてしまうのである・・・文法的には無茶な話だが、一方で、こうした便法的処理が好都合な別の事情もまたあるのだから、まぁ、仕方がないと言えばいえる事態である・・・その「便法的(文法的、ではない)根拠」は、次の一点にあると見てよいだろう:
-「形容動詞」の「連用形」=「副詞用法」との関係-
<形容動詞(ナリ活用)活用表>={なら・なり/に・なり・なる・なれ・なれ}
*こうして見ればわかる通り、「形容動詞」の活用は、断定助動詞「なり」の活用と同一であり、その語源が「に+あり」である点まで、全く同じ来歴を持った品詞なのである。
*「形容動詞」の名が示す通り、この品詞は基本的に「形容詞」に近いが、「形容詞」には真似できない特別な(そして極めて大事な)用法をも持っている:それは「連用形にすれば、副詞として用いることができる」というものである。元来が「副詞」だったものに「に+あり」が付いてできた語だ、という説もあるが、いずれにせよ「形容動詞の連用形=副詞」という図式に変わりはない・・・そして、この「形容動詞の連用形」が「副詞」として働く場合の語形が、ここで問題になっている「形容動詞語幹+に」の形なのである。
*「副詞」は、「形容詞」に比べても、断定助動詞「なり」と比べても、文中での独立性が高い・・・つまり、元来は「に+あり」であったとしても、「に」までの部分だけで独立した重みを持っているから、その重みを重視して「に」までの部分だけで「連用形!」と言い切ってしまって全然かまわない感じになるのである。次の例で確認しよう:
副詞として用いられた形容動詞「明らかに」連用形の例)「こは<明らかに>過ちにやあらむ・・・これって明らかに間違いじゃないのかなぁ」
動詞的に用いられた形容動詞「明らかに」連用形の例)「その過ちは<明らか>にやあらむ・・・その間違いは明白じゃないのかなぁ」
*並べて見れば一目瞭然、「動詞的連用形」の「明らかに」の場合、<形容動詞「明らか」+格助詞「に」+動詞・助動詞「あら・む」>のように「に」を「明らか」から切り離して解釈することが可能だけれども、「副詞用法連用形」としての「明らかに」は、<形容動詞「明らか」+格助詞「に」>のような分断をはっきりと拒絶するほどの一体感を持っている:こうした形容動詞連用形副詞用法の「明らかに」内部の「に」を「格助詞」扱いすることは、明らかに不可能な芸当である。
*こうして、「形容動詞連用形」としての「に」を「格助詞扱い」することが不可能な以上、それと全く同じ来歴・活用形を持つ断定助動詞「なり」の連用形「に」もまた、「格助詞扱いせず、助動詞連用形として扱う」のが妥当、という結論に到達したとしても、それはあながち悪くはない、と言えるだろう。
*無論、文法的には、断定助動詞「なり」の連用形としての「に」は、全ての場合に於いて「に+あり」として分断解釈可能な構造的特性を持っているのだから、「形容動詞連用形」としての「に」とは明らかに異質であり、形容動詞の類例からは切り離して<「なり」の「に」化けは「連用形」ならぬ「格助詞」への先祖返り>という形で処理するほうが文法理論的には正当ではあろう・・・が、「正当・正論に非ずんば、生くること能はず」とまで厳しい論理性が貫かれている世界でもないのが日本の古文業界なのであるから、この「なり」と「に」の問題については、以下のような形でお茶を濁しておけば、まぁ、それでよいのかもしれない:
1)形容動詞連用形「に」が「副詞用法」として用いられる場合の「に」は、「連用形」であることに間違いはない。
2)形容動詞連用形の「に」でも「副詞用法」以外なら、そして、断定助動詞「なり」の連用形「に」に関しては、本源的には格助詞「に」である;が、これを「連用形」扱いしても、それは分類学上の便法としてはある程度まで許されることであり、殊更指弾するには当たらない。
・・・唯一、「形容動詞連用形副詞用法以外の<に>」を「格助詞」扱いした者に向かって、「否!それは間違い!この<に>は連用形であって、格助詞ではない!」などと、まるで鬼の首でも取ったかのようなエラそうなバカヅラ下げて指摘する愚か者に対してだけは、この筆者による上記の文法的考察と、古文業界の便法的取り決めに関する考察文でも突き付けて、「お前の言ふ様は明らかに過ちにやあらむ?」と言ってやるもよし、「ブタに真珠を投げるべからず」の処世訓に照らして(フ、フン!)と心の中で相手への評価を下げるだけにとどめおく大人の対応もまたよし、といったところであろう・・・ともあれ、ブタさんがわんさかいる「入試古文問題」の世界で、この種の「に」がエラそうにフンぞり返ってる場面では、それは100%「なり連用形なり!」なる便法の上でいなないているものと明らかに読めるのだから、そうした場合の諸君のあるべき対応は決まってる:「(クソっ、また出たな・・・ほんとは格助詞なんだけど・・・)はい、それは、連用形です!」と答えてやれば、それでいいのである。
◆【に】〔格助〕(11)(立場)(資格・地位などを表わす語の直後に用いて)そのような存在として判断・処遇・行動する意を表わす。・・・として。 ・・・ということで。・・・の資格で。・・・の立場で。・・・役で。 *接続=体言。連体形。
*格助詞「に」が、「・・・として」の意を表わす「立場・地位・資格・位置付け」の用法。現代日本語に於いては格助詞「と」の領分となっている語法である。
*英訳=「as A」/「to be A」
-断定助動詞「に」/英語の「as / to be」(補語)に通じる格助詞「に」の語法-
*この用法の「に」は、断定助動詞「に」の連用形と実質的に同値と見てよい。唯一の相違は以下の一点のみである:
1)断定助動詞連用形とされる「に」=後に続くのは存在を表わす動詞「あり」(英語で言うところの「be動詞」)である。
例1:「此は助詞<に>は<あら>ず」・・・(S)This (V)<is> not (C)a postpositional particle.
2)格助詞「に」の「立場」の用法=後に続く動詞は「あり」以外(英語で言うところの「do動詞」)である。
例2:「彼らは其を助動詞<に><思ひなせ>り」・・・(S)They have (V)<thought of> (O)it (C)as an auxiliary verb.
*英訳例で確認できる通り、英文法に於いてはいずれの「に」も同じ資格であって、「補語(complement)」と呼ばれる成文となっている。
*英文法に於ける「補語」の定義は極めて明快で、「直前にbe動詞を置くことで、前後の記述が意味上つながるなら、補語」である。上例2)では「(S)it (V)<is> (C)an auxiliary verb」として「it」とつなげて意味が通る「an auxiliary verb」は「補語」ということであるし、次のような(本来ならSVで終わっているはずの構文に於ける)副詞的成文でさえも「付帯状況的補語」と解釈する考え方が現代英文法の主流となっている(=構造にとらわれず、意味に敬意を表するのが現代英文法の基本的理念、ということである):
例3:「(S)He (V)came (C)whistling cheerfully.:彼は陽気に口笛吹きながらやって来た」・・・「he <was> whistling cheerfully」として意味が通じるから、「whistling cheerfully」は(分詞構文として副詞成文扱いしてもよいが)「補語」と言える。
*日本の古文業界の物事の考え方は(日本語そのものの「恣意的法意識」に相応に、と言うべきか)徹底を欠いており、ある場面では「意味上、Xと解釈できるから、Y扱いとする」としておきながら、別の場面では「構造上、Zに近いと解釈されるから、Y扱いしてはならない」となっていたりする・・・英文法世界の法意識で眺めれば到底信じ難い「ザル法理論」が平然と唱えられている状況は住み心地が決して良くはないが、言い方を変えれば「筋さえ通せば、おエラいセンセがたの言い分に反する説でも、構わず唱えて貫いて構わない」ことになる。
*(日本語に比して遥かに)論理的に緻密にして明快なる英文法世界の考え方に照らして古典文法を割り切る(古語で言えば「事+割る=断わる」)やり方もまた、一つの方法論として妥当であるし、たとえそれが間然する所なき完全なる正解ならずとも、古文業界に「コップの中の嵐」を立てること自体もまた全く正当な営みには違いないので、この種の事例(「なり」の連用形「に」の問題等)に於いては、『扶桑語り』は堂々と(従来の古文業界のお説に対する)異論を唱えることにするし、それへの異論の成立可能性を否定するつもりもないので、一つの文法的現象を解釈するための「金科玉条」として盲信することなく、「日本語を読み解く上での切り口が増えた・・・のは歓迎すべきこと」として受け止めてもらえれば幸いである。
◆【に】〔格助〕(12)(比較対象)相対比較の対象となる他の何かを表わす。・・・に比べて。 ・・・より。・・・に対して。・・・のように。 *接続=体言。連体形。
*比較対象を表わす格助詞の「に」(例:「もののふを犬<に>なずらふはいかにぞや」=「武士を犬<と>比較する/犬<に>例えるのは、ちょっとどうかと思う」)。現代語では「に」の他に「と」を宛がうこともできる語法。
*英訳=「as compared with A」/「in contrast to A」/「against A」/「to A」/etc, etc.
◆【に】〔格助〕(13)(累加)既にある物事に、同種の何かが更に加わる意を表わす。・・・の上に。 ・・・の他に。・・・に加えて。・・・に。・・・更にまた。 *接続=体言。連体形。
*直前に述べられた物事に加えて、直後の物事も加わる意を表わす格助詞「に」の「累加」の用法。直後には「加へて」・「添へて」等の動詞が続くことが多いが、副詞「さへ」が続く場合もあり、これらの語句の性質から「おまけに・・・まで」の解釈は自然と可能になる。現代日本語にもそのまま残る語法である(例:「古文<に>加えて英語も学べる・・・or・・・古文<に>さえ四苦八苦してるのに英語は余計?」)。
*英訳=「in addition (to A)」/「as well (as A)」/「to add to A」/「to boot」/「moreover」/「not only that」/etc, etc.
◆【に】〔格助〕(14)(比喩)類似・関連性を持つ他の何かに例える形で事物を表現する。・・・のように。 ・・・みたいに。・・・に似て。・・・よろしく。あたかも・・・の如く。 *接続=体言。副助詞「くらゐ」・「ばかり」・「ほど」。
*多く、「程度」を表わす体言から転じた副助詞「くらゐ」・「ばかり」・「ほど」に続けて「・・・みたいに」の意を表わす「比喩」の格助詞「に」。これらの表現は現代日本語にそのまま(「わざわざ例示する必要もないくらい<に>」)引き継がれている。この「に」の用法を、「比較対象」を表わす「に」に吸収させてしまう考え方もあるが、いずれにせよ「・・・なぐらいに」的な定型句として把握しておけばよい。
*英訳=「like ...」/「as ...」/「like(as) so many A」/「like(as) so much A」/etc, etc.
◆【に】〔格助〕(15)(強調)(多く「ただ」・「いや」・「ひた」を伴って)同一の動詞・形容詞の間に置いて、その語の意味を強める。ただもう・・・。 それはもう・・・。ひたすら・・・。・・・に・・・。 *接続=連用形。「に」の前には動詞・形容詞の連用形、直後にも同じ動詞・形容詞を続ける。
*同一の動詞・形容詞を続けて畳み掛けるように「ただもうひたすら・・・だ」という「強調」の意を表わす定型表現で用いられる格助詞「に」の用法。多く「ただAにA」(例:ただ食ひ<に>食ふ)、「いやAにA」(例:いや増し<に>増す)、「ひたAにA」(例:ひた走り<に>走る)等の接頭語を伴い、そうした語形で現代語にも定型句的に残っている。
*英訳=「verb and verb」(ex. He worked and worked until he ruined his health.彼は働きに働きまくってとうとう健康を害してしまった)
◆【に】〔格助〕(16)(結果)動作・作用や変化の結果を表わす。・・・に。 ・・・と。・・・へと。・・・の形に。 *接続=体言。連体形。
*「結果として到った状態」を表わす「に」(例:「人皆知る<に>至りては、今更いかがはせむ」)。現代日本語にも引き継がれている用法であり、「へと」/「に」/「まで」/「ほどに」等々の訳し方があり得るが、どんな訳出がよいかは「に」の直後に来る「動詞」が自然と決定してくれるはずだから、解釈上は特に問題はない。
*英訳=「to A」/「only to ・・・」/「to the point of ・・・」/「with the result that...」/etc, etc.
◆【に】〔格助〕(17)(引用)(「思ふ」・「知る」・「見る」・「聞く」などの動詞と共に用いて)知覚・思念などの内容を提示する。・・・であると。 ・・・というふうに。・・・と。 *接続=体言。
*直後に「見る」・「聞く」・「思ふ」・「言ふ」等の動詞を従えて、「・・・であると」としてその動詞の目的語となる語句を導く「引用・言及」の格助詞「に」の用法で、現代日本語にも(ある程度まで)引き継がれている(「という説明を不思議<に>思う」)。「と」で換言可能な場合も多いが、単純な「と」だと意味に相違をきたす場合もある(「彼女のことを不思議<に>思う」vs「彼女のことを不思議<と>想う」)ので、「と」換言よりも「だと」換言の方が無難(「彼女のことを不思議<だと>思う」)。
きっちり割り切るには、「Aなるやう<に>(見る・聞く・思ふ・言ふ)」・「Aなり<と>(見る・聞く・思ふ・言ふ)」というように、断定助動詞「なり」や「やう(様)」を間に置いて解釈するとわかり易い。
*英訳=「as A」/「to be B」/etc, etc.
*現代日本語では「悪し様<に>言う」のような定型表現に残っている。
◆【に】〔格助〕(18)(関連)対象となる方面・分野を表わす。・・・に於いて。 ・・・に関して。・・・について。・・・面で。・・・に。 *接続=体言。連体形。
*格助詞「に」が「ジャンル(分野)」を表わす語法で、「・・・に於いて/・・・に関して/・・・について/・・・にかけて/etc, etc.」と訳せるもの。「腕<に>覚えあり」とか「顔<に>難あり」とかの形で現代日本語にも残っている。
*英訳=「about A」/「RE: ...」/「regarding A」/「in regard to A」/「with regard to A」/「with respect to A」/「in respect of A」/「as respects A」/etc, etc.
◆【に】〔接助〕(1)(単純接続)前後の事柄を単純に接続する。・・・が。 ・・・と。 *接続=連体形。
*接続助詞「に」が、前後の記述を「・・・が、~だ」として「単純接続」する用法。英語の「and」に相当するもの。(例:「鳥鶏鳴したる<に>、唐猫ねうねうと鳴く:Chickens were cackling and a cat mewed.:ニワトリがコケコッコと鳴いたかと思えば、ネコはニャオと鳴く」)
*英訳=「... and ...」
*「に」は、格助詞としては現代日本語にも生き残っているが、接続助詞としては死語と化しており、その用法は「が」・「だが」・「ところ」・「で」・「と」・「ので」等の語に吸収されてしまっている。
◆【に】〔接助〕(2)(契機)直前に述べた事柄が、後続の事柄の発生やそれを認識するきっかけとなる意を表わす。・・・ところ。 ・・・すると。・・・と。 *接続=連体形。
*行動や認識のきっかけとなる物事を示す「契機」の格助詞「に」。現代日本語では(接続助詞「に」の用法は全部)死語であるが、「・・・際に(は)」などとして捉えればよい。(例:「花見る<に>今更気付く齢かな」2010 COPYRIGHT 之人冗悟:Noto Jaugo)
*英訳=「in ..ing」/「when ...」/「while ...」/「in times like ...」/etc, etc.
◆【に】〔接助〕(3)(順接の確定条件)前述の内容が原因・理由となって、後続の事態が成立する意を表わす。・・・ので。 ・・・から。・・・ために。・・・ゆえに。 *接続=連体形。
*直前の内容が「原因・理由」となって後続の事態が成立する意を表わす接続助詞「に」の用法で、「・・・ので」と訳す。現代日本語には残っていない語法であるが、「放っとくわけにもいかず<に>、連れて帰って来た」のような言い回しの中にその残滓は感じられる。
*英訳=「... and so ...」/「.., therefore ...」/「.., as a result」/「.., in consequence, ...」/「.., with the result that ...」/etc, etc.
◆【に】〔接助〕(4)(逆接の確定条件)前述の条件が成立するにもかかわらず、それに反する後述の事態が成立する意を表わす。確かに・・・ではあるが。 ・・・にもかかわらず。・・・だが。・・・のに。 *接続=連体形。
*活用語の連体形に続けて、逆接の確定条件「・・・(な)のに」の意を表わす接続助詞の「に」(例:「卯月のすゑなる<に>、風いまだ寒し」)。現代日本語では「に」単独でこの意味は表わせず、「のに」等の形を取る(例:「あれほど勉強した<に>→<のに>・<というのに>・<っつーに>・<くせに>、落ちた」)。
*英訳=「... but ...」/「... and yet ...」/「..., still ...」/etc, etc.
◆【に】〔接助〕(5)(累加)既にある物事に、同種の何かが更に加わる意を表わす。・・・の上に。 ・・・の他に。・・・に加えて。・・・に。・・・更にまた。 *接続=連体形。
*前後の節を同一の流れでつなぎ、「・・・である;というのに、その上さらに~である」として畳み掛ける接続助詞「に」の「累加」の用法。現代日本語では引き継がれていないが、「体言A+格助詞に+体言B」の(接続助詞「に」連体形接続とは少々違うが)「畳み掛け」語法がある(例:「モヒカン狩り<に>アーミールック、鏡に向かって'Are you talking to me?'とくりゃあ、もう完全に'Robert De Niro @Taxi Driver'のなりきりモード」)。
*英訳=「... Moreover ...」/「... In addition ...」/「... And what's more ...」/etc, etc.
■__の【の】『接続:格助={体言・連体形・形容詞語幹・形容動詞語幹・形容詞シク活用終止形}』〔格助〕 (1)〈(連体格)(場所・時・所有・所属・材料など)各種の関係を持つ語句によって、直前の体言を修飾する。〉・・・の。・・・にある。・・・の際の。・・・の時の。・・・での。・・・に属する。・・・である。・・・にあたる。・・・という。・・・製の。 (2)〈(同格)ある語句に、それと文法的に同じ資格を持つ語句を続けて、上の語句の換言・内容説明を行なう。〉・・・で。・・・であって。 (3)〈(準体)(下にあるべき体言を省略して)体言相当語句を形成する。〉・・・のもの。・・・なやつ。・・・の人。・・・の事。 (4)〈(主格)(文中での従属的・連体形終止部分の)主語を表わす。〉・・・が。・・・の。 (5)〈(比喩)類似性を持つ他の何かに例える形で、ある物事の特徴を言い表わす。〉・・・のような。・・・に似た。・・・の如き。 (6)〈(室町時代以降)(並立)複数の事柄を並べて述べる。〉・・・だの・・・だの。・・・とか・・・とか。 〔終助〕 (1)〈(室町時代以降)(詠嘆)感動の意を表わす。〉・・・だなあ。・・・ねえ。 (2)〈(室町時代以降)(他者への働きかけ)疑問・確認・希望などの意を表わす。〉・・・かな?・・・だね。・・・たいなあ。・・・ですか?・・・だよね。・・・ないかなあ。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【の】〔格助〕(1)(連体格)(場所・時・所有・所属・材料など)各種の関係を持つ語句によって、直前の体言を修飾する。・・・の。 ・・・にある。・・・の際の。・・・の時の。・・・での。・・・に属する。・・・である。・・・にあたる。・・・という。・・・製の。 *接続=体言。
*格助詞「の」の中で最頻出かつ最も安易に解釈可能(というより現代日本語の「の」の用法の祖先なのでそのまま「の」として何も問題なし)の用法がこれ・・・実際、この説明の文章の中の「の」の全てがこの「の」のタイプに属する。この用法以外の古語の「の」は、(現代語の)「の」以外の訳し方をするのが普通 ― 「同格」・「主格」・「準体法」用法なら多少無理すれば「の」と訳すも可 ― なので、何も考えずに「の」の訳し方が出来たら、それはこの「前後の体言を様々な関係で結びつける"の"」という広範なる部類(いかにも文法的な呼び名で言えば「連体修飾格の"の"」)に属すると思ってよい。
*英訳=「A of B」/「A's B」/「A in B」/「A from B」/「A which belongs to B」/「A which comes from B」/etc, etc.
◆【の】〔格助〕(2)(同格)ある語句に、それと文法的に同じ資格を持つ語句を続けて、上の語句の換言・内容説明を行なう。・・・で。 ・・・であって。 *接続=体言。
*古典格助詞の中で(文法上)最もよく話題に上るものの一つである、格助詞「の」の「同格」用法。現代日本語にも残る「の」であるし、訳し方は「・・・の/で/が」など助詞一つで片付くが、その使用上の制約の捉え方のほうはなかなか一筋縄では行かない。
*英訳=「..., which ...」
-部分集合内の「主語」としての主格の「の」-
*今も昔も、日本語の中で、「の」という助詞は不思議な位置付けの語である。「主語」を導く働きをしてはいるが、よく見るとその「主語」としての働きが、"主役"ではないのである。
*ここで、文法上の「主語」というものの性質について定義すれば、次のようになるだろう:
<後に従えた「動詞」が表わす動作の主体として機能する「体言」は、「主語」である>
・・・注意を促しておきたいのは、次の定義は間違いだ、ということである:
(×)<主語とは、全文の主役として働く語である>・・・この定義が誤りであることを、順次、確認して行こう:
古文1)この猫<は>魚を好まず。
英文1)(S)<This cat> doesn't (V)<like> (O)<fish>.
・・・現代日本語訳するまでもあるまい:「この猫/This cat」は、後に続く動詞の表わす「好む/like」という動作の主体として働くから「主語」であり、その動詞「好む」の客体として働く「魚/fish」は「目的語」である。そして、その「主語」を導いているのは<は>という係助詞である。このように、<は>には「全文言い切り形の主格」としての用法があるのだ。
*では、次の文章を見てほしい:
古文2)猫<の>魚を好まぬこと<は>いと珍し。
英文2)(S)<That (s)a cat doesn't (v)like (o)fish> (V)<is> very (C)<unusual>. = (S-1)It (V)<is> very (C)<unusual> (S-2)<that (s)a cat doesn't (v)like (o)fish>.
・・・先ほどとは少々語句が変わっているが、最も大きな質的変化は次の点である:
<猫 -の- 魚を好まぬ>の部分についてだけ見れば<主語-述語>関係になってはいるが、この部分だけで文章は完結しているのではない。注意すべきは次の点である:
・・・この部分全体が、全文の<主語>として機能している=<猫 -の- 魚を好まず>として「その部分だけで文章を言い切って終わりにする」形ではない=この<の>が導く主語の「猫」は、全文の主役ではない。全文の主役は<猫の魚を好まぬこと>であり、そちらを導く役柄は<の>ではなく<は>である。「は」は全文の主格であるが、「の」は全文内部分集合の主格でしかない。
*このように格助詞「の」は、「末尾を終止形(好まず)にして全文を言い切ることが出来ない」という性質を持っている「部分集合内主語形成助詞」なのである。この点、古文だろうが現代日本語だろうが変わりはない:「主役は演じず、準主役止まり」の脇役格助詞、それが「の」の本質である。
-部分集合分岐記号としての同格の「の」-
*この「全文の主役にはなりきれない部分集合内主役」としての「の」の格が、更に一段落ちたもの、それが「複数存在する部分集合のつなぎ記号」としての「の」である ― 文法上「同格」と呼ばれる用法がそれだ:
古文3)猫の、魚好まず、もはら肉のみ好める、いとむつかし。
英文3)A cat which doesn't like fish but loves only meat is quite nasty.
現代語訳3)猫で、{おさかなきらい}、{おにくだけすき}、ってやつは、かなりウザい。
・・・上の構文では、<猫 -の- 魚好まず>が全文言い切りの形にならずに単なる「部分集合」の「準主役」でしかない点は先の2)の例と同じだが、更にまた別の「部分集合」<猫 -の- 肉のみ好める>が後に続いてその部分との二本立てとなるのだから、こうなるともう「準準主役」、ハーフ(half=1/2)からクォーター(=quarter1/4)へと格下げの感じである。
*この種の<Aで、Xであり、Yであるやつ>の構造に於いては、<A=Xである>&<A=Yである>のだから、<X=Y>という対等の図式が成り立つ。<A:ねこ>を共有する形で仲良く<X:うお=Y:しし>が並立しているわけで、この種の構文を「同格(=XとYは同じ格付け)」と呼ぶ。この種の「同格」語句どうしを結びつける働きをするのが格助詞「の」なのである。
-現代日本語の同格「で」は、古語では「にて」-
*先ほどの同格古文3)の現代語訳「猫で、魚は嫌いで、肉だけ好き、ってタイプ」を見ればわかる通り、現代日本語では、同格表示記号として、「の」(も使わないではないがやや文語的)よりも「で」を用いる傾向がある。
*が、古語では同格に「で」を用いることはしない。「の」の代替表現として同格に用いることができるのは「にて」である。「で」はこの「にて」が「んて→んで→で」と変化して辿り着いた語形であるが、古典時代にはまだこの「で」を同格に用いるまでには至らなかったのである。
-「同格」語法は「体言/準体法」とペアで使う-
*同格の「の」が機能するための条件として、次の点を覚えておこう:
<A、X&Y>の部分は、あくまでも「全文の中の部分集合」であり、「言い切り終止形」では終わらない・・・のだから、<A、X&Y>の末尾「Y」の語形は必ず「体言」(例:猫の、魚好まず、もはら肉のみ好める[こと/もの])ないしは「(直後の体言が省略された形の)用言の連体形(=準体法)」(例:猫の、魚好まず、もはら肉のみ好める・・・連体形で終わり、末尾の[事/物・者]は省略されているが、存在しているのと同じとみなす)でなければならない。
◆【の】〔格助〕(3)(準体)(下にあるべき体言を省略して)体言相当語句を形成する。・・・のもの。 ・・・なやつ。・・・の人。・・・の事。 *接続=体言。
*<名詞+格助詞「の」+体言>の表現から、末尾の体言が消失し、それでもなおかつそこに体言があるのと同じ意味を表わす「準体法」の用法。英語に於ける「A's」の所有格記号(アポストロフィー:apostrophe)に相当する「の」であり、「が」にも同様の用法がある;が、現代日本語にまで生き残っているのは「A<の>」のみであり、「A<が>」は(東北地方の方言などを除き)引き継がれてはいない。
*英訳=「A's」
-準体法「が」・「の」の違い-
*同じ準体法でも、「が」には見下したような卑俗な響きがあり、「の」に比較すると劣格の雰囲気があるとされる。そのせいかどうか知らないが、「・・・の」の準体法は現代日本語にも残る(例:「うち<の>は、それはもう料理が上手な奥さんで、おかげで私のお腹はポッコポコ」)が、「・・・が」の準体法は方言の中に辛うじて見出せるのみ(例:「おら<が>は、そらもう料理がヘタクソなカカァで、おかげでおらがお腹はペッコペコ」)である。
◆【の】〔格助〕(4)(主格)(文中での従属的・連体形終止部分の)主語を表わす。・・・が。 ・・・の。 *接続=体言。
*「の」の「主格」の用法で、<(主部)A「の」(述部)・・・する>と訳す・・・までは何の変哲もないが、その<(主)+(述)・・・>で文章を言い切る形にはならないのが特徴である。
*英訳=「A's doing/being something」/「that A does/is something」
-主格の「の」の限定性-
*格助詞「の」の形成する<A+の+・・・>の部分は「文章の全体集合」を成すことはあり得ず、必ず「文章の全体集合・・・の中の<部分集合としての主部+述部>」という下部構造としてのみ機能する。
*この特性は、現代日本語の「の」についても全く同じである。同じ主格の助詞でも、<文末を終止形で結ぶ言い切り文>を形成できるのは次のものである:
係助詞「こそ」(文末は已然形係り結び)
係助詞「ぞ」・「なむ」(文末は連体形係り結び)
係助詞「は」・「も」(・・・係り結びを招かない)
(中世以降の)格助詞「が」
*しかし、主格の「の」だけは現在に至るまで常に<部分集合(=パーツ)としての主・述関係>止まりである。
・・・以下、現代日本語にもそのまま残る助詞として、(中世以降の)「が」+「は/も/の」について、その主格となる場合の特性を個別的に見てみよう:
「が」:<「多くの高校生」が「大学に進学する」>。
・・・こうして言い切れるようになったのは平安末期以降。それまでの「が」は、「の」と同じく<部分集合としての主・述関係>を表わすのみであった。
「は」:<「一部の受験生」は「大学に落第する」>。
「も」:<「不合格の受験生」も「発表日までは合格を夢見る」>。
・・・このように(鎌倉期以降の)「が」、及び「は」「も」が導く<主部+述部>はいずれもきちんと文章を言い切る形になっている;が、「の」だけは(現代語だろうが古語だろうが)そうはいかない:
「の」:『<「諸君」の「大学に落第する」>姿は見たくない』。
・・・となって、『全体集合』の中の<部分集合>としてしか機能せぬその限界性がわかるであろう。これは古典時代から現代に至るまで連綿と引き継がれてきた「の」の特性である。
*従って、もし古文入試で(わざとらしく)「<君の大学に落つる>[姿]こそ見まうけれ。」なる文章のうちの<君+の+大学に落つる>の部分だけを取り出して「訳せ」と言われた場合、「あなたは大学に落ちる」と言い切ったならそれは落第答案である:正しくは「あなたが大学に落ちること」という(準体法込みの)<部分集合としての主・述関係>で寸止めしておかねばならない、という仕掛け・・・実にセコいが、それが古文入試の現実というものであるから、あだや注意を怠らぬように。
◆【の】〔格助〕(5)(比喩)類似性を持つ他の何かに例える形で、ある物事の特徴を言い表わす。・・・のような。 ・・・に似た。・・・の如き。 *接続=体言。
*「まるで・・・みたい」の意を表わす格助詞「の」の「比喩」の用法で、多く「・・・のやうなり」/「・・・のごとくなり」の形で用い、それ以外の形でも、直後には常に体言を従える(例:「夢<の>世・・・まるで夢幻のような世界:a dream-like world」/「たま<の>をのこ=珠玉のように美しい男の子:a gem of a baby boy」)。こうした定型表現の中で、現代日本語にもそのまま引き継がれている。
*英訳=「like ...」/「as ...」/「as if ...」/「as though ...」/「an A of a B」/etc, etc.
■__より【より】『接続:{体言・連体形・連用形}』〔格助〕 (1)〈(出発地)動作・作用の起こる空間的起点を表す。〉・・・から。・・・より。 (2)〈(開始時点)動作・作用がどの時点から始まるかを表わす。〉・・・から。・・・の時から。・・・より。 (3)〈(通過点)移動の過程で通過する地点を表す。〉・・・を通って。・・・経由で。・・・を過ぎて。・・・を通って。 (4)〈(比較対象)相対比較の基準となる物事を表わす。〉・・・と比べて。・・・に対して。・・・より。・・・に引き替え。 (5)〈(移動手段)(「かち」・「馬」などの語に付いて)移動する際の手段・方法を表す。〉・・・によって。・・・で。 (6)〈(限定)(多く「他」・「後」などの語を伴って)事柄を一定の範囲内に限定する意を表す。〉・・・以外~。・・・より~。・・・の他には~。 (7)〈(原因・理由)前述の事態が原因・理由となって、後続の事態が成立する意を表わす。〉・・・ために。・・・ので。・・・から。・・・ゆえに。・・・のおかげで。・・・のせいで。 (8)〈(連続動作)(活用語の連体形に付いて)直前の事態に引き続き、間を置かずに後続の事態が連続して発生する意を表わす。〉・・・や否や~。・・・するとすぐ~。・・・とたちまち~。・・・するが早いか~。・・・と同時に~。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【より】〔格助〕(1)(出発地)動作・作用の起こる空間的起点を表す。・・・から。 ・・・より。 *接続=体言。
*格助詞「より」が動作・作用の「(空間的)出発点・起点」を表わす語法。現代語では「から」に代替される場合が多く、敢えて使えば「これ<より>先立入禁止」のような文語的な堅苦しい雰囲気の日本語になる。
*英訳=「from A」/「beyond A」/etc, etc.
◆【より】〔格助〕(2)(開始時点)動作・作用がどの時点から始まるかを表わす。・・・から。 ・・・の時から。・・・より。 *接続=体言。
*時間的起点を表わす「より」で、現代日本語にも(空間的起点ほど頻出しない文語調ながらも)そのまま引き継がれている語法(例: 「本日<より>七日後、七色星団に於いて艦隊戦力の決戦を申し入れる」(from: 太陽系方面作戦司令長官ドメル to: ヤマト艦長殿)。
*英訳=「[ever] since A」/「from A on」/「[ever] after A」/etc, etc.
-「準体法」との絡み-
*古文の場合、直前にあるべき「時」や「頃」といった「時間を表わす名詞」が消失して「動詞連体形」のみが残っている「準体法」が「より」の接続先となっている場合が多く、この「より」にもまた準体法接続の用例が(一部に)ある。
*準体法接続の「より」は、「・・・するとたちまち」の語義で現われる。例えば「見る<より>悲し」((○)見た途端に悲しくなる・・・(×)見るのよりも悲しい)がそれで、「見る<時より>悲し」として名詞「時」を補って解釈するわけである。動作Aと動作Bとが間髪入れずにくっついている感じなので、「時間的接触」と呼ばれる語法であり、英語の有名な「on ~ing」に類する表現である。(例:On seeing me, he ran away.:私を見るなり彼は逃げた・・・<彼が私を見た>という動作と<彼が逃げ出した>という動作が<時間的に接触している=同時である>)
*この「時間的接触」の語法以外では、「より」が準体法接続することは(基本的に)ないものと思ってよい。例えば「いとけなき<頃>より」とならずに「<いとけなき>より」とするような用いられ方は(時間幅が長きにわたって「時間的接触」とは呼べないので)間違い、ということである(・・・もっとも、古典時代の筆者の誰もこの種の「間違い」を犯さない、という保証はないのだが)。
◆【より】〔格助〕(3)(通過点)移動の過程で通過する地点を表す。・・・を通って。 ・・・経由で。・・・を過ぎて。・・・を通って。 *接続=体言。
*格助詞「より」が「通過点」(・・・を通って)を表わす用法。現代日本語には引き継がれておらず、「Aより」(例:「韓国<より>来ました、パク・パックマンと申します」)などと言えばそれは「通過点・経由点」ならぬ「起点」となってしまう・・・ので、「Aより・・・Aに寄り・・・途中、Aに寄り道して=A経由で」などと連想をたくましくして理解すると(語源学的には「寄り」の部分は全く文法的根拠のないこじつけながら)よいだろう。
*英訳=「by way of A」/「via A」/「through A」
-「より」より古い由来の「ゆ」-
*格助詞「より」の古形は、上代の格助詞「ゆ」であり、漢字の「由」にも通じることからもわかる通り、「途中の経過点」を表わす用法を持っている。有名な山部赤人の次の一首もまた「経由」の「ゆ」を含むものである:
「田子の浦<ゆ>うち出でて見れば真白にそ不尽の高嶺に雪は降りける」
現代語訳)駿河湾のほとり、田子の浦の松林の廻廊を抜け、眺望の開けた海辺に出て振り仰ぐ、遙か彼方の霊峰富士・・・妙なる白を帯びたその山頂には、もう、雪がしんしんと降っているのだなあ。
◆【より】〔格助〕(4)(比較対象)相対比較の基準となる物事を表わす。・・・と比べて。 ・・・に対して。・・・より。・・・に引き替え。 *接続=体言。
*現代日本語と全く同じ「A(比較対象)より(も)」の訳し方をするもの(例:「おのが猫めきたる人は猫<より>犬好むものなめり」=One who resembles a cat seems to prefer a dog to a cat.:じぶんがねこっぽいひとはいぬのがねこよっかすきみたい)。
*英訳=「than A」/「compared with A」/「in preference to A」
◆【より】〔格助〕(6)(限定)(多く「他」・「後」などの語を伴って)事柄を一定の範囲内に限定する意を表す。・・・以外~。 ・・・より~。・・・の他には~。 *接続=体言。連体形。連用形。
*格助詞「より」が、対象を一定の範囲内に「限定」する用法で、多く「他」・「後」などの語を伴う「Aよりほか」(例:「花<より>他に知る者もなし」)、「Aよりのち」(例:「芭蕉去りて<より>後」)の形で用いる。現代日本語にも文語として残る(例:「今となっては、祈る<より>ほかはない」)。
*英訳=「other than A」/「except for A」/「since A」/etc, etc.
◆【より】〔格助〕(7)(原因・理由)前述の事態が原因・理由となって、後続の事態が成立する意を表わす。・・・ために。 ・・・ので。・・・から。・・・ゆえに。・・・のおかげで。・・・のせいで。 *接続=体言。
*後続の物事が、直前に述べた物事に発するものである意を表わす格助詞「より」の用法。「心<より>お祝い申し上げます」のような形で現代語にも残るもので、「出所・起源」とも「原因・理由・根拠」とも取れる用法。「依拠」・「拠り所」という語に含まれる「依り・拠り」の感覚で捉えればよいだろう。
*英訳=「(resulting/arising/springing) from A」/「out of A」/「because of A」/etc, etc.
