■__り【り】『接続:{四段の命令形・サ変の未然形}』〔助動ラ変型〕{ら・り・り・る・れ・れ} (1)〈(進行形)動作の継続・進行を表わす。〉(今)・・・ている。・・・している。・・・中だ。 (2)〈(結果の存続)既に完了した動作の結果が今なお余韻を残していることを表わす。〉(結果として)・・・てある。・・・ている。・・・たのだった。 (3)〈(完結)動作が既に終結したことを表わす。(多く、動作の終了・結果に対する残念な気持ちや、もう取り返しは付かないという感じを含むが、過去助動詞「き」・「けり」の代用的語法もある)〉(もう)・・・てしまった。・・・した。・・・た。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【り】〔助動ラ変型〕(1)(進行形)動作の継続・進行を表わす。(今)・・・ている。 ・・・している。・・・中だ。 *接続=変則連用形(四段動詞の命令形/サ変動詞の未然形)。
*助動詞「り」の基本語義で、「継続・進行中」の意味を表わす。訳し方は「・・・ている」「・・・てある」「・・・てる」「ちょうど・・・てるところ」など、英語で言う「(動作動詞=dynamic verbの)進行形」の訳し方に近いが、英語なら「(状態動詞=stative verbの)状態」として非進行形であるべき表現にも「り」が使われるのは、現代日本語表現「・・・ている」の場合と同じである。
*英訳=「・・・(stative)」/「be ・・・ing(progressive)」/「be in the state of ・・・」/「be in the act of ・・・」
-「り」の語源は「在り」にあり-
*「継続」や「進行」はその対極に「停止」が想定できて初めて成立するものだが、「り」の表わす「継続・進行」の中には「存在」と捉えるべき意味があり、「存在」の停止・消滅を特に想定せずに用いられている例が多い。この性質は、助動詞「り」が語源学的には「動詞連用形(の名詞化したもの)+在り(あり)」の末尾「り」のみを取り出して助動詞と見立てたその来歴によるもの。例えば、「思ひ+在り=思ひあり→思へり」の音便形が、「思へ+り」と分解解釈されたのが助動詞「り」の始まりである。
-「り」が「ナ変動詞」に付かぬ理由-
*元々が「(動詞連用形による)名詞化表現+在り」であるために、助動詞「り」は決して「ナ変動詞=死ぬ(しぬ)/去ぬ(いぬ)」には付かない。「存在しなくなること」を表わす「死ぬ/去ぬ」に、存在を表わす「在り」が付くのはヘンだからである。英語なら「Nobody is there.(誰もそこにはいない)」という言い回しが成立するが、「"無人君"そこに"在り"」という日本語は(冗談以外では)成立しないのである。
*なお、「ナ変は"不在"だから、"在り"由来の"り"は付けられない」というのはあくまで「直結不可能」ということであって、「死ぬ」の名詞形「死」にサ変動詞「為(す)」を付けた「死す」の形にしてしまえば、「死せ<る>孔明、生ける仲達を走らす」のような表現も可能である。
-「り」の接続先は何故「四段の命令形」/「サ変の未然形」なのか?-
*上記の音便化作用を経て助動詞「り」が結び付く動詞の「思へ」は、形の上では「命令形」だが、文末を言い切りの形で終えるはずの「命令形」が、その後に助動詞を伴う道理がなく、実質的にこの「思へ(命令形)」は「思ひ(連用形の名詞化用法)」が「あり」との結合の結果として化けた「連用形音便」に過ぎないことを把握しておく必要がある。その意味で「助動詞"り"は命令形に接続する」という定義は非論理的・・・なのであるが、文法的ではなくとも便法としてそう覚えておくのが得策ではあろう・・・さもなくば「動詞連用形の名詞化したものに"あり"が付いた形を音便化した際に生じる語幹部の"エ(e)段音"に接続する」などという(論理的には完璧ながら)大仰すぎて学習者を威圧する定義を覚え込まねばならないのだから、「助動詞"り"は四段動詞の"命令形"の後に付ける・・・ホントは違うんだけどね」の覚え方が現実的である。
*一方、「サ変動詞("為"{せ・し・す・する・すれ・せよ})」の場合は、その連用形が名詞化した「し(為=行為)」+「あり」の「し+あり」が音便化して「せり」となる:この「せ」は「未然形」なので、「助動詞"り"はサ変動詞の場合だけは"未然形"へと続く」というもう一つの便法が成立することになる・・・「これじゃたまらん!例外だらけのザル法はやめて文法的原理に忠実に行こう」という人は、「おもひ+あり→おもへり」/「し+あり→せり」という「連用形名詞化+あり」の祖形を常に念頭に置いておけばよいだろう・・・これらの接続をまさか「おもひ+り」/「し+り」とする日本人など(よほど音感がおかしな人でなければ)存在しようがないのだから、自然と「四段動詞なら"命令形"接続/サ変動詞なら"未然形"接続」へと落ち着くはずである。
-古語は「二重母音」を嫌う-
*さて、「り」が付くのは「四段/サ変」の2つの動詞型のみであり、それ以外の活用をする動詞には接続しない。この現象については、上述の「動詞連用形が名詞化したもの+在り」という「り」の語源学的組成に、古語に於ける「二重母音忌避現象」を加味すれば説明可能となる。例えば上二段動詞「くゆ(悔ゆ)」について見れば、これを名詞化するために連用形化すると「くい(悔い)」となる。これに「在り」を付ければ「悔い+在り」だが、「(く)i+a(り)」の部分の「i+a」の母音の連続は古語では忌避される傾向があったので、上述「四段/サ変」の例に倣って「i+a=e」の音便形としたいところ・・・ながら、そうなるとこの「悔い+在り」に由来する助動詞「り」の接続は「悔え+り」となる・・・が、残念ながら上二段動詞「悔ゆ」の活用に「悔え」はない:{い・い・ゆ・ゆる・ゆれ・いよ}の形のどれにも属さぬ{え}音は、かくて、存在理由を失うわけである(これは上一段についても同様)。一方「下一段(蹴る)」と「下二段(例:受く)」の連用形ならば最初から「け(蹴)」「うけ(受け)」と「e段音」なのだから上記の上一段・上二段のような問題はないのだが(・・・「けあり」・「うけあり」のままの音で通して問題なしとしたのか、間に接続助詞「て」をはさんだ「て+あり」から「てぇり→たり」への展開によるものか)・・・とにもかくにも「四段/サ変」以外では「エ音化け」にまつわる問題から、「助動詞"り"は付けられない」のである。
-奈良時代に一時的に存在したヘンテコ表現「来り(けり)」/「着り(けり)」-
*本来の活用形の中に存在しないにもかかわらず、「i+a=e」の「エ音化け」を無理矢理演じて「り」を付けた動詞表現が、奈良時代に2つほど存在したことが知られている:「カ変動詞{こ・き・く・くる・くれ・こよ/こ}」の「来(く)」+「あり」から生まれた「来(き)+在り=きあり→けり」、並びに「上一段動詞{き・き・きる・きる・きれ・きよ}」の「着る(きる)」+「あり」から生まれた「着(き)+在り=きあり→けり」である・・・が、いずれも本来の活用形に見出されない「け」なる不思議な音をどう処理してよいのか、奈良時代の人々の戸惑いを招くばかりの厄介者だったらしい。
*結局、当時の日本人は、「着り(けり)」については「着る」とは全く別物の独立した動詞表現として扱わざるを得なくなり、平安時代になる前には(当然、というべきか)死語と化してしまったという・・・御苦労様な話である。
*一方、「来り(けり)」の方は、「来(連用形)+あり=きあり・・・けり」の形としてはやはり奈良時代のうちに滅びたが、「過去の助動詞"けり"」と化して古文世界に堂々たる存在感を示すに至っている。
*いずれにせよ、「i+a=e」の形で生じる「エ音」が本来の活用形の中に存在しない動詞型(=非四段/非サ変)に、無理矢理「り」を付けるとロクなことにならない、というお話である。
-「四段/サ変」以外への接続の必要上生まれた「たり」-
*かくて、「"継続・進行中"の意味を表わす助動詞"り"」は「四段/サ変動詞以外には付かない」という原則が奈良時代の時点で確立されたわけであるが、では、「四段/サ変動詞以外は"継続・進行中"の意味になることはない」のであろうか?・・・無論、そんな馬鹿な話はないのであって、「四段/サ変」以外の動詞にもきちんと「継続・進行」の意味を表わす手段はある:何のことはない、「連用形+て+在り」の形で「あり」とつなげればそれでよいのだ:この「て+在り」の音便形として生まれたのが、「り」と(ほぼ)同じ意味を表わす助動詞「たり(・・・てあり)」である。