◆【より】〔格助〕(8)(連続動作)(活用語の連体形に付いて)直前の事態に引き続き、間を置かずに後続の事態が連続して発生する意を表わす。・・・や否や~。 ・・・するとすぐ~。・・・とたちまち~。・・・するが早いか~。・・・と同時に~。 *接続=連用形。
*「・・・すると、たちまち~」の形で「動作の連続」を表わす格助詞「より」の用法で、時間的に間を置かずに「動作A+動作B」が連結的に行なわれる意を表わす。英語の「on ...ing, ~」に見られるような「時間的接触」の語法で、古語では接続助詞「や」や、上代語「なへ(に)」に同じ用法があるが、現代日本語にはこの「より」は引き継がれてはいない(「や」の方だけが「Aする<や>否やB」の形で残っている)。
*英訳=「on ...ing, ~」/「.., thereupon ~」/「no sooner had A ...ed than ~」/「hardly/scarcely had A ...ed before(when) ...ed」
■__こそ【こそ】『接続:係助={終助詞及び間投助詞以外の各種の語}終助={連用形}間投助={人名}』〔係助〕 (1)〈(強調)主語や連用修飾語を取り立てて指し示す。〉・・・こそ。・・・は。まさに・・・。 (2)〈(逆接的挿入)直前の語句を取り立てて指し示した上で、それとは反対の内容の記述を後に続ける。〉・・・は確かに~だが。・・・こそ~なものの。 (3)〈(懸念)(「もこそ」の形で)実現を望まない事態を、不安を込めて想定する。〉・・・といけない。・・・したら大変だ。・・・だと困る。もしや・・・まいか。 (4)〈(順接確定条件の強調)(活用語の已然形+「ばこそ」の形で)原因・理由を強調する。〉・・・からこそ。・・・なればこそ。・・・なるがゆえに。 (5)〈(順接仮定条件の強調)(活用語の未然形+「ばこそ」の形で)(多く、末尾を「め」で結ぶ)直前に述べた事態が成立すれば、後続の事態も成立するだろう、と想定しつつ、その実現は望めないだろう、との判断を含む反実仮想の表現を形成する。〉もし・・・ならば~だろうが。・・・するというなら~でもあろうが。・・・だというのならともかく、そうはなるまい。 〔終助〕 (1)〈(上代語)(他者への希望)自らの意思・行動に拠らぬ事態の実現を、他者に対して望む意を表わす。〉・・・してほしい。・・・しておくれ。 〔間投助〕 (1)〈(呼び掛け)(自分と同等かそれ以下の相手に対し)親愛・敬意を込めて呼び掛ける語。〉・・・さん。・・・君。ねぇ・・・。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【こそ】〔係助〕(1)(強調)主語や連用修飾語を取り立てて指し示す。・・・こそ。 ・・・は。まさに・・・。 *接続=各種の語句。
*主語や連用修飾語に付いてこれを取り立て、文末を「已然形」で締めくくる「係り結び」を形成する係助詞「こそ」の「強調用法」。
*英訳=「it is A that ... (emphatic construction)」
*語源的には、近くの場所・物事を指し示す代名詞「此(こ)」+強調の係助詞「そ」(「ぞ」の古形)と言われ、「これぞまさに・・・だ!」の語感が「こそ」の味である;が、単なる強調のみでなく「逆接の確定条件=・・・ではあるが、~だ」の意を表わす「こそ+已然形」もある。両者ともに、現代日本語にも生き残っている(例:「誇張気味に言わせてもらえば、これ<こそ>奇跡と言うべきであろう!」/「譲歩調で言えば、場面<こそ>選ぶが、今なお文語として健在である」)。
*さすがに「強調のための已然形係り結び」までは現代日本語に引き継がれてはいないが、実に興味深いことに、譲歩(=「逆接確定条件」)の「こそ」表現に於いては、今なお「已然形係り結び」が成立したりするのである(例:「色<こそ>違え、中身は同じ」)。一般的に用いられる「こそ+已然形+ど/ども」(色こそ違えど/ども)が「ど/ども」なしへと簡略化された形であるが、結果的には「ど/ども」という「語句」ではなく「已然形」という「活用形」そのものに「逆接」の意を持たせていた上代文法(後述)への先祖返りを果たしている点で、面白い。
-唯一の「已然形係り結び」誘因語句「こそ」と、「ど・ども」/「ば」の関係-
*「係り結び」を形成する語句としては唯一「已然形」を導くのが「こそ」である。これ以外の係助詞(及び「疑問の表現」)の「係り結び」は文末を「連体形」で結ぶ。
*上代に於いては、形容詞の係り結びの場合、「こそ+連体形」であった。中古以降は品詞を問わず「こそ+已然形」に一本化する。大学入試で上代の(変則的)語法が問題になることはまずないので、受験生は「こそ+已然形」だけを覚えておけば問題ない。
*元来、上代に於いては、「已然形」そのものが(「ど」・「ども」などの特別な語句を伴わずとも)単体で「逆接の確定条件=・・・であるというのに、~だ」を表わした。ところが、稀に「已然形」が(「ば」などの特別な語句を伴わずに)「順接の確定条件=・・・なのだから、~だ」を表わす場合もあった。英語に例えて言えば、「but」が「しかしながら」だけでなく「だから」の意味をも表わすようなもので、これではややこしくてたまらない。英語の「and」にも、順接の「だから:and so」ならぬ逆接の「しかし:and yet」の意味を表わす場合が稀にあって、これは受験生泣かせ(出題者的に言えば「ゴロシ」)の難解な代物だが、脈絡をじっくり読み解かねば「順接」か「逆接」かわからぬというのでは、意味の流れの交通整理のお巡りさん役たる「接続詞(含 接続助詞・格助詞・係助詞)」としては落第もいいところ、青信号と思って突っ込んでくる自動車どうしの衝突事故多発地帯を現出するばかりで、愚かしいというか、罪深い話ですらある。
*そんな次第で、「已然形」は次第に単独で「逆接」だの「順接」だのを表わす機能を喪失(or放棄)し、中古以降は他の語句との相関表現でしか機能しなくなる。具体的には次の通りである:
1)「已然形+ば」=「順接の確定条件」・・・なのだから、~だ:
例)彼は男<なれ><ば>、えやは女嫌ふべき。(あいつは男なのだから、女が嫌いなわけがなかろう)
2)「已然形+ど・ども」=「逆接の確定条件」・・・なのだけれども、~だ:
例)彼は男<なれ><ど(も)>、女好まず。(あいつは男のくせに、女が好きではない)
3)「こそ+已然形」
=A)「逆接の確定条件」・・・ではあるが、~だ
例A)彼、姿<こそ>男には<あれ>、心はいかなれや。(やっこさん、外見こそ男だけど、心の中身はどうだかわからん)
・・・この場合でも、末尾に「ど/ども」を伴った「こそ+已然形+ど/ども」の語形も可能。
=B)「強調用法」これぞ・・・だっ!
例B)女好むこそ男の性なれや。(女好きこそ男の本性というものだよ)
*つまり、「已然形」に関しては、後続語句が意味を確定してくれる場合とそうでない場合の2通りがあるということになる:直後に「ば」を伴えば「順接確定条件」、「ど/ども」を伴えば「逆接確定条件」と、後続語句がその用法を確定してくれるが、直後に語句を伴わず(伴うのは「、」か「。」のみである)直前に「こそ」があるだけの「こそ+已然形」の場合は、それが「A)逆接確定条件」なのかそれとも「B)単純強調」なのか、脈絡から判断せねばならぬことになる・・・が、その場合でも心配するには及ばない:見分け方は単純で、後に「ど/ども」を付けて通じるなら「A)逆接確定条件」、通じないなら「B)ただの強調表現」である ― 要するに、「直後にどんな語句が続くか」でその意味が決まるという性質が(上代以外の)「こそ」にはある、ということである。
◆【こそ】〔係助〕(2)(逆接的挿入)直前の語句を取り立てて指し示した上で、それとは反対の内容の記述を後に続ける。・・・は確かに~だが。 ・・・こそ~なものの。 *接続=体言。
*係助詞の中には現代日本語にも(やや文語的色彩を帯びつつ)残る言い回しが幾つもあるが、この逆接の「こそ」が導く「Aこそ・・・(ながら)」の(英語風に言えば「譲歩」表現)もその一つ。現代語との相違は、古文の場合「文末=已然形」の「係り結び」になる、という点のみ。
*英訳=「though...」/「although...」/「with (all) A」/「for (all) A」/「in spite of A」/「despite A」/「notwithstanding A」/「A notwithstanding」/etc, etc.
-元来は「こそ」なしでも成立した「已然形」による「逆接確定条件」-
*上代には、「こそ」のような特別な語句を伴わずとも、「已然形」という活用形そのものが「確かに・・・ではあるが、しかし~だ」(逆接の確定条件)を表わした。しかし、「已然形」はまたそれとは正反対の「・・・なので、~だ」(順接の確定条件)をも表わした・・・これではややこしくてたまらない。そういうこともあって、中古以降の「已然形」は、次のような語句との相関表現の中でのみその機能を果たすようになって行き、単独での機能は失われて行った:
1)「已然形+ば」=「順接の確定条件」・・・なのだから、~だ:
例)人、神にしあら<ね><ば>、必ず死ぬべし。(人間は、神様ではないのだから、必ず死ぬ運命である)
2)「已然形+ど・ども」=「逆接の確定条件」・・・なのだけれども、~だ:
例)人死すれど(も)、その名は死なず。(たとえ人間は死んでも、その名は死なずに残る)
3)「こそ+已然形」
=A)「逆接の確定条件」・・・ではあるが、~だ
例A)身<こそ><滅べ>、業は滅せず。(生身の肉体は滅びるにしても、成し遂げた業績は消えたりしない)
=B)「強調用法」これぞ・・・だっ!
例B)名に負ふ業<こそ>神業<なれ>。(人々に名を知られるほどの素晴らしい仕事こそが、不死身の神にも相当する仕業なのである)
◆【こそ】〔間投助〕(1)(呼び掛け)(自分と同等かそれ以下の相手に対し)親愛・敬意を込めて呼び掛ける語。・・・さん。 ・・・君。ねぇ・・・。 *接続=人の名前・愛称。
*自分と同等か格下の相手に向かって、親愛・敬意(時には、軽いからかいの気持ち)を込めて呼びかける間投助詞の「こそ」。
*英訳=「little A」/「old A」/「darling A」/「.., Man!」/etc, etc.
-近く=親近感/遠く=敬遠-
*日本語には、英語に於けるような「人称代名詞」が存在しない。英語では次のように固定されている「人に言及するための語」が、日本語では実にまちまちなのだ:
一人称単数)I・・・私、あたし、あたぃ、僕、僕ちゃん、僕チン、俺、俺っち、俺様、こちとら、おいどん、当方、儂、わて、あて、うち、自分、小生、拙者、手前、それがし、おのれ、我、身、この身、etc, etc.
一人称複数)we・・・私達、あたしたち、あたぃら、僕ら、俺達、俺ら、ワシら、あてら、あてども、うちら、自分達、自分ら、我ら、身ども、etc, etc.
二人称単数)you・・・あなた、あんた、君、おまえ、おまえさん、おたく、自分、おのれ、うぬ、おんどれ、てめぇ、こいつ、こやつ、こなくそ、こんちくしょう、そち、その方、そちら、そちとら、etc, etc.
二人称複数)you・・・あなたがた、あなたたち、あんたたち、あんたら、おまえたち、おまえら、てめぇら、おまえさんがた、おたくら、自分ら、おのれら、おのおのがた、うぬら、おんどれども、こいつら、こやつら、こなくそども、こんちくしょうども、そちら、その方ら、etc, etc.
三人称単数男性)he・・・彼、あの人、あの男、あいつ、あやつ、やつ、きゃつ、やっこさん、あの野郎、あんにゃろう、あんにゃろめ、あん畜生、etc, etc.
三人称単数女性)she・・・彼女、あの人、あの女、あいつ、あやつ、やつ、きゃつ、やっこさん、あのアマ、あのスケ、あんにゃろう、あんにゃろめ、あん畜生、etc, etc.
三人称複数男女)they・・・彼ら、あの人達、あの人々、あの連中、あの面々、あいつら、あやつら、やつら、きゃつら、やっこさんども、やつばら、あの野郎ども、あんにゃろうども、あん畜生ども、etc, etc.
*かくも無茶苦茶たくさん表現がある、ということは、日本語に定まった確かな「人称代名詞」がない、ということの逆説的証拠である。そして、よく見ればわかることだが、日本語の「人称代名詞もどき語」の多くは「空間位置」に由来するものである:指し示す場所の距離感に応じて、人への呼称としての位置付けも変わってくるのである。
*最も代表的な例として、「あなた」を見てみよう。これは「あ(=比較的遠くを指す)+なた(=漠たる方向性を示す・・・例:ひなた・かなた・そなた)」語であるから、「ここから少々離れたあたりに存在する人」というその語感が「敬遠」の感覚を生じる。良かれ悪しかれ「あなた」はあまり親近感ある呼び掛け語ではないのだ。
*一方、「こやつ・・・此(=近場)+奴(=人物への罵り文句)」からは相手への敬意は全く感じられない。「ヤツ」の語感もさることながら、「此=ここ・・・自分と同じ場所」という空間的位置付けが、相手を「敬い遠ざけるべき存在とはみなしていない」ことを感じさせるからこその軽侮、という側面にも注目したい。
*間投助詞「こそ」もまた、「此(こ)+其(そ)」の取り合わせが「話者に極めて近い立ち位置」を示すことから、「親愛」の念を表わすと共に、状況次第では「軽くあしらう」気持ちにもつながる語であり、自分と同輩か、目下の相手にしか使わない語ということになる。
*実際の使用例は、「太郎こそ(=太郎クン)」のように固有名詞(orニックネーム)の後に付けて使うほか、「こそたち(=ねぇ君たち)」のような代名詞扱いの場合もある。この点、「どち」(現代語でいう「同士」)の「仲間どち」/「どちたち」の使い方と共通するものである。
-「こそ」こそ良けれ、「くそ」やいかに?-
*この「こそ」、実に面白い(orこきたない)ことに、中古の古語では「くそ」の形で出て来たりもするから、現代人としては(ちびっ子げらげらゲロゲロ言葉以外では)口にするのをはばかられる微妙な味を出している。例えば「連歌」(誰かが詠んだ上の句に対し、別の人が気の利いた下の句を付ける、という文芸的遊戯)の席上で、次のような会話は、現代人的にはいかがなものだろう・・・
綺麗な「こそ」の例)いざたまへ、<花こそ>付けむ。(さぁどうぞ上の句を詠んでくださいな、そしたら「お花さん」が下の句を付けるでしょうよ)
微妙な「くそ」の例)いざたまへ、<花くそ>付けむ。(・・・同上・・・なんだけど、なんだか「鼻くそ付けちゃうぞ」って言われてるみたいで、何も出したくない感じ)
*この「くそ」へと化けた「こそ」の「此+其」語感は、「こなくそ」なる罵倒表現の中にもその臭いを漂わせている。この語は「其処(そこ)+なる(に存在する)+こそ(君)」→「そこ+な+くそ・・・こなくそ」の変化を遂げて「自分の眼前にいるオマエ(ら)」の意となったものであり、「敬遠すべき距離感」を含まぬことから罵り文句として使われた語であって、「このクソ・大便・排泄物・うんこ野郎!」というキッタナイ響きを相手にぶっつけて「おまえなんてSHITそのものだっ!」としたわけではない。
*何ともきたない話で終えるのもはしたないので、最後に幕末日本史の裏話を添えておくならば、この「こなくそっ!」なる言葉、あの有名な土佐浪人坂本龍馬を暗殺した(誰とも特定されてはいない)人物(たちの一人)が叫んでいた、という目撃者の証言が残っている。その方言の土地柄から「伊予国出身の新撰組十番隊組長 原田左之助」が犯人か、と言われていた時期もあるが、新撰組の行動記録から見てその可能性は薄く、(同じく確証はないものの)京都見廻組という別系統の幕府系組織の犯行との説もある・・・いずれにせよ血なまぐさい話だが、「くそ」よりはまだ味わい深いものがあろう?
■__も【も】『接続:係助={体言・連体形・連用形・副詞・助詞}接助={連体形・形容詞型連用形}終助={終止形・連体形・文末}』〔係助〕 (1)〈(列挙)同類の事柄を並べて述べる。〉・・・も・・・も。・・・から・・・まで。・・・いずれも。・・・のどれもこれも。・・・みんな。 (2)〈(累加)既にある事柄に、類似した別の事柄を更に付け加える意を表わす。〉・・・もまた。・・・までも。更に・・・も。その上・・・まで。 (3)〈(暗示)一例を挙げて、類例を類推させたり、含みを持たせたりする。〉・・・なども。・・・なんてのも。・・・とかも。例えば・・・。 (4)〈(程度の類推)軽度の事柄を挙げて、より程度の重い他の事柄を類推させる。〉・・・さえも。・・・も。・・・でも。・・・すらも。 (5)〈(最低限の希望)望まれる物事の中でも最低限のものを示して、その実現を切に望む意を表わす。〉せめて・・・だけでも。・・・ぐらいは。 (6)〈(強調・含意)文意を強めたり、明示・断定を避けて含みを持たせたりする。〉・・・も。・・・でも。・・・なども。・・・なんか。 (7)〈(総括)(不定の意を表す語に付いて)その種の物事全てに包括的に言及する。〉・・・はみな。・・・はどれも。・・・は全て。 〔終助〕 (1)〈(上代)(詠嘆)感動・詠嘆の意を表す。〉・・・なあ。・・・よ。・・・ことよ。・・・であるよ。 〔接助〕 (1)〈(逆接の確定条件)前述の事態が存在するにもかかわらず、それに反する後述の事態が成立する意を表わす。〉・・・けれども。・・・だが。・・・にもかかわらず。・・・のに。・・・であるというのに。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【も】〔係助〕(1)(列挙)同類の事柄を並べて述べる。・・・も・・・も。 ・・・から・・・まで。・・・いずれも。・・・のどれもこれも。・・・みんな。 *接続=各種の語句。
*「Aも、そしてまたBも」の形で、類似した事例を複数重ねて用いる係助詞「も」の語法で、現代日本語にもそのまま残るもの(例:すもももももももものうち・スモモモモモモモモノウチ・李も桃も桃の内)。
*英訳=「such as A, B, ...」/「including, A, B, ...」/etc, etc.
◆【も】〔係助〕(2)(累加)既にある事柄に、類似した別の事柄を更に付け加える意を表わす。・・・もまた。 ・・・までも。更に・・・も。その上・・・まで。 *接続=各種の語句。
*現代日本語にもそのまま残る「累加:右に同じ」の意を表わす係助詞「も」の語法(例:花は散り、人<も>つひにははかなくなる)。
*英訳=「.., too」/「also ...」/「the same goes for A」/etc, etc.
◆【も】〔係助〕(3)(暗示)一例を挙げて、類例を類推させたり、含みを持たせたりする。・・・なども。 ・・・なんてのも。・・・とかも。例えば・・・。 *接続=体言。連体形。
*見出しを付けるなら「暗示」の「も」だが、実に何とも説明し難い係助詞である。現代日本語の「も」もそうだが、何かを取り立てて述べるでもなく、ただ単に「Aは・・・」のような形での差別化を行なうのを避けるために使われる「も」も多い。
*英訳=no equivalent in English
-「は」避けの「も」-
*例えば「越後屋ぁ~・・・おぬし<は>ワルじゃのぉー!」とすれば「他の商人はともかく、この越後屋というやつ<だけは>とんでもない悪人」と取り立てて言う感じになってしまうので、「越後屋・・・おぬし<も>ワルじゃのぉ・・・」としているだけ、というような使い方である(・・・もっとも大方の人は、「発言者の悪代官と同様、越後屋<も>ワルだ」と思って聞いているだろうが・・・)。
*その他の「も」の用例にどうにも収まらなかったやつが、このタイプの「も」として片付けられる、という感じの何とも煮え切らない語法ではあるが、それだけに解釈や訳出に特段の注意を払う必要もない「も」ではある(・・・この点、「は」も同じ)。
◆【も】〔係助〕(4)(程度の類推)軽度の事柄を挙げて、より程度の重い他の事柄を類推させる。・・・さえも。 ・・・も。・・・でも。・・・すらも。 *接続=各種の語。
*「程度の類推」と呼ばれる語法で、現代日本語にも通じるもの。わかりやすく誇張して言えば「Aでさえも・・・(なのだから、ましてやBなどとんでもない)」という形で言外に更なる想像を促す語法の「も」(例:「従ふ者一人<も>無し:There was not a single follower.:ついて行こうという者は<ただの一人たりとも>存在しない」)・・・だが、実際にはそれほど大袈裟な訳し方は不要の場合(軽く「・・・も」だけで流してよい場合)が多い。強調的に訳すなら「・・・すらも/・・・さえも/たとえ・・・であろうとも」あたりでよいだろう。
*英訳=「even A」/「a single A」/「A, of all the ...」/etc, etc.
◆【も】〔係助〕(5)(最低限の希望)望まれる物事の中でも最低限のものを示して、その実現を切に望む意を表わす。せめて・・・だけでも。 ・・・ぐらいは。 *接続=体言。連体形。連用形。副詞。助詞。
*数ある物事の中でも最も些細なものや最低限の条件を示して、「Aとまでは言わないが、せめてBぐらいは・・・したい」としてはかなげな思いを吐き出す「せめてもの希望」の意を表わす係助詞「も」の用法で、「さへ」・「だに」にも同じ用法がある。現代日本語でも「文句の一つ<も>言いたいところを、じっと黙って俯いている」などとして使う。
*英訳=「at least」/「at the very least」/「the least I hope for is ...」/etc, etc.
◆【も】〔係助〕(6)(強調・含意)文意を強めたり、明示・断定を避けて含みを持たせたりする。・・・も。 ・・・でも。・・・なども。・・・なんか。 *接続=各種の語句。
*係助詞「も」の、なんとももにゃもにゃとしてはっきりせぬ語法。見出しは一応「含意」だの「強調」だのと付いてはいるものの、「力説」したいのか「遠慮」したいのかよくわからぬやつで、要するに、その対象となるものを取り立てていうのに付ける係助詞として、「Aは」を付けたのではその「A」をあまりにも特別視しすぎるきらいがあって好ましくないから、仕方なしに「A+も」に逃げ込んだような感じとでも言うべきか・・・それでいて時にはきちんと強調の含意があって「せっかくのAといえど<も>」のような形で隠れたパンチを繰り出したりする場合もあったりして、とにかく(いかにも日本語の助詞らしい)「ウナギのようにクネクネとして捉え所<も>ない」語法である(例:「はぁ・・・君<も>わからん人だねぇ・・・」)。このもやもや感は現代日本語にもそのまま引き継がれている。
*英訳=「even A」/「things like A」/「such as A」/etc, etc.
◆【も】〔係助〕(7)(総括)(不定の意を表す語に付いて)その種の物事全てに包括的に言及する。・・・はみな。 ・・・はどれも。・・・は全て。 *接続=体言。
*不特定多数を表わす名詞に付いて、それに類する物事全てを包括的に意味する「総括」の係助詞「も」。「なにもかもみな(=何<も>彼<も>皆)」の感じである。
*英訳=「all that ...」/「what ...」/「every A that ...」/etc, etc.
◆【も】〔終助〕(1)(上代)(詠嘆)感動・詠嘆の意を表す。・・・なあ。 ・・・よ。・・・ことよ。・・・であるよ。 *接続=終止形。連体形。文末。
*上代の終助詞で、主に文末に置かれて「詠嘆」の意を添えるもの。中古以降は古式な和歌の中などで使われた(例:「世の中は常にもがもな渚漕ぐ海士の小舟の綱手かなし<も>」源実朝aka.鎌倉右大臣)。
*英訳=「oh...」/「.., yes」/「.., you see」/etc, etc.
-「ま」・「む」・「も」は「Oh!」-
*この終助詞「も」の詠嘆用法は、現代日本語にはもう残っていない。もっとも、「彼ったら、すっごいんだから、<もう>!」や「<もー>辛抱たまらん!」とかの「もう・もー」の祖先と見ることも不可能ではないが。
*そもそも、「M行音」は、口を一旦すぼめて息を飲む語感から、古来「感嘆」や「嘆息」に多用されてきたものであって、「も」以外にも、次のような形で現代にも生きる表現が意外に多い:
「ま」・・・「<まっ>、この人ったら、何て破廉恥なことを!」
「む」・・・「<むぅ>・・・こいつ、ただのオカマ野郎じゃなさそうだぞ」
「む」その2・・・「<むっ>、そういう言い方はないんじゃない?!」
・・・少々下ネタ方面に流れてしまって、むつかる(=口をMの字に結ぶ)人もいそうだから、最後に自分で自分にシッペを食らわしておしまいにしよう:
「め」・・・「<めっ>!子供達も見てるんだから、あんまりそういう話しちゃだめっ!」
◆【も】〔接助〕(1)(逆接の確定条件)前述の事態が存在するにもかかわらず、それに反する後述の事態が成立する意を表わす。・・・けれども。 ・・・だが。・・・にもかかわらず。・・・のに。・・・であるというのに。 *接続=連体形。
*「・・・だけれども」という「逆接の確定条件」を表わす接続助詞の「も」で、現代日本語にも(やや文語調で)残っている(例:「一年浪人する<も>、今春無事大学生となりました」)。
*英訳=「though ...」/「although ...」/「... but ...」/「.., still, ...」/etc, etc.
*これは多くの接続助詞に関して言えることだが、この「も」もまた格助詞としての用法が先行し、接続助詞用法はかなり後発のもの。用例が増えてくるのは鎌倉時代以降であって、平安時代の文物に接続助詞としての「も」の使用例は少ない。
*ちなみに、中古末期以前に於ける「逆接の確定条件(・・・なのに)を表わす接続助詞」には次の語がある:「ど」/「ども」/「ながら」/「に」/「ほどに」/「ものから」/「ものの」/「ものゆゑ(に)」/「ものを」/「を」
■__て【て】『接続:格助={命令形}接助={連用形}終助={終止形・文末}』〔格助〕 (1)〈(上代東国方言)(言ふ・思ふ・聞くなどの語に付いて)陳述の内容を引用する。〉・・・と。 〔終助〕 (1)〈(近世語)陳述内容を軽く念押しする。〉・・・よ。・・・じゃて。・・・だぞ。・・・だわい。・・・てば。 〔接助〕 (1)〈(単純接続)前後の事柄を単純につなぐ。〉・・・て。・・・して。・・・であって。 (2)〈(並立)複数の事態が同時に成立している意を表わす。〉・・・て、そしてまた~。・・・しながら、同時に~。・・・であり、なおかつ~。 (3)〈(順接の確定条件)原因・理由を表す。〉・・・ゆえに。・・・ので。・・・から。・・・のために。・・・のせいで。・・・のおかげで。 (4)〈(逆接の確定条件・仮定条件)前述の内容があるにもかかわらず、後述の陳述が成立している意を表わす。〉・・・だというのに。たとえ・・・だとしても。・・・ていながら。・・・にもかかわらず。・・・けれども。・・・のに。・・・ではあるが。 (5)〈(順接の仮定条件)前述の内容が成立した場合、その帰結として後述の内容が成立する意を表わす。〉もし・・・なら。・・・であれば。 (6)〈(状態)(連用修飾語を作って)後に続く動作が、ある状態で行なわれる意を表わす。〉・・・状態で。・・・のままで。・・・の様で。 (7)〈(内容)(「思ふ」・「思す」・「見る」・「覚ゆ」・「聞こゆ」などの動詞の前で)知覚・思考などの内容に言及する。〉・・・と。・・のように。・・・風に。・・・みたいに。 (8)〈(補助動詞への接続)活用語を補助動詞に続ける。〉・・・て。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【て】〔接助〕(1)(単純接続)前後の事柄を単純につなぐ。・・・て。 ・・・して。・・・であって。 *接続=連用形。
*接続助詞「て」の中でも最もありふれた&解釈上何の注意も必要ない「前後を単純につなぐだけ」の語法(例:「来たり<て>、語り<て>、夜さり<て>、去れり」)。現代日本語では「来<て>、語っ<て>、夜になっ<て>、去った」というふうに大部分が促音便(「っ」へと詰まる音)と共に用いられる「て」である。
*英訳=「...and ...」/「.., ...」
◆【て】〔接助〕(2)(並立)複数の事態が同時に成立している意を表わす。・・・て、そしてまた~。 ・・・しながら、同時に~。・・・であり、なおかつ~。 *接続=連用形。
*現代日本語にもそのまま残る「事態の並立」の「て」用法で、「・・・して、そしてまた同時に~でもある」という形のもの(例:「来春は大学に入っ<て>、彼女に告白し<て>、アルバイトにも精出し<て>、思い切り青春しよう!」)。英語に於ける「both A and B」に代表されるような欲張り表現(あちら立て<て>、こちらも立てる)である。
*英訳=「... and ...」/「... while ...」/「A and B at the same time」/「at once A and B」/「both A and B」/「not only ... but also ~」/etc, etc.
◆【て】〔接助〕(3)(順接の確定条件)原因・理由を表す。・・・ゆえに。 ・・・ので。・・・から。・・・のために。・・・のせいで。・・・のおかげで。 *接続=連用形。
*現代日本語の「・・・て」と全く同じ「原因・理由」の用法(例:電車が止まっ<て>学校に遅刻した)。前後の脈絡から「原因-結果」関係を見極めたら、「・・・(な)ので」あたりの適当な訳を宛がえばよい。
*英訳=「for ...」/「as ...」/「because ...」/「since ...」/etc, etc.
*この語法(原因・理由:...だった、それで~した)は、単なる「前後の単純な接続:...して、~した」として軽く流してしまってもよい場合が多いが、英語の「and」にも似たような現象がある ― He didn't arrive in time, and we got on the train as scheduled.(彼は時間までに来なかった;で、我々は予定の列車に乗った) ― このような接続関係の文章では、「因果関係」を訳出しなかったからといって必ずしも減点になるものでもないので、さほど気にせずともよいだろう。
◆【て】〔接助〕(4)(逆接の確定条件・仮定条件)前述の内容があるにもかかわらず、後述の陳述が成立している意を表わす。・・・だというのに。たとえ・・・だとしても。 ・・・ていながら。・・・にもかかわらず。・・・けれども。・・・のに。・・・ではあるが。 *接続=連用形。
*接続助詞「て」が、直前に述べられた事態と内容的に正反対の事態を後に続けて、「・・・なのに、~だ」としてつなぐ「逆接の確定条件」、または「・・・だとしても、~だ」の意を表わす「逆接の仮定条件」の用法。「・・・ても」と換言して通じる「て」ならこの用法だと思えばよい。
*英訳=「although ...」/「[even] though ...」/「[even] if ...」/etc, etc.
*現代日本語に引き継がれているかどうかは微妙で、「日暮れ<て>道遠し=日も暮れたのにまだまだ目的地までは長い」や「万骨枯れ<て>一将功成らず=多くの兵隊を無駄死にさせてなお何の成果もあがらない」といった文語表現を現代語とみなすか否かにかかっている・・・やはり、一般には「て→ても」の変化を遂げているとみなすべきであろう。
◆【て】〔接助〕(5)(順接の仮定条件)前述の内容が成立した場合、その帰結として後述の内容が成立する意を表わす。もし・・・なら。 ・・・であれば。 *接続=連用形。
*前述の内容(A)が成立した場合に、後述の事態(B)もまた成立する(もしAなら、Bである)という「順接の仮定条件」を表わす接続助詞「て」の用法。「雨降っ<て>地固まる(If it rains, the ground will get firm.)」のような表現の中で現代日本語にもなお息づく「て」であるが、現代人的には「て」単独よりも「・・・てこそ」と言葉を補ってこそしっくりくる用法である。
*英訳=「when ...」/「if ...」/「so long as ...」/「on condition that ...」/etc, etc.
◆【て】〔接助〕(6)(状態)(連用修飾語を作って)後に続く動作が、ある状態で行なわれる意を表わす。・・・状態で。 ・・・のままで。・・・の様で。 *接続=連用形。
*用例は(石を投げれば当たる、ってほどに)多くあり、「・・・(し)て」・「・・・(し)つつ」・「・・・(し)ながら」等の現代語訳にストンと落ち着く「て」の接続助詞用法で、英文法で言うところの「付帯状況/同時進行」。現代日本語にもそのまま残っている(例:「とか何とかうまいこと言っ<て>、人を煙に巻い<て>は、涼しい顔してすましている」)。
*英訳=「...ing (participial construction)」/「with A ...ing (participial construction)」/「while ...」/「as ...」/etc, etc.
◆【て】〔接助〕(7)(内容)(「思ふ」・「思す」・「見る」・「覚ゆ」・「聞こゆ」などの動詞の前で)知覚・思考などの内容に言及する。・・・と。 ・・のように。・・・風に。・・・みたいに。 *接続=連用形。
*接続助詞「て」が、知覚・思考作用を表わす動詞(「思ふ」・「覚ゆ」・「見る」・「聞こゆ」等)の直前に置かれ、英語で言うところの「補語(C)+て(to be/as/like)+動詞(V)」の形(例:「(S)The news (V)sounds like (C)true.」=その知らせはどうやら本当らしく聞こえる)で前後をつなぐ「知覚・思考の内容」の用法で、現代日本語にもそのまま引き継がれている(例:「謎めい<て>見える仕草」・「冗談じみ<て>聞こえる説明」)。
*英訳=「as A」/「to be A」/「like A」/etc, etc.
◆【て】〔接助〕(8)(補助動詞への接続)活用語を補助動詞に続ける。・・・て。 *接続=連用形。
*動詞と補助動詞の間をつなぐ接続助詞「て」の用法。単独の接続助詞というよりも、定型句構成成分として、現代日本語にも残っている。
*英訳=「... and ...」/「... to ...」
-2語で1語感覚の「動詞+て+補助動詞」-
*「し+て+みる」のような表現に於けるつなぎ記号としての「て」である。英語なら「Let us wait and see.:しばし待ってみよう(=様子見)」の表現に於ける「and」であって、その前後の「wait」/「see」を別物扱いして「待機しよう。そして、見よう」と解釈すれば意味が通じなくなるように、「て」の前後の語句は不可分の一体性を持っている。
*「Come and join us.→Come to join us.=遊びにおいでよ」の「to」にも似た響きがあり、いずれにせよこれらの「て」・「to」・「and」を、単体で切り出して意味を解釈しようとするのは誤解の元である。
■__は【は】『接続:係助={体言その他各種}終助={体言・連体形・助詞「ぞ」・「や」}』〔係助〕 (1)〈(主題)(体言・準体言に付いて)その語を主題として取り立てて示す。〉・・・というものは。・・・は。・・・に関しては。・・・について言うと。 (2)〈(対比)他の何かと対比させる形である事柄を取り立てて示す。〉・・・に限っては。・・・は。・・・の方は。 (3)〈(整調・強調)語調を整えたり、叙述を強める働きをする。〉(特定の訳語はない) (4)〈(順接の仮定条件)前述の条件が成立した場合、後述の事態が成立するだろうとの想定を表わす。〉もし・・・なら。・・・たら。仮に・・・とすれば。 〔終助〕 (1)〈(詠嘆)感動の意を表わす。〉・・・よ。・・・なあ。・・・なことだ。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【は】〔係助〕(1)(主題)(体言・準体言に付いて)その語を主題として取り立てて示す。・・・というものは。 ・・・は。・・・に関しては。・・・について言うと。 *接続=体言。連体形。
*現代日本語の「は」と全く同じく、体言(相当語句)に付けて「・・・というものは」としてそれを取り立てる働きをする。
*英訳=no equivalent in English・・・英語の場合、「主格」は「語順や構造」によって(「主語は文頭にある名詞相当語句」のような形で)決まるものであり、他の語句によって規定されるものではない。
-取り立てて言うべきほどのことがなくとも「とりあえず"は"」-
*「主格/主題」を表わす働きをする助詞には、「こそ」/「ぞ」/「なむ」/「は」/「も」(以上は係助詞)と、格助詞の「が」/「の」がある。
*これらのうち目立って強調的な係助詞の「こそ」(結びは已然形)/「ぞ」(結びは連体形)/「なむ」(結びは連体形)は、その使うべき場面に迷うこともない。
*また「が」と「の」は「主格」とは言っても全文言い切り形ではない部分集合としての主部・述部関係を表わすのみ、という特殊な制約がある(「が」は平安末期以降、その制約を脱したが)。
*こうして見ると、「普通の主格」に使える助詞として残るのは係助詞の「は」と「も」の二つだけ(平安末期以降はこれに格助詞の「が」も加わる)・・・意外なようだが、この状況は現代日本語までそのまま続いている。
*「は」も「も」も、係助詞のくせに後続語句の末尾に「係り結び」を招かない、という点からもわかる通り「押しの弱いやつら」である。状況によっては「私<は>あなたが好き(・・・たとえあなた<は>私を嫌いでも)」とか「あなた<も>やはりつれない人(・・・他のみんな<も>そうでした)」とかの形で「取り立てて強調」する言い回しを形成できることは確かだが、「今日<は>いい天気ですね」と言った時に必ずしも「昨日まで<は>ひどい天気でしたが」の含意があるわけでもなく、「君<も>頭が悪いやつだねぇ」と言った人が「実はワシ<も>バカなのだ」のつもりでこの「も」を使っているわけでもない・・・つまりは、「たいして意味<は/も>ないけど主格記号としてとりあえず付けてみた」的な「は/も」が現実には圧倒的に多いのである。こうした場合、古来この国の得意芸である「助詞そのものの割愛」という芸当(たいして意味ないけど)も可能だが、敢えて付けるとしたら普通(は)「は」であろう・・・が、状況によっては「は」を付けるとその相手を取り立てて強調しているように聞こえる場合もあって、そうした場合には「も」に逃げ込んでやんわりと婉曲な感じを出す・・・このあたりの芸当は(も)、現代日本人ならお手の物であろう。
*などと取り立てて論じてみたが、実のところ(は)、こうした主格の「は」・「も」には、古文解釈上は何ら注意すべきことも(は)ない。ただ、古典時代から現代に至るまで変わらぬ日本語の主格の助詞というものの曖昧な特性を指摘するために書いてみただけのこと・・・この他にも数々ある「は」や「も」の用例のいずれにも当てはまらなかった場合に、何ということも(は)ない「主格取り立ての用法」なのだ、と割り切ってもらえればそれでよい話で(は)ある。
◆【は】〔係助〕(2)(対比)他の何かと対比させる形である事柄を取り立てて示す。・・・に限っては。 ・・・は。・・・の方は。 *接続=各種の語句。
*他の何かと対比する形で、直前の語句を取り立てて示す係助詞「は」の「対比」の用法。現代日本語でも普通に使う用法(例:「おぉ、今日<は>気合い入れて勉強してるねー!」)で、「・・・については/関しては/限っては/だけは」などと強調的に訳す場合もあるが、多くは単なる「は」で流してよい。
*英訳=「as for A」/「with A」/「when it comes to A」/「A, of all ...」/etc, etc.
◆【は】〔係助〕(3)(整調・強調)語調を整えたり、叙述を強める働きをする。(特定の訳語はない) *接続=各種の語句。
*文中に置かれて、語調を整えたり強調したりするのに用いられる係助詞の「は」の語法(例:「いかでかく<は>こころあしからむ・・・どうしてこうも意地悪なんだろう?」)。取り去っても何ら意味が変わらない空気のように軽い「は」である。現代日本語には残っていない。
*英訳=「... o ...」/「... oh ...」/「... ah ...」/「... yeah ...」/etc, etc.
◆【は】〔係助〕(4)(順接の仮定条件)前述の条件が成立した場合、後述の事態が成立するだろうとの想定を表わす。もし・・・なら。 ・・・たら。仮に・・・とすれば。 *接続=打消助動詞「ず」未然形(連用形説もある)「・・・ず」。形容詞型活用語未然形(連用形説もある)「・・・く」。ラ変形活用語連体形「・・・ある」。
*係助詞「は」が「順接の仮定条件」を表わす用法で、直前の内容が成立する場合に、直後の事態も成立する意を表わす(例:「ねこのひたひあらふ<は>、ていけかはるしるしにや」=猫が額を洗うってことは、天気が変わる兆候では[にゃーか・・・あらむ省略]?)。
*この用法の「は」は現代日本語には引き継がれていないが、言葉を少し補って「・・・のは(~だからだ)」・「・・・のならば(~ということだ)」・「・・・の場合は(~ということだ)」などとすれば解釈できるだろう。
*英訳=「... if so, ...」/「.., which goes to show ...」/「.., a proof that ...」/etc, etc.
-接続先の問題-
*この係助詞「は」は、意味・機能上接続助詞「ば」と同種であるから、その接続先は「未然形」であるはずなので、形態上「連用形」に見える次の形も「未然形」扱いするのが妥当であろう:
◆「打消助動詞+は」=「・・・ずは」(もし・・・ないならば/・・・ないということは)
◆「形容詞型活用語+は」=「・・・くは」(もし・・・であるならば/・・・であるということは)
*一方、ラ変動詞(末尾に「あり」を含むもの)の場合、その接続は次のように「連体形」接続となる:
◆「ラ変活用語+は」=「・・・あるは」(もし・・・があるならば/・・・があるということは)
*この場合の連体形「ある」は、直後にあるべき形式名詞[事・時・折etc,etc.]が省略されたものと捉えて「もし・・・がある場合ならば/・・・がある場面は」の意味と解釈すればよい。
◆【は】〔終助〕(1)(詠嘆)感動の意を表わす。・・・よ。 ・・・なあ。・・・なことだ。 *接続=体言。連体形。助詞「ぞ」。助詞「や」。
*「は」の用法のほとんどは「係助詞」だが、文末に置かれ、体言や連体形に接続し(あるいは係助詞を受けて「ぞは」・「やは」の形で)「詠嘆」の意を添えるだけの場合は「終助詞」となる。まったくもって無意味な語句だけに、特定の訳し方もなにもない。同様に「詠嘆」の意を表わす各種の語(「かな」・「や」・「よ」・「を」等)に倣って「あぁ・・・」とか「・・・だなぁ」とか「・・・なことよ」とかで逃げを打つか、いっそ無訳で通してしまえばよい。現代日本語には引き継がれていないが、「は」ならぬ「はぁ」・「ぁぁ」・「ゎぁ」あたりの脱力系嘆息音はそれに近いかもしれない。
*英訳=「ah...」/「o...」/「oh...」/etc, etc.
-無意味が一番困るのだ-
*この「詠嘆」に代表されるような、しっかりとした意味のない語ほど「外国語学習」で困るものはない。例えば、次の英文など、「英語人種」にとっては何ということもないが、「外国人の英語学習者」にとってはコケ易いものである:
英語例)Hey, come on, little girl, take a little chance with me.
ダメ和訳例)へい、おいでよ小さい少女、少しだけ僕と共に危険を冒してよ。
まともな和訳例)ヘイ、かわい子ちゃん、ちょっぴり一緒に冒険しちゃおうよ。
*<little girl>の「little」は相手への親愛の情を表わすだけの無意味な語/「girl」は「少女」ではなく眼前にいる女性への親しげな呼びかけの語なので、「かわいぃ君」あたりが妥当であって、「小さな少女」では「白い白馬」や「年老いた老人」・「プロっぽい専門家」みたいな感じで、ばかばかしいにもほどがある。
*この種の「雰囲気語」は、文字通り空気みたいなフワフワ感で文中を漂っているばかりなので、なまじそうした無意味な語に意味の重みを乗せて解釈しようとすると、何ともおかしなことになる。そこに込められたニュアンスさえ読み取ったら、それ以上の特別な扱いはせずに軽くスルーするのが正しい・・・のだが、そもそもその「微妙な空気」の気配は、その言語に日常的に馴染んだ人間以外には感覚的に読み取れないものなのだから、困ってしまうのだ・・・結局、この種の「雰囲気語」の解釈を「外国人」が行なうには、次のような面倒くさい2段階を経なければならないのである:
1)同じ語形が表わし得る全ての用法を逐一(辞書・参考書・自分自身の記憶のストックから)確認して脈絡に当てはめ、「有意語義」のどれ一つとしてその文脈では妥当性を有さないことを確認する。
2)最後に残った「無意味語義」こそが妥当であることに思い至り、特定の訳出を放棄して無訳のまま流す。
・・・この1&2の過程を幾度も繰り返すうちに、ようやく英語の「little=親愛」や古語の「は=詠嘆」の漠然とした雰囲気がなんとなくわかった気になる、というわけである。
*逆に言えば、「有意語義」の全ての検証作業を解釈者に強いるものであるだけに、「外国語試験」に於ける「無意味語」の出題は、最も過酷な課題ということになる。「母国語試験」としてこれを出せば「即座の反射的解釈」ができるか否かが着眼点になるが、現代日本人にとっては明らかに「外国語」である「古文入試」で「終助詞」の「は」の「詠嘆語法」を問題にするのは、<「係助詞」としての意味ある「は」の全てを(限られた解答時間の中で)すべて確認してそのどれにも該当するものがないことを確認せよ>と言っているのに近い・・・これは、不当なまでに過大な作業を受験者に押しつけるものであるだけに、入試問題としては妥当ではないであろう・・・が、このあたりがわかっていない(解答する側の立場に立って物事を見つめるほどの知的余裕など持ち合わせていない)半可通の出題者も少なくないのが日本の大学入試なので、受験生にとってこの種の「雰囲気語の空気読み」は、けっこう重要な課題だったりするのである・・・ので、最後に一つアドバイスをば:
<しっかりとした意味を持たぬ「雰囲気語」の見極めは、しっかりとした意味を持つ「有意語義」の検出作業を全て終えて最後に残ったものに「無意味」の烙印を押すことで初めて可能となるもの・・・なればこそ、日頃から、「有意語義」はスラスラと短時間で検出可能な状態を整えておき、いざ「無意味語義」に出会ったなら、「自分の実力からすれば、意味ある語ならとっくに検出できてるハズ・・・なのにまだ適当な語義にヒットしない・・・自分ほどの実力者がこれだけ意味判定に悩む以上、この語は無意味語であるに違いない」という形で「自らの反応時間の遅さ」を「無意味語の判定基準」へと代替可能にしておくべし>・・・「自分がこれだけやってこのザマなら、相手のほうが悪い」という知的体表感覚を「無意味を見抜く切り札」として使えるようになれば、受験生としてもう何も怖いものはない(・・・自分自身の「実力に不相応な思い上がり」以外は)。
■__と【と】『接続:格助={体言・連体形・連用形・文末}接助={動詞型活用語終止形・形容動詞型活用語終止形・形容詞型活用語連用形・助動詞「ず」連用形}』〔格助〕 (1)〈(随伴)同じ行為を共に行なう相手を表わす。〉・・・と共に。・・・と一緒に。・・・ともども。・・・と。 (2)〈(並立)複数の事柄を並べて述べる。〉・・・と~と。・・・に、~に。 (3)〈(比喩)物事の様態を、他の何かに例えて表現する。〉・・・のように。・・・の如く。まるで・・・みたいに。・・・に似て。 (4)〈(強調)(動詞連用形に付き、同じ動詞を二つ「と」でつなぐ形で)動詞の意味を強めたり、動作が勢いよく進行する様を表わす。〉・・・ものは全部。ずんずん・・・する。ありとあらゆる・・・は。ずんずん・・・。 (5)〈(比較)比較の対象を表す。〉・・・と比べて。・・・に比して。・・・に引き替え。・・・と。・・・に。・・・よりも。 (6)〈(結果)(「す」・「なる」・「なす」などの語とともに用いて)変化の結果を表す。〉・・・へと。・・・に。・・・という結果に。 (7)〈(引用)(「言ふ」・「思ふ」・「聞く」・「問ふ」などの語とともに用いたり、それらの動詞を省略した形で)思念や発言の内容を引用する。〉・・・というふうに。・・・と言って。・・・と思って。・・・と。 (8)〈(自発)(「おのれ」・「こころ」・「われ」などとともに用いて)ある行為が何に発するものであるかを表わす。〉・・・から。・・・の命ずるところに従って。 (9)〈(資格)ある行為がどのような資格に於いて為されるかを表わす。〉・・・として。・・・の立場で。 〔接助〕 (1)〈(逆接の仮定条件)前述の条件が成立した場合でも、それに反する後述の事態が成立するだろうとの想定を表わす。〉たとえ・・・でも。もし・・・としても。よしんば・・・にせよ。 (2)〈(室町時代以降)(順接の仮定条件)前述の条件が成立した場合、後述の事態が成立するだろうとの想定を表わす。〉もし・・・なら。・・・たら。仮に・・・とすれば。 (3)〈(室町時代以降)(順接の恒常条件)前述の条件が成立する場合、必ず後述の事態が成立する意を表わす。〉・・・時はいつも。・・・ならば必ず。・・・には常に。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【と】〔格助〕(1)(随伴)同じ行為を共に行なう相手を表わす。・・・と共に。 ・・・と一緒に。・・・ともども。・・・と。 *接続=体言。
*現代日本語にもそのまま残る「随伴」の「と」(例:「おかあさん<と>いっしょ」)。
*英訳=「together with A」/「along with A」/「beside A」/etc, etc.
◆【と】〔格助〕(2)(並立)複数の事柄を並べて述べる。・・・と~と。 ・・・に、~に。 *接続=体言。連体形。
*現代語にもそのまま残る、複数の事例を並べてつなぐ「並立」の用法の格助詞「と」で、「AとBと・・・YとZ」(例:「酒<と>泪<と>男<と>女」)のような感じで使う英語の「and/&」に相当する語である。
*英訳=「A and B」
◆【と】〔格助〕(3)(比喩)物事の様態を、他の何かに例えて表現する。・・・のように。 ・・・の如く。まるで・・・みたいに。・・・に似て。 *接続=体言。連体形。文末用法。
*物事の様態を「まるで・・・みたいに」と例えて表現する格助詞「と」の用法。
*英訳=「like ...」/「as if ...」/「as though ...」/etc, etc.
*「腕も折れよ<と>(ばかりに)投げ抜く闘志(♪from 『巨人の星』主題歌ゆけゆけ飛雄馬)」というように、現代日本語にも「と言わんばかりに」・「とでも言いたげに」・「といった感じで」などと言葉を補えば通じる用法である・・・もっとも星飛雄馬や矢吹丈・力石徹といった「梶原一騎(高森朝雄)型の闘魂ドラマ」が当今の日本に通じるか否かははなはだ怪しいが。
◆【と】〔格助〕(4)(強調)(動詞連用形に付き、同じ動詞を二つ「と」でつなぐ形で)動詞の意味を強めたり、動作が勢いよく進行する様を表わす。・・・ものは全部。ずんずん・・・する。 ありとあらゆる・・・は。ずんずん・・・。 *接続=動詞の連用形に付けて、後続部にも全く同じ動詞を続ける。
*現代日本語にもなお残る、「あり<と>あらゆる生き物」や「生き<と>し生ける者」のような「同一動詞の畳語表現」で畳み掛けるように強調したり、勢いある動作を表わしたりする格助詞「と」の一風変わった定型語法。
*英訳=「what A ...」/「all the A that ...」/「more and more ...」/「increasingly ...」/etc, etc.
◆【と】〔格助〕(5)(比較)比較の対象を表す。・・・と比べて。 ・・・に比して。・・・に引き替え。・・・と。・・・に。・・・よりも。 *接続=体言。連体形。
*「と」のままでは解釈困難な、「と比べて」の意を表わす「比較対象」の「と」で、現代語感覚では「に」の領分に属する語法である。多く「優・劣」を表わす動詞と共に用いる。「・・・と同じ(the same as A)」/「・・・と違う(different from A)」という表現の延長線上にある「・・・と比べて、勝る/劣る(better/worse than A)」と捉えればよいだろう。
*英訳=「as compared with/to A」/「in comparison with A」/「against A」/etc, etc.
*日本語はただでさえ相対比較の構文も概念も(西欧言語と比べれば)発達していないので、現代では死語と化したこの「比較対象の'と'」の語法は受験生にとっては鬼門となろう;から、英語の類似表現「A is nothing to B」を下に掲げておく:
比較の「と」に比すべき前置詞「to」を含む英文例)Physical fatigue is nothing to mental depression.「'身体がヘトヘト'?んなもん、'心がボロボロ'に比べたらなんぼのもんじゃい?」
◆【と】〔格助〕(6)(結果)(「す」・「なる」・「なす」などの語とともに用いて)変化の結果を表す。・・・へと。 ・・・に。・・・という結果に。 *接続=体言。
*直後に「す(為)」・「なる(成る)」・「なす(成す・為す)」等の動詞を伴って、「Aにする」の意を表わす格助詞「と」の語法。英語で言えば、「なる:S+become+C」/「す・なす:S+make+O+C」の構文に於ける「C=補語:complement」に相当するもの(例:「妻<と>す/なる/なす」)。現代日本語にも残っているので、殊更難題<と>するにはあたらない。
*英訳=「S+V+<C>(subjective complement)」/「S+V+O+<C>(objective complement)」
*英語では「・・・へと」の意味は構文上の語順で表わし、特定の語句で表わさないのが普通だが、次のような構文で考えれば、この格助詞「と」は、英語の前置詞「into」や「as」、及び「to do」のような句に近いと言える:「make A into B」/「render A into B」/「regard A as B」/「consider A to be B」/etc, etc.
◆【と】〔格助〕(7)(引用)(「言ふ」・「思ふ」・「聞く」・「問ふ」などの語とともに用いたり、それらの動詞を省略した形で)思念や発言の内容を引用する。・・・というふうに。 ・・・と言って。・・・と思って。・・・と。 *接続=体言。引用句。
*直後の動詞が「思念」・「発言」系の場合の「と」は「・・・(だ)と(思う・言う・聞く・etc, etc)」と訳す。このあたりは現代日本語の「と」と全く同じ(・・・<と>彼はそう断言した)。
*英訳=「that...」/「if...」/「lest...」/etc, etc.
◆【と】〔格助〕(8)(自発)(「おのれ」・「こころ」・「われ」などとともに用いて)ある行為が何に発するものであるかを表わす。・・・から。 ・・・の命ずるところに従って。 *接続=体言。
*「自然<と>」・「自ず<と>」などの表現の中で現代日本語にも残る「その行為が何に発するものか」を示す格助詞「と」の語法で、その意味は「から」(語源は「柄」)に近い。
*英訳=「of A」/「out of A」/「prompted by A」/etc, etc.
*先の現代語の例からもわかる通り、単独の格助詞として把握するよりも連語として熟語的に処理するのが妥当なもの。古語では「おのれと」・「心と」・「我と」などの表現がそれ。
◆【と】〔格助〕(9)(資格)ある行為がどのような資格に於いて為されるかを表わす。・・・として。 ・・・の立場で。 *接続=体言。連体形。文末。
*格助詞「と」の「資格・状態」を表わす用法。別の古語で換言すれば「とて」・「として」となる。現代日本語にも(やや文語的に)「・・・とある」(例:名刺には「昨秋浪人宮本何某」<と>ある)や「・・・となったら」(例:いざ<と>なったら予備校に行くさ)、「・・・ともなれば」(例:二浪生<と>もなれば勉強&パチンコの二刀流、ってわけにも行かぬ)のような表現で引き継がれている。
*英訳=「as A」/「to be A」
-断定助動詞「たり」との関係-
*この「資格」を表わす格助詞「と」に、状態を表わす動詞「あり」を付けた「と+あり」が転じたものが、断定助動詞「たり」であり、その原義は「・・・という資格で存在している/・・・としてそこにある」である。
◆【と】〔接助〕(1)(逆接の仮定条件)前述の条件が成立した場合でも、それに反する後述の事態が成立するだろうとの想定を表わす。たとえ・・・でも。 もし・・・としても。よしんば・・・にせよ。 *接続=終止形。
*直前の内容が成立するとしても、なおかつ後続の内容が成立する「逆接の仮定条件」(たとえ・・・でも、なおも~だ)の意味を表わす接続助詞「と」の用法。現代日本語には引き継がれてはいないが、「・・・とも」や「・・・としても」と言葉を補って解釈すれば問題なく理解できるであろう。
*英訳=「[even] if ...」/「[even] though ...」/etc, etc.
■__を【を】『接続:格助={体言・連体形}接助={連体形・(稀に)体言}終助={体言・連体形}間投助={体言・連体形・命令形・助詞}』〔格助〕 (1)〈(目的語)動作・作用・使役の対象を表わす。〉・・・を。 (2)〈(離合の対象)(「会ふ」・「背く」・「別る」などの動詞と共に用いて)接近したり離別する対象を表わす。〉・・・と。・・・に。・・・に対して。・・・を。 (3)〈(自動詞・形容詞の主格)形容詞や、他動詞的に用いた自動詞の主語を表わす。〉・・・が(~であること)。・・・の~な様。 (4)〈(出発点)その動作が始まる場所を表わす。〉・・・から。・・・より。・・・を。 (5)〈(通過点)移動する過程で通り過ぎる場所を表す。〉・・・を。・・・を通って。・・・を過ぎて。・・・経由で。 (6)〈(期間)(時間的継続の意を表わす動詞と共に用いて)その動作が継続する期間を表す。〉・・・の間。・・・を。 (7)〈(原因・理由)(後続部に形容詞語幹+接尾語「み」の付いた「・・・を~み」の形で)ある物事の特性ゆえに、後続の事態が成立する意を表わす。〉・・・が~ので。・・・が~のあまり。 (8)〈(同族目的語)(「寝を寝」・「音を泣く」など)意味の似た名詞と動詞の間に置いて慣用句を形成する。〉ひたすら・・・する。・・・に・・・する。とにかく・・・しまくる。 〔終助〕 (1)〈(詠嘆・感動)詠嘆・感動を込めた強調の意を表す。〉・・・ものを。・・・なのに。・・・だというのになあ。 〔接助〕 (1)〈(契機)前述の事態が成立した後で、偶発的に、後続の事態が発生する意を表わす。〉・・・たところ。・・・と。・・・が。 (2)〈(原因・理由)前述の事態が原因・理由となって、後続の事態が成立する意を表わす。〉・・・ので。 ・・・から。・・・ゆえに。・・・のおかげで。・・・のせいで。 (3)〈(逆接の確定条件)前述の事態があるにもかかわらず、それに反する後続の事態が成立する意を表わす。〉・・・のに。・・・というのに。・・・けれども。・・・にもかかわらず。 〔間投助〕 (1)〈(強調)上の語句を強める。〉(特に訳さない)presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【を】〔格助〕(1)(目的語)動作・作用・使役の対象を表わす。・・・を。 *接続=体言。連体形。
*格助詞「を」の最も基本的な語法として現代日本語にも引き継がれているもので、動作・作用・使役等々の「対象」(英語風にいえば「目的語:object」)<を>表わすもの。
*英訳=no equivalent in English・・・英語の場合、「目的格」は「語順や構造」によって(「S+V+O: (S)She (V)loves (O)you.」/「S+V+O+O: (S)You can't (V)buy (O)me (O)love.」/「S+V+O+C: (S)The things {that you do} will (V)make (O)me (C)feel alright.」のような形で)決まるものであり、他の語句によって規定されるものではない。
◆【を】〔格助〕(2)(離合の対象)(「会ふ」・「背く」・「別る」などの動詞と共に用いて)接近したり離別する対象を表わす。・・・と。 ・・・に。・・・に対して。・・・を。 *接続=体言。
*格助詞「を」の中でもかなり変則的な用法で、「会ふ(あふ)」・「背く(そむく)」・「別る(あかる・わかる)」・「去る(さる)」等の「離合」系動詞と共に用いて「接近したり、離れたり」の対象を表わすもの。現代日本語でならば「を」ではなく「と」・「に(対して)」・「へ」あたりで代用するのが自然な用法である。
*英訳=「part with A」/「part from A」
*この離合の「を」を伴う表現で最も有名なのは、「世を背く」であろう。現代語の感覚では「を=対象」なので、「世間をあざむく」の意味と錯覚しやすいが、現実には「俗世間<へ>背を向ける」つまり「出家する」の意味の連語である。
◆【を】〔格助〕(3)(自動詞・形容詞の主格)形容詞や、他動詞的に用いた自動詞の主語を表わす。・・・が(~であること)。 ・・・の~な様。 *接続=連体形。
*かなり変則的な格助詞「を」の用法で、現代語では「が」に置き換えて訳せばよい。文法的に定義すれば、次のタイプの「主格」を表わす語法である:
1)「主語+を+他動詞的性質を持つ形容詞」
2)「主語+を+他動詞的性質を持つ自動詞」
英訳=「SV<O>/SVO<O>」... object(目的語) as opposed to subject(主語)
-実は「目的格」っぽい「主格」の「を」-
*例文で確認しよう。まずは「他動詞的性質を持つ形容詞」の例である:
古文1)猫の雀を喰らひける<を>恨めしければ、蹴にけり。
英文1)I hated the cat having eaten the sparrow, so I kicked it.
現代語訳1)猫が雀を食べちゃったの<が>憎らしかったので、ねこ蹴っちゃった。
*古文の格助詞<を>が、現代語では<が>に化けている。どちらも形の上では「主格」格助詞だが、実は「を」は「目的格」と見るほうが正しい。即ち、<猫の雀を喰らひける[事]>「を」<恨めし(形容詞)>というよりも、<我>「は」<猫の雀を喰らひける[事]>「を」<恨み(動詞)+たし>の感じなのである。
*上記の関係は、英文の構造を見ればより明確に認識できるはずだ:(S)I=我 (V)hated=恨みけり (O)<the cat having eaten the sparrow>=猫の雀を喰らひける[事]・・・このような論理的構造からすれば、この<を>を「主格」と見るのはあくまで形式の上でのことであり、実質的には「目的格」と見るほうが正しいことになる。
*上は「形容詞」が「他動詞的性質」を持つ例に於いてその「他動詞の目的語」を指向する「を」の例であったが、「自動詞」が「他動詞的性質」を持つ場合についても、「を」はやはり「実質的目的格」として機能する:
古文2)いたいけなる猫蹴ば、あしき名<を>や立ちなむ。
英文2)If you should kick a helpless cat, it must give you a bad name.
現代語訳2)無力でか弱い猫を足蹴にしたならば、きっと悪い評判<が>立つことだろう。
*現代語訳では「(S)悪い評判<が>(V)立つ」の「主語-が-述語」関係だが、古文ではここは「(S)其は(O)悪しき名-を-(V)立てなむ」の「目的語-を-動詞」関係に近い。英文で見ればこの関係は明瞭で、「(S)it=そ must=や+む (V)give=立て(他動詞) (O)you=汝 (O)a bad name=悪しき名」という形で、自動詞の「立ち」ではなく、目的語を指向する他動詞の「立て」こそがこの脈絡には相応しい。
*以上がこの「形式上は主格/実質的には目的格」の「を」を巡る考察である・・・が、まぁ、「自動詞」だろうが「他動詞」だろうが「形容詞」だろうが「主格」だろうが「目的格」だろうが、こうした「を」を巡る区分は「文法ヲタク」の領分であって、現代語訳の次元ではさほど神経を使わずとも軽く流して「が」で乗り切れる用法ではある。
◆【を】〔格助〕(4)(出発点)その動作が始まる場所を表わす。・・・から。 ・・・より。・・・を。 *接続=体言。
*格助詞「を」が動作の「起点・出発点」を指す語法。「家<を>出る」のようにそのまま「を」で現代語に通じる場合が多い。
*英訳=「from A」
◆【を】〔格助〕(5)(通過点)移動する過程で通り過ぎる場所を表す。・・・を。 ・・・を通って。・・・を過ぎて。・・・経由で。 *接続=体言。連体形。
*現代日本語にもそのまま残る、格助詞「を」が「通過点」(例:「田子の浦<を>抜けて富士山の見える場所へ」)を表わす用法。
*英訳=「through A」/「by way of A」/「via A」
◆【を】〔格助〕(6)(期間)(時間的継続の意を表わす動詞と共に用いて)その動作が継続する期間を表す。・・・の間。 ・・・を。 *接続=体言。連体形。
*現代日本語にもそのまま通じる「時間幅」の語法で、「・・・の間」と訳せばよい(例:「長き冬<を>いかに過ごさむ」)。
*英訳=「for A」/「during A」/「while ...」
◆【を】〔格助〕(7)(原因・理由)(後続部に形容詞語幹+接尾語「み」の付いた「・・・を~み」の形で)ある物事の特性ゆえに、後続の事態が成立する意を表わす。・・・が~ので。 ・・・が~のあまり。 *接続=体言。連体形。
*「を」単独ではなく、「A(体言)をB(形容詞語幹)+み(理由の接尾語)」の相関表現で用いて、「AがBなものだから」(例:「人を繁み=人出が多いので」)という「因果関係」を表わす定型句を構成する「を」。これを「格助詞」とする学説もあれば、「間投助詞」扱いする場合もあるが、いずれにせよ受験生としては「AをBみ」という(和歌によく出る)古典時代特有の重要修辞法の1構成要素として覚えておけばそれでよい。
*英訳=「with A ...ing」/「because A is ...」/「due to A's ...ing」/etc, etc.
-ゆらゆらと「格」と「間投」助詞どっち?・・・梶を絶えても行く方変はらず-
*この「を」を巡って二つに分かれる古文業界のセンセ方の立場は、こうである:
1)「格助詞」派:
*「瀬を早み岩に堰かるる滝川の分れても末に逢はむとぞ思ふ」(by崇徳院)
・・・この歌の上の句に於ける「瀬を早み」は、「河の浅瀬(の水流)+が+速い」の「主語-述語」関係を示しているので、これは「主格の格助詞」である。
2)「間投助詞」派:
*「空寒み花にまがへて散る雪に」(・・・後手by清少納言)+「少し春ある心地こそすれ」(・・・先手by藤原公任)
・・・この和歌の上の句に於ける「空[を]寒み」のように、本来そこにあるべき「を」が省略されることがあり得る;ということは、この「を」自体は特に意味がない整調語ということである;ということはこの「を」は「空+が+寒い」の「主語-述語」関係を示す「格助詞」ではなく、無意味な添え字としての「間投助詞」である。
*『扶桑語り』筆者の立場は、こうである:
◆論ずるまでもない・・・「主格格助詞」に決まっている。ただ、日本語の場合、「主語-述語」関係を表わすのに必ずしも「格助詞」を添えねばならぬ理由はないわけで、「我<は>思ふ・・・故に我<は>在り」としようが「我思ふ故に我在り」としようが、「Cogit ergo sum.」(Latin)・「Je pense donc je suis.」(French)・「I think, therefore, I am」(English)というRené Descartes(ルネ・デカルト)の発言の訳語としては全く同じことであって、日本語の格助詞など、語順がその代替物となり得る場面や、語調がその省略を求める場面では、いとも簡単に消し飛んでしまう芥子粒、桜の花びらと紛れておしまいの季節外れな春の雪の如き軽いものなのだから、「省略されることがある・・・から、格助詞ではなく間投助詞である」の言い草は「愚かなんども疎かなり(It is foolishly useless to try to express how foolish it is.)」・・・さらにもっと(or最も)愚かなことは、この種のちまちましたミクロの違いに必要以上にこだわること。
*ということで、うだうだとうたてある「を」を巡る自説を訴ふるもうたてなれど、うた・うた尽くしの説なれば、最後の締めくくりもまた歌にて、更に一首、いかが:
「由良の門を渡る舟人梶<緒>/梶<を>絶え行く方も知らぬ恋の道かな」(by曾禰好忠)
現代語訳)由良川が若狭湾に注ぐ海峡で、舟漕ぐ人が舵を失ったら、そこから先はもう、どこへ流れ着くか知れたものではない・・・そんな舵なき舟のさまに似て、この先どうなることか、まるでわからぬ我が恋の行方であることよ。
*この歌でも、「<梶緒>絶え」なのか「梶<を>絶え」なのかがその筋ではよく問題になる。が、ここでは「間投助詞」vs.「格助詞」の「文法」問題ではない。後続部が「形容詞語幹」ではなく動詞の「絶え」となっているので、先ほど問題になった「名詞+を+形容詞語幹+み」の語形からは外れるので、文法学者の間では「間投助詞」であって「格助詞」ではない、ということにすんなり落ちついてしまう場面なのである。もっとも、この歌の作者曽根好忠という人は平安中期に於ける前衛詩人なので、敢えて「名詞+を+動詞連用形」の形で「名詞+を+形容詞語幹+み」の代替表現として通用させようとしたのかもしれないが、残念ながらその後の古文世界を見渡してもそういう展開にはなっていない。ということで、後続部が他動詞形の「絶ち」なら「を」はその目的語「梶」を導く「格助詞」でいいものの、ここでは自動詞「絶ゆ」連用形であるから、この時点で「格助詞=梶<を>絶つ」の解釈は消え、「名詞+を+自動詞」の修辞法も(曽根好忠がその普及を目指したか否かは別問題として)古文世界の慣用としては見られぬ語形なので、この「を」を「助詞」として見るならそれは「(無意味な整調語としての)間投助詞」一本の解釈となる。が、先ほど言った通り、歌学上問題になるのはそのような文法的解釈ではなく、この<を>を巡って「縁語」が成立するか否か、という一点なのである。
*即ち、「梶緒+絶え」だと、単純な「小舟の舵をつなぐロープ+切れる」という「主語+述語関係」の中で、「梶緒」が「絶え」るだけ・・・「ロープ+切れる」は当たり前の取り合わせであって、「期限+切れる」・「電球+切れる」・「電話+切れる」・「堪忍袋の緒+切れる」みたいなもの・・・こんな自然に結び付く関係を「縁語」とは呼ばない:ただの「collocation(コロケーション=よくある語句どうしの結合関係=連語)」と呼ばれるだけである。
*一方、「梶+を+絶え」だと、「を」は(それが「格助詞」だろうと「間投助詞」だろうといずれにせよ名詞「緒=ロープ」ではない以上)「を」と「絶え」の間には(文法構造上はともかくも)意味上の本源的つながりがあるわけではない。ところが、この「を」を「緒」へと同音異義語化して「緒+絶え」としたならば、そこに切っても切れない「意味つながり」が見えてくる。つまり、「を+絶え」ではつながらない語句どうしが、「緒+絶え」に置き換えた瞬間に間接的連想が浮かび上がる、という「隠れた縁戚関係」が「を」と「絶え」(「緒」と「絶え」ではない!)の間には存在する・・・ので、これら2語の間には「縁語」関係が成立する、というわけである。
*「縁語」とは、当該文脈では直接には結び付かない語句どうしが、別の使われ方をした場合には結び付き得る関係にのみ成立するものである。さっきの例で言えば、「ロープ(緒)が切れる」では「切れる」と「ロープ」の取り合わせが当たり前すぎて「縁語」にはならないが、もし「きれる」が「切れる」でなく「着れる」として、例えば「女子高時代の制服、まだまだ<着れる>」みたいな姿で出てくれば、その「着れる」が「切れる」に化けて「ロープ」へとするする結び付く意外性ゆえに「縁語」となるわけである。
*「縁語」の「縁」とは「縁者」の「縁」であり、「辺縁」の「縁」であるから、いつも一緒にいる「肉親」だの「夫婦」だのみたいな切っても切れない常習的な結び付きの「collocation」とは違うけど、どこか意外な一線で普段はつながらない糸が意図せぬ形でつながるからこそ、ひょんなことで結び付く面白味が出るわけであって、その種の「俳諧(はいかい=こっけいな味)」を根底に含み得るからこそ和歌の修辞法たり得るのである。そもそも、単なる「collocation:連語」ごときを歌詠みがどうして問題にしようか?それを問題にせねばならぬのは、英語オンチの日本人相手に「He (...) a company.:彼は会社を経営しています・・・さて、この(...)に入るのは何でしょう?」とやるような場面のみであり、そこに「manipulates」だの「ruins」だのを入れられては困るから、「runs」をきちんと入れましょう、というような幼稚園~小学生を相手にコトバのイロハを叩き込むおベンキョ場面でこそ問題になるのが「collocation:連語的つながり」なのである。こんな子供相手の代物を、和歌の修辞法という(比較的高級な)言語遊戯と一緒くたにされては困るのだ(・・・が、そうした困ったことをセッセと率先してやるセンセや教科書が大量にうごめいてるのが日本の古文業界なのだから、また一層困るわけである)。
*もはや「歌を詠む」どころか「歌を読む」ことすらもしない(&大方、出来ない)日本人の中で、この「縁語」に関する真実を弁えている者など数千(ひょっとすれば、数万)に一人ぐらいであろう・・・歌も能くよまぬセンセがたのおバカ&無責任なお説をそのまま載せた本が、何の断罪も受けずに平然と罷り通っていて、それをまた無学な日本人たちがそのまま鵜呑みにし、後は例の「この自分がそう覚えているのだから、そうなのっ!」・「ものの本に確かにそう書いてあるから、そうなのっ!」という主体性も論理性も皆無の恣意的強弁で強引に押し通す、という和風狂態が、21世紀初頭の日本の「縁語」認識事情、というわけである・・・ま、どうせ誰一人ロクに歌読む(not to mention, 詠む)ことなき21世紀倭人には、「縁語」だろうが「collocation」だろうがどっちでもえぇんやろうけど、ほんまの事きちんと知っとる人間としては、知りもせぬクセにエラそうにしとる連中のアホ面に一発ビンタくれてやる資格ぐらいはあるわけやし、本当の事を教えるための『扶桑語り』としてもなおざりにはできぬ事柄だけに、以下、ただの「collocation」と真の「縁語」の違いを、どんなアホ日本人にもわかる形で書いておく。
*昨今の日本人には「歌」と言えば「和歌・短歌」ならぬ「歌謡曲」だろうから、お題も井上陽水(いのうえようすい)の「東へ西へ」より(1972年・・・昨今、と言うにはいささかいにしへの昭和47年の歌なりけり):
<「東へ西へ」の歌詞に含まれる「縁語」>
◆「<電車>は今日もすし詰め、延びる線路が<拍車>を<掛ける>」
*<電車>が<駆ける>なら「collocation」だが、ここでの<かける>は<拍車を掛ける>の「collocation」の一部としての<掛ける>が、この文脈では直接には無関係な<電車>と結び付いた場合に<駆ける>に化けて「意外な形でつながる」からこそ、「かける」は「(拍車を)掛ける」を介して「電車-駆ける」となって結び付く「縁語」と言えるのだ。
*歌学の小難しい理屈などまっぴら、という人々にもわかりやすいよう感覚的に言い直すならば、「意外なもの以外は縁語に非ず・・・単なる連語に過ぎぬ」ということである。
*同様、以下のような文言が「延びる線路が拍車を掛ける」に取って代わったとしても、「駆ける」とは異なる「かける」であるため、間接的な形で「電車」につながる意外性ある「縁語」となる:
♪ 電車は今日も鮨詰め・・・
●「淡い出会いに期待をかける」
●「お酒混じりのため息かける」
●「床に倒れて前歯が欠ける」
●「笑うお客は品位に欠ける」
●「夢の馬券に命を賭ける」
●「"駅"は"液"とも"易"とも書ける」
*これに対し、「かける」は色々に書けるとは言え、「駆ける・駈ける」と書いてしまった時点でそれは「(電車との)縁語」ではなくなる。直接に結び付いてしまってそこに何の意外性も籠もらぬ以上、単なる「collocation=よくある語句の取り合わせ」でしかないのである:
▲「駅のホームを子供が駆ける」
▲「遅刻すれすれ学生駈ける」
▲「人も車も必死に駆ける」
-「縁語」と「懸詞・掛詞(かけことば)」-
*このように、「同音異義語」を基盤として成立する和歌修辞法、という点で、「縁語」は「懸詞」にも通じるものがあるが、両者には次の相違がある:
1)「懸詞」=同音異義語で言い換えられた語句が、当該文脈で意味を持って機能している。
2)「縁語」=同音異義語で言い換えられた語句が、当該文脈では何の意味も持たず、単に当該文脈で用いられている他の何らかの語句との間接的連想を生じるのみである。
*斯くて、またまた余計な歌を一首引いて説明する羽目に陥ってしまった:
「かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを」(藤原実方)
*この歌から「懸詞」や「縁語」を指摘すると、次のようになる:
●「かくとだにえやは<いぶき>」=「斯くとだに、えやは<言ふべき>」
現代語訳)「かくかくしかじか」(実は私、あなたが好きなんです)などと、どうして言うことが出来ようか、いや、できはしない。
・・・この部分、敢えて「いぶき」になっているが、その言いたいことは「言ふべき」であるから、ヘンテコなねじ曲げ方である。これは、次の部分との「懸詞」にするための作為である:
●「いぶきのさしもぐさ」=「伊吹(山)の指焼草」(伊吹山名産品の、お灸に据えるための薬草)
・・・この部分は、上で指摘した「懸詞」の内容「言ふべき」を無理矢理「いぶき」の形へとねじ曲げてまで「伊吹山に生えるお灸用の草」を引っ張り出そうとしているが、何も作者が薬草学者だとかお灸マニアだとかいうわけではない;後続部の「さしも」へと同音異義語の形で結びつけるために用意された「序詞(じょことば)」としての仕掛けである:
●「<さしも>しらじな」=「<指焼/然しも>知らじな」
・・・見ての通り、「さしも」は「さしも(ぐさ)=指焼(草)」と「さしも=然しも」の「懸詞」である。おいおい、この「さしも(然しも)知らじな」=「そうなのだ、とも知るまいなぁ」を導きたいばかりに上の句の「いぶきやまのさしもぐさ」を置いただけかよ、とあきれてしまう人もいるだろう;が、実際、その通り、ただそれだけのための上の句なのだ:こうした「後続部の呼び水としてのみ働く(ほとんど無意味な)語句」を「序詞(じょことば)」と呼ぶ・・・「然しも」を引っ張り出すためだけに上の句を目一杯使って「伊吹山」だの「指焼草」をまぶしておいただけのこの緩ーい展開には、現代読者はひたすら滅入るか、「このクソオヤジギャグっ!」と文句を言いたくなるところでもあろう・・・が、この歌には更に次のような仕掛けも隠されているのである:
●「<もゆる>おも<ひ>」=「<燃ゆる>思<ひ>・・・<火>」
・・・「ひっ、なんじゃこりゃ!?」と思ヒます?・・・ではあろうが、こんな「ひ=火」でも歌学上は立派な「縁語」として「燃ゆる」に結び付くのである。一方、先の「さしも草」と「燃ゆる」の関係は「直接的連結=collocation」でしかなく、「縁語」にはならない点には再度注意を促しておく;が、「さしもぐさ(指焼草)」が「さしも(然しも)」を導出するだけの「序詞」で終わるのではなく、この「燃ゆる思ひ」への連想をも生じるものである点が凝った仕掛け、とも言えるわけである。そして無論、「ひ=火」へと転じてしまえば、「燃ゆる」では着火しなかったこの「火」が「指焼草」へとバックファイアして「縁語」として燃え上がる絡繰りでもある・・・やれやれ、肩凝っちゃってお灸が必要?