*「り」と「たり」は、その表わす意味はほぼ同じだが、直前の動詞との接続関係をつぶさに眺めると、次のことが言える:
1)「り」が四段/サ変動詞に接続する場合は、「動詞の連用形が名詞化したもの」+「り」の感覚になる。
2)「たり」が非四段/非サ変動詞に接続する場合は、「動詞連用形」+「状態の接続助詞"て"」+「存在を表わす動詞"在り"」の感覚になる。
-「たり」に負けた「り」-
*名詞と動詞とでは「動詞の方が柔和な感じがする」というのが日本語の感覚である上に、状態を表わす接続助詞「て」は動詞の連用形に(その活用形が四段/サ変以外であろうとも)自在に接続する性質を持っていたので、次第に「四段/サ変にしか付けない"り"」よりも「どんな動詞にでも付く"たり"」の方が多く使われるようになって行ったのは、至極自然な成り行きである。
*平安時代初期までは「四段/サ変には"り"」/「非四段/非サ変には"たり"」という使い分けがきちんと行なわれていたが、以後は「万能助動詞"たり"」が「動詞を選り好みする"り"」を押しのけてありとあらゆる動詞に付くようになり、入試で最もよくお目にかかる平安女流文学の中での「たり」の用例の数は、「り」の5倍~8倍とも言われる圧倒的勢力となってしまった・・・以後「り」は衰微の一途を辿ることとなる。
-ちょっとおかしな現代日本語「り/たり」事情-
*現代日本語では「花が<咲き+て+ある・・・>咲いてる」とは言えても「花が<咲き+ある・・・>咲ける」とは言えない。即ち「継続・進行の助動詞としての"り"」は完全に死語となっているのに対し、「たり」はその語源学的組成「て+あり」の化けた「・・・て(い)る」の形で脈々と生きているわけである。
*その一方で、面白いことに、「花<咲き+て+ある・・・>咲きたる丘」なる表現は「古文そのもの」ということでもはや使われない(イ音便の「咲いてる丘」にしないとどうにもならない)のに対し、「花<咲き+ある・・・>咲ける丘」の表現なら「文語的表現」として現代日本語でも使用可能である。つまりここでは(上記の事情とは逆転して)「たり」は死語/「り」は文語として生存しているわけである。(○)「病める者」/(×)「病みたる者」や(○)「富める者」/(×)「富みたる者」でも事情は同様であるが、これらの表現に於いてはもはや「咲ける/病める/富める」が1語の定型句(品詞的には「形容詞」)として意識されているのであって、「咲き+あり/病み+あり/富み+あり」の語源学的来歴など完全に忘れ去られている。それに対し「咲きたり=咲き+て+あり/病みたり=病み+て+あり/富みたり=富み+て+あり」の「たり」表現は(上述のごとく)「動詞連用形+接続助詞+動詞」という語源学的組成をどうしても思い浮かべずには使えない表現・・・これでは現代日本人に使われないのも当然(「咲いてる/病んでる/富んでる」をその末裔と見れば、必ずしも死語とは言えないが)・・・「言葉は生き物」だけに(それを使う人間が意識しようとするまいと)その生存/死滅には、やはりそれなりの理由があるわけであって、その理由の発見の喜びもまた古文学習の醍醐味の一つ・・・そんなお話ではあった。
◆【り】〔助動ラ変型〕(2)(結果の存続)既に完了した動作の結果が今なお余韻を残していることを表わす。(結果として)・・・てある。 ・・・ている。・・・たのだった。 *接続=変則連用形(四段動詞の命令形/サ変動詞の未然形)。
*助動詞「り」が、英語に於ける「現在完了」の「動作そのものは既に"完了"した;が、その結果や余波が今なお"継続中"の感じ」という(日本人英語学習者には最も理解困難な)用法と全く同じ意味を表わすもの。
*英訳=「have ...ed (the perfect tense)」
-現代日本語では死滅した「完了形」としての「り」「たり」-
*「り」の語源は「動詞連用形が名詞化したもの+在り(あり)」の末尾の「り」であり、「たり」の語源は「動詞連用形そのもの+(接続助詞)て+在り(あり)」の「て+あり=たり」である。いずれもその内に「在り」を含む点が、上述した「行為そのものは既に"完了"・・・したが、その余波は今なお"存続"している」の意味を生じているのである。
*現代日本語にはこうした「り」・「たり」のような「完了した事態の結果・余韻」を表わす語法が存在しない:ので、英語の「完了形」の理解も完全には出来ずじまいの学習者がほとんどである・・・そんな諸君が古文で「り/たり」を学ぶ以上、この際だから英語の完了形の復習もしておくのが妥当であろう。次の例文を見てほしい:
英文)It's been snowing all night.「一晩中雪が降り続いていた」
古文)夜すがら雪降れり/降りたり。「同上」
*英/古いずれの「完了」表現でも、「現時点では、降雪は停止している」点に注意を促しておこう:この「降雪は終わった」の観点から言えば、この完了表現の指向する時制は「過去」へと振れることになる・・・が、「昨夜の豪雪の結果として、地面には大量の積雪が残っている」という(言外の)メッセージを通して、この完了形構文はあくまでも「現在」時制へと張り付いているのである。
-「完了」表現の時制的立ち位置は「過去」ではなく「現在」-
*より本源的な言い方をすれば、この完了形構文に於いては「過去の事態(=降雪は終わった)」は「意味の本線」ではなく、「現在の事態(=降雪の余波)」にこそその主眼点がある。「今、目の前に、白い山のような雪が積もっている・・・のは、ゆうべ夜通し降り続いた大雪のせいなのだなあ」という形で、「過去の事態」は「現在の事態」を現出することとなった「原因」として脇役扱いなのである。「今」の時点で話者/筆者が言わんとする事柄の「根っこ」は「過去」にあるが、大事なのはその「根っこ」ではなく、そこから伸びた先の「幹・枝・葉として眼前にあるもの」の方・・・過去とのつながりを意識しつつ現在の事態を眺めるこの「り」・「たり」の言い回しの存在は、千年前の日本人のほうが21世紀初頭の我々よりも、言語学的に豊かな道具を手にしていた(少なくとも英語の「完了形」を理解する素養だけは現代日本人よりも高かった)ことを示すものであると言えよう。
*不愉快な気分になった日本人も多かろうし、心外だと息巻く自尊心の高い人間も現代「情報化社会(=情報だけは腐るほどある世の中;価値の高低・消化不良の問題はさておくが)」にたむろしている現状も弁えつつ、彼らの気分が正当なものであるか否か、客観的に見据えてもらうために、ここらで「雪の夜明けの今/昔」をまとめて対照して御覧いただくことにしようか:
今)「雪、降ったんだ」・「雪、降ってたんだ」・「雪が降ったのだった」・「雪が降っていたのだ」・・・
昔)「雪降りき/雪ぞ降りし」・「雪降りけり/雪ぞ降りける」・「雪降れり/雪ぞ降れる」・「雪降りたり/雪ぞ降りたる」・「雪降りぬ/雪ぞ降りぬる」・「雪降りつ/雪ぞ降りつる」
・・・いかがであろう、言葉の面から見た彼らと我らの貧富の差、感じ取っていただけたであろうか?それともまだまだピンと来ないか、はたまたカチンと来てもう立ち去りたくなったであろうか・・・。去るもまたよし ― まだほんの作品番号1/22である:「さよなら」するなら早いうちのほうがよかろう・・・が、刺激に満ちた言語学的真実の数々から目をそらさぬ勇気がおありなら、『扶桑語り』を読み進めて、更なる発見を重ね、知的背丈をもっともっと伸ばしていただきたい。
*「何もかも、後代になるほど"進化"する」という単純な思い込みは(本物の知識人を除く)人類共通の迷信だが、この「現代日本人の完了形音痴化現象」を初めとする「言語学的退化」(音感的美しさを旨とする古語の消失現象等々)の実感は、古文を熟知するほどに、あれこれたくさん得られるものである・・・が、悲嘆には及ぶまい:これだけ多くの物事をあっさりと捨て去って平然と今のような日本語に甘んじている日本人なのだから、現状の(お世辞にも素晴らしいとは言い難い)日本語にもまた、全部(あるいは大部分)作り替えた新生和語への変身の可能性が、豊富に残されているのであろうから・・・歓迎すべきことだとは思われまいか?