*結局、この歌の言いたいことをまとめれば、「あなたが好きです、と口に出してはとても言えない私なので、胸の内では伊吹山の焼指草みたいに燃え上がるあなたへの思いに恋い焦がれているのに、あなたはそうだとは御存知ないでしょうね」ということになる・・・のに、この歌 ― 内容からもわかるであろうが ― 「好きな女性に'好きです'と言うための恋の歌」なのだ・・・どこまでも、何重もの意味で、ややこしい歌である。
*このように、「縁語」とは、間接的連想に依拠するものであるだけに、ヘタな使い方をすれば何とも持って回ったややこしさが鼻につく代物となる。綺麗に決まればよいが、作為ばかりが無様な自己主張をせんとしゃしゃり出ている悪例も実に多い。歌を「詠む」場合にはその点に留意せねば万事台無しになるし、歌を「読む」場合には「懸詞」ほどには読み解きの必然性を持たぬもの・・・学習者として必要以上に拘泥する必要はないもの、それが「縁語」というものである。
◆【を】〔格助〕(8)(同族目的語)(「寝を寝」・「音を泣く」など)意味の似た名詞と動詞の間に置いて慣用句を形成する。ひたすら・・・する。 ・・・に・・・する。とにかく・・・しまくる。 *接続=体言。連体形。
*用法としては「目的格」の格助詞「を」であるが、その「目的語」と「動詞」とが、同種の意味を持つ「名詞/動詞」同士、という点が変わり種の「同族目的語」を導く「を」である。
*実践的には「寝を寝(い<を>ぬ)」や「音<を>泣く(ね<を>なく)」等の定型句の一部として把握しておけばよい。現代日本語には残ってはいないが、英語には似たような「同族目的語構文」があるので、それと絡めて理解するのも一法であろう:
*英語の「同族目的語」の例=「sleep a dreamless sleep」(夢なき眠りに就く)/「dream a strange dream」(変な夢を見る)/etc, etc.
◆【を】〔終助〕(1)(詠嘆・感動)詠嘆・感動を込めた強調の意を表す。・・・ものを。 ・・・なのに。・・・だというのになあ。 *接続=体言。連体形。
*文末に置いて感動・強調の効果を添える「詠嘆」の用法の終助詞「を」。現代日本語にも「古文だの古歌だのと、どうでもいいこと<を>」のような形で引き継がれている。
*英訳=no equivalent in English
◆【を】〔接助〕(1)(契機)前述の事態が成立した後で、偶発的に、後続の事態が発生する意を表わす。・・・たところ。 ・・・と。・・・が。 *接続=連体形。
*直前の事態(A)と、直後の事態(B)とが、直接の因果関係を持たずに、「Aしたところ、Bだった」のような形でたまたま偶発的に隣り合わせている状況を述べる接続助詞「を」の「契機」の用法。同様の語法は、接続助詞「に」にもある。
*現代日本語でも、「原宿でー、友達と買い物してたの<をー>、ヘンなスカウトの人から声かけられてー、近くのビルの部屋でとりあえずお話だけでも聞いてよ、とか言われてー、超アセった」みたいなー、「を」が目的語を表わす格助詞とは言えないしー、無意味な間投助詞っぽいけどー、なにげに前後をつなぐ接続助詞ぃ?って感じかも、的な言い方はあるけどー、あんまり賢い人の言い回し、って感じじゃーないかもー(・・・古語の「を」にはこういうバカっちい感じはない)。
*英訳=「... and ...」
◆【を】〔接助〕(2)(原因・理由)前述の事態が原因・理由となって、後続の事態が成立する意を表わす。・・・ので。 ・・・から。・・・ゆえに。・・・のおかげで。・・・のせいで。 *接続=連体形。
*直前に述べられた内容が「原因・理由」となって、後続部の事態が成立している意を表わす接続助詞「を」の用法。同様の「因果関係」の語法は接続助詞「に」にもある(例:「からねこのいたうらうたげなる<を>/<に>、われしらずねうねうといだしにけり」=中国産猫がイタいくらいカワイかったので、思わず「ねうねう(meow, meow:にゃおにゃお)」と声に出して言っちゃった)が、いずれも現代日本語には引き継がれてはいない。
*英訳=「... and so ...」/「.., therefore, ...」/「.., so that ...」/etc, etc.
◆【を】〔接助〕(3)(逆接の確定条件)前述の事態があるにもかかわらず、それに反する後続の事態が成立する意を表わす。・・・のに。 ・・・というのに。・・・けれども。・・・にもかかわらず。 *接続=連体形。
*接続助詞「を」が、流れが逆転する関係で前後の記述を結ぶ「逆接の確定条件」。現代日本語には引き継がれていないもので、「・・・なものを」と言葉を補って通じるようならこの語法である(例:「ひなたにていぬる<を>かかえあぐれば、ねこ、いとむつかし・・・日向ぼっこして寝てたのに、抱きかかえられたので、猫はとっても機嫌が悪い」)。
*英訳=「.., and yet, ...」/「... still, ...」/etc, etc.
◆【を】〔間投助〕(1)(強調)上の語句を強める。(特に訳さない) *接続=体言。連体形。命令形。助詞。
*(特に、和歌の中などで)語調を整えるためだけに置かれた無意味な「を」で、古典文法上は「間投助詞」となる。取り立てて訳出するまでもないし、訳しようもない。逆に言えば、取り去っても意味が変わらなければ、間投助詞「を」である、ということになる。現代英語で言えば「ァー」・「イェー」・「ゥー」・「オー」あたり、現代日本語で言えば「ぁ」・「ぅん」・「ぇー」あたりであろうか。
*英訳=「... ah ...」/「... yeh ...」/「... ou ...」/「... o ...」/etc, etc.
■__ども【ども】『接続:{已然形}』〔接助〕 (1)〈(逆接の確定条件)前述の条件が成立するにもかかわらず、それに反する後述の事態が成立する意を表わす。〉確かに・・・ではあるが。・・・にもかかわらず。・・・だが。・・・のに。 (2)〈(逆接の恒常条件)前述の条件が成立する場合、必ずそれに反する後述の事態が成立する意を表わす。〉・・・な時でも常に。・・・でも必ず。・・・てもいつも。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【ども】〔接助〕(1)(逆接の確定条件)前述の条件が成立するにもかかわらず、それに反する後述の事態が成立する意を表わす。確かに・・・ではあるが。 ・・・にもかかわらず。・・・だが。・・・のに。 *接続=已然形。
*現代日本にも文語調でそのまま残る「・・・ではあるけれども」の逆接の接続助詞(例:「音はすれ<ども>姿は見えず」)。
*英訳=「... but ~」/「... and yet ~」/「... still ~」/「though ~, ...」/「although ~, ...」/etc, etc.
*語源的には、同じ働きをする接続助詞「ど」に係助詞「も」が付いたものとも、逆にこの「ども」から「ど」が生じたとも言われる。
*中古の和文(主に女性の手になる文章)では、「ども」よりも響きの柔らかい「ど」が好まれた。「ども」を好んだのは和漢混淆文(主に男性の手になる文物)で、鎌倉期後半以降は「ど」より「ども」が優勢となるが、室町末期には「けれども」の登場によって衰退、現代では文語調の中に細々と残る。
◆【ども】〔接助〕(2)(逆接の恒常条件)前述の条件が成立する場合、必ずそれに反する後述の事態が成立する意を表わす。・・・な時でも常に。 ・・・でも必ず。・・・てもいつも。 *接続=已然形。
*前/後に相反する内容の記述をつないで、「・・・ではあっても、しかしながら~だ」とする「逆接」の接続助詞「ど」・「ども」が、一過性の「条件-帰結」に留まらず、「・・・ではあっても、常に決まって~だ」という法則性めいたものを含む場合、古典文法ではこれを「逆接の恒常条件」と呼ぶ。現代日本語にもそのまま残っている。
*英訳=「[even] if ...」/「[even] when ...」/「[even] though ...」/etc, etc.
-「恒常条件」は文法的仕分けに非ず-
*古典文法には「未然形+ど・ども」の形は存在しない。「ど・ども」は常に「已然形」に接続して「逆接」を表わすものであるから、「未然形接続」による「順接の仮定条件(=もし・・・ならば)」は成立せず、常に「逆接の確定条件(=・・・ではあるが)」または「逆接の仮定条件(=たとえ・・・だとしても)」となる。そんな中で、接続の違いを持たぬ(=常に「已然形」接続の「ど・ども」による)「確定条件」と「恒常条件」という(一見別物に思われる)見分けをどう付けるか、と、受験生は気になるところであろうが・・・答えは「何もない」のである。
*「逆接の恒常条件」などと特別扱いしてはいても、本源的には「逆接の仮定条件」と同じことで、そこに「常にそうなる」なる「法則性」のある/なしは、言語学よりむしろ統計的感覚(自然科学、とは到底呼べない)の範疇に属する話であるから、これまた日本の古文業界特有の恣意的仕分けに過ぎない・・・より正確に分析すれば、次のような「ど・ども」とは無関係な「ば」の区分からの無分別な「横滑り」仕分けに過ぎぬのだ:
●未然形+「ば」=「順接」の「仮定条件」=「もしも・・・ならば、~だ」
例)雨降<らば>、我家に居らむ
・・・これは英語に於ける「if A, then B」(例:If it rains tomorrow, I'll stay home.もし明日雨降りなら、私は家に居よう)である。
●已然形+「ば」=「順接」の「確定条件」=「・・・であるから、~だ」
例)雨降<れば>、我家に居り。
・・・これは英語に於ける「because A, B」(例:Because it is rainy, I'm staying home.雨が降っているから、私は家に居る)である。
●已然形+「ば」=「順接」の「恒常条件」=「・・・であると、いつも~だ」
例)雨降<れば>、我常に家に居り。
・・・これは英語に於ける「whenever A, B」(例:Whenever it rains, I stay home.雨降りの時はいつも、私は家に居る)である。
*こうして並べればわかる通り、「恒常条件」とは、「未然形」ではなく「已然形」で表わされる特殊な「仮定条件」と見ることができる。
*逆に言えば、「未然形+ば」/「已然形+ば」のような接続の相違を伴うからこそ意味を成す「仮定条件」/「恒常条件」であって、「已然形+ど・ども」はあっても「未然形+ど・ども」など成立しない「ど・ども」に関しては、「恒常条件」と「仮定条件」の区分も不要(というか、不可能・・・いいかげんな統計や個人的思い込みによる区分にしかならない)ということになり、単に「逆接の仮定条件」と呼べばそれだけで済む話なのである。
・・・というわけで、またしても「理(ことわり)=事を割り切るための論理的基盤」があやふやな古文業界の体質が垣間見える話ではあるが、まぁ、受験勉強のついでに、そういう(いかにも日本的な)呼び名もあったものだ、として脳裏に刻んでおくのも悪くはあるまい。
-「恒常条件」と「習性のwill」-
*ちなみに、この種の主観的思い込みによる「A、と来ても、それでもやはりBなんだよねぇ・・・そういうもんよ、だいたいの話が、うん、うん!」という ― 思い込みが事実に優先する老人タイプ(含 受動的勉強・北京ダック型情報過飽和の若年老人連中)の ― 決め付け言辞を、論理にうるさい英語ではどう処理するか・・・上述の「恒常条件」の英訳例で示した「...ever(=whenever, wherever, whatever, whichever, whoever, whomever, whosever, however, no matter -)」を用いるのが一般的であるが、その他、次のような「習性のwill」にもまた「恒常条件的感覚」を表わす働きがあるので、覚えておくとよい:
英語風「恒常条件」的な例)Let the world say what it may, a mother <will> never abandon her child.
古文の「恒常条件」の例)よのひとのいかにいへ<ど>、はははわがこをみすつるものかは。
現代語訳)たとえ世間が何と言おうとも、我が子を見捨てる母親は<まず>いない<ものだ>。
*英語とまともに向き合うこともせぬ日本人は、「will...」を見れば何でもかんでも「...だろう」で済ましているものだが、この種の「私の主観的見立て、ではあるけど、世間ってとかく、そういうものなんとちゃいますのん?」的な、厳密なる統計学的証明には拠らずとも心理的には堂々たる確信のある「決め付け言辞」に、ある程度の「お墨付き」を与える言い回しとしての「習性のwill」は、現実の英語の中では実に多用されるものである。これ一つ覚えておくだけでも、「何となく、・・・だろう、って訳しちゃマズいだろう的なwill」の意味を真剣に知ろうと努めるだけでも、「英語ド素人」状態からの脱却は確実、というものである(・・・これ、英語教育者としての筆者の主観的見立て)。
■__ば【ば】『接続:係助={格助詞「を」}接助={已然形・未然形}』〔係助〕 (1)〈(強調)(格助詞「を」に付いて)動作の対象を取り立てて強調する。〉・・・は。・・・については。・・・のことを。 〔接助〕 (1)〈(契機)前述の事態に続いて、偶発的に、後述の事態が成立する意を表わす。〉・・・すると。・・・ところ。・・・たら。・・・と。・・・が。・・・ば。 (2)〈(原因・理由)前述の事態が原因・理由となって、後述の事態が成立する意を表わす。〉・・・ので。・・・だから。・・・ゆえに。 (3)〈(順接の仮定条件)前述の条件が成立した場合、後述の事態が成立するだろうとの想定を表わす。〉もし・・・なら。・・・たら。仮に・・・とすれば。 (4)〈(順接の恒常条件)前述の条件が成立する場合、必ず後述の事態が成立する意を表わす。〉・・・時はいつも。・・・ならば必ず。・・・には常に。 (5)〈(中世以降の用法)(対照的並列)(多く「・・・は・・・ば、・・・は」の形で)二つの事柄を対照させる形で述べる。〉一方・・・、他方~。・・・と思えば、一方~。・・・であり、また~である。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【ば】〔接助〕(1)(契機)前述の事態に続いて、偶発的に、後述の事態が成立する意を表わす。・・・すると。 ・・・ところ。・・・たら。・・・と。・・・が。・・・ば。 *接続=已然形。
*接続助詞「ば」が前後の記述(A・B)を単につなぐだけの「A+ば+B」だが、「Aしたところ、Bだった」のような形に落ち着くので、「A」が「B」の呼び水・きっかけになる用法ということで「契機」などと呼ばれるもの。現代日本語にも引き継がれており、「電車に乗れ<ば>痴漢に遭うし、電車降りれ<ば>雨降るし、映画館に行ってみれ<ば>満席で入れないし、もう最悪」みたいな感じで、「因果関係はないけど、何となくAに合わせてBが出てきた感じ」を表わす。
*英訳=「... and ...」
-「契機」の「ば」は已然形接続-
*「A」&「B」が偶発的事象として連結しているだけの「契機」の用法は、接続する先は用言の「已然形」であって「未然形」ではない点に注意したい:後者なら「仮定条件=もし・・・ならば」の意味となる。
已然形+「ば」の「契機」例)「柿食<へば>鐘が鳴るなり法隆寺」(正岡子規1895,10/26)
英訳)No sooner the persimmon cracked in my mouth than the bell tolled at Horyuji Temple.
現代語訳)柿を「ガブリ」とやった途端、示し合わせたように「ボーン」と聞こえる法隆寺の鐘の音。
・・・子規が柿を「食った」ところ、偶然そのタイミングで「鐘が鳴った」だけなので、「契機」の用法(食<へば>)である。彼が柿を食った「なら」鐘が鳴る/食わない「なら」鐘は鳴らない(食<はば>)というわけではない。
未然形+「ば」の「仮定条件」例)「柿食<はば>蟹は避くべし腹下る」(・・・民間伝承 arranged by 之人冗悟:Noto Jaugo COPYRIGHT 2010)
英訳)Should you eat persimmons, avoid crabs or be sick at the stomach..
現代語訳)もしあなたが「柿」を食べるというのなら、「蟹」はおよしなさい;さもないと、胃腸に不調を来たすから。
・・・古来伝わる「食べ合わせの悪い組み合わせ」が「カキ+カニ」。単なる語呂合わせっぽくも響くが、消化の悪い果物の「柿」を食うというのなら、それだけでも胃袋には重いのだから、それと同時に腐りやすい生鮮食料品の「蟹」を食って胃液の過重労働を強制するのは愚策、ということで、医学的に無根拠な取り合わせではないのかもしれない。
-現代日本語では「已然形接続」も「未然形接続」もなし-
*もっとも、中世以降は、「順接仮定条件」(もし・・・ならば)は必ずしも「未然形+ば」のみの領分ではなくなった;「已然形+ば」でも「もし・・・ならば」の意味となる場合が多くなり、現代では「もし・・・ならば」は(「(○)ならば (×)なれば」のような定型句以外は全て)「已然形+ば」の受け持ちであり、その「已然形」の呼び名も「仮定形」へと変わっている。従って「契機の'ば'=已然形接続」/「仮定の'ば'=未然形接続」という区分は、中古までは成立するが、中世以降は「已然形+ば」の形が「契機」にも「仮定」にもなり得るので、脈絡を検証せねばならないことになる(これは、現代日本語にまで引き継がれている状況である)。
◆【ば】〔接助〕(2)(原因・理由)前述の事態が原因・理由となって、後述の事態が成立する意を表わす。・・・ので。 ・・・だから。・・・ゆえに。 *接続=已然形。
*動詞の已然形の後に続けて「・・・なのだから」という「順接の確定条件」を表わす「ば」の語法。
*英訳=「for ...」/「as ...」/「because ...」/「since ...」/etc, etc.
-「仮定条件」と「確定条件」-
*「ば」は現代日本語にも残る助詞であるが、現代語の「ば」は「もし・・・ならば」という「順接の仮定条件」(or契機)でのみ用いられている(=「確定条件・・・なので」にはもはや用いない)。その「・・・ならば」の「なら」の語形に注目すると、その活用形は古典文法でも現代日本語文法でもともに「未然形」(直後に否定の「ず」を付けて通じる形、と思えばよい)である;では、次の文章の「ば」の直前にある語形は、何形であろうか?
例文)「私に金があれ<ば>、こんな仕事はしていないだろうに」。
*直後に「ず」を付けて通じれば「未然形」という先のルールを適用すればわかる通り、この「あれ+ば」は「未然形+ば」ではない:「あれ+ず」ではダメで、「あら+ず」で初めて通じるのであるから、「あら=未然形」だが、「あれ」は未然形ではない・・・では、何形?・・・というところで、古典時代/現代の相違に関する実に面白い事実に気付かされることになる。
*現代文法では上述の「あれ」を「仮定形」と呼んでいる:なるほど「もし・・・が<あれ>ば」として仮定の意味を表わすのだから、この呼び名は自然なものに思われる・・・ところが、同じこの「あれ」の形が、古典文法では「已然形」と呼ばれ、「仮定形」ではない:「仮定形」なる活用形そのものが古典文法には存在しないのである。
*それどころか、この「已然形」の「あれ」と「ば」をつなげても、古語の場合、現代語のように「もしあれば」の意味にはならずに「現にあるのだから」の意味になってしまうのだ!つまり「仮定」ではなく「確定」になってしまうのである。もし「仮定=仮に私に金があれば」の意味を表わしたければ、古文の中では「未然形+ば=あらば」でなければいけないのだ。
*古語のルールを整理しよう:
1)「未然形+ば」=「あら+ば」ならば「もしあれば」の意味を表わす
・・・「未然形」とは「未だ然らず:いまだ、しからず・・・まだ、そのような状態にはなっていない」の意味の活用形である:がゆえに「まだそうなってはいないが、仮にそうなると仮定した場合には・・・だろう」という表現には「未然形」こそがふさわしいのである。この種の構文を「(順接の)仮定条件」と呼ぶ。
2)「已然形+ば」=「あれ+ば」ならば「あるのだから」の意味を表わす。
・・・「已然形」とは「已に然り:すでに、しかり・・・もう既にそのような状態になっている」の意味の活用形である:がゆえに「すでにもうそうなっているのだから、・・・である」という表現には「已然形」を用いるわけである。この種の構文を「(順接の)確定条件」と呼ぶ。
-現代日本語の「ば」は「仮定条件」のみを表わす-
*現代日本語の「ば」は、「確定条件」(・・・なのだから)の意味をもはや表わさない;「仮定条件」(もし・・・ならば)のみを表わす語句となっている。「確定条件:・・・なのだから、~である」自体は現代にももちろん存在するが、「ば」による確定条件は古い時代の文語に特有のものであって、現代では既に死滅しているのである。例えば(←これもまた「仮定条件:例として仮に引用するならば」の表現)、いかにも古式ゆかしき「然らば(しからば・・・古典時代には、さらば、の読みもある)」を見れば、その意味は「未然形+ば:もしそうだとすれば」(仮定条件)である;「実際、そうなのだから」(確定条件)を表わすものではない:「確定条件」にしたくば、「已然形」に続けて「しかれば(然れば・・・古語では、されば、の読みもある)」とすることになる・・・が、「未然形:しからば」も「已然形:しかれば」も時代劇のサムライ言葉そのものの堅苦しい言い回しであって現代ではその使い分けはおろか使い道そのものがない感じであるし、そもそも現代日本語文法には「已然形」という活用形自体がもはや存在しないのだ・・・と言っても「已然形」という活用形そのものが現代日本語から消え去ったわけではない ― 相変わらず存在はするが、それは「仮定形」という呼び名に化けて、もはや「已然形」とは呼ばれなくなってしまったのである:「已然形=すでにもうそうなっている」という呼び名では、「もしかりにそうなったと仮定したら」の「仮定条件」に用いるのに不自然であろう?・・・ということもあって、現代日本語文法ではこの活用形を「仮定条件に用いるのに相応しい呼び方」ということで「仮定形」と改称してしまったのである。
-「已然形+ば」による「順接の仮定条件」の登場-
*さて、ここで改めて考えてみるに、「已然形」という呼び名が「仮定形」に化けたからには、「仮定の意味を表わす」以外の機能を「已然形」がもはや果たさなくなった、ということであろう。そこで、そもそも古典時代の「已然形」がどのような機能を果たしていたか見てみると、次の3つが浮上する:
1)「順接の確定条件(・・・なのだから、~だ)」を表わす「已然形+ば」の語法。
2)「逆接の確定条件(・・・ではあるが、それでもなおかつ~だ)」を表わす「已然形+ども/ど」の語法。
3)「係り結び」を形成する「こそ+已然形」の語法。
・・・が、そのどこにも「仮定」の影も形もない。「確定」条件にせよ「係り結び」にせよ、「・・・なのである」という「確定事項」を前提として成立する語法ばかりである。これは至極当然のことだ:「已に、然り=すでにそのようになっている」こそが「已然形」本来の姿なのであって、「仮定条件」=「未だそうなってはいないが、もし仮にそうなるとすれば」の意味を表わすには当然「未然形=未だ、然らず」に続けなければならない、というのが(古典時代の)論理的必然の帰結なのである。
*ところが、鎌倉時代頃から、「もし仮に・・・だとすれば」の「(順接の)仮定条件」の語法として、古来用いられてきた「未然形+ば」と同時に、「已然形+ば」が用いられるようになってきた。已に上で見た通り、これは誤用なのであるが、時代を下るにつれてこの論理的におかしな「已然形+ば」による仮定条件が勢いを増して行き、とうとう現代日本語では「もし・・・ならば」の仮定条件には「已然形+ば」(現代では「仮定形+ば」と呼ばれる形)のみを用い、「未然形+ば」は用いない、というところまで「誤用法が正用法を駆逐」してしまったのである。「未然形+ば」の仮定条件が用いられる例は、「・・・ならば」のような定型句か、さもなくば「急<が>ば回れ」のような文語的表現のみに限定され、これも「急<げ>ば、結局、迂回路を辿ることになる」のような「已然形+ば・・・現代文法の呼び方では、仮定形+ば」に置換可能である。
-「なくは」・「ずは」の変則性-
*ちなみに、上の文にもあった文語的表現「なく+ば」の「仮定条件」では、「なく」は連用形(読点の「、」を打って休止する=「中止形」を取るのにふさわしい語形)であって「未然形」ではない(・・・ように見える;真実は、後述する)ので、「仮定条件=未然形+ば」という古典文法のルールに反するように見える・・・この点に関しては、少しばかり補足が必要であろう。
*この「なくば」の表現の「ば」は、本来清音の「は」であって濁音の「ば」ではない。この「は」は、形容詞「なく」/打消助動詞「ず」の後に続けて「なく+は」/「ず+は」の形で「(順接の)仮定条件」を表わしたものであり、時代を下るにつれて(鎌倉時代に入る頃から)「なくんば」/「ずんば」の音便形となり、それが「なくば」/「ずば」の形へと詰まった結果、元来「は」と清音であったものが濁音の「ば」に化け、接続助詞の「ば」と同形・同機能となったものである。
*では、「なく+ば」/「ず+ば」の元となった「なく+は」/「ず+は」に於ける「は」の品詞は何であろうか?・・・多くの古文業界人は「係助詞」と答え、この「は」を「接続助詞」とは呼ばない・・・何故か?・・・もしこの「は」を「接続助詞」(つまり、「ば」と同じ機能の語)と呼んだのでは、「連用形(なく/ず)+は」が「順接の仮定条件(もし・・・ないならば)」を表わすことになってしまい、「順接の仮定条件は、未然形に接続する」という古典文法の原則に反することになってしまうからである。そうした例外的事例を嫌って、彼らはこの「は」を「接続助詞」と呼ばずに「係助詞」と呼ぶことにした:係助詞の「は」ならば「連用形接続」が自然に見えるから、である。
*が、これはまさに便法(=とりあえずそうしておけば便利で、当座のごまかしは効くから、というだけで生まれた方式)であって、この「は」が果たす機能は接続助詞「ば」のそれと同じ「順接の仮定条件」であることに間違いないのであるから、その「ば」や「は」に接続する「ず」は「未然形」であって「連用形」ではなく、「なく」もまた「連用形」ではなくて「未然形」と認定するのが文法理論的に正しいのである・・・が、古文業界の便法理論的にはこれらの「ず」/「なく」は「連用形」のままである:これらの語を「未然形」と認める唯一の根拠が「ず+は/ば」・「なく+は/ば」による「<未然形+は/ば>の順接仮定条件」の語法のみであり、それ以外にこれら「ず」/「なく」の「未然形」が果たすべき役割は存在しないから、「そんな程度のことならば、いっそ連用形+係助詞扱いしてお茶を濁しておいた方がいい」というのが(古今変わらぬ)「日本人の間に合わせ的法意識」なのである。
*そういうタイプの日本人にかかると、「・・・なくば」/「・・・ずば」という「"連用形"+ば」の「順接仮定条件の変則性」は、次のようなソフィスト(sophist=詭弁家)論法でまことしやかに片付けられてしまうのだ:
・・・曰く:「なく+ば」/「ず+ば」の「ば」は元来は清音の「は」であり、「なくは/ずは」の語形が「なくんば/ずんば」の形を経て「なくば/ずば」に到ったものであり、本源的にこの「ば」は、接続助詞の「ば」ではなく係助詞の「は」である。従って、「なく+ば」/「ず+ば」の形を見ると、一見<「ば」が「仮定条件」を表わすならば「未然形」に付くはずであって、「連用形」に付くのはおかしい>ように見えるけれども、実際には<係助詞の「は」が「連用形」に付いている>例であるから、ちっともおかしくはない・・・何ともおかしな論法である:「なく」も「ず」も「"連用形"ではなく"未然形"である」と潔く認めてしまえば論理的に全く何の問題もないものを、「ものの本の活用表には、<ず>も<なく>も"連用形"と書いてある」から「"連用形"として何とか筋の通る説明を考え出してこの場を切り抜けよう」と足掻いた挙げ句のヘンテコ論法・・・憲法第九条(戦争放棄云々のくだり)と「自衛隊という名の軍隊」の整合性問題等々もそうだが、実にクダラぬ屁理屈放り散らしての非論理強弁を強引に押し通す日本的やり方の悪臭には、いい加減うんざりさせられる(うんざりしていないorそのひどさに気付いていないのは、無学・無自覚なる日本人だけ、である)・・・筋を通して物事を考え自らの身を律する術を、この国の連中には、もっと真剣に学んでほしいものである:「文法」の学習が大事な理由も実にそこにあるのだ・・・が、この国の「文部"科学"省」とかいう名の御役所の定めた「学習指導要領」とやらによれば、「英語を学ぶのに、机上の理論のごとく無味乾燥でややこしい"文法"の体系的学習は必要ない・・・"生きた英語"に触れる体験を山ほど積めばそれでいいので、文法学習中心の従来の"死んだ英語学習"は捨て去るべし」なのだそうだ・・・やれやれ・・・その結果として生じた現状の日本人全般の語学的瀕死状態の御粗末さ・・・知らぬは「語学音痴、文法知らずの、便法依存型日本人」のみである・・・やれやれ、もっとやれ、それがいいと心底思ってるようなら、死ぬまでずっとその方式でやれ!(但し、それ以外のやり方で正しく思考・行動する術を身に付けた人間からの同情・共感・慈悲など、一切期待せぬことだ:有害なる無学者どもを甘やかすほど、真の知識人は甘くはない)。
-「順接の確定条件」の代替表現-
*さて、古典文法の話に戻ろうか。現代日本語では「仮定条件」と言えば「已然形+ば」という図式が固定化したため、かつての「已然形」という呼び名を「仮定形」に名称変更するにまで至っていることについては既に述べた・・・が、「已然形+ば」による「順接の仮定条件」の語法が一般化したから、というだけの理由で「已然形→仮定形」の名称変更が行なわれる、というのは不合理な話である。「仮定条件」以外にも、上で見た1)・2)・3)の異なる機能が(・・・途中の話題が長すぎて忘れたかもしれないので、この後再び取り上げる)「已然形の役割」として古典時代には存在したわけであり、それらのいずれも「仮定」とは無関係な機能なのであるから、これらの機能を「已然形」が担い続けている限り、「已然形の呼び名が仮定形へと変わる」現象など起こる道理もない。であるから、「已然形という呼び名」が消えたからには、上の3つの「已然形の機能」もまた消滅した(あるいは他の何かの形へと代替された)と考えるべきであろう。そこで、そうした消滅/代替の過程を、以下、つぶさに追跡調査してみることにしよう。
*まずは、1)「順接の確定条件=・・・なのであるから」を表わす「已然形+ば」の消滅or代替の条件を考えてみよう:
A)他に「順接の確定条件」の意味を表わす表現が存在し、
B)その「順接の確定条件」には「已然形」を用いる必要がなく、
C)そちらの「非已然形」表現が盛んに用いられるようになれば、
・・・その場合、もはや「已然形+ば」による確定条件の存在理由はなくなる、と考えてよいのである:で、そうした「非已然形による順接の確定条件」を古典文法の中から探し出してみると・・・あるわあるわ、次のようなてんやわんやの大賑わいなのである:
*中古に用いられた「已然形接続」以外の「順接の確定条件」:
「(体言/連体形)・・・から」
「(連体形)・・・からに」
「(連体形)・・・からは」
「(連用形)・・・て」
「(連体形)・・・に」
「(連体形)・・・ほどに」
「(連体形)・・・ものから」
「(連体形)・・・ものゆゑ(に)」
「(連体形)・・・ものを」
*時代背景的に制約のある「順接の確定条件」:
「(終止形)・・・がに」(上代)
「(連体形)・・・がね」(上代)
「(体言/連体形)・・・のあひだ」(中世以降)
「(連体形)・・・さかひ」(近世)
「(体言)・・・を(形容詞語幹)~み」(上代/歌語)
*これら「非已然形による順接確定条件表現」の大集団に対し、「已然形」接続による「順接の確定条件」は「(已然形)・・・ば」/「(已然形)・・・ばこそ」のたった2つ(数え方によっては1つ)のみ・・・これでは、消え入るもまたむべなるかな、の感が強い。
*上記の大所帯のうちから、現代日本語では、「・・・から」/「・・・て」が生き残り、あるいは「・・・だから」/「・・・(の)で」/「・・・もので」等への変形を経て「順接の確定条件」の代表選手として頑張っているわけである・・・が、そこにもはや「(已然形)・・・ば」の影も形もない。
-「逆接の確定条件」の代替表現-
*次に、「已然形」の機能その2)「・・・ではあるが」の「逆接の確定条件」を「已然形以外の接続」で果たす表現を拾い上げてみよう。これもなかなかの大集団である:
*「已然形」以外に接続する「逆接の確定条件」の表現:
「(連体形)・・・が」
「(連用形)・・・して」
「(連用形)・・・つつ」
「(連用形)・・・て」
「(連用形)・・・ても」
「(体言/連体形/終止形)・・・といへども」
「(体言)・・・ところに」
「(連用形)・・・ながら」
「(連体形)・・・に」
「(連体形)・・・ほどに」
「(連用形)・・・も」
「(連体形)・・・ものから」
「(連体形)・・・ものの」
「(連体形)・・・ものゆゑ(に)」
「(連体形)・・・ものを」
「(連体形/体言)・・・を」
*対する「已然形」接続による「逆接確定条件」は、「・・・ど」/「・・・ども」のたった2つ(数え方によっては、1つ)のみ・・・これまた肩身の狭い話である。もっとも、現代日本語にもこの表現はしっかり残り、「・・・けれど(も)/・・・だけれど(も)/・・・だけど(も)」の形で日常的に使われている。その語形をよくよく見れば「けれ」の部分は「已然形」そのものだ・・・けれども、今更誰もそれを「おゃ、懐かしい、已然形サン、こんなところにおいでなさったか!」などと取り立てて言ったりはしない ― 「けど(も)/けれど(も)」それ自体が単体の定型句であって、「已然形」だろうが「以前形」だろうが、そんなの知ったこっちゃない ― それが現代日本語使用者の通常感覚であって、そこに「ど/ども」は生きてはいても、「已然形が生きている」という論法は成立しないのである。
-「こそ+已然形」の「係り結び」の消滅-
*さて、こうなると「已然形」最後の砦は、機能その3)「こそ+已然形」による「係り結び」であるが・・・検証の必要も感じぬ向きも多かろう:「係り結び」なる時代がかった語法自体、現代日本語にはもはや残ってはいないのだから。
*そもそも、「係り結び」と言われる古典時代特有の(係助詞・疑問詞と呼応しての)文末の締めくくり方のうち、「已然形」で結ぶのは唯一「こそ」のみであって、それ以外の係助詞(並びに、疑問詞)はみな「連体形」で締めくくるものと相場が決まっている。この感覚は、現代日本語でもなお生き残っている「逆接確定条件としての"・・・こそ"」の言い回しを吟味してみれば納得できるであろう。次の2例を見てほしい:
1)「あの力士、体格<こそ劣"れ"(ど/ども)>、巨漢の相撲取りに一歩も引けを取らない」・・・已然形接続
2)「あの力士、体格<こそ劣"る"が>、巨漢の相撲取りに一歩も引けを取らない」・・・連体形接続
・・・どちらの言い回しも現代日本語として通じるが、どちらの表現(已然形の「劣れ」/連体形の「劣る」)がより自然に受け入れられるであろうか?・・・やはり「連体形:こそ劣る+が」であろう。
*しかし、ここでもう一つ注目すべき事実がある:末尾に逆接の語句(例:「が/けど/けれども」)を付けねば「逆接の確定条件」を形成できない連体形の「劣る」と異なり、已然形の「劣れ」は、「ど/ども」なしでも逆接になる:即ち、「こそ+已然形」が「逆接」の意味を表わしている、ということである(先ほどは「死語」扱いした係り結びが、已然形に於いて生き残っている稀少例である)。
*実は、「こそ」なしの「已然形」そのものには本源的に(・・・少なくとも、奈良時代あたりまでは)その形自体で「逆接」の意味が宿っていたのである。その逆接の意味を強調するための添え物として登場したのが係助詞「こそ」であると言われているのだ。
*しかし、「逆接」の形で文章の流れを逆転させる言い回し(逆接の確定条件)は、已に検証した通り、「已然形」に頼るまでもないほどに豊富に存在する。「已然形そのもの」だけで「逆接」を表わしたのは上代(奈良時代頃)までの話であって、以後は「こそ」・「ど」・「ども」等のアクセサリーこそが「逆接の主役」となり、「已然形」という活用形は後景へと追いやられたのである・・・そうして、この「已然形」を背景に従えることのない「連用形/連体形」接続型の対抗勢力の勢いに圧倒される形で、「已然形そのもの」の存在理由が先細りして行き、鎌倉時代以降は(本来なら「未然形」の役割だったはずの)「順接の仮定条件=もし・・・ならば」の意を表わす「(誤用としての)已然形+ば」のみが(何とも皮肉だが)「已然形の唯一の存在理由」となり、「已に然り」ならぬ「未だ然らず」を前提とする「もし・・・ならば」の表現を表わす(だけの)活用形として「已然形・仮定形」という改名までをも施されて現代に至っている、というわけである・・・嗚呼、哀しき哉、已然形・・・時の流れとともに、言葉というものがいかに移ろい行くものか、「言語学的正統性」なるものがどれほど脆弱なものでしかないか、この一例を見てもよーくわかるであろう・・・かつて「已然形=すでに、しかり」として確定事態を受け止めていたこの活用形は「已に、然らず」、今や「仮に、そうであると定めたならば」の「仮定形」となって、その揺るぎなかった(ハズの)存在の土台は、仮想の中空にふわふわ漂うばかりなわけである。
◆【ば】〔接助〕(3)(順接の仮定条件)前述の条件が成立した場合、後述の事態が成立するだろうとの想定を表わす。もし・・・なら。 ・・・たら。仮に・・・とすれば。 *接続=未然形。
*接続助詞「ば」が「未然形(未だそうなってはいない)」の後に続いて「もし・・・ならば」の「仮定」を表わす(順接の仮定条件)。だが、時代が下ると仮定条件の接続先は必ずしも「未然形」とは限らなくなってくる(後述)。
*英訳=「if ...」/「in case ...」/「provided ...」/「providing ...」/「suppose ...」/「assuming ...」/「assume ...」/etc, etc.