◆【り】〔助動ラ変型〕(3)(完結)動作が既に終結したことを表わす。(多く、動作の終了・結果に対する残念な気持ちや、もう取り返しは付かないという感じを含むが、過去助動詞「き」・「けり」の代用的語法もある)(もう)・・・てしまった。 ・・・した。・・・た。 *接続=変則連用形(四段動詞の命令形/サ変動詞の未然形)。
*完了助動詞「り」が、「動作・状態の完了」を表わす語法。「すでにもう・・・してしまった;ので、今はもう・・・していない」という形で、「・・・という動作・状態はすでにもう終わったこと/今やもう関係ない過去のもの」の感じが強く、この種の完了助動詞をもはや持たない現代日本人にとってもわかり易い「り」の語法である。
*英訳=「have ...ed (the perfect tense)」
*厳密に言えば、「既に・・・してしまった」とはいえ、これまで続いていた「・・・の動作・状態」との関連性が完全に断ち切られたわけでもないのだが、ともあれ、これまでの「ON」に対して今では「OFF」にスイッチが切り替わった感じというか、「今までとははっきりと違った段階に入ってしまった」ことに描写の力点がある表現である。
■__ず【ず】『接続:{未然形}』〔助動特殊型〕{ず/(な)/ざら・ず/(に)/ざり・ず/○・ぬ/ざる・ね/ざれ・○/ざれ} (1)〈(打消)(用言の未然形に付いて)その陳述内容を否定する。〉・・・ない。・・・しない。・・・でない。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【ず】〔助動特殊型〕(1)(打消)(用言の未然形に付いて)その陳述内容を否定する。・・・ない。 ・・・しない。・・・でない。 *接続=未然形。
*その活用は2通りに分化する:
「ナ行系」{ず(な)・ず(に)・ず・ぬ・ね・○}
「ザ行系」{ざら・ざり・○・ざる・ざれ・ざれ}(・・・「ず」+ラ変動詞「あり」による補助活用)
*「ナ行」系が先発/「ザ行」系は後発である。
*打消の助動詞として、現代語「・・・ない/・・・ぬ」に通じるのが「ず」。細かい語法は現代語とは少々異なり、類似した語形の完了助動詞「ぬ」との区分などで初学者は戸惑うかもしれないが、とにかく出現頻度が極めて高い(否定文のたびに登場するのだから、当然そうなる)ので、自然と慣れてしまうだろう(・・・「ず」の具体的解説は、副詞「そ」の部分で、「な・・・そ」の否定命令文の解説に絡めてじっくりと行なうので、お楽しみに)
*英訳=「not ...」
■__けり【けり】『接続:{連用形}』〔助動ラ変型〕{(けら)・○・けり・ける・けれ・○} (1)〈(伝聞・回想)(話者・筆者の直接体験としてではなく、他者から伝え聞いた話としての)過去の事柄について述べる。〉・・・た(そうだ)。・・・のだそうだ。・・・ということだ。・・・との話である。 (2)〈(気付き)(以前から存在する事柄について)発見したり印象を新たにしたりした意を表わす。〉・・・だったのだなあ。・・・思えば・・・だったことよ。 (3)〈(過去からの継続)(過去に発生した事柄が)現在までずっと続いている意を表わす。〉・・・てきた。・・・ていた。ずっと・・・た。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【けり】〔助動ラ変型〕(1)(伝聞・回想)(話者・筆者の直接体験としてではなく、他者から伝え聞いた話としての)過去の事柄について述べる。・・・た(そうだ)。 ・・・のだそうだ。・・・ということだ。・・・との話である。 *接続=連用形。
*物語の中などで「自分自身の直接体験したものではない過去の出来事について語る」時の「伝聞過去/回想過去」などと呼ばれるのが「けり」の主たる用法である。
*英訳=(後述する通り、正確には「けり」=「過去形」ではないが)「・・・(past tense)」
-「けり」と「き」は「過去の助動詞」か?-
*一般に「けり」(及び「き」)は「過去の助動詞」と言われるが、英語の「過去形」とは本源的に異なる性質を持つ語句である。
*英語の動詞は「過去/現在/未来」のいずれかの時制に必ず属する形を取る(仮想の話として展開される「仮定法:subjunctive mood」を除く)。英語人種にとって「時の流れ」は「人間の意識」からは独立した(&人間の個人的感覚などは無視してズンズン流れる)一つの大河のようなものであり、その流れが「現に自分の目の前に在る=現在/自分の背後へと過ぎ去った=過去/眼前にはあるが自分と同じ場所には未だ来ていない=未来」という3つの時間枠の切り分け方で万事を記述する。
*日本人(これは古代も現代も同じである)には、そうした西欧人的な「未来から現在へ、そして過去へ」と連綿と続く「時の流れ」の意識がない。「時間」という大河と「自分」という小舟とを対立構図で見つめる視点がない。「自分」は「時の流れ」の上を漂う木の葉のような存在だ、などとは(詩的感慨としてそう思うことはあっても)日本人は思っていない:「自分」を取り巻く周囲のあれこれの外的状況の一つとして、日頃はまるで忘れていながら、時折り意識の表層に浮かんでくるだけの存在としての「時間」でしかないのである。この意味で、日本人は常に「現在」という固定された時間枠の中にのみ存在しており、「過去」や「未来」は不意の来客のような存在でしかない。時計やスケジュールにせっつかれる生活をし、外国語を学んで「時制の意識」を身に付けたとて、本源的に「日本人の意識にはベクトル性の時の流れは存在しない」という事実に変わりはないのである。それは(表面的には)日本語の言語学的特性に多分に左右された意識ではあるが、言語的特性そのものが日本人の意識特性にその根幹を持つものである以上、どちらが原因でどちらが結果かを論じるのも「鶏が先か/卵が先か」的な堂々巡りというものであろう。
-日本語に「過去形」なし-
*「時制としての過去」というものを持たない日本語の特性や、「一定の方向性を持って流れる時間軸」を持たない日本人の意識特性は、外国語の鏡に映してこれを見たことのない日本人には見えない現象である。大方の日本人がこれを最初に知るのは、「英語の動詞は、いちいち語尾変化させないと使えない」という面倒くさい作法に面食らう体験をした時であろう。試しに、次の日本語を英語に直してみれば、両言語の「過去形」に関する特質の相違は歴然とする:
和)「昨日、彼と一緒に映画に<<行った>>んだけど、<観てる>間じゅう彼ったらポップコーン<食べる>わ、携帯で<喋る>わ、映画の終わりの方じゃ<いびきかいて><寝る>わで、私、ほんと、はずかしく<<なっちゃった>>」
英)「Yesterday I <<went>> to see the movies with him; as we <<watched>> the film, he continually <<ate>> popcorn, <<talked>> over the cell-phone, and towards the end of the film, he not only <<slept>> but also <<snored>>; I <<was>> totally embarrassed, you know.」
*例文中、所謂「(英語的な意味での)過去形」で語られている部分は<<>>で括ってある。英文では全てが<<過去時制>>である:「Yesterday:昨日」の出来事なので、当然そうなるのだ・・・が、これに対する日本語の方では、冒頭の<<行った>>と結末の<<なっちゃった>>だけが特別な<<過去っぽい>>書き方/それ以外は全て<現在時制ふう>のノリで展開されている点に注意を促しておきたい。これは、英語ではあり得ない日本語の一特性である。
*つまり、日本人が言葉を操る時、そこに「時制」の意識は(実は)ないのである:「全て基本的に"現在"の事柄」として展開するのが日本語の(現代も古文もこの点は同じ)特性であって、時折り思い出したように出てくる<<過去っぽい>>記述は、「そうした出来事が<<あった>>わけよ・・・って、今、私はあなたに向かって<喋ってる/書いてる>わけだけどね」という散発的reminder(リマインダー=何かを思い出させる契機となるもの)でしかない:「あれこれ言ってる/書いてるけど、一応確認しとこうかな、これってもう終わった事柄の話だからね」という気分で、話者/筆者が「付けたい気分の時にだけ」付ける記号であって、英語の「常に表記を義務づけられている過去時制記号」とは本源的に異質のものである。その出来事が「過去→現在→未来という連続した流れの中で、どの時点に属するか」を示すのではなくて、その出来事が「今話している/書いている話者/筆者の意識の中で、どんな捉えられ方をしているか」を示しているのが、日本語に於ける<<過去っぽい記述>>の実体であって、西欧言語に言う「過去形」とは本質的に異質なものなのである。
-「記憶の"き"」と「伝聞の"けり"」-
*そうした「話者/筆者の意識の中での位置付け」を示す記号として、「き」と「けり」はよく似た、しかし微妙に異なる特性を持っている。共に「時制的には"過去"」に属するものであるが、前述の如く、そうした時制表示は「き/けり」の本源的な機能ではない。その「過去の出来事」が「語り手/書き手の"過去の個人的体験の記憶"の中にある」と主張する記号が「き」であり、「語り手/書き手の"個人的体験によらぬ過去の出来事の伝聞情報"として知っている」と主張する記号が「けり」である。
-「(再)発見の"けり"」-
*また、「語り手/書き手が直接に体験した過去の出来事」だったとしても、それを「忘れていた・・・のを思い出した」場合には「き」ではなく「けり」を付ける;現在眼前にある何かを見て「あれっ?!おいおい、これ見てよ、うわぁ、何とも・・・じゃないか!」というような「気付き」の感慨を表わすのも「けり」であって、この場合の対象時制は「過去」というよりむしろ「現在」と言ったほうがよいかもしれない・・・というよりも、「過去」だの「現在」だのといった「相対時間」を刻む記号ではなく、自分自身の「主観的意識」に刻み込まれた「発見」の感覚を表明する語句が「けり」なのである。
*そうしたわけで、「き」は「記憶の中に常に確実に居座り続ける過去の出来事」を表わし、「けり」は「今この瞬間に意識の表層に浮かび上がって独自の立場を主張している過去(現在)の出来事」を表わすものと言える。「気付きの"けり"」とか「詠嘆の"けり"」と呼ばれる用法は、そうした「今まではノーマークだった・・・けど今はスポットライトを浴びている」の対比から生まれるものである。
-「き」/「けり」の来歴=「来(く)」-
*語源的には、「き」も「けり」も共にカ変動詞「来(く){こ・き・く・くる・くれ・こよ/こ}」につながる語であるといわれる。この動詞とつながる時の助動詞「き」に関しては、その来歴上、<動詞「来」+助動詞「き」の「来き(きき)」の形>は成立しない:同一語句の繰り返しの感覚が忌避されたためである。仕方がないので「来+たり(きたり)」/「来+ぬ(きぬ)」のような代用表現に逃げ込む形を取るが、「来+けり(きけり)」の形は成立する。「けり」の語源は「来+あり=きあり・・・けり」であるから、字面通り解析して還元すると「来+けり=き+き+あり」となって変だが、音感的には「きけり」は問題ない組み合わせであるから、「き」とはペアを組めない「来」も「けり」とは結合可能なのである。
-そろそろ「けり」を付けましょう-
*まとめれば、「き」も「けり」も、「時制としての過去」を表わすのではなく、「記憶の中での位置付け」を表わす記号である、ということになる。「これは私が直接体験した過去の記憶として語っているんですよ」という態度を表明したければ「き」を、「私の聞いたことのある過去の話ですよ」あるいは「今思い出した/思い付いた事柄ですよ」の心的態度を明示するためには「けり」を、それぞれ付けるわけである。
*こうして確認すればわかる通り、「き」や「けり」は、あまり文中で乱発されるべき性質の語句ではない。「過去だよ、これは過去だよ、確実にあった過去の事柄として自分の記憶の中での位置付けは確かだよ」と連続して主張しては、しつこいばかりで聞く/読む方もウンザリしてしまうであろう。英語の場合には必須となる「動詞ごとに行なう時制明示」が日本語では求められない以上、「動詞は基本的に現在形で押し通す」流れの中で、折りを見て織り込む「この過去の出来事については・・・自分としてはこういう意識で見ているんですけどね」というスタンスを示す記号として用いられるのが「き」と「けり」・・・そのため、特に発話者の心的態度の表明記号としての色彩が濃い「けり」は、文頭と文末での出現確率は極めて高いが、文中ではあまり用いられない。全体としては「現在モード」で推移する文章を、出だしの部分に於いて「これは今/未来の事柄ではなく、過去の事として語らせてもらいますけどね」としてその時間的位置付けに聞き手/読み手の意識を喚起する役割を演じたら、一番最後に「さぁ、これで、私の思い出話は終わりですよ」として「けり」を付けるまでは、その出番はないのが自然なのである。
*上記の現象は、動詞の記述に厳格な時制区分を伴う英語などの西欧言語に十分習熟した上で、千年も昔の古文の「き」「けり」という助動詞の根源的特性を踏まえつつ、現代にも残る「時制明示意識のない日本語」という事実を客観的に見据えなければ、理解できない事実である・・・が、実に面白いことに、無意識のうちにもこの「最後の最後に、自らの心的態度として、事柄に締めくくりを付けるための"けり"」という性質を言い当てた言い回しが、古来、この国には存在する ― 「ケリを付ける!」がそれである。英語で言えば「put an end/a period to it:終止符/エンドマーク/ピリオドを打つ」となるところを、日本の諺では「けりをつける」と言うのである。これを以てしても、よくわかるであろう:文頭と文末以外にやたら「けり」を付ける行為が、いかにヘンテコなものであるか・・・中古の(主に男性の手になる漢文調の)古文や、後代の仏教説話の中には、こうした事情を踏まえずにやたらと「けり」だの「き」だのが文中の至る所に乱れ飛ぶ代物が多くあるが、話の流れのあちこちで「腰を折る」こうした書き方は日本語としてはいかにも不自然(・・・現在形一本で押し通す中国語で書かれた漢籍に中途半端にいそしんだ結果として妙な時制区分意識に目覚めてしまった語学音痴な著作者の不手際や、そうした"汚点"をそのまま引き継いだ後代著者の不見識を感じさせるもの)で、美しくない・・・「古文」と言えば平安中期の(「き」の出番が少なく、文頭/文末以外には滅多に「けり」を付けない)優雅なる女流かな書き文学を思い浮かべる人々が多いのも、むべなるかな、である。
*『扶桑語り』の多くは、中古女流筆者の手になる「あまりケリを付けない書きぶり」を模して書かれている;が、中には「き/けり乱発の美しくない書き方」に寄せてある(をとこ風な)作品もある・・・読み進むうちにそうした違いを肌で感じ取ることができたなら、あなたもそれなりの「古文読み」になってきた証しである。
◆【けり】〔助動ラ変型〕(2)(気付き)(以前から存在する事柄について)発見したり印象を新たにしたりした意を表わす。・・・だったのだなあ。 ・・・思えば・・・だったことよ。 *接続=連用形。
*過去から存在し続けてはいたものの、今に至るまで話者が深く意識していなかった事柄について、今更のように発見したり認識を新たにした場合に、「あぁ、そういうことだったのか」として「ハタと感じ入る」感じの助動詞「けり」の用法で、「詠嘆」とも「気付き」とも呼ばれるもの。
*「過去助動詞」としての「けり」などとっくに死滅している現代日本に於いてなお、「短歌」・「俳句」の結びの文句などの形で生き残っているという事実(例:「明治/昭和/二〇世紀は遠くなりに<けり>」)からも、単なる「過去」ならぬ「詠嘆」語法としての「けり」の生命力が、感じ取れるであろう。
*英訳=「now I see ...」/「that reminds me, ...」/「oh yes, ...」/「indeed ...」/etc, etc.
-「過去時制」記号でないからこその「気付き」なりけり-
*古典文法を正しく学んでいる人間なら(&そういう人だけが)知っていることだが、一般に「過去」の助動詞と呼ばれる「き」・「けり」は、英語などの西欧言語的な意味に於ける「過去時制」を表わす語ではない:<日本語の時制には(昔も今も)「現在形」しかない>のである。「過去」に見えるのは実は<現在という固定した時点に身を置く話者の主観に応じて、折々「過去」に対する心的態度を表明している>だけのことであって、その(現時点から振り返った過去に対する)「心理上の過去モード演出記号」としての「き」・「けり」だからこそ、「あぁ、今まで気付かずに来たけれど、これって・・・だったのか!」という「現在に於ける再発見事態としての過去」にスポットライトを当てる「"気付き"けり」のような話法が成立するのである。
*英語の「過去時制」では「けり」と同種の芸当を演じることはできない。「時制明示記号」であって「態度表明記号」ではないからである:
古語例)「ありし日は然らぬ顔にて過ぎにしを世になき君ぞ宝なり<ける>」(COPYRIGHT 之人冗悟:Noto Jaugo 2010)・・・そばにいる間は、何ということもなさそうな顔して過ぎ去ってしまったけれど、いなくなった今になってようやくわかった・・・この世に二つとない宝物、それがあなただったのだなぁ。
英訳例)「How could I have missed such an important thing? Why did I not treat it as it deserved? Where on earth could I find a peer? You disappeared to make your presence felt...」
*自作の詩文なのでついつい英訳も韻文調に流れてしまった・・・「古語の<けり>の気付き語法は英語の<過去形>では表現不能」なる事実の説明用には不向きなものとなってしまったが、ともあれ、古歌の「{世に亡き}君ぞ{世に[二つと]無き}宝なり<ける>」という「気付き」は、古語ではただ「けり」を付けるだけで演出できるのに、英詩ではこの気付きを「How could I have missed...?:今まで、どうして見過ごしてきたりしたのか?」&「You disappeared:君はいなくなってしまった/to make your presence felt [to me]:そしてその存在の重さを私に感じさせた」といった大がかりな説明を通してやっとこさ読者に知らしめている、という点に注目されたい・・・「気付きの"けり"」一発の持つ詠嘆的キック力の強さが、わかってもらえただろうか?
◆【けり】〔助動ラ変型〕(3)(過去からの継続)(過去に発生した事柄が)現在までずっと続いている意を表わす。・・・てきた。 ・・・ていた。ずっと・・・た。 *接続=連用形。
*助動詞「けり」が、一定の時間幅をもって過去から現在まで続いている事態・動作に言及する用法で、英語の「現在完了形」や「現在完了進行形」に近く、「・・・てきた」などと訳せばよい。
*英訳=「have ...ed (the perfect tense)」/「have been ...ing (the perfect progressive tense)」
■__なり【なり】『接続:{体言・連体形}』〔助動ナリ型〕{なら・なり/(に)・なり・なる・なれ・(なれ)} (1)〈(断定)(体言・活用語の連体形に付いて)特定の状態・立場・資格にある意を表わしたり、事情を説明する。(多く、連用形「に」+「あり」の分離形を取り、間に接続助詞「て」・係助詞「か(は)」・「や(は)」・「は」・「も」・「ぞ」・「こそ」・「なむ」を挟み込む)〉・・・なのである。・・・だ。・・・である。・・・の立場だ。・・・状態だ。・・・だからこそなのだ。 (2)〈(存在・所在)(場所を表わす名詞に付いて)その場所に存在する意を表わす。〉・・・にいる。・・・にある。・・・に位置する。・・・に留まっている。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【なり】〔助動ナリ型〕(1)(断定)(体言・活用語の連体形に付いて)特定の状態・立場・資格にある意を表わしたり、事情を説明する。(多く、連用形「に」+「あり」の分離形を取り、間に接続助詞「て」・係助詞「か(は)」・「や(は)」・「は」・「も」・「ぞ」・「こそ」・「なむ」を挟み込む)・・・なのである。 ・・・だ。・・・である。・・・の立場だ。・・・状態だ。・・・だからこそなのだ。 *接続=体言。連体形。
*「・・・である」と言い切る「断定」の「なり」。この助動詞が「なり」の形で用いられる場合は問題ないが、多くの場合「に+あり」の分離形で用いられる。後者の用例の「に」は、一見「なり」に結び付かないので、その盲点を突いた整序問題等の形での「受験生イジメ」に最適(←出題者側の言い草)なので、くれぐれも注意する必要がある。
*英訳=「be A」
*「に+あり」の分離形への対応には、次のような連語コンビネーションそのものを棒暗記して臨むのが現実的である:
「に+て+あり」/「に+こそ+あれ」/「に+なむ+ある」/「に+か(は)+ある?」/「に+は+あれ(ど・ども)」/「に+も+あれ(ど・ども)」/「に+ぞ+ある」
-この「に」って・・・本当に「なり」の連用形?-
*語源学的に、断定助動詞「なり」は、格助詞「に」+動詞「在り」=「にあり→なり」である・・・である以上、「に+て+あり」や「に+こそ+あれ」を「格助詞(に)+接続助詞(て)+動詞(あり)」/「格助詞(に)+係助詞(こそ)+動詞(あれ)」と分類するのが文法論理的には正しそうである・・・が、日本の古文業界ではこの「に」を「断定助動詞"に"の連用形」と断定してしまう・・・その根拠は次の一点にあるものと推測される:
<形容動詞のほぼ全てを占める「ナリ活用」(対義語は「タリ活用」)の連用形もやはり「語幹+に」であり、この形の連用形形容動詞が「副詞用法」として数多く使用されている以上、同じ形の「体言+に」もやはり「断定助動詞なり」の連用形に見立てないことには整合性が保てない>
*語源学的には薄弱な根拠ながら、分類学的にはこうした「便法=根拠あやふやながら、とりあえずそういうことにしておけば何かと(or何かに)便利な取り決め」を「文法」として受け入れるのも合法ナリ、なのだろう・・・釈然とせぬ学習者も多かろうが、こうした「いかにも日本人らしい文法理論」の中に、「日本人の法意識の現実」を見出すのもまた勉強なり、としておこう。
◆【なり】〔助動ナリ型〕(2)(存在・所在)(場所を表わす名詞に付いて)その場所に存在する意を表わす。・・・にいる。 ・・・にある。・・・に位置する。・・・に留まっている。 *接続=体言。
*場所を表わす名詞に接続して「所在地」を表わす断定助動詞「なり」の用法。
*英訳=「be in/at/on/etc, etc. A」
-断定の「なり」の原初用法-
*体言に付いて「・・・である」の意を表わすのが断定助動詞「なり」である、と思っている受験生が多いが(例:「学習者の敵は思い込み<なり>」)、元々は「場所を表わす名詞」+所在地の格助詞「に」+存在の動詞「あり」の「Aにあり」(例:「敵は本能寺<にあり>」by明智光秀)が詰まって「Aなり」となったのが「なり」の始まりである。前者の語法が現代にも(文語とはいえ)残っているのに対し、「所在地」語法の「なり」は死語と化し、現代語では「Aにあり」と先祖返りしているので、初学者は戸惑いやすいが、「にあり」の原初形に還元して考えれば難なく理解できるはずである。
*ちなみに、「A=Bである」の等号的意味を表わす方の(一般的語法の)断定助動詞「なり」は、「Aにてあり」と解釈すればわかりやすい。この「にて」が中世以降「んて→んで→で」と変化し、現代語「AはB<で>ある」の表現へとつながったの<で>ある。
■__むず【むず】『接続:{未然形}』〔助動サ変型〕{○・○・むず(んず)・むずる(んずる)・むずれ(んずれ)・○} (1)〈(未来の推量)将来の事柄について推量する。(存在・様態の表現に付いて)現在の未確認の事柄について推量する。〉・・・ろう。・・・だろう。・・・しそうだ。 (2)〈(意志・願望)(自分自身が)ある行動を取る意志・願望・予定がある意を表わす。(勧誘)(自分達が)ある行動を取ることを積極的に促す。〉・・・しよう。・・・したい。・・・するつもりだ。・・・を望む。・・・することになっている。 (3)〈(勧誘・希望)(他者が)ある行動を取ることを(話者が)望む意を表わす。〉・・・てほしい。・・・してくれないか。・・・ならいいのに。・・・しなさい。 (4)〈(仮想・婉曲)(連体形・準体法で用いて)ある事柄が仮に実現した場合の、その事柄について、仮想の形で、または、遠回しに述べる。〉もし・・・したとして、その~。仮に・・・としてその~。例えば・・・のような。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【むず】〔助動サ変型〕(1)(未来の推量)将来の事柄について推量する。(存在・様態の表現に付いて)現在の未確認の事柄について推量する。・・・ろう。 ・・・だろう。・・・しそうだ。 *接続=未然形。
*推量助動詞「む」とほとんど同じ「むず」で、「・・・(だ)ろう」と訳せばよい。英語の「will」に相当する語である。
*英訳=「will ...」/「shall ...」/「may ...」/「be likely to ...」/「possibly ...」/etc, etc.