-「已然形+ば」による「順接の仮定条件」-
*現代日本語では、「已然形+ば」が「順接の確定条件:・・・なので」ではなく、「順接の仮定条件:もし・・・ならば」の意味を表わす。こうした逆転現象は中世以降(鎌倉時代あたり)から始まり、それ以降徐々にその勢力を増して現代に至っている(&現代文法ではかつての「已然形」が「仮定形」へと改称されている)。
*もっとも、日本の大学入試が「ば」を問題とする場面では(そういう場面は実に多いが)、ほぼ常に「已然形+ば=すでにそうなっている・・・確定条件」/「未然形+ば=未だそうなっていない・・・仮定条件」という分かり易い古典文法の使い分けが成立していた「中古=平安時代」の文物を対象としているから、<「已然形+ば」だとしても、それが中世以降の文章の中でなら、もしかしたら「確定条件」ではなくて「仮定条件」かもしれない>という心配は、現実的には不要である。もし「已然形+ば」による「仮定条件」を出題するならば、「この文章は、鎌倉時代に書かれた『徒然草』の一節である」的なわざとらしい時代背景の断わり書きを添えた上で、「中世以降に於ける已然形仮定条件」という例外的文法知識を問題とする(何ともヲタクな)題意となり、大学入試古文問題としての適格条件を疑われる代物となってしまうだろう。
-現代日本語に「已然形」の出番なし-
*ともあれ、現代では「未然形+ば」による「仮定条件」は(「・・・ならば」のような定型句以外では)死滅し、「已然形+ば」のみが残っている、という事実は重要である;そしてそれと共に、古典文法時代の呼び名「已然形」は、現代日本語文法では「仮定形」へと名称変更されてもいることを覚えておくべきでもあろう。
*これらの事実から、次の2つの考え方が、古典時代~現代文法に至るまでのいずれかの段階で、支配的になったものと想定される:
1)「仮定」の意味をもたらす本体は、「已然形」や「未然形」といった活用形ではなく、接続助詞「ば」の方である。
・・・論理的に考えれば、「仮定=実現してはいない事柄を、仮に実現したと想定した上で述べること」に相応な活用形は「未然形:未だ然らず・・・まだそうなってはいない」のはずであり、「已然形:已に然り・・・もう既にそうなっている」という確定事実を述べた言い方は、「仮定」には相応しくないはずだ。にもかかわらず「未然形+ば」ならぬ「已然形+ば」で「仮定条件」が成立するとすれば、その「仮定」をもたらすものは「ば」であり、「ば」さえ付ければ「未然形」だろうが「已然形」だろうが無関係に「仮定」は成立する、という考え方あればこそ、であろう。「本来なら未然形+ば・・・だけど・・・已然形+ば、でも仮定条件成立」という事態は、「活用形(未然or已然)による構造的な意味の表現」よりも「単語(ば)による個別的な意味の表現」に重きを置くことになった現われであると見るべきである。
2)「已然形」という活用形の果たす機能は、「已然形+ば」による「仮定条件」以外、度外視してもよい。
・・・「已然形+ば」による「仮定条件」に由来する「仮定形」という名称への変更が行なわれるからには、この語法以外にかつて「已然形」が果たしていた機能は「もはや無視してもよい;重要なのは仮定条件のみである」という割り切りが成立する必要がある。
・・・で、実際、かつての「已然形」が果たしていた次の3つの機能が、時代の流れとともに、衰退したり他の類似語法によって代替されたりする中で「もはや不要」ということになった結果として「已然形→仮定形」という名称変更が行なわれたのである:
已然形の機能A)「已然形+ば」による「順接の確定条件:・・・なので」
已然形の機能B)「已然形+ど/ども」による「逆接の確定条件:・・・ではあるが」
已然形の機能C)「こそ+已然形」による「係り結び」
*来歴的には上記の3つこそが「已然形の正用法」であるのに、鎌倉期以降「誤用法」として生じた「已然形+ば」による「順接の仮定条件」に押されて「もはや已然形ではない・・・仮定形こそが妥当な呼び名である」というこの言語学的転変劇を見ただけでも、「言葉は生き物であり、時代と共にその姿は変わって行く」という事実と、「かつて正しかったことが、いつまでもずっと正しいとは限らない」という「文法的正当性」なるものの脆弱さ(よく言っても「相対性」)が、よくわかるであろう。
*誰かさんの言葉尻をとらえては「その言葉使いは間違い」などとエラそうに鬼の首でも取ったかのごとき態度で指摘したがる(まるでわかってない)日本人は古来掃いて捨てるほどいるが、連中の行為のほとんど全てが「言語学的に盲目な知的劣弱者の、無知ゆえの思い違い」でしかないという事実は、この筆者がここで敢えて検証するまでもあるまい(無知・無能な連中など、知的考察の興味ある対象とはなり得ぬのだ);筆者としては(そして、知的高みを目指す諸君としても)、「言語学的考察」の果てに「言葉の世界は絶えず流動を続けるもの」という実感を体得した上で、そうした事実をまるで知らぬ「言語学的蒙昧層」が「たまたま自分が知っているというだけの理由で"正当"と思いこんでいる用法」から少しでも外れた何かに対して示す「それはマチガイ」の反応を見たら、「それは思い違い(もっと言えば、キチガイ!)」として(心中で)連中への評価ポイントをその分下げればそれでよいのだ・・・但し、連中に面と向かってその知的劣弱性を指摘する愚挙は避けたほうが無難である:無知蒙昧な人間の共通特性は「自分こそは正しい」という無根拠な思い上がりであり、この筆者がこの作品集の中で行なっているような律儀な形での「何がどう正しく、何がどう間違っているかを、実証的に証明するための論証作業」は、ああした連中には無縁のもの:たとえこちらの方が正しいことを100%実証する証拠を突き付けても、連中はそれを見ようとはしないばかりか、むしろムキになって否定・抹殺しにかかるものである・・・「自分こそ正しい!」という絶対的前提を崩すものは、相手が正しかろうと何だろうと(否、むしろ、相手が正しければ正しいほど)、無知なる衆生は「無視!or抹殺!」に走るものなのだから、そうした連中に対しては当方としても「無視」が正しく、なまじ「是正」のために手を差し伸べるような真似は(少なくとも、面と向かって、は)せぬのが現実的に最善の策なのである。「本当に正しい事柄」は、「お前は間違っている;正しくは、これだ!」という形で愚昧層の眼前に叩き付けることは決してせず、しかしそんな連中でもその気になれば密かに覗き見して真実を知ることができるような形でどこかにさりげなく置いておくのが、正しい啓蒙のあり方というものである。超絶的な知識と卓抜した発想を持ったSF作家H.G. Wells(あの「タイムマシン」なる物語を書いた人)は、良いことを言っている ― Man hates to be put right, and yet also he wants to be right.:人は誰しも「正しくありたい」と願うもの・・・だが、「是正される」のはキライなもの。
◆【ば】〔接助〕(4)(順接の恒常条件)前述の条件が成立する場合、必ず後述の事態が成立する意を表わす。・・・時はいつも。 ・・・ならば必ず。・・・には常に。 *接続=已然形。
*接続助詞「ば」が、活用語の已然形に付いて、「・・・な場合はいつも決まって~だ」との「法則性のある順接の仮定条件」を表わす語法として「恒常条件」などと呼ばれるもの(・・・だが、その「法則性」には後述のごとく些か怪しい部分がある)。現代日本語にもそのまま残っている。
*英訳=「whenever .., ~」/「no matter when .., ~」/etc, etc.
-未然形接続の「仮定条件」/已然形接続の「恒常条件」-
*「恒常条件」などと呼ばれはするが、「・・・だとした場合、~だ」の論理構造自体は単純な「順接の仮定条件」に過ぎない。ただ、次の点をおさえておく必要があろう:
1)「確定条件」の「已然形+ば」
*通常、「已然形+ば」は、「・・・なので、~だ」の「原因-結果」を表わす。この基本から外れる「已然形+ば」の用法には、次の2つがある:
2)「単純接続」または「契機」の「已然形+ば」
例)「一朝目覚むれ<ば>、我が名天下に高し:I woke up one morning to find myself famous. (by George Gordon Byron)」
*この「已然形+ば」は「原因・結果」の因果関係(ある朝私が目覚めた-ので-私は自分が有名であると発見した)ではなく、「目覚めた、すると、有名になっていた」という単純な(ラベルを貼るとしてもせいぜい「契機」の)関係で前後をつなぐのみである。
3)「恒常条件」の「已然形+ば」
例)「春来れ<ば>、花はまた咲く」
*この「已然形+ば」もやはり「原因・結果」(春が来る - から - また花が咲く)ではなく、「春が来る ― とすれば、その時には ― また花が咲く」の関係で前後をつないでいる。この意味では、次のような「(未然形接続による)仮定条件」と全く同一の意味内容である:
◆「仮定条件」=「未然形+ば」
例)「春も来<ば>/春来たら<ば>/春来な<ば>、花はまた咲く」
*3)の「已然形+ば」も、上の「未然形+ば」も、いずれも表わす意味は「もし・・・ならば、~だ」と同一であるから、この意味内容に敬意を表せば双方ともに「順接の仮定条件」と呼ぶべきである。
*が、「已然形」は「已に然り(すでにしかり)」であるから、「已然形+ば」の基本義は「確定事態」であるのに、「未だ然らず(いまだしからず)」の領分であるべき「仮定条件」の意味に「已然形+ば」が用いられている点が特殊である。このあたりの事情もあって、「順接の仮定条件」と呼ばずに「順接の恒常条件」などと殊更に区分して見せたわけであろう。
-中世以降の「已然形+ば」による「未然形+ば」の代替現象-
*しかし、「已然形+ば」の形は、常に「恒常条件=もし・・・ならば、常に~である」を表わすとは限らない。それどころか、中世以降、本来「未然形+ば」であるべき仮定条件(例:飯食<はば>、腹満つ)が「已然形+ば」(例:飯食<へば>、腹満つ)へと流れて行き、とうとう現代に至っては、仮定表現はことごとく「已然形+ば」(例:飯を食<えば>、満腹になる)へと衣替えし、「已然形」という呼び名そのものさえ「仮定形」と改称されるに至っているのである・・・これを思えば、なまじ「已然形+ば=恒常条件」などとチマチマしたレッテルを貼ったりせずに<「已然形+ば」による「順接の仮定条件」>としておけばよかったものを、と思わざるを得ない。
*そもそも「恒常」条件と言っても、そこに真の「恒常性」が宿っている場合(例:物体が落下すれ<ば>加速度がつく)など例外的であって、ほとんどの場合「犬も歩け<ば>棒に当たる」程度の「経験則・感覚」のみに依拠した安直な「法則めいたもの」を捉えて「恒常条件」などと称しているだけであって、論理的にもあまり誉められた図ではない(まぁ、古文業界が殊更に細分化をはかれ<ば>、それは大抵ロクでもないこと、との「恒常条件・・・っぽい感覚」すら漂うわけだから、その確認用ラベルとしての「恒常条件」なら、それはそれでよい、とも言えるかもしれないが)。
◆【ば】〔接助〕(5)(中世以降の用法)(対照的並列)(多く「・・・は・・・ば、・・・は」の形で)二つの事柄を対照させる形で述べる。一方・・・、他方~。 ・・・と思えば、一方~。・・・であり、また~である。 *接続=已然形。
*多く「Aは・・・ば、Bは・・・」の相関表現の中で、二つの異なる物事を競い合わせるようにして述べる「対照的並列」の接続助詞「ば」の(中世以降の)用法。英語に於ける「some ... others ...」のような言い回しである。
*英訳=「while A ..., B ~」/「A is as much ... as B is ~」/「some .., others ~」/etc, etc.
*現代日本語では、「夫が休みの日にゴルフに明け暮れれ<ば>、妻は妻でヤケクソ気味に買い物三昧で、家計も夫婦仲ももうボロボロ状態」みたいな感じになる。語形的には<「已然形+ば」による「順接の仮定条件=Aが成立する場合、Bである」>の発展形とも見えるが、論理的には「夫がゴルフばっかする ― 場合には ― 妻がバカ買いする」という「条件・帰結」関係が必ずしも成立するとは言えない(逆転させて「夫がゴルフばっかしない ― ならば ― 妻はバカな買い物をしない」とは限らない)ので、「仮定条件」でもなく、無論「確定条件」(Aなので、Bだ)でもなく、「契機」(Aしてみた、ところ、Bだった)に近いとも言えるが、どれとも違う、何とも微妙な用法ではある。
■__など【など】『接続:{体言・連体形・引用句・連用形・助詞}』〔副助〕 (1)〈(例示)ある物事を、類似の事例の一つとして引き合いに出す。〉例えば・・・など。・・・か何か。・・・あたり。 (2)〈(婉曲)断定的に響くのを避けて、柔和な印象を与える。〉・・・など。・・・とか。・・・なんか。・・・なんぞ。 (3)〈(卑下・強調)対象を見下したり、否定・反語の意を強める。〉・・・なんざ。・・・なんか。・・・のごときは。・・・ふぜいが。たかが・・・。 (4)〈(引用)直前部に述べた発言の内容を総括する。〉・・・などと。・・・とか何とか。・・・みたいなことを。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【など】〔副助〕(1)(例示)ある物事を、類似の事例の一つとして引き合いに出す。例えば・・・など。 ・・・か何か。・・・あたり。 *接続=連用形。連体形。体言。引用句。助詞。
*現代日本語「・・・など」と全く同じ「例示」の語法(例:「書<など>読みて時を過ぐさむ」)。「何故?」の意味になる「など」との混用にさえ注意すればよいだけのもので、「名詞+など」なら「例示の副助詞の"等"」/「など+事態」の形で最後に「?」が付けられそうな話の流れなら「疑問副詞の"何ど"(・・・何ぞ、あるいは、謎、と絡めて覚えておけばよい)」である。
*英訳=「such as ...」/「like ...」/「including ...」/「for example, 」/「for instance, 」/「... to cite a few」/etc, etc.
◆【など】〔副助〕(2)(婉曲)断定的に響くのを避けて、柔和な印象を与える。・・・など。 ・・・とか。・・・なんか。・・・なんぞ。 *接続=引用句。体言。連体形。連用形。助詞。
*断定・直接的言及の感じを和らげようとして添える副助詞「など」の「婉曲」語法。現代語にもそのまま残るので、訳出に苦労はない。
*英訳=「... or like that」/「something like ...」/etc, etc.
-「など」のヘンな響きは何?-
*現代日本語でも「お嬢さん、一緒にお茶<など>いかが?」の方が「ネェちゃん、一緒に茶ぁせぇへん!?」より上品に響くわけであるが、その背後には「Aなど」の陰にある「例示」の語感があるから、「例えば、お茶でしょー、それから、お食事でしょー、んでもってお酒でしょー、そうこうしてるうちに夜遅くなっておうち帰れなくなってお泊まりしたり<など>してぇー、そうなると当然・・・だったり<など>するかもしれないなぁー・・・なぁーんてね」等々、色々意味深に響くわけである。
◆【など】〔副助〕(3)(卑下・強調)対象を見下したり、否定・反語の意を強める。・・・なんざ。 ・・・なんか。・・・のごときは。・・・ふぜいが。たかが・・・。 *接続=体言。連体形。連用形。引用句。助詞。
*名詞に付けて、「Aなんて!」と見下した調子を添える副助詞「など」の用法で、現代日本語にもそのまま引き継がれている(例:「古文<など>英語ほどには難しくないさ」)。
*英訳=「things like A」/「such things as A」/「A or something like that」/etc, etc.
-「など」の語源は「何と」-
*「なに+と」は元来「原因・理由」を表わす表現で、仏語なら「pourquoi」、英語で言えば「for what」となる・・・後者を「WHY?・・・どうして?」とすればそのまま詰問調になるように、あまり好ましくない事態に言及する言い回しとして「なにと・・・なんと・・・なんど・・・など」の変遷を経てできた語(いったい何だってこんなしょーもないやつが・・・)が、この「侮蔑調など」である。
*その過程で生じた「・・・なんぞ」の表現は、現代日本語でも(かなりキツい軽蔑調で)使われる(例:「テメェなんぞ、ギッタギッタのコテンパンに叩きのめしてやるから、首洗って待ってやがれってんだぃ、コン畜生めが!」)。
◆【など】〔副助〕(4)(引用)直前部に述べた発言の内容を総括する。・・・などと。 ・・・とか何とか。・・・みたいなことを。 *接続=体言。連体形。連用形。引用句。助詞。
*副助詞「など」の「引用」用法で、現代日本語の「・・・など(と言って)」へとそのまま引き継がれている(例:「うちは団地で犬は居ぬ」<など>、親父ギャグ飛ばしてる)。
*英訳=「.., saying ~」/「"..."」/「that ...」
■__ても【ても】『接続:{連用形}』〔接助〕 (1)〈(強調)上述の内容に軽い詠嘆の意を添える。〉・・・ても。・・・て。 (2)〈(逆接の確定条件)前述の内容が成立するにもかかわらず、それに反する後述の内容が成立する意を表わす。〉・・・ではあるが。・・・のに。・・・にもかかわらず。・・・けれども。・・・というのに。 (3)〈(逆接の仮定条件)前述の内容が成立したとしても、それに反する後述の内容が成立する意を表わす。〉たとえ・・・でも。もし・・・としても。よしんば・・・にせよ。 (4)〈(順接の仮定条件)前述のような場面に於いて、後述の陳述が成立する(場合がある)意を、例示の形で述べる。〉・・・の時などに。例えば・・・の際に。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【ても】〔接助〕(1)(強調)上述の内容に軽い詠嘆の意を添える。・・・ても。 ・・・て。 *接続=連用形。
*接続助詞「ても」が「強調」(場合によっては「詠嘆」)の意を表わす用法で、現代日本語でも「・・・ても」あるいは「・・・てでも」で通じる(例:「催涙弾を使っ<て(で)も>、デモ隊の進行を阻止せよ!」)。
*英訳=「[even] if ...」/「by all means」/etc, etc.
◆【ても】〔接助〕(2)(逆接の確定条件)前述の内容が成立するにもかかわらず、それに反する後述の内容が成立する意を表わす。・・・ではあるが。 ・・・のに。・・・にもかかわらず。・・・けれども。・・・というのに。 *接続=連用形。
*接続助詞「ても」が、前後の相反する内容をつないで「Aではあっても、なおBである」とする「逆接の確定条件」の用法で、現代日本語にもそのまま残る(例:「そうは言っ<ても>難しい」)。
*英訳=「[even] though .., ~」/「although .., ~」/etc, etc.
◆【ても】〔接助〕(3)(逆接の仮定条件)前述の内容が成立したとしても、それに反する後述の内容が成立する意を表わす。たとえ・・・でも。 もし・・・としても。よしんば・・・にせよ。 *接続=連用形。
*直前部の内容が成立したとしても、それに反する直後の内容が相変わらず成立する意を表わす「逆接の仮定条件」(たとえAでも、なおかつBだ)の接続助詞「ても」。現代日本語にもそのまま残っている(例:「と言っ<ても>、君は信じてはくれまいが、ね」)。
*英訳=「[even] if ...」/「[even] though ...」/「suppose ...」/etc, etc.
◆【ても】〔接助〕(4)(順接の仮定条件)前述のような場面に於いて、後述の陳述が成立する(場合がある)意を、例示の形で述べる。・・・の時などに。 例えば・・・の際に。 *接続=連用形。
*現代日本語で言えば「・・・につけても」(例:それにつけても、腹の立つ話だよ)あたりに落ち着く「例示」の「ても」。
*英訳=「in ..ing」/「when ...」/「while ...」/「in times like ...」/「in such cases as ...」/etc, etc.
■__ど【ど】『接続:{已然形}』〔接助〕 (1)〈(逆接の確定条件)前述の条件が成立するにもかかわらず、反対の内容を持つ後述の事態が成立する意を表わす。〉・・・のに。・・・だというのに。・・・けれども。・・・にもかかわらず。 (2)〈(逆接の恒常条件)前述の条件が成立する場合は常に、反対の内容を持つ後述の事態が成立する意を表わす。〉・・・でも常に~。・・・ても~。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【ど】〔接助〕(1)(逆接の確定条件)前述の条件が成立するにもかかわらず、反対の内容を持つ後述の事態が成立する意を表わす。・・・のに。 ・・・だというのに。・・・けれども。・・・にもかかわらず。 *接続=已然形。
*現代日本語(文語)の「・・・ど」と同じ意味を表わす逆接(・・・だけど)の接続助詞(例:「匂いはすれ<ど>姿は見えぬ・・・気付けばぐったりあの世行き・・・生物兵器は恐ろしい」)。同じ意味は「・・・ども」でも表わせるが、堅い響きから漢文訓読調の文章向き;中古女流文学では柔和な「・・・ど」が好まれた。
*英訳=「~ but ...」/「~ and yet ...」/「though ~, ...」/「although ~, ...」/etc, etc.
*語源学的には、「ど」に係助詞の「も」が付いた語という説もあれば、逆に「ども」から「も」が落ちて「ど」になったとの説もある・・・が、どちらにせよ本源的に同じ古語である。
◆【ど】〔接助〕(2)(逆接の恒常条件)前述の条件が成立する場合は常に、反対の内容を持つ後述の事態が成立する意を表わす。・・・でも常に~。 ・・・ても~。 *接続=已然形。
*前/後に相反する内容の記述をつないで、「・・・ではあっても、しかしながら~だ」とする「逆接」の接続助詞「ど」及び「ども」が、一過性の「条件-帰結」に留まらず、「・・・ではあっても、常に決まって~だ」という法則性めいたものを含む場合、古典文法ではこれを「逆接の恒常条件」と呼ぶ。現代日本語にもそのまま残っている。
*英訳=「[even] if ...」/「[even] when ...」/「[even] though ...」/etc, etc.
-「恒常条件」は文法的仕分けに非ず-
*古典文法には「未然形+ど・ども」の形は存在しない。「ど・ども」は常に「已然形」に接続して「逆接」を表わすものであるから、「未然形接続」による「順接の仮定条件(=もし・・・ならば)」は成立せず、常に「逆接の確定条件(=・・・ではあるが)」または「逆接の仮定条件(=たとえ・・・だとしても)」となる。そんな中で、接続の違いを持たぬ(=常に「已然形」接続の「ど・ども」による)「確定条件」と「恒常条件」という(一見別物に思われる)見分けをどう付けるか、と、受験生は気になるところであろうが・・・答えは「何もない」のである。
*「逆接の恒常条件」などと特別扱いしてはいても、本源的には「逆接の仮定条件」と同じことで、そこに「常にそうなる」なる「法則性」のある/なしは、言語学よりむしろ統計的感覚(自然科学、とは到底呼べない)の範疇に属する話であるから、これまた日本の古文業界特有の恣意的仕分けに過ぎない・・・より正確に分析すれば、次のような「ど・ども」とは無関係な「ば」の区分からの無分別な「横滑り」仕分けに過ぎぬのだ:
●未然形+「ば」=「順接」の「仮定条件」=「もしも・・・ならば、~だ」
例)雨降<らば>、我家に居らむ
・・・これは英語に於ける「if A, then B」(例:If it rains tomorrow, I'll stay home.もし明日雨降りなら、私は家に居よう)である。
●已然形+「ば」=「順接」の「確定条件」=「・・・であるから、~だ」
例)雨降<れば>、我家に居り。
・・・これは英語に於ける「because A, B」(例:Because it is rainy, I'm staying home.雨が降っているから、私は家に居る)である。
●已然形+「ば」=「順接」の「恒常条件」=「・・・であると、いつも~だ」
例)雨降<れば>、我常に家に居り。
・・・これは英語に於ける「whenever A, B」(例:Whenever it rains, I stay home.雨降りの時はいつも、私は家に居る)である。
*こうして並べればわかる通り、「恒常条件」とは、「未然形」ではなく「已然形」で表わされる特殊な「仮定条件」と見ることができる。
*逆に言えば、「未然形+ば」/「已然形+ば」のような接続の相違を伴うからこそ意味を成す「仮定条件」/「恒常条件」であって、「已然形+ど・ども」はあっても「未然形+ど・ども」など成立しない「ど・ども」に関しては、「恒常条件」と「仮定条件」の区分も不要(というか、不可能・・・いいかげんな統計や個人的思い込みによる区分にしかならない)ということになり、単に「逆接の仮定条件」と呼べばそれだけで済む話なのである。
・・・というわけで、またしても「理(ことわり)=事を割り切るための論理的基盤」があやふやな古文業界の体質が垣間見える話ではあるが、まぁ、受験勉強のついでに、そういう(いかにも日本的な)呼び名もあったものだ、として脳裏に刻んでおくのも悪くはあるまい。
-「恒常条件」と「習性のwill」-
*ちなみに、この種の主観的思い込みによる「A、と来ても、それでもやはりBなんだよねぇ・・・そういうもんよ、だいたいの話が、うん、うん!」という ― 思い込みが事実に優先する老人タイプ(含 受動的勉強・北京ダック型情報過飽和の若年老人連中)の ― 決め付け言辞を、論理にうるさい英語ではどう処理するか・・・上述の「恒常条件」の英訳例で示した「...ever(=whenever, wherever, whatever, whichever, whoever, whomever, whosever, however, no matter -)」を用いるのが一般的であるが、その他、次のような「習性のwill」にもまた「恒常条件的感覚」を表わす働きがあるので、覚えておくとよい:
英語風「恒常条件」的な例)Let the world say what it may, a mother <will> never abandon her child.
古文の「恒常条件」の例)よのひとのいかにいへ<ど>、はははわがこをみすつるものかは。
現代語訳)たとえ世間が何と言おうとも、我が子を見捨てる母親は<まず>いない<ものだ>。
*英語とまともに向き合うこともせぬ日本人は、「will...」を見れば何でもかんでも「...だろう」で済ましているものだが、この種の「私の主観的見立て、ではあるけど、世間ってとかく、そういうものなんとちゃいますのん?」的な、厳密なる統計学的証明には拠らずとも心理的には堂々たる確信のある「決め付け言辞」に、ある程度の「お墨付き」を与える言い回しとしての「習性のwill」は、現実の英語の中では実に多用されるものである。これ一つ覚えておくだけでも、「何となく、・・・だろう、って訳しちゃマズいだろう的なwill」の意味を真剣に知ろうと努めるだけでも、「英語ド素人」状態からの脱却は確実、というものである(・・・これ、英語教育者としての筆者の主観的見立て)。
■__や【や】『接続:係助={体言・連体形・連用形・副詞・助詞}終助={終止形・已然形・体言・言い切り文}接助={連用形}間投助={連体修飾語・接続語以外の様々な語}』〔係助〕 (1)〈(疑問)確信のない事柄について、問い掛ける意を表わす。〉・・・か?・・・なのか?・・・ろうか? (2)〈(確定的推量)(推量助動詞「む」・「らむ」・「けむ」などと共に用いて)確信のある事柄を疑問文の形で述べたり、相手に問いかけて答えを引き出そうとする。〉・・・ではないのか。きっと・・・だろう。・・・に違いない。 (3)〈(反語)疑問文の形を取りながら、実質的に否定の内容を表わす。〉・・・ということがあろうか?否・・・ない。・・・あるまい。・・・なものか。 〔終助〕 (1)〈(疑問)(活用語の終止形に付いて)確信のない事柄について、問い掛ける意を表わす。〉・・・か?・・・なのか?・・・ろうか? (2)〈(確定的推量)(多く「むや」の形で)確信のある推量を表わす。〉・・・ではないのか。きっと・・・だろう。・・・に違いない。 (3)〈(反語)疑問文の形を取りながら、実質的に否定の内容を表わす。〉・・・ということがあろうか?否・・・ない。・・・あるまい。・・・なものか。 〔接助〕 (1)〈(連続動作)複数の動作が、時間的に間断なく継続して行なわれる意を表わす。〉・・・や否や~。・・・とたちまち~。・・・した途端~。・・・と同時に~。 〔間投助〕 (1)〈(詠嘆)感動の意を表わす。〉・・・だなあ。・・・なことよ。・・・であるよ。 (2)〈(感動・呼び掛け)(文中に用いて)文意を強めたり、人に呼び掛けたり、感動の意を表わす。〉おぉ・・・よ。・・・だなあ。 (3)〈(並立)類似した複数の事柄を列挙する。〉・・・やら・・・やら。・・・や・・・や。・・・とか・・・とか。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【や】〔係助〕(1)(疑問)確信のない事柄について、問い掛ける意を表わす。・・・か? ・・・なのか?・・・ろうか? *接続=各種の語句。
*係助詞「や」を文中で(動詞の直前に)用いて、呼応する文末を(多く「推量助動詞:む/らむ/けむ等」を伴った)「連体形」で締めれば「疑問文」となるのが、古典文法の基本中の基本(例:「人<や>ある」・・・誰か、いますか?)。
*文末に置かれれば「終助詞」扱いとなるが、いずれにせよ古語の「や」は、英文に於けるクエスチョン・マークに相当する疑問文形成語句である。現代日本語ではこの種の疑問詞は文中に置く係助詞ではなく文末に置く終助詞扱いであり、そこで用いられるのは「や」ではなく「か」である。
*英訳=「... ? (question mark)」
-終助詞「や」の接続先-
*係助詞「や」は、直後に「動詞」が来るので接続先の問題も何もないが、終助詞の「や」の場合は、その直前に来る「動詞」の活用形をどうするかの問題についても考えねばならない・・・のだが、実に、これが一定しないのである。
*基本的には「終止形+や」なのだが、中世以降は「連体形+や」が一般的になり(理由は後述)、また(特に和歌の中で)「已然形+や」の形も少なからず用いられた。
*こうなるともう、その他で残る形は「未然形」・「連用形」・「命令形」だけであるが、「命令形」はその時点で記述が終わるので、直後に「や」が付いても(実際、しばしば付くのであるが)それは勢いを添えるだけの「や」であるから「終助詞」というより「間投助詞」である。また、用言でもない「や」を文末に置いて「連用形+や」の形もないものであろう。「未然形」は、直後に助動詞が付いて何らかの意味を添えるか、「は」/「ば」が付いて「仮定条件」を表わすための活用形なので「や」には無関係である。
*こう考えると、くっつき得る活用形のすべてと「や」は結びついていることになる。誰とでもひっつくお調子者みたいなこの特質は、「や」が本来「間投助詞」であったことを強く感じさせるもの・・・自分自身の存在の重みがまるでない「間投助詞」は、相手に合わせて「ヤッ!」とか「ヨッ!」とか「ハッ!」とか相槌打つだけなので、付くべき相手を選り好みしない、ということかもしれない。
-「や」疑問文の結びの消失-
*古文にはまた、「や+動詞(+推量助動詞)+連体形」の表現であるべきところを、「や」で止めてしまい、後続の[動詞(+推量助動詞)+連体形]が丸ごと省略されている例が実にしばしば登場する。「省略」とは「頻出するから、なくてもわかる」とみなしての語法であるから、「消え失せて見えない」部分は「定型句」として予め覚えておかねばならぬことになる・・・ので、その「ない部分」を紹介するわけだが、それは「あり」である・・・冗談言ってるみたいだが、次のような形で「<あり>含み表現が、ない」のが「"や"止め疑問文」のお約束なのである:
例1)「かの人は猫を憎む<にや>[あらむ?]・・・あの人、猫が嫌いなのかにゃあ?」・・・これは<や>というより<にや>で覚えておくほうがよい表現。
例2)「奥山に猫又といふものありて、人をくらふなる。さる事<や>[ありし?]・・・山奥にネコマタとかいう妖怪がいて人間を取って食うとかいう話だけど、そういう事件が実際あったのかニャァ?」
*この種の「連体形語尾のないシッポ抜け表現」は平安時代から数多く用いられたが、中世末期(室町時代あたり)に入ると、そもそも活用語の「連体形」と「終止形」の区別そのものが曖昧になってくる:「係り結びによる連体形」が多用されるにつれて、「連体形」が「終止形」と錯覚されるようになるのである・・・そうなれば、「文中に係助詞の<や>を置き、文末を<連体形>で締める疑問文」は必然的に減少し、「文末に終助詞の<や>を置いて疑問文とする」形が主流を占めるようになる・・・現代日本語の疑問文は、そうして出来上がったものである:但し、そこで用いられる文末の終助詞は<や>ではなく<か>である(例:「えっ、そうなの<か>?!」・・・「あぁ、そうなん<や>。'や'を文末に置いても詠嘆にしかならへんの<や>」)。
*文末の「や」は「詠嘆・整調語」として関西弁に残った(そうや、そぅや、その通りなんや)が、「か」の方は「日本語に於ける疑問文締めくくりのクエスチョンマーク」としての普遍的位置付けを確立して現代に至っているわけである・・・これまた「やっ!」とか何とか調子のよい響きでその場を和ませるだけの働きしかしない「間投助詞」としての「や」の特質のせいであろうか?一方の「か」の出自は「彼(か・かれ)」とか「斯く(かく)」にも通じる指示代名詞の「か」なので、具体的に何かを指さして「これって、あれなのかニャア?」と首をかしげる表現には「か」が「や」を押しのける形で生き残った、ということかもしれない。
◆【や】〔係助〕(2)(確定的推量)(推量助動詞「む」・「らむ」・「けむ」などと共に用いて)確信のある事柄を疑問文の形で述べたり、相手に問いかけて答えを引き出そうとする。・・・ではないのか。 きっと・・・だろう。・・・に違いない。 *接続=各種の語句。
*疑問を表わす係助詞の「や」の中でも、単純な「・・・だろうか?」ではなく、「きっと・・・なのではなかろうか?」という確信ある推量の意を疑問文の形で相手にぶつける珍しい言い回し。現代日本語にも定型句的に残っていて、「さぞや・・・だろう(=きっと・・・なことだろう)」に於ける「や」がこの語法にあたる。その特性上、推量の助動詞「む」・「らむ」(・・・現在の推量)/「けむ」(・・・過去の推量)と共に用いられる表現である。
*英訳=「I believe ...」/「perhaps ...」/「probably ...」/「in all likelihood ...」/「more likely than not ...」/「as likely as not ...」/etc, etc.
◆【や】〔係助〕(3)(反語)疑問文の形を取りながら、実質的に否定の内容を表わす。・・・ということがあろうか?否・・・ない。 ・・・あるまい。・・・なものか。 *接続=体言。連体形。連用形。副詞。助詞。
*係助詞「や」が文中に用いられ、形式上は「疑問(・・・だろうか?)」ながらも実質的には「否定(否、・・・ない)」の意を表わす「反語」の用法。文末の用言は「連体形係り結び」となる。現代日本語にはこの文中用法は残っていないが、「や」と同種の係助詞「か」を文末に置く終助詞用法(例:「これで本当の学問と言えるの<か>?」)はある。
*英訳=「...? (rhetorical question)」/「Is it true that ...? (rhetorical question)」/「I doubt that ...」/「I don't believe ...」/etc, etc.
◆【や】〔終助〕(1)(疑問)(活用語の終止形に付いて)確信のない事柄について、問い掛ける意を表わす。・・・か? ・・・なのか?・・・ろうか? *接続=言い切り文。体言。終止形。
*「や」が文末に置かれた終助詞用法(係助詞の文末用法、という説明の仕方もある)。確信のない事態について、他者に問いかける形で「疑問(・・・だろうか?)」の意を表わすもの。現代日本語にはこの「や」は引き継がれず、「か?」のみが用いられている。
*英訳=「...?」/「Do you think ...?」/「How about ...?」/etc, etc.
◆【や】〔終助〕(2)(確定的推量)(多く「むや」の形で)確信のある推量を表わす。・・・ではないのか。 きっと・・・だろう。・・・に違いない。 *接続=言い切り文。体言。終止形。
*「や」が文末に置かれた終助詞用法(係助詞の文末用法、という説明の仕方もある)。多く、推量助動詞と組み合わせた「むや」の形で用い、話者としては確信のある推量を形式上は「疑問(・・・ということではないのか?)」の形で表わすもの。現代日本語にはこの「・・・や?」は残っていないが、「・・・か?」による確定的推量表現は残る(例:「この納豆、腐ってない<か>?」)
*英訳=「Isn't it that ...」/「Don't you think that ...?」/「I am of the opinion that ...」/etc, etc.
◆【や】〔終助〕(3)(反語)疑問文の形を取りながら、実質的に否定の内容を表わす。・・・ということがあろうか?否・・・ない。 ・・・あるまい。・・・なものか。 *接続=終止形。(上代には已然形にも付いた)
*「や」が文末に置かれ、形式上「疑問文・・・だろうか?」でありながら、実質的には「否定文・・・ということはなかろう」の意を表わす「反語」の終助詞用法(または、係助詞の文末用法)。現代日本語には引き継がれていない。終止形接続だが、上代には已然形接続例も見られる(「一般:ねこはをこなり<や>/上代:猫は烏滸なれ<や>=猫は馬鹿だろか?ぃや、そーじゃない」)。
*英訳=「・・・? (rhetorical question)」/「Do you really think ...?」/「I don't believe ...」/「I doubt that ...」/etc, etc.
◆【や】〔接助〕(1)(連続動作)複数の動作が、時間的に間断なく継続して行なわれる意を表わす。・・・や否や~。 ・・・とたちまち~。・・・した途端~。・・・と同時に~。 *接続=連用形。
*現代日本語には「・・・する<や>否や~」の形で残る接続助詞「や」の「動作の連続」の用法で、時間的に間を置かずに「動作A+動作B」が連結的に行なわれる意を表わす。英語の「on ...ing, ~」に見られるような「時間的接触」の語法である。古語では格助詞「より」にも(上代の接続助詞「なへ・なへに」にも)同じ用法がある。
*英訳=「on ...ing, ~」/「.., thereupon ~」/「no sooner had A ...ed than ~」/「hardly/scarcely had A ...ed before(when) ...ed」
◆【や】〔間投助〕(1)(詠嘆)感動の意を表わす。・・・だなあ。 ・・・なことよ。・・・であるよ。 *接続=各種の語句。
*文章の末尾など、切れ目の部分に置いて、詠嘆の響きを出す「・・・だなぁ」の意の「や」。現代関西弁の「・・・や(なぁ)」のほか、和歌・俳句の中でもよくお目にかかるタイプの間投助詞(例:古池<や>・・・蛙飛び込む水の音・・・)である。
*英訳=「.., I should say」/「.., isn't it?」/「.., don't you think?」/「.., you know.」/「How ...!」/「What ... !」/etc, etc.