-「むず」の祖形は「む+為(す)」-
*推量助動詞「む」の古い連用形「み」+「為(す)」の「みす」が「むす」になったという説と、「む」+格助詞「と」+「為(す)」の連語形が一語の助動詞と化したとの説があるが、いずれにせよ「・・・しようとする」に発する語である。
*平安中期に成立した語とされ、『枕草子』の中で清少納言が「"むとす"と言わずに"むず"と言うのはよろしくない」と書いていたりするので、当時はまだ「助動詞としての市民権」を得ていなかったらしい。
*盛んに用いられるようになるのは中世以降で、「むず」から「んず」へ、鎌倉時代以降は「うず」へと語形が変わって行くが、江戸時代に入ると衰退した。現代日本語でも当然死語である。
*「むず」の直後に現在推量の助動詞「らむ」を付けた「むずらむ」も多用され、この形は「うずらう」を経て、現代にも中部地方で用いられる方言の「・・・ずら」となった。
◆【むず】〔助動サ変型〕(2)(意志・願望)(自分自身が)ある行動を取る意志・願望・予定がある意を表わす。(勧誘)(自分達が)ある行動を取ることを積極的に促す。・・・しよう。・・・したい。・・・するつもりだ。 ・・・を望む。・・・することになっている。 *接続=未然形。
*英語に於ける「意志未来」に相当する「む」(あるいは「むず」)の用法で、自らの意志として「・・・しよう/・・・したい」の意を表わす。当然その主語は「自分(を含む集団)」であり、英語の代名詞で言えば「I」・「we」・「you and me」・「our family/company/group」あたりとなる。文語に残る「・・・んとする」の語形を「むず」の末裔と見るならば、「女にモテ<んとすれ>ば、カシコい男よりもオモロいヤツを目指すべし」などの形でかろうじて現代日本語にも残っている語法であるが、これを「女にモテ<んずれ>ば・・・」とするような語形はあり得ない。
*英訳=「will ...」/「be going to ...」/「want to ...」/「wish to ...」/「have it in mind to ...」/etc, etc.
*主語が自分自身(を含む集団)の「一人称(単数のI/複数のwe)」であれば必ず「意志未来」になる、というわけではないが、「意志含みの"む/むず"や"will"」なのに「・・・だろう」などと「意志・積極性の感じられぬ第三者的推量」の訳し方をすれば手ひどい減点を喰らうのは必定であるから、「む/むず/will」に関しては「そこに主体的意志はあるか?」を即座に観測する態度が必要、というのが古文/英語のイロハ(基本的心得)である。
◆【むず】〔助動サ変型〕(3)(勧誘・希望)(他者が)ある行動を取ることを(話者が)望む意を表わす。・・・てほしい。 ・・・してくれないか。・・・ならいいのに。・・・しなさい。 *接続=未然形。
*助動詞「む」や「むず」が、自分(側)以外の他者を主語として、「・・・してほしい」という願望(あるいは「・・・しよう」という勧誘)の意を表わす用法。多く、強調の係助詞「こそ」と呼応した已然形係り結び「こそ・・・め/こそ・・・むずれ」の形を取る。現代日本語では死語である。
*英訳=「will you ...?」/「I hope you will ...」/「I'd appreciate it if you would ...」/「you might as well ...」/etc, etc.
-「客観的推量」めかしての「主観的希望」-
*「む」/「むず」は元来、客観的推量として、まだ成立していない事態や未確認の事柄について「・・・であろう」と述べる言い回しだが、そうして「私の立場から、当然(or望ましいものとして)予想される未来図」を相手の眼前に示すことで、その未来図の実現に向けて相手が積極的に動くことを期待する言い回しである。
*自分の意志を前面に押し立てて主体的・積極的に動くのを嫌い、周囲の人々が動いた結果として「状況が自発的に・・・の形で展開した」という形式を好んだ古典時代の貴人らしい表現と言えばいえるが、平安中期には既に「あまりにも持って回ったわざとらしくて時代がかった言い回し」と認識されていたようで、『源氏物語』の中ではbookishな(書物ばかり読み漁って現実離れした)学者の大仰な物言いとして茶化し口調で使われている例が見える。
藤原氏を中心に宮中の人間模様を描いた『栄花物語』の中でも、殿上人どうしの間での非常にかしこまった物言いとして、次のような形で使われている例がある:
「やや、ものうけたまはる。今さらに何かは御殿籠る、起きさせ給は<む>。」(栄花物語・二・花山たづぬる中納言)
現代語訳すれば、「もしもし、少しばかり御返答賜わりたく存じます。すでに早朝に近いこの時刻になって、今更御就寝になられるのもどうかと思います・・・どうぞお起きになってはいかがでしょうか?」・・・藤原兼家(=『蜻蛉日記』著者の不実な旦那様である'Mr.前渡り=門前素通り男')の時代の宮中の会話としても、殊更に取り澄まし過ぎて軽いジョークの雰囲気さえ漂っているのが、感じられるであろう。高校生の修学旅行の夜更かし大会なら、明け方近くにうつらうつらし始めた仲間に向かって「こら!寝るな!気合いで起きろ!」となるのが自然だが、逆に不自然なまでに馬鹿丁寧に「もしもし、そろそろ朝ですよ・・・今更寝ようにももう手遅れではありませんか?起きたほうがよろしいんじゃございませんか?・・・朝・で・す・よ・お・お・お・お!」と耳元で囁くのも面白いであろう・・・そんな感じの「む」による目覚まし勧誘である。
*こうした「あまりにも不自然な消極性」が力不足と感じられたからこそ、であろう、このタイプの「む」/「むず」による「第三者主語への願望・勧誘」表現の多くは、強調の係助詞と対応しての「こそ・・・め」/「こそ・・・むずれ」という已然形係り結びで語られている。それぐらいしなければ伝わらないほどの「願望」・「勧誘」は、当然、あまり多用はされず、他者へと何かをあつらえ望む言い回しとしては、次のような代替表現がだいたい使われるのが常であった:
1)「・・・なむ」=活用語未然形+終助詞「なむ」
2)「・・・なむ/・・・なむや」=活用語連用形+確述助動詞「ぬ」未然形+推量助動詞「む」(+係助詞「や」)
3)「・・・てむ/・・・てむや」=活用語連用形+確述助動詞「つ」未然形+推量助動詞「む」(+係助詞「や」)
4)「・・・ぬべし」=活用語連用形+確述助動詞「ぬ」終止形+推量助動詞「べし」
5)「・・・つべし」=活用語連用形+確述助動詞「つ」終止形+推量助動詞「べし」
6)「・・・なまし」=活用語連用形+確述助動詞「ぬ」未然形+推量助動詞「まし」
7)「・・・てまし」=活用語連用形+確述助動詞「つ」未然形+推量助動詞「まし」
8)「・・・もがな/もが/(上代)もがも」=活用語連用形+終助詞
9)「・・・もこそ(あらめ)」=体言+係助詞「も」+係助詞「こそ」+「あり」未然形+推量助動詞「む」已然形
・・・これほどたくさんの「おねだり表現」があるのだから、控え目すぎて相手に自分の声がなかなか届かない感じの「む/むず」による願望・勧誘表現の影は薄かったこと、感じ取ってもらえたことであろう(それでもなおかつ望みを叶えたくば、「こそ・・・め/こそ・・・むずれ」ぐらいはやはり叫ばないことには相手の耳には届くまい)。
◆【むず】〔助動サ変型〕(4)(仮想・婉曲)(連体形・準体法で用いて)ある事柄が仮に実現した場合の、その事柄について、仮想の形で、または、遠回しに述べる。もし・・・したとして、その~。 仮に・・・としてその~。例えば・・・のような。 *接続=未然形。
*推量助動詞「む」にあるのと全く同じ「むず」の語法。最も訳しづらい(というか、多くの場合、訳さないほうが自然な日本語になる)語法で、「婉曲」と呼ばれるもの。常に「連体形」または「準体法(後続部にあるべき体言を省略しつつ、あたかもその体言が存在するかのように扱う)」で用い、厳密に解釈すれば「もし仮に・・・するとして、その・・・」という持って回ったものになる(例:「君の入ら<むずる>大学」=「君が入学する・・・とした場合のその・・・大学」)。
*英訳=「should/would/might/etc, etc. (subjunctive mood)」
-古語にはあっても現代語にはない「仮定」のニュアンス-
*英語の「仮定法」に通じる語法で、例えば「人の知ら<む/むずる>も面映ゆからむ」は、英語でなら「I should feel embarassed if somebody else <should> know it.:他の誰かがそれを知った<としたら>自分としてはばつの悪い思いをすること<だろう>」となるが、この仮定法表現を<・・・としたら、それは・・・だろう>と律儀に訳すのは、この種の仮定表現の厳密性を重んじない(むしろ、嫌う)現代日本語では不自然な感がある:「他の誰かが知ったら、ばつが悪い」として<・・・としたら>も<・・・だろう>もお引き取り願ってしまうほうがよかったりもするのだ。
*そうした次第で、この「婉曲」の「む/むず」もまた、古典時代には存在したものの、現代日本語では死語と化している語法の一つ、というわけである。ちなみに、「らむ」にも同様の「婉曲語法」がある。
■__む【む】『接続:{未然形}』〔助動マ四型〕{○・○・む(ん)・む(ん)・め・○} (1)〈(未来の推量)将来の事柄について推量する。(存在・様態の表現に付いて)現在の未確認の事柄について推量する。〉・・・ろう。・・・だろう。・・・しそうだ。 (2)〈(意志・願望)(自分自身が)ある行動を取る意志・願望・予定がある意を表わす。(勧誘)(自分達が)ある行動を取ることを積極的に促す。〉・・・しよう。・・・したい。・・・するつもりだ。・・・を望む。・・・することになっている。 (3)〈(勧誘・希望)(他者が)ある行動を取ることを(話者が)望む意を表わす。(多く、已然形係り結び「こそ・・・め」の形を取る)〉・・・てほしい。・・・してくれないか。・・・ならいいのに。・・・しなさい。 (4)〈(仮想・婉曲)(連体形・準体法で文中に用いて)ある事柄が仮に実現した場合の、その事柄について、仮想の形で、または、遠回しに述べる。〉もし・・・したとして、その~。仮に・・・としてその~。例えば・・・のような。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【む】〔助動マ四型〕(1)(未来の推量)将来の事柄について推量する。(存在・様態の表現に付いて)現在の未確認の事柄について推量する。・・・ろう。 ・・・だろう。・・・しそうだ。 *接続=未然形。
*未来の事態について客観的に(=自らの意志でそうしたい/そうするつもりだ、の含意を持たせずに)「・・・だろう」とする「む」の用法。現代日本語には残っていない。主語となるのは「自分(達)自身以外の誰か・何か」が多いが、「自分自身に関する客観的な未来予想図」を思い描くのに使われる場合もないではないので、いずれにせよそこに「意志性」が介在しているかいないかに注目して解釈する必要がある。
*英語=「will ...」/「shall ...」/「be likely to ...」/「perhaps ...」/「possibly ...」/「be going to ...」/etc, etc.
◆【む】〔助動マ四型〕(2)(意志・願望)(自分自身が)ある行動を取る意志・願望・予定がある意を表わす。(勧誘)(自分達が)ある行動を取ることを積極的に促す。・・・しよう。・・・したい。・・・するつもりだ。 ・・・を望む。・・・することになっている。 *接続=未然形。
*英語に於ける「意志未来」に相当する「む」(あるいは「むず」)の用法で、自らの意志として「・・・しよう/・・・したい」の意を表わす。当然その主語は「自分(を含む集団)」であり、英語の代名詞で言えば「I」・「we」・「you and me」・「our family/company/group」あたりとなる。現代日本語には、ガチゴチの文語体で、「英語を完璧に修得せ<ん>と欲するなら、単語だの会話だのの前にまず文法の全領域を理知的に把握せよ」のような形で残る。
*英訳=「will ...」/「be going to ...」/「want to ...」/「wish to ...」/「have it in mind to ...」/etc, etc.
*主語が自分自身(を含む集団)の「一人称(単数のI/複数のwe)」であれば必ず「意志未来」になる、というわけではないが、「意志含みの"む/むず"や"will"」なのに「・・・だろう」などと「意志・積極性の感じられぬ第三者的推量」の訳し方をすれば手ひどい減点を喰らうのは必定であるから、「む/むず/will」に関しては「そこに主体的意志はあるか?」を即座に観測する態度が必要、というのが古文/英語のイロハ(基本的心得)である。
◆【む】〔助動マ四型〕(3)(勧誘・希望)(他者が)ある行動を取ることを(話者が)望む意を表わす。(多く、已然形係り結び「こそ・・・め」の形を取る)・・・てほしい。 ・・・してくれないか。・・・ならいいのに。・・・しなさい。 *接続=未然形。
*助動詞「む」や「むず」が、自分(側)以外の他者を主語として、「・・・してほしい」という願望(あるいは「・・・しよう」という勧誘)の意を表わす用法。多く、強調の係助詞「こそ」と呼応した已然形係り結び「こそ・・・め/こそ・・・むずれ」の形を取る。現代日本語では死語である。
*英訳=「will you ...?」/「I hope you will ...」/「I'd appreciate it if you would ...」/「you might as well ...」/etc, etc.
-「客観的推量」めかしての「主観的希望」-
*「む」/「むず」は元来、客観的推量として、まだ成立していない事態や未確認の事柄について「・・・であろう」と述べる言い回しだが、そうして「私の立場から、当然(or望ましいものとして)予想される未来図」を相手の眼前に示すことで、その未来図の実現に向けて相手が積極的に動くことを期待する言い回しである。
*自分の意志を前面に押し立てて主体的・積極的に動くのを嫌い、周囲の人々が動いた結果として「状況が自発的に・・・の形で展開した」という形式を好んだ古典時代の貴人らしい表現と言えばいえるが、平安中期には既に「あまりにも持って回ったわざとらしくて時代がかった言い回し」と認識されていたようで、『源氏物語』の中ではbookishな(書物ばかり読み漁って現実離れした)学者の大仰な物言いとして茶化し口調で使われている例が見える。
藤原氏を中心に宮中の人間模様を描いた『栄花物語』の中でも、殿上人どうしの間での非常にかしこまった物言いとして、次のような形で使われている例がある:
「やや、ものうけたまはる。今さらに何かは御殿籠る、起きさせ給は<む>。」(栄花物語・二・花山たづぬる中納言)
現代語訳すれば、「もしもし、少しばかり御返答賜わりたく存じます。すでに早朝に近いこの時刻になって、今更御就寝になられるのもどうかと思います・・・どうぞお起きになってはいかがでしょうか?」・・・藤原兼家(=『蜻蛉日記』著者の不実な旦那様である'Mr.前渡り=門前素通り男')の時代の宮中の会話としても、殊更に取り澄まし過ぎて軽いジョークの雰囲気さえ漂っているのが、感じられるであろう。高校生の修学旅行の夜更かし大会なら、明け方近くにうつらうつらし始めた仲間に向かって「こら!寝るな!気合いで起きろ!」となるのが自然だが、逆に不自然なまでに馬鹿丁寧に「もしもし、そろそろ朝ですよ・・・今更寝ようにももう手遅れではありませんか?起きたほうがよろしいんじゃございませんか?・・・朝・で・す・よ・お・お・お・お!」と耳元で囁くのも面白いであろう・・・そんな感じの「む」による目覚まし勧誘である。
*こうした「あまりにも不自然な消極性」が力不足と感じられたからこそ、であろう、このタイプの「む」/「むず」による「第三者主語への願望・勧誘」表現の多くは、強調の係助詞と対応しての「こそ・・・め」/「こそ・・・むずれ」という已然形係り結びで語られている。それぐらいしなければ伝わらないほどの「願望」・「勧誘」は、当然、あまり多用はされず、他者へと何かをあつらえ望む言い回しとしては、次のような代替表現がだいたい使われるのが常であった:
1)「・・・なむ」=活用語未然形+終助詞「なむ」
2)「・・・なむ/・・・なむや」=活用語連用形+確述助動詞「ぬ」未然形+推量助動詞「む」(+係助詞「や」)
3)「・・・てむ/・・・てむや」=活用語連用形+確述助動詞「つ」未然形+推量助動詞「む」(+係助詞「や」)
4)「・・・ぬべし」=活用語連用形+確述助動詞「ぬ」終止形+推量助動詞「べし」
5)「・・・つべし」=活用語連用形+確述助動詞「つ」終止形+推量助動詞「べし」
6)「・・・なまし」=活用語連用形+確述助動詞「ぬ」未然形+推量助動詞「まし」
7)「・・・てまし」=活用語連用形+確述助動詞「つ」未然形+推量助動詞「まし」
8)「・・・もがな/もが/(上代)もがも」=活用語連用形+終助詞
9)「・・・もこそ(あらめ)」=体言+係助詞「も」+係助詞「こそ」+「あり」未然形+推量助動詞「む」已然形
・・・これほどたくさんの「おねだり表現」があるのだから、控え目すぎて相手に自分の声がなかなか届かない感じの「む/むず」による願望・勧誘表現の影は薄かったこと、感じ取ってもらえたことであろう(それでもなおかつ望みを叶えたくば、「こそ・・・め/こそ・・・むずれ」ぐらいはやはり叫ばないことには相手の耳には届くまい)。
◆【む】〔助動マ四型〕(4)(仮想・婉曲)(連体形・準体法で文中に用いて)ある事柄が仮に実現した場合の、その事柄について、仮想の形で、または、遠回しに述べる。もし・・・したとして、その~。 仮に・・・としてその~。例えば・・・のような。 *接続=未然形。
*推量助動詞「む」の中でも、最も訳しづらい(というか、多くの場合、訳さないほうが自然な日本語になる)語法で、「婉曲」と呼ばれるもの。常に「連体形」または「準体法(後続部にあるべき体言を省略しつつ、あたかもその体言が存在するかのように扱う)」で用い、厳密に解釈すれば「もし仮に・・・するとして、その・・・」という持って回ったものになる。(例:「君の入ら<む>大学」=「君が入学する・・・とした場合のその・・・大学」)
*英訳=「should/would/might/etc, etc. (subjunctive mood)」
-古語にはあっても現代語にはない「仮定」のニュアンス-