◆【や】〔間投助〕(2)(感動・呼び掛け)(文中に用いて)文意を強めたり、人に呼び掛けたり、感動の意を表わす。おぉ・・・よ。・・・だなあ。 *接続=各種の語句。
*間投助詞「や」が、文中に置かれて、「文意の強調」・「呼びかけ」・「感動」等の様々な感情温度の高さを演出する用法。現代語でこの「や」を用いるとやや「老人風」(例:「赤ずきん<や>、狼には気を付けるんだよ」)の響きがあり、一般的には「よ」に代替されている語法と言える。
*英語ではこの種の詠嘆的な呼びかけをapostrophe(頓呼法:とんこほう)と呼ぶ(眼前のyouに対する呼びかけではなく、その場にいない誰かに向けての訴えかけの場合が多い)。
*英訳=「oh, A」(例:oh! darling)/「hey, A」(例:Hey, Jude)/「ah, A」(例:ah, my loved one)/etc, etc.
◆【や】〔間投助〕(3)(並立)類似した複数の事柄を列挙する。・・・やら・・・やら。 ・・・や・・・や。・・・とか・・・とか。 *接続=各種の語句。
*幾つもの事例を「並列」する形で列挙する間投助詞「や」の用法。「AやBや」(例:犬や猫や)の形で用い、現代日本語にもそのまま残る。
*英訳=「A and B」
■__ぞ【ぞ】『接続:{体言・連体形・連用形・副詞・助詞}』〔係助〕 (1)〈(強調)(文中で用いて)上の語句を取り立てて叙述全体を強調する。〉・・・が。・・・こそ。・・・はまさに。・・・は実に。 〔終助〕 (1)〈(指示・断定)(文末で用いて)上の語句を強く指示して、他の事物とは明確に異なるものである意を強調する。〉・・・だぞ。・・・だよ。 (2)〈(疑問・反語の強調)(文末で、文中の疑問詞を受けて)強い疑問や、反問の意を表わす。〉・・・だというのか?一体・・・なのか?否・・・ではない。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【ぞ】〔係助〕(1)(強調)(文中で用いて)上の語句を取り立てて叙述全体を強調する。・・・が。 ・・・こそ。・・・はまさに。・・・は実に。 *接続=独立語以外の各種の語句。
*「ぞ」が(文末ではなく)文中に用いられた場合は「直前の語句を強調する係助詞」で、その強調語法の一環として、これと呼応する文末の動詞の活用形は「連体形」で締めくくる「係り結び」となる。
*英訳=「this is the A」/「nothing but A」/「none other than A」/「the very A」/etc, etc.
*「ぞ」が文末に置かれた場合は係助詞ではなく終助詞で、その場合の語法は1)「文章全体の意味を強調する」2)「文中の疑問詞を受けて、疑問・反語の意を表わす」のいずれかとなる。現代日本語には「これ<ぞ>真の黒田節」のような強調語として残っている。
-「係り結び」を招く語句-
*係り結びを形成する語句には大きく分けて2つあり、その語句と呼応する文末は基本的に「連体形係り結び」となる(唯一、「こそ」の場合のみ「已然形」で結ぶ):
1)疑問の意味を表わすもの(例:「何ぞ」・「何故に」・「などか」・「何時かは」・「何でふ」等々)
・・・単純に言えば、「古文では、疑問文の終わりは連体形で結ぶ」と思えばよい。
2)係助詞・・・その意味/結びの形は以下の通り
-連体形で文末を結ぶ係助詞とその意味-
A)「ぞ」=直前の語句を強調する
B)「なむ」=直前の語句を特に指示する形で取り立てる
C)「や/やは」=疑問・反語の意を表わす
D)「か/かは」=1)疑問・反語の意を表わす 2)(「とか」の形で)不確かな事柄として語る 3)(「AかBか」の形で)どれか特定できない事柄を列挙したり、その中から選択したりする意を表わす
-已然形で文末を結ぶ係助詞「こそ」とその意味-
E)「こそ」=1)直前の語句を強調する 2)直前に述べられた事態とは逆の方向性を持つ逆接の陳述を後に続ける 3)(「もこそ」・「ばこそ」の形で)懸念を含む仮想の話(・・・したら大変だ/・・・というのならばともかく、さもなくば)として語る
◆【ぞ】〔終助〕(1)(指示・断定)(文末で用いて)上の語句を強く指示して、他の事物とは明確に異なるものである意を強調する。・・・だぞ。 ・・・だよ。 *接続=体言。連体形。連用形。副詞。助詞。
*文末に置き、断定口調で強調的に取り立てて見せる終助詞「ぞ」の用法。現代日本語の「・・・(だ)ぞ」にそのまま残る(例:「あぁ、その通りだ<ぞ>」)。
*英訳=「.., I tell you.」/「..., I must say.」/etc, etc.
◆【ぞ】〔終助〕(2)(疑問・反語の強調)(文末で、文中の疑問詞を受けて)強い疑問や、反問の意を表わす。・・・だというのか? 一体・・・なのか?否・・・ではない。 *接続=体言。連体形。連用形。副詞。助詞。
*文末に置かれ、文中の疑問の表現と呼応して、強い疑問や反語の意(・・・だというのか?)を表わす終助詞「ぞ」の用法。現代日本語には残っていないが、敢えて終助詞による近似の語形を探すなら、「いつまでこんなこと続けるつもり<よ>?」あたりであろうか。
*英訳=「.., [do] you say?」/etc, etc.
■__かし【かし】『接続:終助={終止形・命令形・終助詞・副詞・感動詞}副助={副詞「なほ」「よも」「さぞ」}』〔終助〕 (1)〈(聞き手に向けて)念を押す。〉・・・よ。・・・だからね。・・・なのだ。 (2)〈(自分自身に向けて)言い聞かせる。〉・・・だぞ。・・・だとも。・・・のだ。 (3)〈(上に付く)副詞・感動詞を強調する。〉(固定した訳し方はない) 〔副助〕 (1)〈(近世以降)(上に付く)副詞「なほ・よも・さぞ」を強調する。〉(固定した訳し方はない)presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【かし】〔終助〕(1)(聞き手に向けて)念を押す。・・・よ。 ・・・だからね。・・・なのだ。 *接続=終止形。命令形。終助詞。
*眼前にいる相手に向かって「・・・(なの)(だ)よ」と諭したり、念を押したり、訴えかけたりする終助詞「かし」の語法(例:「詮無き事はやめよ<かし>」=「無駄な真似はおやめなさいな」)。現代日本語には引き継がれてはいない。
*英訳=「.., you know.」/「.., mind you.」/「.., I'm telling you.」/「.., yes.」/etc, etc.
*相手に対して用いるにせよ、自分自身に念押しするにせよ、直前の語句を強めるにせよ、終助詞「かし」(近世以降は副助詞としても用いた)の語法は「強調」のみで、訳し方は文脈に応じて自然に決めてよいが、よく用いられるのは「・・・(の)(だ)よ」・「・・・(の)だ(なぁ)」あたりである。
◆【かし】〔終助〕(2)(自分自身に向けて)言い聞かせる。・・・だぞ。 ・・・だとも。・・・のだ。 *接続=副詞。感動詞。終助詞。
*自分自身に向かって「確かに・・・なのだ」として念押ししたり、認めたくない事実を認めたりする終助詞「かし」の語法(例:「あの人は去にしかし」=あの人はもう行ってしまったの。帰って来ないの。わかる?もうこの恋は終わったのよ!)。極めて自意識的で現代人の感性にも通じる語法だが、現代日本語には引き継がれてはいない。
*英訳=「.., you know.」/「.., mind you.」/「.., you see.」/「.., yes.」/「.., you just have to admit.」/「.., that's reality.」etc, etc.
◆【かし】〔終助〕(3)(上に付く)副詞・感動詞を強調する。(固定した訳し方はない) *接続=副詞。感動詞。
*「いざ(=さぁ・・・しよう!Let's・・・)」のような副詞や感動詞に「かし」を付けてその意を強調するもの。現代日本語には残っていない。
*英訳=「.., you know.」/「.., mind you.」/「.., you see.」/「.., yes.」/etc, etc.
*現代語にも残る「さぞかし(=きっと)」は近世以降の語で、必ず文中に用いるので「終助詞」ではなく「副助詞」扱いとなる。
■__のみ【のみ】『接続:{体言・連体形・副詞・助詞}』〔終助〕 (1)〈(限定)ただそれだけで他には何もない意を表わす。(断定)強調・詠嘆の意を添える。〉・・・だけである。・・・であるに過ぎない。ただ・・・のみ。 〔副助〕 (1)〈(限定)他のものを除外して、ただそれだけに限定する意を表わす。〉・・・だけ。・・・ばかり。・・・のみ。 (2)〈(強調)(他のものを除外する意を特に含まずに)文意を強める働きをする。〉特に・・・。とりわけ・・・。ただもう・・・。それはもう・・・。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【のみ】〔終助〕(1)(限定)ただそれだけで他には何もない意を表わす。(断定)強調・詠嘆の意を添える。・・・だけである。 ・・・であるに過ぎない。ただ・・・のみ。 *接続=体言。連体形。副詞。助詞。
*限定あるいは強調を表わす副助詞「のみ」(文末に置かれた場合は終助詞扱いとなる)。現代日本語の文語表現同様「ただ・・・だけ」と訳してよい場合(例:「猫<のみ>いたはる・・・ネコばっか可愛がる」)は「限定」の意味と解釈し、それでは通じない場合(例:「いたはり<のみ>せらる・・・自然と可愛がりたくて仕方ない気分になる」)は古文特有の「強調・断定・詠嘆」用法として、「それはもう・・・だ」などと訳せばよい(が、両者の区分が曖昧な場合も少なくない)。
*英訳=「only ...」/「just ...」/「nothing but ...」/「simply ...」/etc, etc.
-「のみ」と「耳」-
*文末にあって断定的力説に使われる終助詞「のみ」は、漢文訓読調の堅苦しい文章に多い。漢文に於ける限定性文字「のみ」(耳・爾・已など)の影響と考えられ、それ自体にはほとんど何の意味もない。敢えて言えば、文末に「かな」や「けり」を付ければ「詠嘆調」/「のみ」や「き」や「つ」を置けば「断定調」、といったニュアンスを添えるためにのみ使われる「雰囲気演出記号」と思えばよい。「限定:ただ・・・だけである」/「断定:とにかくもう・・・ったらないのだよ」の見分けが困難な「のみ」であるが、「耳」と置き換えて「こんなのただ置かれてるのみの字」と感じられれば「断定記号」と思えばよいだろう。
-「のみ」の「身」-
*この副助詞「のみ」の語形は、上代に、格助詞「の」+名詞「身」=「そのものズバリ」の形から生まれ、限定・強調の意を表わす語となったものと言われる。
-「のみ」と「ばかり」-
*中古の和文では、限定性を表わすには類義語の「ばかり」ばかり用いて、「のみ」は漢文などの文語のみに用いられるようになった。現代日本語に於ける口語の「・・・ばっか」/文語の「・・・のみ」の関係は、平安時代に既に確定されていたわけである。
◆【のみ】〔副助〕(1)(限定)他のものを除外して、ただそれだけに限定する意を表わす。・・・だけ。 ・・・ばかり。・・・のみ。 *接続=体言。連体形。副詞。助詞。
*「限定=他のものと区別して、ただひたすらAのみ」の意味を表わす副助詞「のみ」。現代日本語の文語表現「のみ」(例:ロン。タンヤオ<のみ>1300点!)とほぼ同じだが、古語の「のみ」には、「限定」というよりも「断定」と感じられる用例も少なくない。「他の何かとの相対比較」を含まず、ただ一つの物事のみを取り上げて断定調で力強く述べているだけの「のみ」ならば、「限定」というより「断定・強調・詠嘆」の語法・・・ということになるのだが、両者の区分は必ずしも厳密に付かぬ場合も多い。
*英訳=「only ...」/「just ...」/「nothing but ...」/「simply ...」/etc, etc.
-「のみ」と「only」の共通性-
*古語の「のみ」は英語の副詞「only」に、次の点でよく似ている:
1)「限定」と「強調」の二つの意味を持つ。
2)被修飾語との位置関係が自由である。
英文例1)I can <only> do so with his help.
古語例1)我は彼の人の助けによりてそれを為せる<のみ>。
・・・このように文末に置かれた場合、「のみ」は副助詞ではなく終助詞扱いとなる;が、その本質に変化はない。
・・・「可能」の助動詞「る」をこのように肯定形で用いられるのは、鎌倉期以降であり、中古までの(可能の)「る/らる」は「疑問文/否定文/反語」でしか用いられない。
現代語訳1A)私はあの人の助力があるからこそそれを行なえる・・・<ただそれだけ>のことです。
・・・<only>/<のみ>を「断定・強調」と解釈した場合の訳し方。この場合の被修飾語は「I can do so」/「我はそれを為せる」・・・即ち「文修飾(sentence modifier)」となる。
現代語訳1B)私にそれが出来るのは<唯一>彼の助力が得られた場合<のみ>です。
・・・<only>/<のみ>を「限定」と解釈した場合の訳し方。この場合の被修飾語は「with his help」/「彼の人の助けによりて」・・・即ち「語修飾(word modifier)」となる。
*このように、<only>や<のみ>は、どの部分を修飾語とするかによって、「限定」にも「強調」にもなり得る。英文法では「movable 'only':変幻自在にあちこちに置けるonly」として有名な現象であるが、これは古語の「のみ」にも共通する特性である。上例での「のみ」は文末以外の位置には置けないが、一般には(次例で見る通り)「のみ」は「movable」なのである:
古語例2)長雨<のみ>降る
古語例3)長雨降る<のみ>
現代語訳2)長雨<ばかり>降っている(語修飾=限定)
現代語訳3)長雨が降って<ばかり>いる(文修飾=強調)
・・・文末に「のみ」が置かれた場合、文章全体を修飾語とする感じが強くなるので、その分「文修飾=強調」に傾きやすいが、それでも「限定」の意味を表わさないとは限らないし、文中に置かれた「のみ」が必ずしも「語修飾=限定」になるわけではなく「文修飾=強調」として働く場合もある・・・とにかく「のみ」の解釈は、その名に似合わず「ただこれだけ!」と一筋縄で決め付けるわけには行かないのである。
*こうした「文修飾=強調/語修飾=限定」の紛らわしさを解消して「限定」の意味へと解釈を限定するためには、英語の場合、「only」を次の位置にずらせばよい:
英文例2)I can do so <only> with his help.
・・・が、古文の場合、この位置に<のみ>を置くことはできない・・・こうした場合は<ただ>で代用することになる:
古語例4)我は<ただ>彼の人の助けによりてそれを為せる。
・・・この場合でも、文末に<のみ>を置くことが多い:
古語例5)我は<ただ>彼の人の助けによりてそれを為せる<のみ>。
・・・こうなると、しかしまた事態は振り出しに逆戻りであって、<ただ>は「語修飾=限定・・・彼の助力こそが<唯一>の手段」の感じなのに、文末の<のみ>は「文修飾=強調・・・私がスゴいわけではなく、彼の助けがあったからこそ出来たというだけの話、<ただそれだけのこと>」の雰囲気を漂わせている・・・結局、「のみ」を使う限り、こうした「限定/強調」の二面性のシーソーゲームからは逃れられないわけである。
-「のみ」ばかりが持つ「only」性-
*上述の「限定/強調」両刀遣いの性質と、被修飾語との位置関係の変幻自在性という「英語のonlyに通じる特質」は、副助詞「のみ」にのみ備わるものであって、類義語としてしばしば言及される「ばかり」にはない。副助詞「ばかり」は「限定」の色彩が濃密で、「強調」の働きは(全然ない、とは言えないが)薄いのである。
*中古の和文では、「限定」を表わす語句としては「ばかり」が主流であって、「のみ」の影は薄かったが、そこには次のような理由が想定できるであろう:
1)「限定」にも「強調」にも変幻自在な「のみ」に対し、「限定」一本に徹する「ばかり」のほうが紛れがなくてよかった。
2)「のみ」は、その文中での位置や修飾/被修飾関係の自在性を生かして、「限定」よりは「強調」へと傾斜しがちであった。
3)「のみ」は、漢文に於ける限定性文字「耳・爾・己」にも通じ、堅苦しい響きがある男性語と意識されたので、かな書き和文には多用されなかった。
*こうした事情から、「限定性記号」としては「ばかり」が主流となり、「強調的男性語」としての「のみ」は堅苦しい文語の中に細々と残るのみ、という現代日本語の勢力図も確立されたわけであろう。
◆【のみ】〔副助〕(2)(強調)(他のものを除外する意を特に含まずに)文意を強める働きをする。特に・・・。 とりわけ・・・。ただもう・・・。それはもう・・・。 *接続=体言。連体形。副詞。助詞。
*副助詞「のみ」が、他の物事との区分の意味を含まずに、「ただひたすら・・・」のように文意を強める働きのみを演じる「強調・力説・断定・詠嘆」の語法。
*英訳=「only ...」/「just ...」/「nothing but ...」/「simply ...」/etc, etc.
-「のみ」=「simply」&「チョォー!」-
*「限定」よりも「主観的強調」に走る「のみ」は、英語に於ける「simply」に近く、昨今の日本語の感覚的力説記号「超~・・・」にも通じるところがある。
英語例)I <simply> love singing.
現代日本語例)あたしぃ、歌が<チョ~~>好き!
古文例)我、歌<のみ>愛でに愛でつ。
・・・「歌<のみ>愛す」とは言っても、「歌<以外>愛さぬ。<勉強>は愛さぬ。<仕事>を愛さぬ。<親>も<カレシ>もだぁーれも愛さぬッ!」ってわけではないので、これは「限定」ではなく「強調・断定」の「のみ」である。「めでにめづ」の畳語表現も、文末にある確述の「つ」も、この「のみ」が単に「意味を強めるのみ」の修辞法であることを力説している。
*しかし、上例のように脈絡から判別しやすい場合はともかく、「限定」と「強調」のどちらであるか必ずしも明瞭に区分できない古文も少なくない。そもそも、「のみ」の語義にはそういう曖昧性が宿命的に宿っているのだから、仕方がない・・・ので、「限定」とも「強調」ともつかず、「限定にも強調にも使える」便利な訳し方を最後に紹介しておくことにしよう:「ただ(もう)・・・」だ。
■__ものゆゑ【ものゆゑ】『接続:{連体形}』〔接助〕 (1)〈(逆接の確定条件)前述の事態が存在するにもかかわらず、それに反する後述の事態が成立する意を表わす。〉・・・のに。・・・けれども。・・・だが。・・・にもかかわらず。 (2)〈(原因・理由)前述の事態が原因・理由となって、後述の事態が成立する意を表わす。〉・・・ので。・・・から。・・・ゆえに。・・・からこそ。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【ものゆゑ】〔接助〕(1)(逆接の確定条件)前述の事態が存在するにもかかわらず、それに反する後述の事態が成立する意を表わす。・・・のに。 ・・・けれども。・・・だが。・・・にもかかわらず。 *接続=連体形。
*現代日本語にもそのまま残る「ものゆえ」、その感覚からすれば古語の「ものゆゑ」も「順接の確定条件」になりそうだが、現実の古文ではほぼ常に「逆接の確定条件」、即ち「・・・ではあるけれども」となるので、錯覚から誤読に陥りやすい要注意古語である。
*英訳=「though ...」/「although ...」/「in spite of A」/「A notwithstanding」/etc, etc.
-時代と共に移り変わる「ものゆゑ」-
*「ものゆゑ」の「順接」用法は、上代には全く存在しない:元来「逆接」表現なのである。中古に於いても逆接用法が主流であるが、「誤用」の形で順接の意味でも用いられるようになった(但し、「順接」の用例は平安期の文物にはごく僅かしか存在しない)。
*中世以降は、「順接」としての用例が「逆接」を上回るようになり、現代日本人の語感の源流をなしている・・・が、この時代にはすでに「雅語」扱いなので用例自体が少ない(それも決まって誤用なのが、いかにも日本の古語らしい・・・「来歴無視」の「見た感じ錯覚語感に依拠した恣意的言葉遣い」が古来罷り通るものゆゑ、これを見ている諸君は「ものゆゑ」の解釈は、くれぐれも慎重に・・・)。
◆【ものゆゑ】〔接助〕(2)(原因・理由)前述の事態が原因・理由となって、後述の事態が成立する意を表わす。・・・ので。 ・・・から。・・・ゆえに。・・・からこそ。 *接続=連体形。
*「ものゆゑ(に)」が「順接の確定条件=・・・なものだから」の意味を表わす用法で、現代日本語にもそのまま残る「ものゆえ(に)」、すんなり理解できるであろう・・・が、これは中世以降の語法(というより、誤法)であって、「ものゆゑ(に)」の原義はあくまで「逆接の確定条件=・・・ではあるけれども」である点を覚えておく必要がある。
*英訳=「because ...」/「as ...」/「since ...」/「for ...」/etc, etc.
-伝統歪曲こそ日本の伝統芸なれ(orなり?)-
*「ものゆゑ」の「順接」用法は上代には全く存在せず、「逆接」専用語である。中古に於いても逆接用法が主流であるが、「誤用」の形の順接例もぼちぼち出回り始める・・・それでも「順接」用法は平安期にはあくまでも「例外的」なものでしかない。
*この「ものゆゑ(に)」が「順接」の形で(誤解の形で)広く認識されるようになったのは、中世以降である。当時はすでにもう「雅語」として「古い時代の言い回し」扱いだったものを、その肝心の「平安期までの正用法たる逆接確定条件」にはせずに「順接確定条件」専用にすり替えてしまったわけで、「知ったかぶりして古いものを取り上げては、本来の形以外のものへといびつに変えての偉そうな取り澄まし顔」が「日本の伝統芸!」というしょーもない事実を思い知らされる一例ではある。
■__ものゆゑに【ものゆゑに】『接続:{連体形}』〔接助〕 (1)〈(逆接の確定条件)前述の事態が存在するにもかかわらず、それに反する後述の事態が成立する意を表わす。〉・・・のに。・・・けれども。・・・だが。・・・にもかかわらず。 (2)〈(原因・理由)前述の事態が原因・結果となって、後述の事態が成立する意を表わす。〉・・・ので。・・・から。・・・ゆえに。・・・からこそ。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【ものゆゑに】〔接助〕(1)(逆接の確定条件)前述の事態が存在するにもかかわらず、それに反する後述の事態が成立する意を表わす。・・・のに。 ・・・けれども。・・・だが。・・・にもかかわらず。 *接続=連体形。
*「ものゆゑ」に接続助詞「に」が付いただけの語である「もの故に」、その意味は「ものゆゑ」と全く同じであり、現代日本語にもそのままの形で通じそう・・・だが、そこに落とし穴がある。現代日本語感覚では「・・・ものゆゑ=・・・なものだから」という「順接の確定条件」になりそうだが、現実の古文ではほぼ常に「逆接の確定条件」、即ち「・・・ではあるけれども」となるので、錯覚から誤読に陥りやすい要注意古語なのである。
*英訳=「though ...」/「although ...」/「in spite of A」/「A notwithstanding」/etc, etc.
-時代と共に移り変わる「ものゆゑ(に)」-
*「ものゆゑ」の「順接」用法は、上代には全く存在しない:元来「逆接」表現なのである。中古に於いても逆接用法が主流であるが、「誤用」の形で順接の意味でも用いられるようになった(但し、「順接」の用例は平安期の文物にはごく僅かしか存在しない)。
*中世以降は、「順接」としての用例が「逆接」を上回るようになり、現代日本人の語感の源流をなしている・・・が、この時代にはすでに「雅語」扱いなので用例自体が少ない。それも決まって誤用なのが、いかにも日本の古語らしい・・・「来歴無視」の「見た感じ錯覚語感に依拠した恣意的言葉遣い」が古来罷り通るものゆゑに、これを見ている諸君は「ものゆゑ(に)」の解釈は、くれぐれも慎重に・・・。
◆【ものゆゑに】〔接助〕(2)(原因・理由)前述の事態が原因・結果となって、後述の事態が成立する意を表わす。・・・ので。 ・・・から。・・・ゆえに。・・・からこそ。 *接続=連体形。
*「ものゆゑ(に)」が「順接の確定条件=・・・なものだから」の意味を表わす用法で、現代日本語にもそのまま残る「ものゆえ(に)」、すんなり理解できるであろう・・・が、これは中世以降の語法(というより、誤法)であって、「ものゆゑ(に)」の原義はあくまで「逆接の確定条件=・・・ではあるけれども」である点を覚えておく必要がある。
*英訳=「because ...」/「as ...」/「since ...」/「for ...」/etc, etc.
-伝統歪曲こそ日本の伝統芸なれ(orなり?)-
*「ものゆゑ」の「順接」用法は上代には全く存在せず、「逆接」専用語である。中古に於いても逆接用法が主流であるが、「誤用」の形の順接例もぼちぼち出回り始める・・・それでも「順接」用法は平安期にはあくまでも「例外的」なものでしかない。
*この「ものゆゑ(に)」が「順接」の形で(誤解の形で)広く認識されるようになったのは、中世以降である。当時はすでにもう「雅語」として「古い時代の言い回し」扱いだったものを、その肝心の「平安期までの正用法たる逆接確定条件」にはせずに「順接確定条件」専用にすり替えてしまったわけで、「知ったかぶりして古いものを取り上げては、本来の形以外のものへといびつに変えての偉そうな取り澄まし顔」が「日本の伝統芸!」というしょーもない事実を思い知らされる一例ではある。
■〈A〉そ【そ】『接続:{連用形・動詞型活用助動詞連用形・カ変未然形・サ変未然形}』《強調の係助詞「ぞ」の元語で、副詞「な」と呼応した「な+動詞連用形(カ変・サ変のみ未然形)+そ」形で(「動詞終止形+な」形よりは穏やかな)「禁止」の意を表わす。副詞「な」を伴わず単独の「そ」だけで「きつめの禁止」を表わす語法も、平安後期以降には生じた。》〔終助〕 (1)〈(副詞「な」と呼応した「な+動詞連用形:カ変・サ変は未然形+そ」の形で)相手にやんわりと自制を求める穏やかな禁止の意を表わす。〉・・・しないでほしい。・・・してくれるな。 (2)〈(平安時代後期以降の用法)(副詞「な」と呼応しない「動詞連用形+そ」の形で)「な・・・そ」よりもきつめの禁止の意を表わす。〉・・・するな。・・・するのはやめろ。・・・してはならない。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【そ】〔終助〕(1)(副詞「な」と呼応した「な+動詞連用形:カ変・サ変は未然形+そ」の形で)相手にやんわりと自制を求める穏やかな禁止の意を表わす。・・・しないでほしい。 ・・・してくれるな。 *接続=連用形(カ変・サ変のみ未然形)。
*副詞の「な」と呼応して、「な+動詞(連用形)+そ」の形で「穏やかな禁止命令文」を形成する語法。
*英訳=「please do not ...」/「don't .., please」/「I'd hate it that you should ...」/etc, etc.
-平安末期以降の誤用としての「・・・そ」による否定命令文-
*終助詞「そ」は、係助詞「ぞ」の遠い昔の祖先であるから、その表わす意味は単なる「強調」のみ・・・即ち、「な+・・・+そ(=・・・するな)」構文の「否定」の意味は「な」が受け持つものであって、「そ」は強調のために末尾に添えられただけの整調語でしかない。
*にもかかわらず(さすがは日本語、というべきか)、「な+・・・+そ」の構造から冒頭の「な」が消失した「・・・+そ」の形のみで「・・・するな」の意を表わす間違い用例が、平安時代も末になると出現するようになる。
*当時の文物は、原板から大量出版される活版印刷ならぬ、手書き写本の形で人から人へ、ある時代から次代へと伝えられるものだったため、写本者の誰か一人がうっかり「な」の書き漏らしをすれば、そのインチキ表記がまた次なる写本へとそのままの形で伝わる・・・そうした「粗漏の産物」は古語に数多く残るが、この「・・・そ」のみの禁止命令文もまたその一つとみなすことができよう。
-和語には希有なる「な+・・・+そ」の語順の異質性-
*そうしたわけで、「・・・そ」による否定命令文の粗略さそのものは(純粋な論理性から見て)溜息を誘うばかりの代物でしかないが、そうしたいい加減な形にせよ、冒頭の「な」が担うべき否定の役割が文末の「そ」へとすり替わったこの現象そのものの背後には、見るべきものがまた宿っている・・・そうした「見えない原因」の観察所見としてでなければ、単なる「愚かな現象」の揚げ足取りなど、現象そのものの醜悪さ以上に蔑むべき「鬼の首でも取ったかのような得意気な振る舞い」と指弾されて当然なのだから、ここからはいよいよその「現象面から原因面へ」の掘り下げツアーの開始である・・・例によって、「外国語の鏡に映して」見てみよう。今回は、毎度お馴染みの「英語」ではなく、「仏蘭西語」が主役である:
仏語)<Ne> parlons pas de malheur.
英語)Do <not> say evil things [or something bad may really happen.]
古語)禍言<な>言ひそ。
現代和語)不吉な事は言う<な>(さもないと、凶事が本当に起こるかもしれないぞ)
関西弁のオマケ)ケッタイ(卦体が悪い)なこと言い<な>[ぁゃ]。
*< >で括った部分が「否定辞」である。こうして並べるとよくわかる特色として、次の諸点を挙げることができる:
1)日本語では、否定の意味を担う語句は、今も昔も<な>である。
・・・先述の「・・・+そ」の否定命令文の非論理性はこの事実からも再確認できる。
・・・ところが、実に面白いことに、否定辞に関しては、英語の<not>もフランス語の<ne>も、和語の<な>と酷似した「N」系語である。反対の意思表明の「No!」もそうであるし、ロシア語の「Niet!(ニエット=否)」もまた然り・・・どうも「エヌ音」は ― 日本語の「なし」も含めて ― 「無」へとつながる音のようである・・・nihilism・・・null・・・and then there was none...