*英語の「仮定法」に通じる語法で、例えば「人の知ら<む>も面映ゆからむ」は、英語でなら「I <should> feel embarassed if somebody else <should> know it.:他の誰かがそれを知った<としたら>自分としてはばつの悪い思いをすること<だろう>」となるが、この仮定法表現を<・・・としたら、それは・・・だろう>と律儀に訳すのは、この種の仮定表現の厳密性を重んじない(むしろ、嫌う)現代日本語では不自然な感がある:「他の誰かが知ったら、ばつが悪い」として<・・・としたら>も<・・・だろう>もお引き取り願ってしまうほうがよかったりもするのだ。
*そうした次第で、この「婉曲」の「む」もまた、古典時代には存在したものの、現代日本語では死語と化している語法の一つ、というわけである。ちなみに、「むず」/「らむ」にも同様の「婉曲語法」がある。
■__らる【らる】『接続:{四段&ナ変&ラ変以外の未然形}』〔助動ラ下二型〕{られ・られ・らる・らるる・らるれ・られよ} (1)〈(自発)意識せずとも自然発露的にそうなる意を表わす。(通例、打消の語を伴わない。命令形はない)〉自然と・・・られる。思わず・・・する。・・・ずにはいられない。 (2)〈(可能)その動作を実現することができる意を表わす。(中古までは、通例、打消の語を伴う。命令形はない)〉・・・できる。・・・られる。・・・可能だ。 (3)〈(受身)他者からの作用を受ける意を表わす。(通例、無生物は主語にならない)〉・・・れる。・・・られる。・・・される。・・・を被る。・・・の目に遭う。 (4)〈(尊敬)動作主を敬う意を表わす。〉・・・なさる。・・・される。お・・・になる。・・・られる。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【らる】〔助動ラ下二型〕(1)(自発)意識せずとも自然発露的にそうなる意を表わす。(通例、打消の語を伴わない。命令形はない)自然と・・・られる。 思わず・・・する。・・・ずにはいられない。 *接続=四段・ナ変・ラ変以外の未然形。
*「る/らる」が「特に意識せずとも、自然とそうなる」の意を表わす「自発」の語法で、現代日本語にもそのまま残るもの(例:「今からこんな調子じゃ、先が思いやら<れる>」)。
*英訳=「feel ...」/「feel like ...ing」/「it seems like ...」/「it looks as if ...」/「it looks as though ...」/etc, etc.
*「る」は「四段活用・ナ行変格活用(「死ぬ」・「去ぬ」)・ラ行変格活用(「あり」及びその複合語)」に付き、それ以外の動詞には「らる」が付く。接続する動詞が違っても、「る/らる」の表わす意味は全く同じ。
◆【らる】〔助動ラ下二型〕(2)(可能)その動作を実現することができる意を表わす。(中古までは、通例、打消の語を伴う。命令形はない)・・・できる。 ・・・られる。・・・可能だ。 *接続=四段・ナ変・ラ変以外の未然形。
*「る/らる」は「可能」の助動詞と呼ばれ、現代日本語にもほぼそのまま通じる(例:「今もなおでき<る>と言え<る>」)が、平安時代末期までは「肯定形=・・・できる」の形では用いず、「否定形=・・・できない」/「疑問形=・・・できるか?」/「反語形=どうして・・・できよう、いや、できない」の形でのみ用いた。英語にもよくあるパターンで、俗に言う「疑・否専語(ギもん・ヒていセンもんゴ)」である。
*英訳=「can not ...」/「can A ...?」/「how can A ...?」/(肯定形での使用は鎌倉期以降)「can ...」/「be able to ...」/「have the power to ...」
*「る」は「四段活用・ナ行変格活用(「死ぬ」・「去ぬ」)・ラ行変格活用(「あり」及びその複合語)」に付き、それ以外の動詞には「らる」が付く。接続する動詞が違っても、「る/らる」の表わす意味は全く同じ。
◆【らる】〔助動ラ下二型〕(3)(受身)他者からの作用を受ける意を表わす。(通例、無生物は主語にならない)・・・れる。 ・・・られる。・・・される。・・・を被る。・・・の目に遭う。 *接続=四段・ナ変・ラ変以外の未然形。
*「受身」の意味を表わす「・・・る/らる」は、現代日本語「・・・れる/られる」にもそのまま残る(例:「あの学校では、まるで役立たぬことばかり教え<られ>た」)が、古語ではその対象が「人間・動物」にほぼ限られ、それ以外のもの(植物・物体など)を主役に見立てた「受身」は少ない。
*英訳=「be ...ed (passive voice)」/「get ...ed (passive voice)」/「have A ...ed」/「get A ...ed」
*「る」は「四段活用・ナ行変格活用(「死ぬ」・「去ぬ」)・ラ行変格活用(「あり」及びその複合語)」に付き、それ以外の動詞には「らる」が付く。接続する動詞が違っても、「る/らる」の表わす意味は全く同じ。
-主体/客体不明瞭な日本語では、受動態もまた発達しない-
*概して、日本語は(古文でも現代文でも)英語に比べて「受動態」があまり発達していない。純粋に論理的に割り切った場合、受動態とは、「SがOをVする」という行為を、行為者(S)の立場ではなく、被行為者(O)の立場から逆転して眺めたもの(・・・実際の英語の受動態は必ずしもそうではなく、最初から「被行為者を主役に見立てた言い回し」であって、「SVO」の裏返しではない、というのが英語人種の正しい感覚なのだが、それはこの際さて置くとして)・・・この場合「Sが、Oを、Vする」という形で「行為の主体/行為の客体/行為そのものの内容」が全て明瞭に意識されていない限りは、「SはOをVした → Oは、Sによって、Vされた」という逆転の見立てもまた成立しない。
*ところが、日本人は古来、「誰が、何を、どうした」という「行動過程の明確化」を忌避する体質を持っている(21世紀の現在に於いてさえ、相変わらずそうである)。「give someone(A) credit for something(B):誰か(A)に対し、何か(B)の功労者としての功績(credit)を与える」という形で「人と行為を明確に見据えて顕彰する」という態度が、古来、日本人には備わって来なかったのである。
*気色ばむ日本人も多数存在するであろうが、英語圏を代表格とする「クレジット文化圏(非現金払い、の意味ではない)」との対比に於いて日本国/日本人を客観的に捉える比較文化論的パースペクティブ(perspective:了見・視野・展望)を持ち、かつ、平安時代の日本語の数々の特性に対する広範にして分析的な理解を我がものとした日本人であれば、「誰が、どのような形で、何をした・・・から、Xは達成されたのだ」という図式を明確化しようという態度がこの国の人間達に(古今常に)いかに欠落しているかが、唖然(or憤然)とするほどの明瞭さで、必ずや認識されることになろう。
*とりあえず、まずは覚えておくことだ:「受動態を自在に使いこなせない者は、自/他の区分に疎い者である」という論理学的事実と、「日本語は昔も今も受動態がヘタクソ」という言語学的事実を。
◆【らる】〔助動ラ下二型〕(4)(尊敬)動作主を敬う意を表わす。・・・なさる。 ・・・される。お・・・になる。・・・られる。 *接続=四段・ナ変・ラ変以外の未然形。
*動詞に付けて、その動作の行為主に対する敬意を表わす助動詞が「る/らる」。現代日本語にもこの敬語表現はそのまま引き継がれている(例:「と、先生はそう言わ<れ>ました」)。但し、古語としての「る/らる」の表わす敬意はあらゆる「尊敬助動詞」の中で最も低い。
*英訳=和語の敬語に相当する表現は英語には存在しない。無理に敬意を表わそうとして「deign to ...」のような表現に持ち込むと「かたじけなくも...してくださる」などという「The Queen deigned to wash my dirty underwear by her own hands!:恐れ多くも女王陛下自ら私の汚れた下着を洗濯してくださいましたっ!」みたいなとんでもないことになってしまう。
*「る」は「四段活用・ナ行変格活用(「死ぬ」・「去ぬ」)・ラ行変格活用(「あり」及びその複合語)」に付き、それ以外の動詞には「らる」が付く。接続する動詞が違っても、「る/らる」の表わす意味は全く同じ。
-「る/らる」の「尊敬」は、「自発」の意から生じたもの-
*「る/らる」は上代(奈良時代)の助動詞「ゆ/らゆ」に由来するもので、その本義は「自発」、つまり「思わず知らず・・・してしまった」である。この語義が「自分から敢えてそうしようと思わずとも、自然な成り行きの中で・・・になっている」という「周囲の人間があれこれ動いて、自分が手を下すまでもなく状況が整ってしまう」式の「貴人の行動様態」に相応しいもの、ということで「尊敬」の助動詞と化したわけである。