2)西欧言語では、文意が「否定」である旨は文頭で明示するが、和語は最後の最後まで「否定?肯定?」がわからない構造である
・・・フランス語は第1語目<Ne・・・NON!・・・これは、あってはならぬこと!>で/英語でも第2語目<not・・・NO!・・・だめだよ、これをしちゃあ!>で、その文章が持つ<否定の指向性>を早々と明示している。
・・・これに対し、和語の否定辞<な>が登場するのは文章の最後である:「賛成<YES!>なわけ?それとも反対<NO!>なわけ?」という態度表明が最後の最後まで行なわれないじれったさがあるわけで、西欧言語で育った人々にとっての日本語構造(&日本人の行動様態)の最もケッタクソ悪い(=卦体糞悪い)点の一つである。
・・・が、そんな和語の中でも、古語の<な+・・・+そ>は、やや特異な構造を有している点にお気付きであろうか?・・・そう、この否定表現に限って、否定辞<な>が、動詞「・・・」よりも先行しているのである。改めて眺めてみよう:
古語)<な>+言ひ(連用形)+<そ>・・・フランス語の「<Ne>+parlons+<pas>」と全く同じ構造である
現代日本語)言う(終止形)+<な>・・・これは、英語の古式否定文「Speak+<not>」と同じ構造。
現代関西ことば)言い(連用形)+<な>・・・連用形「言ひ」の形で後続の終助詞<な>に続くのは非文法的(「な」は終止形接続のはず)だから、これは「<な>+言ひ(連用形)+<そ>」(連用形接続の終助詞)の<そ>を「時代遅れの死語」として切り捨て、代わりにその位置に<な>を置いた簡便話法であると考えるべきであろう。
・・・現代日本語(非関西ローカル)ではまた「んなこと言い<な>さん<な>」なる言い回しもあって、表面的にこれは「言い+なさる+な」の形ではあるが、本質的には「言ひ+<な>」という「動詞連用形+<な>の違和感」を解消するための「逃げ口上」であろう。
-「<な>+動詞連用形」による<そ>なし否定命令文-
*そうした「動詞連用形+<な>」の現代関西弁とは逆の「<な>+動詞連用形」の語形で、末尾に<そ>を伴わない否定命令文もかつて ― 奈良時代(=上代)の日本には ― 存在した・・・というよりも、この語形こそがすべての始まりであって、その末尾に強調の係助詞<そ>を伴った「<な>+動詞連用形+<そ>」は後から(=平安期に入ってから)登場したのである。
*が、そもそも<な>だけで否定の意を表わすはずの表現の文末に、どうして<そ>が添えられることになったのか?・・・問題はここである:即ち、冒頭部で<な>と言っただけでは、「この文章は否定文」ということが(文末段階ではすでにもう)忘れ去られてしまうのではないか、と心配になったので、末尾に強調の<そ>を添えることで、相手に対して「・・・ということ・・・を、してはいけない、のですよ!」と再度力説したかったからこそ、否定の含意があるわけでもない<そ>が最後の最後になってまた引っ張り出された、という絡繰りをそこに読み取ることができるわけである。
*より本質的な言い方をすれば、日本語・日本人は、「文末の形」を見て「肯定(YES)/否定(NO)」の方向性を確認するのである・・・冒頭部の<ne>/<not>を以て「否定の方向性」を最初から明示する西欧言語/西欧人とは、言語学的にも思考パターンとしても、全く正反対の立ち位置にいるのが日本語/日本人なのであって、彼らの立場は「最後の最後にどう振る舞うか」で決するのであり、「最後の最後まで態度は保留」が(言語学的にも社会学的にも)日本流のやり方なのである。
*こうした本質的「後出し指向」ゆえにこそ、次のような言語学的亜種が様々生まれることになったわけである:
亜種1)否定辞先出しの「<な>+動詞連用形」(上代限定表現)のみでは物足りずに、「<な>+動詞連用形+<そ>」の(平安調)語形が生まれた。
・・・平安期の古文の中で受験生が最もよくお目にかかる形がこれであるが、この「な・・・そ」は主に女性が好んだ言い回しと言われる。男性は、次に示す形を好んだらしい:
亜種2)否定辞は先出しせず、後置き形の「動詞終止形+<な>」にして禁止を表わす語形が生まれた。
・・・この「後出しタイプ」こそ和語に最も相応しい形であることは、現代にまで脈々と引き継がれる「和製否定文の定型」となっていることからも確認できるであろう。この形では当然、「文末の<そ>」は駆逐されて影も形もない。本来その<そ>が担っていた「強調」の語感を<な>が引き継ぐこととなっているので、二段構えの「<な>+動詞連用形+<そ>」の表現よりも、「動詞終止形+<な>」の語形では<な>に否定の意味+力説の響きが二重に宿ることになり、その力強さから「男性的命令文」とみなされたので、平安女流文学の中では(男性語として以外は)まずほとんど用いられない。現代日本語でも「言うな!」の「終止形+な」表現が使われる場合よりむしろ、「言わないで」の「未然形+なし+α」や「言うのはやめてくれ」のような「連用形+否定表現+α」の方が圧倒的に多いという事実に鑑みれば、「な+動詞連用形+そ」 > 「動詞終止形+な」という古典時代の勢力図もまたすんなり納得できるであろう。
亜種3)否定辞<な>の代用品として、文末の<そ>に否定の働きを持たせた「動詞連用形+<そ>」の否定命令文が生まれた。
・・・先述した通り、これは誤用であるが、「否定の意味は、文末に置かれる語句に宿るもの」という和語の特性を証明するものであることを改めて確認できる事例ではあろう。それが<な>であろうと<そ>であろうと、「文末にあって、それまでの文章の意味全体を否定の色に染めるもの」が、日本語の否定文には付き物なわけである。
亜種4)「動詞連用形+<そ>」の語形の<そ>には否定の含意がないことに鑑みて、<そ>→<な>に変えた現代関西弁「動詞連用形+<な>」の否定命令文が生まれた。
・・・これも先述した通り、文法的には「動詞終止形+<な>」になっているべき破格表現だが、元来の語形「<な>+動詞連用形+<そ>」が持っていた「婉曲な否定」の響きを「連用形」を通して引き継ぎたかった、という意識が働いてのことであろう。「それを言うな!」vs.「んなこと言ぃいなァ(ゃ)・・・」の語感の相違を体感できる現代(主に、西)日本人なら、表面的非論理性の陰に宿った言語学的必然性を感じ取ることができる表現が「動詞連用形+<な>(+間投助詞「や」・・・この場合は"関西助詞"と呼びたい感じ)」である。
-「な」の祖先は「無(な)」・・・その「無」から生まれた助動詞「ず」-
*文末に置かれて全文を否定一色に染める「な」は「終助詞」とされ、「な+動詞連用形[+そ]」の形で動詞直前に添えられて否定の意とする「な」は「副詞」とされるが、文中での位置や機能に応じて変わる呼び名はともかくとして、これら2語が語源学的にも機能上も同じものであることは言うまでもなく、その共通の祖先は形容詞「なし」の語幹の「な・・・無」である(対義語は当然「あり・・・有り・存り・在り」)。
*この「な」・「ne」・「not」・「niet」などの「N系語」が、否定辞として言語の違いを越えて西欧語にも共通する不思議な現象は上で指摘した通りであるが、形容詞としての「なし」以外にも、古語ではこの「N系」、打消助動詞「ず」(の一部)としても次のような形で機能している点を確認しておこう:
{な(ず)・に(ず)・ず・ぬ・ね・○}
・・・ここから先の主役は「そ」でもなければ「な」でもなく、打消助動詞「ず」の確認編である。
*さて、この「ず」は実に面白い語であって、上記の「N系」の他に以下のような(後発型の)「Z系」活用が同居している(連用形の「に」+形式動詞「す」=「にす」が化けて「ず」になった、とされている):
{ざら・ざり・ず・ざる・ざれ・ざれ}
*終止形の「ず」が最初に成立し、そこに「あり」の様々な活用形を付加した「ず+あら=ざら」(未然形)・「ず+あり=ざり」(連用形)・「ず+ある=ざる」(連体形)・「ず+あれ=ざれ」(已然形・命令形)が加わった形である。
・・・以下、打消助動詞「ず」の本源的形である「N系」について考察することにしよう:
*上の「N系」活用表のうち、連用形としての(ず)を(カッコ付き)にしたのは、それが本来の「N系」ではなく、そこから派生した後発の「Z系」だからである。これ以外にも、その変則性ゆえに注釈が必要な活用形が、「ず」には数々存在する・・・以下、しらみつぶしに見て行こう。
-「ず」命令形に関する不思議-
*「N系」の「ず」には、命令形は存在しない;こうした場合、古語辞典の活用表は○となる。相撲の星取表では「白星=勝利」だが、動詞・助動詞活用表では「黒星=不在」に相当する記号である。
*では、なぜ「命令形が存在しない」のか?それは、「ず」の性質によるものである。一連の事態「・・・」の記述が終わったところに付け加えて「・・・ではない」の形で文意を否定一色に染めるのが「ず」の性質である以上、その事態「・・・」自体は常に成立してしまうのであって、この事態の成立自体を「ず」で打ち消して「・・・をnullify(無効)にしてしまえ!」などと命令すれば、記述そのものが元も子もないことになってしまう。従って、「ず」には(少なくとも「N系」としては)本源的に命令形がなかったのである。
*それでも敢えて「・・・」という事態の成立に対して否定的な命令文を形成するには、「ず」一語だけでは論理的に無理だ:「・・・<ず>」としてまず「・・・ない」という事態を「成立」させてしまった後に、「そのような(というか、そうでないような)状態で<あれ>」とする二段構え表現が必要になるのだ。そこから生まれた「・・・ず+あれ」が1語化したものが「・・・ざれ」という(「後発Z系ず」の)表現であって、これが一般には「ず」の「命令形」と呼ばれている。
*が、よくよく考えてみればこれもヘンな話であって、上で確認した通り「あり・・・有り・存り・在り」と「な・・・無・・・から生まれた<ず>」は対義語なのだから、「・・・<ず+あれ>」の表現は「マイナス+プラス」・「物質vs.反物質」・「水と油」・「コブラとマングース」みたいな呉越同舟のライバル語どうしの共存状態、何とも矛盾をはらんだ表現ということになる。「行け行け飛雄馬、Don't行け!」(from『巨人の星』主題歌、ちょい改変)みたいな感じで、行くべきか行かざるべきか、本質まで突き詰めて見つめると何とも迷ってしまう戯れ言ふう表現が「・・・ざれ」なのだ。
*が、現実にはこの種の迷いに悩む必要はほとんどない:「ず」命令形としての「ざれ」が用いられる場合は実はほとんどなく、実際には上でさんざん考察した次のような形こそが「否定命令文」としては常用されるのだから:
1)「な+動詞連用形」/2)「な+動詞連用形+そ」/3)「動詞終止形+な」/4)「動詞連用形+そ」 (関西版号外 5)「動詞連用形+な」)
-打消助動詞「ず」の未然形「ず」の扱い-
*未然形としての(ず)もまた「Z系」としてカッコ付きだが、この活用形については「未然形の"ず"そのものが存在しない」とする学説もある。その理由についても考察してみよう。
*「未然形」とは、「未だ然らず=いまだしからず・・・まだそういう状態になってはいない」の意味である。いわば「可能性の卵」の形であり、以下のいずれかの形を取って初めてその意味が確定する:
未然形の機能Ⅰ)<未然形+打消助動詞(ず)>の形で、「・・・ではない」意味を表わす。
・・・「ず」の未然形が、直後に自分自身(「ず」)を従える道理はない。
未然形の機能Ⅱ)<未然形+「ず」以外の各種助動詞>の形で、何らかの意味を添える。
・・・この形でもまた、打消助動詞「ず」の未然形が、後続部に他の助動詞を従える道理はない。既に上でじっくり見てきた通り、打消助動詞「ず」は「記述の最後にあって、全文の意味内容を否定一色に染める語」(数学で言うところのnull:ヌル記号)であるから、他の助動詞と「ず」が共存する場合でも、その助動詞の意味を否定に染めたければ、必ず<他の助動詞の未然形+ず>(例:「たら+ず」・「なら+ず」・「べから+ず」・「られ+ず」・「れ+ず」)の語順となり、<ず(未然形)+他の助動詞>の語順にはなり得ないのである。
・・・<ず+他の助動詞>の語順になっている例に於いては、必ず<ず+あり+他の助動詞=ざり+他の助動詞>の形であって、そこでの「ず+あり=ざり」は「未然形」ではなく「連用形」であり、<文末の「ず」による否定化作用>が既に完了した後に、他の助動詞が続く形となっているのに過ぎないのだ:
例Ⅱ)「然りとは知らざらむ=<然りとは知らず>+あら+む・・・<そうであるとは知らない>状態であるのだろう」
・・・この例では、助動詞「ず」の否定作用は直前にある動詞「知る」の未然形「知ら」に対して及ぼされているが、後に続く助動詞「む」の作用が助動詞「ず」に対して及ぼされているわけではない:<然りとは知らず>という文章全体に対して「そうなのだろう」という形で及ぼされる文修飾の形であり、そうした形で「ず」と「む」がつながるための方便として「ず+あら」の語形から転じた「Z系ず」の「ざら」が生まれたが、その祖形に於ける「ず+あら」は「連用形+あら」であり、結果として生じた「ざら」が「未然形」であるとしても、後に助動詞「けり」が続くとはいえ「(未然形の)ず+(助動詞の)む」の形になっているとは言えない:本源的には「(連用形の)ず・・・+(未然形の)あら+(助動詞の)む」の形でしかないから、<「ず」の未然形として「ざら」がある>と言うことは可能でも、<「ず」の未然形として「ず」がある>とは言えないわけである。
未然形の機能Ⅲ)<未然形+接続助詞「ば」・・・古くは「は」>の形で、「もし・・・ならば」の意味(順接の仮定条件)を表わす。
・・・実に、この機能に於いてのみ、「ず」の未然形を認める必要が生じるのである。
*次の(『古今和歌集』にある在原業平の歌である)例文を見てみよう:
「今日来ずは 明日は雪とぞ 降りなまし 消えずはありとも 花と見ましや(・・・春の庭に咲く花は、雪と見まごうばかりだなぁ。今日こうして来てみれば、なるほど花だとわかるけど、明日来てみたなら雪のように消え去って跡形もないだろう。いや、たとえ散らずに残っていても、雪と見分けが付かなくて、花としてこれを賞美できるかどうか、怪しいものだ)」(春上・六三)
例ⅢA)「今日来<ず><は>=もしも今日来<ない><としたら>」
・・・上例に於ける「来ず+は」の形は、「未然形+は」である(「連用形+は」ではない!)。「仮定条件」の形としては一般的な「未然形+ば」の濁音形ではないが、「来ずは」→「来ずんば」→「来ずば」の形で(中世初期には)「ず+ば」で通じる形となる。
*もし上例の「は」を係助詞として捉えれば、その直前の「ず」は「連用形」となり、「未然形」ではないことになる。そうなると上の「ず+は」は、「未然形+は」ではない「連用形+は」ということになるわけだ・・・が、同じ「ず+は」の形であっても、次例の「連用形+は」とは質的に全く異なることに気付かねばならない:
例ⅢB)「消え<ず><は>ありとも=たとえ消えずに存在しているとしても」
・・・この「は」は、「もし・・・ならば」の意を表わす「接続助詞」ではなく、語調を整えるためだけに置かれた「係助詞」でしかない:その証拠にこの「は」を取り去って次の形にしても(語調こそ変わるが)意味は全く変わらない:
例ⅢC)「消えずありとも」
・・・この場合の「消え<ず>」は、直後の用言(あり)へと連結する形だから「連用形」であって「未然形」ではない。「ず+あり」をまとめて「ざり」へと化けさせてしまってもやはり「連用形」であって、「未然形+は」による「順接の仮定条件」とは異質のものである。「消えずはありとも」部の意味は「散らずに残っていたと仮定しても」の「仮定条件」だが、その「仮定条件」を表わす働きを担うのは「ずは」ではなく、後続の接続助詞「とも」の機能であって、係助詞「は」には「仮定条件」を表わす機能が全くない点に注意を促しておきたい。
*これに対し例ⅢA)「今日来<ずは>」の表現に於いては、「ず+は」が「順接の仮定条件」を表わしている。そして、その仮定条件の働きを担っているのは間違いなく「は」である:即ち、この部分での「は」は係助詞(=単なる整調語)ではなく接続助詞(=前後の文章を一定の関係でつなぐ語)であるとみなすのが当然の考え方であり、その「接続助詞」としての「は」につながって「仮定条件」を表わす「ず」は「未然形」であって「連用形」ではない、と結論するのが文法的に正しい考え方である。
*もしこの「ず」を「連用形」とみなしてしまえば、<「仮定条件」=「未然形+は/ば」>という大原則に対し、<「ず+は/ば」(+「なく+は/ば」)の場合だけは「連用形」接続>という唯一の例外則を付記せねばならなくなる・・・たった一つの「特例」でパッチを当てればとりあえず「原理」のほころびはふさげるだろう、という取って付けの(古語で言えば「うちつけなる」)考え方であるが、「文法」は、こうしたところから「便法」化し、崩壊して行くものなのである。
*もし「たった一例」の重みを生かすつもりなら、<「(連用形の)ず+は/ば」なる変則的一例>に固執するよりも、<「(未然形の)ず+は/ば」という原則に忠実な一例>を「たった一つしかないから」という理由で排除せずに直視し、<打消助動詞「ず」の未然形としての「ず」は、唯一「・・・ずは/ずば」の形で「もし・・・ないならば」の順接の仮定条件を表わす場合のみに出現する語形・・・それ以外には「(未然形)ず」の出番なし>という形で<一例>に敬意を表するのが正しいやり方というものであろう(・・・が、日本の古文業界は必ずしも「正しいこと」に敬意を表さず、この「ず」は「連用形!」/それに続く「は」は「係助詞!」と強弁したりするから、論理に依拠して学習を進めようとする学究の徒としては何とも困ってしまうのだ・・・)。
-「ず」の「N系」活用の個別的要注意語法-
*さて、「命令形」・「未然形」の考察だけでずいぶんと深入りしてしまった感じだが、改めて、助動詞「ず」(の「N系」活用)の特徴的な働きを以下に整理してみよう:
1)未然形「な」
・・・単独の「な」は、古文の中では何の働きもしない、と言ってもよいだろう。唯一注意すべきはその「な」に「く」が付いた「ク語法」と呼ばれる(上代の)名詞化表現で、「・・・なく=・・・ないという事」の形を取るが、これは更に逆接の接続助詞「に」を伴った「・・・なくに=・・・ないというのに」の定型表現として棒暗記するのが得策である。この定型句は存外重要なので、しっかり大学受験生の印象に残るよう、現代大学生標語風(おとこのこむき)の例文をプレゼントしとくからしっかと心に刻むように ― 「何故にいく金もあら<なくに>歌舞伎町・・・身のみにて足る女にもあら<なくに>」(2010 COPYRIGHT 之人冗悟:Noto Jaugo・・・品行方正な女子の前ではあまりうたわぬように)
2)連用形「に」
・・・連用形が「に」になるのは助動詞「なり」と同様で、語形的には格助詞・接続助詞(上代には終助詞でも用いた)「に」とも同じだが、打消助動詞「ず」連用形としての「に」の用法は、実に、次の2例のみに限られるので、これまた「棒暗記要員」である:
2A)「・・・がてに=・・・できないままの状態で」
・・・本来は清音の「かてに」であり、その組成は上代の補助動詞「かつ=・・・可能」+「に=・・・不可能」の組み合わせ。「出でがてに=出るに出られず」等の表現で、平安期の古文にもそれなりに頻出するので、あだやおろそかにせぬ用心が必要な定型句である。
2B)「知ら+に=・・・知らずに」
・・・これまた定型句だが、上代の文献に限定されるので、平安期以降に偏る傾向のある入試古文では無視してよい形。唯一、この「に」に「す」が付いた「にす」が、終止形「ず」の語源となっている、という点には敬意を表すべきかもしれないが、これまた「アダムとイブが引っ付いて子が生まれたのが人類の始まりなのだから、敬いなさい(・・・神様の言いつけ守れずにエデンの園を追われたしょーもない祖先だとしても)」というような迂遠すぎてピンとこない話ではある。
3)終止形「ず」
・・・上述の古式連用形の「に」に形式動詞「す(為)」が付いた「に+す」が転じたものが「ず」の始まり(終止形)と言われる。そこから(さらに「あり」を介した「ず+あら」・「ず+あり」・「ず+ある」・「ず+あれ」・「ず+あれ」の活用形をも加える形で)次の「Z系」の「ず」の活用が生じた:
{ざら・ざり・ず・ざる・ざれ・ざれ}
・・・こうして、本来「N系」から発達した「ず」だが、やがて「Z」系が主力の助動詞となり、元来の「N系活用」の中では(上述の上代語としての「未然形」・「連用形」は衰えたので)、次の2つのみが残ることとなった:
4)連体形「ぬ」
・・・直後には「名詞」を従える。現代日本語でも文語表現として残る語である(例:「口語=知らない人/文語=知らぬ人」)。
5)已然形「ね」
・・・前後の語句に応じて、次のように意味が二分する:
5A)「逆接の確定条件」
・・・直後に逆接の接続助詞「ど/ども」を従えたり、逆接語句を伴わずに「中止法(=その部分で一旦文章を停止する形)」で、「・・・ないけれども」の意味を表わす。
*後者の(逆接接続助詞を伴わない已然形のみの)「中止法・・・ないけど」は、多く「Aこそ・・・ね」の形の「こそ+已然形係り結び」を取るが、「は/も・・・ね」の形(例:「名<は>知ら<ね>」)もある。意外なところでは、現代日本語の(主に女性語の)「・・・かしらね」の表現の祖先が「・・・か(は)知らね(ども)=・・・かどうか定かではないが」という事実もある。
5B)「順接の確定条件」
・・・直後に順接の接続助詞「ば」を従えて、「・・・ないので」の意味を表わす(例:「世の中を 憂しと恥しと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあら<ねば>」『万葉集』五・八九三・山上憶良)。
*「已然形」そのものの働きは本来「逆接」である。上述5A)の「中止法」の「ね」が逆接確定条件になることからもそれはわかるであろう(例:「人はいさ心も知ら<ね>・・・人の心はどうかはよくわかりませんけど」)。従って、この「<順接>確定条件・・・ないので」の語法は、「ね」の已然形が表わすものではなく、接続助詞「ば」に全面的に依存する用法である・・・その証拠に、「已然形=逆接」の語感が確実に生きていた上代に於いては、上の憶良の歌と同じ「ね+ば」の表現でも「<逆接>の確定条件・・・ないけれども」になる例も確認されている。時代が下るにつれて、「已然形」本来の機能である「逆接=直前までの記述とは異なる内容の記述を後に続ける」は忘れ去られ、「ど・ども」を従えれば「逆接」/「ば」を従えれば「順接」という形へと形骸化して行ったのが「已然形」である・・・そうして、中世(鎌倉期)以降には「已然形+ば=・・・ならば」という(本来ならば「未然形+ば」が担っていたはずの)「仮定条件」表現専用語としての道を辿った挙げ句の果てに、現代日本語文法では「已然形=既に、然り」の名が「仮定条件」には不似合いだからという理由で、「已然形→仮定形」という名称変更までをも施されるに至ったわけである・・・が、「已然形」本来の機能は「逆接」であることは、ここで再確認しておくべきであろう。
*いかがだったであろうか・・・本来終助詞「そ」の解説だったものが、係助詞「ぞ」/副詞&終助詞「な」/打消助動詞「ず」の解説(+友情出演の「こそ」/「ど・ども」/「ば」/「とも」/マングース・星飛雄馬・アダム&イブ等々)へと思い切り脱線してなだれ込んでしまったが、語学とはそうした雪崩現象の連続の中で展開して行くものであり、板書+講義の一本道の上をすんなり進行する性質のものでは全くないのである。一定のカリキュラムに沿って効率よく何かを教え込む教場型授業で身に付くのはごくごく初歩的な「読み書きそろばん」のみであって、本格的な学問は、呆れ果てるほどの幅と深さをもった寄り道の連続の中からしか生まれないものなのだ・・・英語の「school:スクール=学校」や「scholar:スカラ=学者」の語源となった古代ギリシア語の「skhole:スコレ」の意味は、「Hold back...保留。まだいまいち、納得できないとこあるから・・・Stop!ちょっと待って!・・・We should rest here, shall we?ここでちょっと長居してみない?・・・at leisure.たっぷり時間取って、さ」である・・・が、諸君に、それが出来るであろうか?・・・スケジュール通りにずんずん進みたがる学校や塾ではそれが「出来ぬ相談」であることは今更言ふべきにもあらねど、『扶桑語り』にてはいかならむ?・・・学びの「深さ・広さ」は当方で保証する:「濃厚なる時の使い方」と「執念深さ」だけは、あふなあふな(ounouno=おのおの)、おいおい身に付けてくれたまえ。
◆【そ】〔終助〕(2)(平安時代後期以降の用法)(副詞「な」と呼応しない「動詞連用形+そ」の形で)「な・・・そ」よりもきつめの禁止の意を表わす。・・・するな。 ・・・するのはやめろ。・・・してはならない。 *接続=連用形。(カ変・サ変には未然形に付く)
*終助詞「そ」が文末に置かれ、本来ならば呼応するはずの副詞「な」を受けることなしに(呼応した場合よりも若干きつめの)「禁止」の意を表わすもの。平安時代後期以降の「誤法」で、現代日本語では死語である。
*英訳=「Do not ...」/「Never ...」/「You must not ...」/etc, etc.
■__にて【にて】『接続:{体言・連体形}』〔格助〕 (1)〈(地点)動作・作用の舞台となる空間的な場を表わす。〉・・・に於いて。・・・で。・・・に。・・・の場で。 (2)〈(時点)動作・作用の発生する時間的な場を表わす。〉・・・の際に。・・・の時に。・・・の折に。・・・の場面で。・・・に。 (3)〈(手段)動作・作用を行なう上での方法・手段・材料などを表わす。〉・・・によって。・・・を用いて。・・・を使って。・・・で。 (4)〈(原因・理由)前述の事柄が、後述の結果を招くことになる意を表わす。〉・・・ゆえに。・・・のせいで。・・・・のおかげで。・・・によって。・・・のために。 (5)〈(様態・立場)その場の様子・状況を表わす。また、資格・地位などを表わす語の直後に用いて、そのような存在として判断・処遇・行動する意を表わす。〉・・・の様で。・・・として。・・・の様子で。・・・状態で。・・・で。・・・ということで。・・・の資格で。・・・の立場で。・・・役で。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【にて】〔格助〕(1)(地点)動作・作用の舞台となる空間的な場を表わす。・・・に於いて。 ・・・で。・・・に。・・・の場で。 *接続=体言。
*場所を表わす名詞に付いて、動作・作用の舞台となる空間的な「場」に言及する格助詞「にて」の用法。現代日本語にも文語体として引き継がれているもの(例:「詳細はWEB<にて>」)だが、一般的には「にて→んて→んで→で」と転じた「で」(例:「くわしくはホームページ<で>」)の方が現代日本人には座りがいい。
*英訳=「at/on/in/etc, etc. A」
◆【にて】〔格助〕(2)(時点)動作・作用の発生する時間的な場を表わす。・・・の際に。 ・・・の時に。・・・の折に。・・・の場面で。・・・に。 *接続=体言。
*時間・年齢等を表わす名詞に付いて、事態の発生する時間的な「場」を表わす格助詞「にて」の用法で、「・・・の場面で、・・・の際、・・・の時に」と訳す。単独の「・・・に」と同じ意味を表わし、現代日本語には「にて→んて→んで→で」と転じた「で」として引き継がれている(例:「挑戦二年目<で>ようやく合格した」)。
*英訳=「at A」/「when A」/「being A (participial construction)」etc, etc.
◆【にて】〔格助〕(3)(手段)動作・作用を行なう上での方法・手段・材料などを表わす。・・・によって。 ・・・を用いて。・・・を使って。・・・で。 *接続=体言。連体形。
*現代日本語にも(文語で)残る「手段」の用法の「にて」(例:「お支払いは銀行振り込み<にて>お願いします」)。「によりて」でも同じ意味になるし、「によって」と訳せばすんなり現代語にもつながる(が、一般的には「で」で換言したほうがすっきりする)。
*英訳=「by A」/「through A」/「by means of A」/「by virtue of A」/「in virtue of A」/etc, etc.
◆【にて】〔格助〕(4)(原因・理由)前述の事柄が、後述の結果を招くことになる意を表わす。・・・ゆえに。 ・・・のせいで。・・・・のおかげで。・・・によって。・・・のために。 *接続=体言。
*直前に述べられた内容が「原因・理由」となって、直後の事態が成立する意を表わす格助詞「にて」の用法。現代日本語には引き継がれておらず、「で」・「なので」等となる(例:「猫は畜生<にて>言葉使はず→猫は畜生<なので>言葉は使わない」)。
*英訳=「due to A」/「because of A」/「on account of A」/「thnaks to A」/「owing to A」/etc, etc.
◆【にて】〔格助〕(5)(様態・立場)その場の様子・状況を表わす。また、資格・地位などを表わす語の直後に用いて、そのような存在として判断・処遇・行動する意を表わす。・・・の様で。・・・として。 ・・・の様子で。・・・状態で。・・・で。・・・ということで。・・・の資格で。・・・の立場で。・・・役で。 *接続=体言。
*格助詞「にて」が「立場・資格・様態」を表わす語法(例:「隠密同心・心得の条、我が命我がものと思はず、武門の儀あくまで陰<にて>、己の器量を伏し、御下命如何にても果たすべし。尚、死して屍拾ふ者無し。」)。この「にて」が「んて→んで→で」となって現代語「で」となったのだから、訳し方も「・・・で」で通じる。解釈の際には「・・・状態で」として考えた上で、適当な訳語を宛がえばよい。
*英訳=「as ...」/「being ... (participial construction)」/「...ing (participial construction)」
-英語の(付帯状況的)補語に相当する「にて」-
*この格助詞「にて」は、その組成として「に」を含み、断定助動詞「なり」連用形にも通じる語法であるから、英文法上は「補語」=「be動詞でつないで前後の記述が意味上通じる語」と考えればよい。
*英語の「be動詞」は古語では「なり」であるから、「Aにて」の表現を「Aにて+あり」=「Aなり」として意味が通じるようなら、「様態・立場・資格」の語法とみて「・・・として/・・・状態で」のように(英文法で言えば「分詞構文」の「付帯状況的補語・同時進行」の解釈で)訳せばよい。
「付帯状況的補語」の英文例)Never would I see her <as> one of those guys, I would come back somebody, someday.
現代語訳)そんじょそこらにいる連中の一人<として>彼女に会うことはするまい、いつの日か、いっぱしの人物<として>きっと戻ってくるぞ。
・・・最後のsomebodyも、直前に<as>なり<being>なりを補って解釈可能なので「付帯状況的補語」である。
■__ばかり【ばかり】『接続:{体言・連体形・終止形・副詞}』〔副助〕 (1)〈(数的概算)(数量を表す語に付いて)おおよその数を表わす。〉約・・・。・・・ぐらい。・・・ほど。・・・ばかり。・・・程度。 (2)〈(時間的概算)(時を表す語に付いて)おおよその時を表わす。〉・・・頃。・・・あたり。 (3)〈(空間的概算)(場所を表す語に付いて)おおよその場所を表わす。〉・・・辺り。・・・近辺。・・・周辺。 (4)〈(程度)(主に用言の終止形に付いて)動作・状態の程度を表わす。〉・・・ほど。・・・ぐらい。・・・ばかり。 (5)〈(最高の程度)(「・・・ばかり・・・はなし」の形で)それ以上のものは他にない意を表わす。〉・・・ほど~なものはない。・・・こそは最も~だ。 (6)〈(限定)(体言に付いて)それだけに限定する意を表わす。〉・・・だけ。・・・のみ。 (7)〈(上限)(主に用言の連体形に付いて)それ以上ではない意を表わす。〉ただ・・・に過ぎない。ほんの・・・でしかない。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【ばかり】〔副助〕(1)(数的概算)(数量を表す語に付いて)おおよその数を表わす。約・・・。 ・・・ぐらい。・・・ほど。・・・ばかり。・・・程度。 *接続=体言。
*副助詞「ばかり」の「概算」用法。数量を表わす名詞の直後に置いて「約・・・」の意を表わす。現代日本語にも(ややくだけた調子で)「少し<ばかり>」のようにそのまま残っている。
*英訳=「about A」/「some A」/「near A」/「approximately A」/「somewhere around A」/「in the vicinity of A」/「A to give or take a few」/etc, etc.
*副助詞「ばかり」の原義は文字通り「計り・測り」であるから、「おおよその分量は・・・あたり」という感覚の語義である。
◆【ばかり】〔副助〕(2)(時間的概算)(時を表す語に付いて)おおよその時を表わす。・・・頃。 ・・・あたり。 *接続=体言。
*「時」を表わす名詞に付いて、おおよその時間・時期を表わす「時間的概算」の副助詞「ばかり」の用法。現代日本語にも「2年<ばかり>サラリーマンやって、今、フリーター」みたいな表現で残っている。
*英訳=「about A」/「some A」/「something around A」/「near A」/「approximately A」/「towards A」/「in the vicinity of A」/「A to give or take a few」/etc, etc.
◆【ばかり】〔副助〕(3)(空間的概算)(場所を表す語に付いて)おおよその場所を表わす。・・・辺り。 ・・・近辺。・・・周辺。 *接続=体言。
*副助詞「ばかり」の用法としては少数派の「空間的概算」の用法で、「場所・位置付け」を表わす名詞に付いて「おおよそ・・・あたり」の意を表わす。現代日本語にはこの「ばかり」の空間的概算用法は残っておらず、代替表現としては「・・・ぐらい・くらい」(例:「成績は中の下<くらい>」)や、「・・・ほど」(例:「車輌の中<ほど>にお詰めください」)を用いる。
*英訳=「about A」/「around A」/「something around A」/「near A」/「approximately A」/「in the vicinity of A」/etc, etc.
◆【ばかり】〔副助〕(4)(程度)(主に用言の終止形に付いて)動作・状態の程度を表わす。・・・ほど。 ・・・ぐらい。・・・ばかり。 *接続=終止形。
*直前には用言の終止形、直後には格助詞「に」が来て「・・・ばかりに」の形で「まるで・・・なほどの勢いで」の意を表わす「程度・様態」の副助詞「ばかり」の用法。現代日本語にも「・・・と言わん<ばかり>に」のような形で引き継がれている。
*英訳=「as if ...」/「as though ...」/「like ...」/「as much as to say ...」/etc, etc.
◆【ばかり】〔副助〕(5)(最高の程度)(「・・・ばかり・・・はなし」の形で)それ以上のものは他にない意を表わす。・・・ほど~なものはない。 ・・・こそは最も~だ。 *接続=体言。
*「Aばかり・・・は無し」の定型表現で用いて、「Aほど・・・なものはない」という最上級の意味を表わす副助詞「ばかり」の用法。現代日本語には残っていないが、和歌の下の句(例「あかつきばかりうきものはなし」)によく見る表現であるし、副助詞を「ばかり」から「ほど」に変更すれば「ショーほど素敵な商売はない」のように現代語として立派に通用するのだから、解釈はさほど難しくあるまい。
*英訳=「nothing is as ... as A」/「nothing is more ... than A」/「A is the most ... of all」/etc, etc.
◆【ばかり】〔副助〕(6)(限定)(体言に付いて)それだけに限定する意を表わす。・・・だけ。 ・・・のみ。 *接続=体言。連体形。終止形。副詞。
*現代日本語にもそのまま残る「限定:・・・だけ」を表わす副助詞「ばかり」(例:「社長の周りはイエスマン<ばかり>」)の用法。「のみ」でも同じ意味になるが、限定性を表わす語としては中世以降は「ばかり」ばかり使われるようになり、「のみ」は文語(漢文調)の中でのみ細々と生き残りつつ現代に至っている。
*英訳=「only ...」/「just ...」/「merely ...」/「simply ...」/「nothing but A」/etc, etc.
◆【ばかり】〔副助〕(7)(上限)(主に用言の連体形に付いて)それ以上ではない意を表わす。ただ・・・に過ぎない。 ほんの・・・でしかない。 *接続=体言。連体形。終止形。副詞。
*副助詞「ばかり」の「程度・限界・到達点etc, etc.の低さ」を示す用法。現代日本語にも残っており、「・・・ばかり」のみならず「まだ」等の語句を補って「まだほんの・・・したばかり」とか「かろうじて・・・ばかり」として通じるならこの語法。"
Well, she was <just> seventeen.:あぁ、彼女はまだほんの17歳になった<ばかり>だったのさ"の感じの「ばかり」である。一方、他に複数の候補が考えられる中から唯一の対象に絞り込んで「ただ・・・だけ」なら「限定」の「ばかり」で、"
It's <only> love, and that is all.:なぜって、愛してるから、<ただそれだけ>のことさ。"の感じである。
英訳=「just」/「only」/「merely」/「no more than」/「barely」/etc, etc.
■__が【が】『接続:格助={体言・連体形}接助={連体形}』〔格助〕 (1)〈(連体格)後続の語が直前の語の所有物・従属的立場である意を表わす。〉AのB。Aに属するB。Aが持つB。Aの所のB。 (2)〈(同格)後続の語が直前の語と同じ文法的資格、類似(直後に「ごとし」・「やう」などの語句を伴う)、同程度(直前に具体的分量を示す語を伴う)の関係である意を表わす。〉AというB。BみたいなA。およそBほどのA。Aという名のB。BのようなA。Aに似たB。まるでAの如きB。 (3)〈(準体格)直後に省略されている体言が、直前の語の所有物・従属的立場である意を表わす。〉Aの(もの)。Aに属するもの。Aのそれ。 (4)〈(主格)(文中で従属的または連体形終止となっている部分の)主語を表わす。〉Aが・・・する。Aの・・・したこと。 〔接助〕 (1)〈(単純接続)前・後の記述を(いずれが主・従の関係と規定することもなく)単純につなぐ。〉・・・が、~。・・・すると、~。・・・したところ、~。・・・で、そして~。 (2)〈(逆接の確定条件)直前にある記述の内容と反対の内容の記述を後に続ける。〉・・・だけれど、~。・・・というのに、~。・・・にもかかわらず、~。・・・だ。然るに~だ。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【が】〔格助〕(1)(連体格)後続の語が直前の語の所有物・従属的立場である意を表わす。AのB。 Aに属するB。Aが持つB。Aの所のB。 *接続=体言。連体形。
*「A(名詞)+が+B(名詞)」の形で、「AのB」という所有・所属関係を表わす「連体格」の格助詞「が」の用法。現代日本語では文語の定型句のみに残り、一般的には「の」が引き受けている語法である。
*英訳=「A's」/「for the sake of A」/「for A's sake」/「for A」
*現代語に於ける「が」の所有格は、「我が子」・「我らが母校」・「誰が為に鐘は鳴る」のような文語の感覚となるが、東北地方の方言としては今も残っている(例:「おらが春」・「わぁ(吾)が+名詞」)。現代人の語感では「わが」で1語の「連体詞」のようにも感じるが、「我らが」や「誰が」までそうして1パック化し出すと収拾がつかなくなるから、きちんと分解して把握すべき「A+が+B」である。
◆【が】〔格助〕(2)(同格)後続の語が直前の語と同じ文法的資格、類似(直後に「ごとし」・「やう」などの語句を伴う)、同程度(直前に具体的分量を示す語を伴う)の関係である意を表わす。AというB。BみたいなA。およそBほどのA。 Aという名のB。BのようなA。Aに似たB。まるでAの如きB。 *接続=体言。連体形。
*格助詞「が」の中でも比較的難解な(というか、いくつかの意味にまたがり、掴みづらい)「同格」用法。訳し方のパターンから紹介すれば、「Aという(名の)B」(名称)/「AみたいなB」(類似)/「AほどのB」(分量・程度)などとなる。
*英訳=「A's B」/「A of B」/「A, namely, B」/「A, ie, B」/「A like B」/「A about the amount/size/etc, etc. of B」
-同格の「が」の識別法-
*この用法の「が」を認識するのはなかなかに厄介であるが、手がかりとしては次のようなものがあり得る:
1)定型句として把握する:
・・・「名称」の場合は「梅が花」を、「類似」の場合は「がごと(し)」/「がやう(なり)」を、それぞれひとまとめにして認識するのが実践的認識法である。
2)「が」を省略、または「の」に代替して通じるかどうかを見る(「分量・程度」の用法):
・・・他の格助詞「が」の用法では「が」を省略すれば意味不明になるが、「分量・程度」の「が」だけは、省略して「AがB→AB」としたり「の」に代替しても意味が通じる(例:みとせばかり<が>このかみ→みとせばかりこのかみ/みとせばかり<の>このかみ)
3)「が」の他の用法に属さぬもの=「同格」と把握する。
・・・以下の3つの用法のいずれにも該当しなければ、「同格」である:
*A)「連体格」=AのB・・・例:「まろ<が>たけ=my height:私の背丈」
*B)「主格」=Aが...する(事)・・・例:「な<が>越えむとは=that you should exceed it:あなたが越えることになろうとは」
*C)「準体法」=Aのもの・・・例:「かれ<が>をばいつか越さなむ=I hope that you will exceed his [height] someday:いつの日かあの人の背丈を越えてほしい」
4)英語の「同格」に置き換えてみる:
*「名称」なら「the State of California:カリフォルニア州=かりほるにや<が>国」/「類似」なら「a mountain of treasure=山<が>ごとき宝」/「分量・程度」なら「a man [in] the size of a boy:わらべ<が>たけのをとこ」といった感じで、英語の前置詞「of」に相当する機能を持つのが「同格」格助詞「が」である。
◆【が】〔格助〕(3)(準体格)直後に省略されている体言が、直前の語の所有物・従属的立場である意を表わす。Aの(もの)。 Aに属するもの。Aのそれ。 *接続=連体形。
*「準体格」と呼ばれる格助詞「が」の用法で、本来なら直後にあるべき体言(・・・「もの」・「こと」等)が省略されていて、その体言を内包するかのごとく解釈すべき語法。英語で言えば「所有格の's」にあたり、古語では「の」にもある用法で、現代日本語では「・・・の[もの]」(例:「この猫、誰の?」)として「の」に吸収されてしまって姿を消した表現である。(一部地方の方言には「わが」・「おらが」などの形で残っている)
*英訳=「A's」/「that(those) of A」/「one(ones) of A」
-「が」と「の」の違い-
*「準体法」としての用法は「が」以外にも「の」にもあるが、「の」には「尊敬」(あるいは「敬遠」)の響きがあるのに対し、「が」には「親愛」(あるいは「軽侮」)の含意があるとされる。次の古文にもその感情温度の相違は表われている:
古文例)「いかなれば、四条大納言<の>はめでたく、兼久<が>はわろかるべきぞ。」(『宇治拾遺物語』一〇・「秦兼久向通俊卿許悪口事」)
英文例)「How is it that a poem of Fujiwara Kintou is splendid, while Kanehisa's should be bad?」
現代語訳)「いったいどうして、四条大納言藤原公任の<歌>は素晴らしく、この兼久の<歌>は悪い、ってことになるのだ?」
*一条朝の大文人(第三の勅撰和歌集『拾遺集』の実質的選者)藤原公任の歌「春来てぞ人も訪ひける山里は花こそ宿の主なりけれ」を意識して、似たような文言を織り込んで後代の秦兼久(実際には秦兼方の誤記であろうとされる)が詠んだ自作歌を、第四の勅撰和歌集『後拾遺集』(1086年)の選者藤原通俊に得意気に見せた時、あまり良くない評価を下されてブーたれて言った台詞である。自分の歌が「藤原公任<の>[歌]」よりも格下とされたことを憤って「兼久<が>[歌]」と卑下している点がミソである。
*ちなみに、その兼久(兼方)の歌は次のようなものであった:
「去年見しに色も変はらず咲きにけり花こそ物は思はざりけれ」
・・・これに対する藤原通俊評は、こう:
「よろしく詠みたり。ただし、けれ・けり・けるなど言ふことは、いとしもなき言葉なり。それは然ることにて、花こそと言ふ文字こそ、女の童などの名にしつべけれ。」・・・まぁよろしいんじゃないでしょうか。でも、「けれ・けり・ける」なんていう語は、ちょっとどうかなという感じの言葉遣いです。それはまぁ置いとくとして、「花こそ」なる文字・・・これ、召使いの少女あたりの愛称にでもするのがお似合いの響きですねぇ、「ねぇ、ちょっと"花こそ" or "花くそ" さん!」みたいな感じで。
*「強調の係助詞」の「こそ」を「親愛・軽侮の情を込めた(同格か目下の相手に対して用いる)呼びかけの間投助詞」の「こそ (or くそ)」の懸詞にして遊んじゃってるあたり、通俊から(言葉を上手に操ってるつもりで言葉にいいように振り回されてるだけの)兼久(兼方)の歌への軽侮が見て取れる。
*こうして自作歌を落とされて不機嫌になった兼久(兼方)は、「あんな野郎が勅撰和歌集の撰進を朝廷から仰せつかるなんて、呆れてものも言えねぇや」と人々に触れ回ったらしく、その噂を聞いた侍がそのことを通俊に告げたところ、彼は一言、こう言ったという:「然りけり然りけり。物な言ひそ。」(そうだろう、そうだろう・・・あの男はいかにもそういうことを言いそうなやつだったよ・・・あんな男の悪口に対して、こちらが口を開くものではないよ・・・口に乗せるのも惜しまれる、げに「口惜しき」相手であって、腐れた話題を口の端に乗せたなら、その口そのものが「朽ち惜し=醜悪に汚れてしまうのが、もったいない」からね)。
◆【が】〔格助〕(4)(主格)(文中で従属的または連体形終止となっている部分の)主語を表わす。Aが・・・する。 Aの・・・したこと。 *接続=体言。連体形。
*格助詞「が」が主格を表わす用法・・・だが、現代日本語にも通じる<Aが・・・する。>の形で文末を「終止形で言い切る」用法(例:「ビートルズ<が>やって来る。」)は、平安時代末期以降になって初めて登場したもの、という点に注意を要する。それ以前の「が」が表わしたものは、「全文の構成の中の部分集合としての主格」でしかなかったのである。
*英訳=no equivalent in English・・・英語に於ける「主格」は、特定の語句により表わされるものではなく、文章構造の中の位置付けで決まる(例えば、文頭にあって、直後に動詞を従える名詞成文は<主語:subject(S)>という形で)。
-「主格」助詞の時代的制約-
*受験生が大学入試でお目にかかる古文の大部分は「平安末期以前」のものであるから、そこで主格の「が」が使われていたら、「全体構造の中の部分集合としての<主部+が+述語>」と思う必要がある。
*鎌倉期以降に成立した古典の名作も数々ある ― 随筆の名作『方丈記』(鴨長明)・『徒然草』(吉田兼好)も、軍記物の傑作『平家物語』・『太平記』も、みな「非平安文物」である ― が、これらの作品に登場する古文の中には、「由緒正しき平安文法の制約から外れる」書き方も登場するので、「平安期の約束事が通じない」ということで、入試問題のメインストリーム(main stream=主流)からは外されている、という現実がある。そもそも、現代日本語に近くて読み解きに(平安期よりはずっと)苦労を伴わない鎌倉期以降の古文を、入試出題者はあまり好まないのである・・・とにもかくにも、殊更に「語法問題」として出される古文なら、それは「平安中期までの女流文学」である、という(古文業界固有の)図式は常識的に覚えておいた上で、次の(平安文法に普遍的な)主格「係助詞/格助詞」を巡る文法的構図は論理的に明確におさえておくべきであろう:
1)係助詞「こそ」/「ぞ」/「なむ」/「は」/「も」
・・・これらの係助詞は、<主格>で「文末(終止形・已然形・〔連体形〕)言い切り」が可能。
・・・「は」と「も」は文末に「係り結び」を招かない(終止形で終わる)が、「こそ」は末尾を「已然形」で結び、「ぞ」・「なむ」は「連体形」終止となる。
2)格助詞「が」/「の」
・・・これらの格助詞は、次のような限定的な形の<主格>しか表わさない(平安末期以降、「が」はこの制約を脱することになる):
2A)<A+が/の+・・・する>の後に<接続助詞+別文>が続く・・・文法的な言い方をすれば「従属成文中の主格」に過ぎない、ということになる。
例:「秋田刈る仮庵を作りわ<が>居れ・・・ば、衣手寒く露ぞ置きにける」『万葉集』巻十・二一七四(詠み人知らず)
・・・接続助詞「ば」を通じて、前/後の句どうしが連携してはじめて全体が成立する「部分集合」の中の「主格」扱いである。
2B)<A+が/の+・・・する[事]>の部分が『より大きな全体構造の中の<主語>』として働く・・・文法的な言い方をすれば「連体形終止による全文の主語」ということになる。
例:「この翁は、かぐや姫<の>やもめなるを嘆かしければ」『竹取物語』(火鼠の皮衣)
・・・「かぐや姫<の/が>独身であるということ」(「事」は省略されていてもあるのと同じ扱いの「準体法」になっている)は、後続の「嘆かしければ」の「主語」である:つまり「全文の主役」ではなく、「主語というパーツの中の主役」でしかないわけである。
・・・なお、ここでの「が/の」とは関係ない語法ながら、上例の格助詞「を」も面白い用法であって、直後にある形容詞「嘆かし」が「動詞的色彩(=嘆きたい)」を帯びているため、その「嘆く」を他動詞として用いた場合の「目的語」として直前の「かぐや姫がヤモメであるという事実」を指向する「目的格」の「を」なのである。
・・・ついでに言えば、「かぐや姫=やもめ」も現代的には「えっ、カグヤヒメって、実はオカマさん?」と錯覚しそうな図式であるが、古典時代の「やもめ」の語源は「八面女・八方女(・・・まだ特定の一人の男性だけのものにはなっておらず、四方八方いろんなところの男性との関係を模索中の独身女性)」であって、本来は「女性」を指す語であり、男性の場合は「やもを(寡男・鰥夫)」となる。
2C)<A+が/の+・・・する>の直後に、断定助動詞「なり」が続く(または、省略されている)場合・・・文法的な言い方をすれば「<連体形+なり>の全体構造の中の、部分集合に於ける主語」ということになる。
例:「雀の子を犬君<が>逃がしつる[なり]」『源氏物語』(若紫)
・・・直後にあるべき「なり」は、このように消失している例が実に多く、その結果として残る「連体形終止・・・上例で言えば、逃がし<つる>」が「終止形」と錯覚されることともなり、「連体形係り結び」による「連体形終止文」の激増が「文末にある連体形=実質的終止形」の感覚を招いたこととも相まって、平安末以降「が」という格助詞が「終止形言い切り」を獲得する強力な手助けをした表現がこれ、と考えられる。
*以上が「<が>の主格言い切りが認められるに到るまで」の道のりなりけり。
◆【が】〔接助〕(1)(単純接続)前・後の記述を(いずれが主・従の関係と規定することもなく)単純につなぐ。・・・が、~。 ・・・すると、~。・・・したところ、~。・・・で、そして~。 *接続=連体形。
*中世以降に成立した「が」の接続助詞用法で、前後の関係を単純につなぐだけの、現代日本語「が/だが/のだが」と同じ語法。
*英訳=「... and ...」
-「格助詞」用法から「接続助詞」用法への変遷-
*現代語「が」そのものなのだから取り立てて言うべきこともなさそうなものだ<が>、文法的に言えば、この「が」が「接続助詞」と化すまでの過程には、なかなか見るべきものがある:
古文例)唐猫は、仏典を鼠より守るため渡りし<が>、宮人たちこれをらうたしと見ていたくいつきて斯くはなれり。
「が」=格助詞の解釈)中国伝来ネコは、仏典をネズミから守るために渡来した<ものが>、宮廷人達が可愛いと感じて大いに愛玩してこのようになった<ものである>。
・・・中古までの「が」は、このように「全文の中の部分集合」を「後続部」へと「主格」で結びつける「格助詞」としての働きをしており、<が>の前後は2つの節には分化せず、一貫した流れの集合体となっている。
「が」=接続助詞の解釈)舶来動物たる猫は、仏典を鼠がかじらぬための用心棒として日本に渡って来た<のだが>、宮廷の人々は「これ、かわいー!」と言ってはとっても大事にしたので、今のような愛玩動物となったのである。
・・・中世以降現代に至るまでの「が」は、このように、そこまでの部分/それ以降の部分を、2つの異なる節として分断する中間点に置かれた「接続助詞」の感覚となる;が、これはあくまで「鎌倉期以降」の用法であって、「平安時代まで」は「格助詞用法」のみであったことを(大部分が平安期の文物を相手にすることになる大学受験生としては)覚えておく必要がある。
*感覚的に言えば「接続助詞」であるべき「が」を、「格助詞」として巨大な1文の中の部分集合として処理する・・・この一点からも知れるであろう:「平安期の古文は、ねちっこーいまでに、文章が長ーい」という構造的特質が・・・『扶桑語り』の古文がおしなべて長いのは、筆者が「平安人」になりきって書いているから、なのである。(現代日本語版解説が妙に長いのは、筆者が「英語人」だから、である)
◆【が】〔接助〕(2)(逆接の確定条件)直前にある記述の内容と反対の内容の記述を後に続ける。・・・だけれど、~。 ・・・というのに、~。・・・にもかかわらず、~。・・・だ。然るに~だ。 *接続=連体形。
*「同格の格助詞」としての「が」が、接続助詞化して「逆接」の関係で前後をつなぎ、「・・・だが、~だ」という現代にも通じる用法となったもの。但し、この語法が見られるのは中古末期以降であることに注意を要する。
*英訳=「... but ...」/「... and yet ...」/etc, etc.
-格助詞から接続助詞へ-
*大学入試で出題される古文の大部分は「中古末期以前」なので、そこでの「が」は「逆接の接続助詞」ではなく「同格の格助詞」として働くものである。例えば:
古文例1)このいぬは、もとはさるやごとなきわたりのいへにゐたる<が>、いふかひなくなりてのにゆるされ、をんなこどもをそこなふにいたりしものなり。
英文例1)This dog, <which> used to be in some noble one's residence, was released in the wild after his death and came to injure women and children.
現代語訳1)この犬は、元来、とある高貴なお方の屋敷に居たもの<であって>/<であったのだが>、その人の死後に野に解き放たれて、女・子供に危害を及ぼすまでに至ってしまったものである。
*この現代語訳からもわかる通り、<同格の格助詞(中古末期まで)>/<逆接の接続助詞(中古末期以降)>は本源的に同一のものであって、両者の区分は「時代背景」によるしかない:その文章が平安時代中頃のものなら「同格」としか解せないが、鎌倉期に入る頃のものなら「逆接」としてもよい、というわけである・・・が、こうした区分は大学入試の古文問題で出題可能な範囲を超えている(よほどセンスが悪い専門バカのセンセにかかれば話は別だが)・・・従って、受験生諸君はさほど神経質になるまでもない。唯一、古典文法の常識として、「接続助詞の多くはこのように格助詞から転じる形で中世になって生じたもの」という事実を覚えておけばよいだろう。
■__か【か】『接続:係助={体言・連体形・連用形・副詞・助詞}終助={体言・連体形}』〔係助〕 (1)〈(疑問)確かな答のわからない疑問を、自身または他者に対し投げかける。〉・・・か?・・・のか?・・・なのか?・・・だろうか? (2)〈(反語)(疑問の形を取りながらも)その事態に対する否定的見解を述べる。〉・・・だろうか、いや、・・・ない。どうして・・・なことがあろうか。何で・・・なものか。 (3)〈(不確実)(疑問を表わす語を伴って)確実にはわからない事態について、疑念をまじえつつ述べる。〉・・・か。・・・なのか。・・・だろうか。 (4)〈(列挙)複数の事柄を並べ、そのいずれかを選択したり、いずれであるかが不明である意を表わす。〉・・・か、~か。・・・なのか、それとも~なのか。果たして・・・か~か。 〔終助〕 (1)〈(疑問)確かな答のわからない疑問を、自身または他者に対し投げかける。〉・・・か?・・・のか?・・・なのか?・・・だろうか? (2)〈(反語)(疑問の形を取りながらも)その事態に対する否定的見解を述べる。〉・・・だろうか、いや、・・・ない。どうして・・・なことがあろうか。何で・・・なものか。 (3)〈(詠嘆)(多く「・・・も~か」の形で、意外・心外な事態に対し)心を強く動かされた意を表わす。〉あぁ・・・だなんて。何と・・・だとはなぁ。こんな時に・・・したりするかなぁ。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【か】〔係助〕(1)(疑問)確かな答のわからない疑問を、自身または他者に対し投げかける。・・・か? ・・・のか?・・・なのか?・・・だろうか? *接続=各種の語句。
*文中に用いられ、確かな答えのわからない事態について、他者(あるいは自分自身)に問いかける「疑問」の係助詞「か」の用法。英語に於ける疑問符(question mark:クエスチョン・マーク)に相当する語であるが、英語の疑問文が末尾を「?」で締めるのと異なり、古文では疑問詞(「か」や「や」や「いかで」・「たそ」・「なぞ」・「いつ」etc, etc.)と呼応する文末の活用形を「連体形」で締めくくると疑問文となる。古典文法用語に言う「(連体形)係り結び」である(連体形以外の係り結びを形成するのは、「こそ+已然形」のみ)。
*英訳=「... ? (question mark)」
*文中に置く係助詞用法としては現代日本語には残っていないが、文末に置く終助詞用法の「・・・か?」は残っている(例:「古文って、いったいどうやって勉強したらいいの<か>?」)。
◆【か】〔係助〕(2)(反語)(疑問の形を取りながらも)その事態に対する否定的見解を述べる。・・・だろうか、いや、・・・ない。 どうして・・・なことがあろうか。何で・・・なものか。 *接続=各種の語句。
*文中に用いられ、話者としては「否定=・・・ではない」と判断している事柄について、形式上は「疑問=はたして・・・なのだろうか?」という形で相手にぶつけつつ、「・・・ではなかろう」と訴えかける語法。古典文法では「反語」/英語では「修辞疑問文(rhetorical question)」と呼ばれる語法である。
*形式上は「疑問文」なので、反語の「か」と呼応する文末の活用形は「連体形係り結び」となる。
*英訳=「... ? (rhetorical question)」
*文中に置く係助詞用法としては現代日本語には残っていないが、文末に置く終助詞用法の「・・・か?!」の反語表現は残っている(例:「古文なんて勉強して何か役に立つの<か>?!」)。
◆【か】〔係助〕(3)(不確実)(疑問を表わす語を伴って)確実にはわからない事態について、疑念をまじえつつ述べる。・・・か。 ・・・なのか。・・・だろうか。 *接続=各種の語句。
*係助詞「か」の語法としては特殊なもので、「疑問・・・なのか?」/「反語・・・ということはあるまい」の訳し方はできず、「列挙・・・Aか、Bか、はたまたCか」の解釈も当たらない場合にはこの「不確実性・・・何だかよくわからないけど、とりあえずAとか」の語法と思えばよい。もっとも、現代語訳にはさほど気を使うまでもなくすんなりと「か」で通ってしまうので、苦労はない。
*英訳=「whoever/whatever/whichever/whenever/wherever/however」
-疑問表現とペアの「か」-
*上の英訳にも通じるが、この不確実性の「か」の語法には「疑問を表わす語」が付き物、という特徴がある。「<いつ>の日<か>」/「<いか>ばかり<か>」/「<いづ方>に<か>」/「<いか>なること<か>」等々、いずれも疑問詞(英語で言えば、when/how/who[m]/what)との抱き合わせ表現である点に注目したい。
◆【か】〔係助〕(4)(列挙)複数の事柄を並べ、そのいずれかを選択したり、いずれであるかが不明である意を表わす。・・・か、~か。 ・・・なのか、それとも~なのか。果たして・・・か~か。 *接続=各種の語句。
*現代日本語にもそのまま残る係助詞「か」の用法で、「Aか、はたまたBか」という形で複数の事例を並べ、そのうちの「どれであるか、よくわからない」とか「どれかを選ぶ」とかの形の記述をなす「列挙」と呼ばれるもの。
*英訳=「A or B (... or C ...)」
-「係助詞」か「副助詞」か「並立助詞」か-
*この種の「どれかよぉわからん・・・なんでもえぇから選んだれゃ」的「か」は、「係助詞」の用法として片付けるには前後の語句との関係からして難がある場合も多いので、「副助詞」扱いしたり、更には「並立助詞」という特別な呼び名を付けて別物扱いする学者もいる。
*しかし(純粋な分類学的観点以外の)文法上の観点からは、この「か」が「副助詞」だろうが「並立助詞」だろうがどうでもよいことなので、『扶桑語り』ではこれを「係助詞」の中に(多少強引に)含めてしまうことにした・・・その上で、「並立助詞」として別立て扱いされるほどに特徴的な「列挙」の用法を持つ語句を、以下にまとめて提示することで、学習者の注意を喚起するにとどめておく:
並立助詞1)「AかBか」(例:裏か表か)
並立助詞2)「AとBと」(例:天と地と)
並立助詞3)「AやBや」(例:とやかくや)
並立助詞4)「AやらBやら」(熊やら猫やらパンダやら)
◆【か】〔終助〕(1)(疑問)確かな答のわからない疑問を、自身または他者に対し投げかける。・・・か? ・・・のか?・・・なのか?・・・だろうか? *接続=体言。連体形。
*現代日本語にも残る、係助詞「か」が文末に置かれて「疑問」の意味を表わす用法(例:「かまぼこはとと<か>・・・蒲鉾って、お魚なの?」)。この1語を文末に置くだけで疑問文となるので、英語に於けるクエスチョンマーク「?」に相当するものといえる。
*英訳=「...? (question mark)」
*後続語句が存在しないため、末尾を連体形で締める係り結びが形成されない;ので「終助詞」扱いだが、本質的には係助詞でも終助詞でも何ら機能に変わりはない。
◆【か】〔終助〕(2)(反語)(疑問の形を取りながらも)その事態に対する否定的見解を述べる。・・・だろうか、いや、・・・ない。 どうして・・・なことがあろうか。何で・・・なものか。 *接続=体言。連体形。
*現代日本語にも残る、係助詞「か」が文末に置かれて「反語=形式上は疑問文ながら、実質的には否定文」となる語法(例:「死して花実の咲くもの<か>・・・死んでしまえば身も蓋もないだろう」)。この1語を文末に置くだけで反語となるので、英語の修辞疑問文(rhetorical question)に於けるクエスチョンマーク「?」に相当するものといえる。
*英訳=「...? (question mark: rhetorical question)」
*後続語句が存在しないため、末尾を連体形で締める係り結びが形成されない;ので「終助詞」扱いだが、本質的には係助詞でも終助詞でも何ら機能に変わりはない。
◆【か】〔終助〕(3)(詠嘆)(多く「・・・も~か」の形で、意外・心外な事態に対し)心を強く動かされた意を表わす。あぁ・・・だなんて。 何と・・・だとはなぁ。こんな時に・・・したりするかなぁ。 *接続=連体形。
*文末に置いて、意外な、あるいは心外な事態に触れて強く心動かされた意を表わす終助詞の「か」。現代日本語で言えば「おいおい、・・・<か>ょ!」や「フツー、この場面で・・・したりする<か>ぁ?」の感覚で、そこには当然「疑問文・・・の形をした否定文としての反語」の響きがある。
*英訳=「how ...!」/「how is it that ...?」/「why ...?」
-「も-か」の相関語法-
*この終助詞用法の「か」は、特に和歌の中では多く「・・・も・・・か」の相関形で表われる:
中古の例)「飽かなくにまだき<も>月の隠るる<か>山の端逃げて入れずもあらなむ」(『古今和歌集』雑上・八八四)・・・まだ存分に月見を楽しんでもいないのに、早くも月は隠れてしまうのか?!山の端が逃げて月が消え入らないようにしてほしいものだなぁ。
*注意すべきは、「まだき<も>」と「隠るる<か>」の間に「逆接」の関係が成立すること:「まだ早過ぎる・・・のに・・・隠れちゃう」の形で「も」が一種の「接続助詞」的に機能している点である。「も」が逆接の接続助詞の機能を果たすようになったのは鎌倉時代以降であるが、歌語としてはこのように遥かに以前から実質的接続助詞用法を有していたわけであって、その起源は中古初期の『古今集』どころか、上代の『万葉集』にまで遡る:
上代の例)「苦しく<も>降り来る雨<か>神の崎狭野の渡りに家もあらなくに」(『万葉集』三・二六五)・・・旅先で、ただでさえ苦しい<というのに>、おまけに雨まで降る<かフツー!>神の崎の狭野のあたりには、一夜の宿を貸してくれる人家もないというのに。
*日本の古文業界では、これらの和歌の例に於ける「も」も(上述した時代背景から)「係助詞」として扱われることになる;が、上例の2つとも「も」を「に」へと換言しても通用する点からもわかる通り、実質的には間違いなく「接続助詞」である(「に」の接続助詞用法は中古には既に確立されていた)。古典文法の少なからぬ部分が「便法」であること(この言い方があんまりだというのなら、「古来、あまり厳密な論理的区分が行なわれてこなかったので、今なお更なる探求・改編の余地が多いこと」)を示す一例と言えるだろう。
-「も」なき「か」の詠嘆語法-
*次のような表現に於ける詠嘆の「か」は、上述の相関語法の「も-か」とは全く異質であることを押さえておこう(「中古」・「上代」と来たので、調子を合わせて「近世」の例を挙げるが、「中古」にも「上代」にも用いられた語法である):
近世の例)「ほろほろと山吹散る<か>滝の音」(『笈の小文』松尾芭蕉)・・・ほろほろと山吹の花が散る・・・のは、あの滝の音が響かせる空気の振動のなせるわざだった<のか!>
*この芭蕉の句に於ける「か」の詠嘆には、ここまでの例で見てきたような「・・・だというのに~<のか!>」の前半部「・・・だというのに」はない;最初から存在しないのであって、省略されているわけではない。
*存在させるつもりなら、次のような形で織り込むことも可能なので、この語法(便宜上「独立語法」としておこう)の「か」は「も-か」の「相関語法」とは全く別物である:
改作例)「時ならず<も>山吹散る<か>滝の音」・・・まだ散るには早い花盛り<だというのに>あの山吹の花は早くも散ってしまった・・・のは何故だろうと思いきや、何と、滝の轟音が暴力的な振動となって、あたら美しき花の散りざまをもたらしていた<というわけか!>
■__とて【とて】『接続:{体言・連体形・文末}』〔格助〕 (1)〈(引用)会話・思念などの内容を引用する。〉・・・というふうに。・・・と言って。・・・と思って。・・・と。 (2)〈(目的)ある行為の動機・意図・目的を表わす。〉・・・ために。・・・として。・・・を目指して。・・・を目論んで。・・・と思って。・・・ということで。 (3)〈(原因・理由)前述の事柄が原因となって、後述の事態に至った意を表わす。〉・・・なので。・・・ということで。・・・という訳で。 (4)〈(逆接の仮定条件)前述の事柄が成立するとしても、それに反する後述の事柄が成立する意を表わす。〉たとえ・・・としても。・・・ではあるにせよ。・・・とても。 (5)〈(地位・名称)物事の名前や人の役職名などを表わす。〉・・・という名で。・・・といって。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【とて】〔格助〕(1)(引用)会話・思念などの内容を引用する。・・・というふうに。 ・・・と言って。・・・と思って。・・・と。 *接続=体言。連体形。文末。
*現代日本語にも(文語で)残る「とて」の「引用」用法(例:精進料理とは、「殺生は罪」<とて>、草木を殺し、肉に見立てて食らうこと、と見つけたり)。直前に誰かの「台詞」や「思考」の内容を述べた後に「・・・とて」を付けて、「・・・ということで」の意味を表わす、英語で言えば「"..."・クォーテーション・マーク」的な語。
*英訳=「"..." (quotation marks)」/「quotes ... off-quotes」/「.., so A says/thinks/etc, etc.」
*現代語訳する際には、直後に「言ふ」「思ふ」等の動詞が省略されているものとみなして、「...と言って」/「...と思って」などとすると自然にまとまる。
◆【とて】〔格助〕(2)(目的)ある行為の動機・意図・目的を表わす。・・・ために。 ・・・として。・・・を目指して。・・・を目論んで。・・・と思って。・・・ということで。 *接続=体言。連体形。文末。
*体言(名詞)や活用語の連体形に続けて、「・・・ということで」の意を表わす格助詞「とて」の「目的」の用法(例:「ゐんのおほんまもり<とて>ほくめんさぶらひたり」=上皇の御警護役ということで北面の武士は伺候している)。コテコテの文語調でなら、現代日本語にも通じる「とて」である。
*英訳=「for the sake of A」/「with a view to ...ing」/「in order to ...」/「so as to ...」/etc, etc.
◆【とて】〔格助〕(3)(原因・理由)前述の事柄が原因となって、後述の事態に至った意を表わす。・・・なので。 ・・・ということで。・・・という訳で。 *接続=体言。連体形。文末。
*直前/直後の記述を「原因/理由」の関係で結びつける格助詞「とて」の用法で、「AということでB」と訳すが、「・・・として~」と解釈した方がわかりやすい。現代日本語で用いればかなりの文語調になる(例:「身内のこと<とて>大目に見るが、世間じゃこうは甘くない」)。
*英訳=「.., so that ~」/「... and so ~」/「.., with the result that ...」/etc, etc.
◆【とて】〔格助〕(4)(逆接の仮定条件)前述の事柄が成立するとしても、それに反する後述の事柄が成立する意を表わす。たとえ・・・としても。 ・・・ではあるにせよ。・・・とても。 *接続=体言。連体形。文末。
*「たとえ・・・だとしても、~だ」として、直前の記述が成立しつつも、それに反する内容を持つ直後の記述が成立する意を表わす格助詞「とて」の「逆接の仮定条件」の用法。「とても」のように係助詞「も」を伴うことが多く、現代日本語にも残るが、「としても」と言葉を補って解釈すればわかりやすい(例:「こんなやり方じゃあ、たとえ何千時間頑張った<とて>/<としても>成果はおぼつかない」)。
*英訳=「[even] if ...」/「[even] though ...」/「.., even then, ~」/etc, etc.
◆【とて】〔格助〕(5)(地位・名称)物事の名前や人の役職名などを表わす。・・・という名で。 ・・・といって。 *接続=体言。
*人・物の名や、役職などの体言(A)の後に続けて、「Aという名で」や「Aとして」の意を表わす「名称・地位」の格助詞「とて」の用法。
*英訳=「as A」/「in the name of A」/etc, etc.
*この「とて」が現代日本語に引き継がれているか否かは微妙なところで、「いかに超一流の教師<とて>、やる気のない学生を賢くすることはできない」あたりはそれに近いようにも感じられるが、さりとて「超一流の教師<として><という名目で>」とは換言できないので「地位・名称」とするには難があり、「・・・だとて」や「・・・と言ったとて」の一部のみが残ったような印象がある;やはりこの用法の古語の「とて」は、古典時代特有のものと見るべきであろう。
-この「と」って、何ですと?-
*この「と」は、語源的には「と+言ひて」の略と見て「格助詞」として見立てる説が根強いようだが、一方で「と+して」との解釈もまた成り立つ。ともなれば、次のような判断もまた可能、ということになろう:
<「A+と+して」の表現に於ける「と」を、古文業界は「断定助動詞たり連用形」としての「と」と見立てるのだから、「とて」=「と+して」と解釈した場合、その「と」もまた「断定助動詞たり連用形」としての「と」と見立てることも可能>
・・・現実には、<後続の「て」が接続助詞であるから「用言」に付いてもらわないと困る>という教条主義的理由から、この「と」を「指定」の「助動詞」(「断定」とはせぬらしい)とするセンセはいるらしいが、断定助動詞「たり」連用形としての説明を、筆者は寡聞にしてあまり見聞したことがない・・・実際、この種の「と」は「格助詞」扱いが妥当と感じる筆者なので、別にそれはそれでよいのだが・・・ま、これはこれとて、古文業界にはよくある話ということで、これ以上ほじくりかえさんといて、おしまいにしまひょ。
■__で【で】『接続:格助={体言}接助={未然形}』〔格助〕 (1)〈(時点・地点)動作の行われる場面・場所を表す。〉・・・の時に。・・・に於いて。・・・で。・・・に。・・・の際に。 (2)〈(手段)事を為すための手段・方法・道具・材料などを表す。〉・・・によって。・・・でもって。・・・を用いて。 (3)〈(原因)動作・作用の原因・理由・動機・根拠などを表す。〉・・・ゆえに。・・・によって。・・・のために。・・・のせいで。・・・で。・・・が元で。 (4)〈(状態)動作・作用が行なわれる際の状態・資格などを表す。〉・・・として。・・・状態で。・・・で。 〔接助〕 (1)〈(打消接続)前文の内容を打ち消して後文に続ける。〉・・・ずに。・・・ないで。・・・することなく。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【で】〔格助〕(1)(時点・地点)動作の行われる場面・場所を表す。・・・の時に。・・・に於いて。 ・・・で。・・・に。・・・の際に。 *接続=体言。
*現代日本語にも通じる「動作の行なわれる場(面)」を問題にする格助詞「で」の用法で、次の2点の双方の場合があり得る:
1)「空間」的な場(=・・・の場所で)
2)「時間」的な場(=・・・な時に)
・・・「時間/空間」は対立的に思われる概念だが、例えば「殿の御前<で>一差し舞ふ」のような例に見る通り共通性があり、いずれも「・・・の場面で」なり「・・・に於いて」あるいは単純な「・・・で/・・・に」として通じる。
*英訳=「at/in/on/among/ A」/etc, etc.
◆【で】〔格助〕(2)(手段)事を為すための手段・方法・道具・材料などを表す。・・・によって。 ・・・でもって。・・・を用いて。 *接続=体言。
*物事を作ったり行なったりする際に用いる「材料・手段・方法・道具」を表わす格助詞「で」の用法で、現代日本語にもそのまま残る(例:「ネット<で>古文をお勉強」)。
*英訳=「with A」/「by A」/「through A」/「using A」/「by means of A」/「by(in) virtue of A」/etc, etc.
◆【で】〔格助〕(3)(原因)動作・作用の原因・理由・動機・根拠などを表す。・・・ゆえに。 ・・・によって。・・・のために。・・・のせいで。・・・で。・・・が元で。 *接続=体言。
*動作や作用の「原因・理由」、あるいは行動の「動機」、判断の「根拠」などを表わす格助詞「で」の用法で、現代日本語にもそのまま残っている(例:「勉強不足<で>落第しました」)。
*英訳=「for A」/「due to A」/「on account of A」/「on the ground of A」/「because of A」/etc, etc.
◆【で】〔格助〕(4)(状態)動作・作用が行なわれる際の状態・資格などを表す。・・・として。 ・・・状態で。・・・で。 *接続=体言。
*格助詞「で」が「・・・状態で」・「・・・という立場で」・「・・・として」等の意味を表わす用法で、現代日本語にもそのまま通じる「で」である(例:「蝶<で>舞う時ゃあチヤホヤするが、芋虫・蛹<で>いる時や、飛び続けるにはくたびれすぎた頃にゃ、目もくれないのが男ってもんさ・・・命短し恋せよ乙女、蝴蝶の舞も永からず」)。
*英訳=「as A」/「while ...」/「in the state of A」/etc, etc.
-打消接続の接続助詞「で」と、格助詞「で」の識別-
*古語の「で」には、接続助詞/格助詞の2種類がある。それぞれの用法とその区別の仕方は以下の通り:
A)接続助詞「で」=打消接続(・・・しないで)の形で前後の記述をつなぐ。
・・・「接続助詞」の場合、「で」の直前には「活用語の未然形」が来る。
B)格助詞「で」=その用法は4種類:
1)時間・空間的な「場」を表わす(・・・で)
2)「手段・道具」を表わす(・・・を用いて)
3)「原因・理由」を表わす(・・・によって)
4)「状態・資格」を表わす(・・・として)
・・・「格助詞」の場合、「で」の直前には「体言(=名詞・代名詞)」が来る。
◆【で】〔接助〕(1)(打消接続)前文の内容を打ち消して後文に続ける。・・・ずに。 ・・・ないで。・・・することなく。 *接続=未然形。
*活用語の未然形に接続して、「・・・ずに」という否定の意味を添えながら前文を後文に続ける接続助詞が「で」。
*英訳=「without ...ing」/「... not ~ing」
*現代日本語の接続詞「で」は、古語の「で」のような「否定の含意」は持たず、ただ単に「・・・で/そして/それから」であり、英語の「and」に相当する単純接続の意味しかない。これに対し、古語の「で」(接続助詞の場合)は常に「・・・ない状態で」という打消接続となる(格助詞の場合は異なる)。出現頻度の高い語なので、古文読解経験がそこそこ重なれば「自然に訳せる」ようにはなるだろう;が、「何故そこに否定の意味が宿るのか」の理由についても知っておくのが望ましい。
-格助詞の「で」と接続助詞の「で」-
*古語の「で」には格助詞/接続助詞という2つの用法があるが、それぞれの語源は異なる:
1)格助詞としての「で」=格助詞「にて」の転
・・・平安末期に現われた語。鎌倉時代以降「にて」に代わって盛んに用いられるようになり、「んて→んで」を経て現代日本語の「・・・で」につながった。意味としては次の4種類がある:
1A)時間・空間的な「場」(・・・で)
1B)「手段・道具」(・・・を用いて)
1C)「原因・理由」(・・・によって)
1D)「状態・資格」(・・・状態で。・・・として)
2)否定の接続助詞としての「で」=打消助動詞「ず」の古式連用形「に」+接続助詞「て」が、「にて」→「んて」→「んで」を経て「で」となった。
・・・打消助動詞「ず」連用形+接続助詞「て」=「ずて」の転、として説明される場合もあるが、いずれにせよ「で」に含まれる否定の意味は、打消助動詞「ず」に由来するものである。
*上代(奈良時代)には、「・・・ない状態で」の意味を表わすためには「ずして」/「ずて」が用いられていたが、平安期以降「で」がこれに取って代わった。
-「ず」・「で」と現代日本語「・・・ないで」の関係-
*現代日本語には「・・・(動詞未然形)+で」の形での否定的付帯状況表現は引き継がれていない。この意味を表わす現代日本語表現は「・・・ないで/・・・ずに」である。
*「・・・ずに」の組成は単純である。古語の「で」が<打消助動詞「ず」連用形+接続助詞「て」=「ずて」>の転として説明されたように、現代語「ずに」は<打消助動詞「ず」連用形+接続助詞「に」=「ずに」>で簡単に説明がつく。
*一方、ややこしいのは「・・・ないで」の表現のほうである。以下、どのようにしてこの現代版語形が生じたか、「知らないで」を例に取って説明しよう:
1)動詞の未然形(「知る」→「知ら」)に、打消助動詞「ず」の古式未然形「な」+名詞化語尾「く」=「なく」を付けた所謂「ク語法」の「知らなく」を作る・・・その意味は「知らないこと」(not knowing / being ignorant)
2)ク語法「知らなく」(体言相当語句)に、格助詞「にて」から転じた格助詞(接続助詞ではない)「で」を付けた「知らなくで」を作る・・・その意味は「知らない状態で」(without knowing / while being ignorant)
3)「知らなくで」はウ音便化作用を経て「知らなうで」や「知らなうて」の語形となり、それが「知らなくて」/「知らないで」となって、現代に至る。
-「・・・んで」の復活-
*現代日本語にはまた、「知らないで」と同様の意味を「知らんで」の形で表わす(ややくだけた調子の)語法も残っている(例:「親の気も知ら<んで>いつまで遊び歩いとるかこのバカ息子めがっ!」)。これは、上で解説した否定の接続助詞「で」がその形を獲得するまでの途中経過段階にあった語形「んで」が復活した形である。
*こうして概観してみると、「・・・で」の訳し方が「・・・ないで」/「・・・ずに」の2系統へと分化するのに気付く:これは即ち、「で」の根っこにある打消助動詞「ず」そのものが、「N系活用:{な(ず)・に(ず)・ず・ぬ・ね・○}」と「Z系活用:{ざら・ざり・○・ざる・ざれ・ざれ}」に二分化するのをそのまま継承しているわけである。
■__まで【まで】『接続:副助={体言・連体形・副詞}終助={終止文・助動詞「ぢゃ」}』〔終助〕 (1)〈(室町時代以降)(確認)強調・詠嘆を込めた確認の意を表す。〉・・・だなあ。・・・ね。・・・よのう。 〔副助〕 (1)〈(空間的範囲)動作・作用の及ぶ地理的な範囲を表す。〉・・・まで。・・・に至るまで。 (2)〈(時間的範囲)動作・作用の及ぶ時間の範囲を表す。〉・・・まで。・・・になるまで。・・・に至るまで。 (3)〈(程度)動作や状態の及ぶ程度を表す。〉・・・なほど。・・・なぐらい。・・・なまで。 (4)〈(添加)既存の事柄に、類似の事柄が更に加わる意を表わす。〉・・・までも。・・・さえ。更に・・・も。ついでに・・・・も。 (5)〈(室町時代以降)(限定)(おもに用言の連体形に付いて)それ以上のものではない意を表す。〉ただ・・・だけ。ほんの・・・に過ぎない。・・・でしかない。 (6)〈(対象)動作・作用の及ぶ時間の範囲を表す。〉presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【まで】〔副助〕(1)(空間的範囲)動作・作用の及ぶ地理的な範囲を表す。・・・まで。 ・・・に至るまで。 *接続=体言。連体形。副詞。
*副助詞「まで」が「A地点からB地点<まで>」の形で「空間」的範囲を表わす用法(例:「我が家の飼い猫の行動範囲は、うちの庭先から横丁の平井さんの縁側<まで>」)だが、場合によっては「作用の及ぶ対象の広さ」を表わす表現とも感じられる(例:「北は北海道から南は九州・沖縄<まで>、日本全国どこにでも行きます」)。現代日本語にもそのまま残る。
*英訳=「from A to B」/「ranging from A to B」/「including A and B」/etc, etc.
◆【まで】〔副助〕(2)(時間的範囲)動作・作用の及ぶ時間の範囲を表す。・・・まで。 ・・・になるまで。・・・に至るまで。 *接続=体言。連体形。副詞。
*副助詞「まで」が、「Aの時点からBの時点まで」の意を表わす「時間的範囲」の用法。「朝から晩<まで>遊んでる」のような形で現代日本語にもそのまま残る。
*英訳=「from A to B」/「since A till B」/etc, etc.
◆【まで】〔副助〕(3)(程度)動作や状態の及ぶ程度を表す。・・・なほど。 ・・・なぐらい。・・・なまで。 *接続=体言。連体形。
*現代日本語にもそのまま残る副助詞「まで」の語法で、体言・連体形に続けて「程度・段階」を表わす(例:「肉体と精神に変調をきたす<まで>勉強する」)。
*英訳=「so ... as to ...」/「so ... that ...」/「to such an extent that ...」/「... such that ...」
-元来「から」・「より」とペア表現-
*この用法の「まで」は本来「格助詞」であって、次のような形の(列車の時刻表みたいな)相関表現で用いたもの:
A地点「から」・「より」 ~ B地点「まで」
◆【まで】〔副助〕(4)(添加)既存の事柄に、類似の事柄が更に加わる意を表わす。・・・までも。 ・・・さえ。更に・・・も。ついでに・・・・も。 *接続=体言。連体形。副詞。
*副助詞「まで」が概念的な発展を遂げたもので、既存の何かに更に別の事例が加わる意を表わす「添加」の用法。「すら」や「だに」や「さへ」と同義語で、現代日本語にもそのまま残る(例:「古文だけでもてんてこ舞いなのに、英語<まで>混ぜこぜのごった煮説明されたんじゃたまらんわいわい、なんでそうまでややこしくするの?」)。
*英訳=「not only A but also B」/「A as well as B」/etc, etc.
◆【まで】〔副助〕(6)(対象)動作・作用の及ぶ時間の範囲を表す。 *接続=体言。連体形。副詞。
*副助詞「まで」が動作・作用の及ぶ範囲を表わす「対象」の用法。現代日本語にもそのまま残る。
*英訳=「from A to B」/「ranging from A to B」/「including A and B」/etc, etc.
-地理的「エリア(area)」・時間的「ピリオド(period, era)」から、概念的「レンジ(range)」へ-
*地理的な範囲(座標)(例:「京都から東京<まで>」)や、時間的な範囲(期間)(例:「よちよち歩きの幼時から杖をついて歩く老後<まで>」)が、概念的な範囲(対象)(例:「揺りかごから墓場<まで>」)へと発展した用法。