*現代人が古文を読んでいて奇異に感じることの一つに、「主体的・意志的に動くこと=下賤の者どものする蔑むべきこと」という意識がある。好きだった女性を密かにその宿に訪ねた男が、「食事を食器に自らの手でよそう(現代風に言えば、よそる)」女の姿を見て「幻滅した・・・あの女とはもう会うのはよそう」という『伊勢物語』の一節に面食らった諸君も多かろう。「自分としてはそうしたい」けど「自分でそれをしたら見苦しい」から「自分の意を汲んでそうしてくれる目下の者たちが、自分に代わってそうする状況を持とう」というのが「古典時代のエラい人の心理・行動原理」なのである・・・主体的行動を尊ぶ現代(西欧流)文明の観点からすれば「・・・ったく、何を偉そうなことほざいてやがる、何様のつもりだ貴様!」となる振る舞いだが、「貴様=貴人様」は「自分は偉いので、自分の周囲の者があれこれ動いてそうするのが自然」と思っているのだから、「自然発露的他力行動の成果=自分の手柄」という貴人意識は、「それが貴人という名の奇人の美意識・・・なのであった」として認識しておくよりほかはない。
*それと同時に、この種の「蔑むべき非主体性の御膳立て指向者(&手柄だけは我が物顔)の貴人気取りの"貴様!"連中」が、現代日本に相も変わらずはびこっていないかどうか、冷徹な客観的観察者としての目を研ぎ澄ます知性もまた、いやしくも「古文を学んで古文から学ぶ」意識ある知識階層には、自然な副産物として備わって然るべきであろう。「自分は***の立場なのだから、相手は自分を***として遇するべきだ」という意識が、いったい何様の心持ちとして生じるものか、それが歴史の中でいかなる弊害を生んできたか/現状に於いてなお生じ得るものか・・・「古文から学ぶもの」がそれなりに大きい現代日本人ならば、その答えは知っていて然るべきなのだ。
-「敬語」は「日本の文化!」だけどね・・・-
*良かれ悪しかれ、日本語の敬語というものは「発話段階で自/他の立場を分け隔てる差別化語法」であり、基本的に「立場の違いを超えて分かり合うための道具」たることを指向する西欧言語にはこんな迷惑な代物はない:もし相手を殊更に持ち上げたいのならば、語句の端々で「意志的に丁寧・遠慮を演出」することで相手への敬意を表出する個別的工夫が凝らされるのが西欧言語であって、日本語のように「相手が自分より目上なら、最初から最後までずっと上目遣い話法/自分より目下なら、徹頭徹尾見下し話法」などという構造的&全体主義的差別言語とは、根源的に全く異質のものなのである。
-「時間」にloose(和風に言えば、ルーズ)で「敬語」にウルサい変な国-
*この点、「動詞の時制は、過去/現在/未来のいずれであるかをその都度必ず明示する」という西欧言語の律儀な時制的特性が和語には存在せず、「折々、自分自身の気分に従って、"心的態度としての過去モード"であることを相手に念押しするために、"き"・"けり"を付けるだけ」という「基本的にすべて"現在"モードで推移する日本人の恣意的時制感」と、「相手が目上なら常に上目遣い/目下なら常に見下しモード、という首尾一貫した敬語の枠組み」は、際立つ対照を成すものであると言えよう。
*相手との相対的序列(自分が上か、相手が上か)を決めてからでないと発話が不可能(少なくとも、極めて困難または不自然)というこの「敬語なる差別化言語構造」に邪魔されて、見知らぬ相手に対して迂闊に口も開けぬこの言語学的特性は、日本人の場合、そうした差別的言語構造と無縁の外国語(英語などはその最たるもの)に習熟した後でなければ実感をもって認識することは不可能である。それだけに、外国帰りの日本人が、自らの母国の「言語学的差別主義者の日本人たち」との対話に著しい困難を来たす、という事態が古来(といっても明治維新後の短い時間幅の中でのことだが)続出し、そのたびに「純然たる日本人たる外国語使用不能者」は、「自分たちをヘンな目で見下す外国語使用能力を持った日本人」のことを「イケ好かない異国かぶれの非国民」扱いしてきた(&今なおそうし続けている!)わけである・・・が・・・この状況、いつまで続けるつもりであろうか、この東洋の島国の住人たちは・・・この「敬語なる差別主義話法」が「数千年来続いてきた日本人の意識の言語学的infrastructure=土台」であることは(古文を学べば心底「もうイヤ!」というほど)歴然たる事実として思い知らされる事柄ではあるが、そうした「millennium-old tradition(千年来の伝統芸)の数々(真に美しい和歌とか古語とか)をいとも平然とかなぐり捨てて生きている現代日本人」という事実をもまた、溜息が出るような思いで痛感させてくれるのが「古文学習」である・・・ので、今ある言語構造をあっさり捨て去った「新生和語」の誕生もまた、夢物語ではないことを期待しつつ、この「敬語なる有害無益な差別化言語構造」の死滅を、心底より祈るこの筆者である。
■__ぬ【ぬ】『接続:{連用形}』〔助動ナ変型〕{な・に・ぬ・ぬる・ぬれ・ね} (1)〈(完了)既に完了・終結した動作・作用・状態について、確認の意を込めて述べる。〉・・・てしまった。・・・てしまう。・・・た。 (2)〈(確述)(推量助動詞「む」・「まし」・「べし」・「らむ」などと共に用いて)その実現が確実視される未来の事態や未確認の現在の事態について、確信を持って強調的に述べる。また、命令形で用いて強い希望を表わす。〉きっと・・・。確かに・・・。間違いなく・・・。全く・・・。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【ぬ】〔助動ナ変型〕(1)(完了)既に完了・終結した動作・作用・状態について、確認の意を込めて述べる。・・・てしまった。 ・・・てしまう。・・・た。 *接続=連用形。
*「ある動作が既にもう完了してしまった/ある状態になってしまった」という形で、それまで行なわれていた動作や存在した状態が「今はもうない」ことに主眼点を置いて述べる「ぬ」の「完了」の用法。英語の「完了形」にあたり、現代日本語にはこの「ぬ」に相当する助動詞表現はない。
*英訳=「have ...ed (the perfect tense)」/「have finished ...ing」/「be through with A」
-完了の「ぬ」と打消の「ず」の識別-
*古文初心者(のみ)へのひっかけ問題として、同形の「ぬ」を巡る<完了の「ぬ」?打消の「ず」?>という錯覚を突くものがある。見分け方は単純で:
1)完了助動詞として「ぬ」が使われているなら、それは「終止形」であるから、後には何も続かずに文章が終わっているはず。
2)打消助動詞「ず」の「連体形」として「ぬ」が使われている場合には、直後に名詞が続くはず
・・・もし完了助動詞「ぬ」の「連体形」なら、「ぬる+名詞」の形になる。
*また、「ぬ」と「ず」は、「ね」という形をも共有しているが、次のような形で活用形が異なるので、これまた見分けは簡単である:
3)完了助動詞として「ね」が使われているなら、それは「命令形(・・・してしまえ)」であるから、後には何も続かずに文章が終わっているはず。
4)打消助動詞「ず」の「已然形」として「ね」が使われている場合には、次のいずれかの形になる:
A)「・・・ね、」の「中止法」で一旦文章を打ち切り、「たしかに・・・ないのだけれど、」として「逆接の確定条件」で後へと続く。
例)犬猫は、ものこそ言は<ね>、もの思ふべし。(わんこ・にゃんこは、言葉こそ言わないが、何かしら思うところがあるはずである)
B)「・・・ねど/ねども、」の形で一旦文章を打ち切り、「たしかに・・・ないのだけれど、」として「逆接の確定条件」で後へと続く。
例)犬猫は、言こそ口に乗せ<ね>ど(も)、気配に知らる心魂(2010 COPYRIGHT 之人冗悟:Noto Jaugo)
C)「・・・ねば」の形で一旦文章を打ち切り、「・・・ないので、」として「順接の確定条件」で後へと続く。
例)犬猫は、言もあらねばなかなかに人の言葉の嘘も知るべし(2010 COPYRIGHT 之人冗悟:Noto Jaugo)
(上代には「~も・・・ねば」の形で「~はたしかに・・・ないのだけれど」として「逆接の確定条件」となる例があるが、入試問題ではまず出ない形)
*このあたりの見極めはそれこそ瞬時に行なえるようになら<ねば・・・古語なら「ずは/ずば/ずんば」>、古文読みとしてはまだまだである。
-連用形「に」に注意-
*単独の「ぬ」ならぬ「に+き」・「に+けり」・「に+たり」等の連語形で他の(やはり過去・完了の意味を表わす)助動詞に結びつく連用形の「に」は、終止形の「ぬ」とは似ても似付かぬ形である上に、格助詞の「に」/助動詞「なり」の連用形と紛らわしい;が、「完了」の意味を含むのは「ぬ」だけなので、その点に注意すれば混同は避けられる・・・というより、上記の連語形は「組成を含め、丸暗記」しておくのが得策だろう。
-「ぬ」の語源と「ナ変」回避現象-
*「ぬ」は元々は「去ぬ(いぬ)」の末尾が助動詞化したものといわれる。つまり「今まではあった何か」が「今や、存在しなくなってしまった」という寂しさをその根底に宿した表現ということになる。
*元来が「去ぬ」だから、とういことで、完了助動詞「ぬ」は「ナ変動詞(=去ぬ/死ぬ)」には付かない、というルールがある:つまり「去に+ぬ/死に+ぬ」は御法度というわけで、これらの動詞には「去に+つ・たり/死に+つ・たり」が用いられた。但し、その語源学的事情が忘れ去られた平安末期以降になると、「死に+ぬ」と書いた古文がぼちぼち出回るようになる。
-「ぬ」と「つ」の関係-
*完了助動詞として「ぬ」と常に対比されるのが「つ」である。あちらは「棄つ(うつ)」の末尾が助動詞化したものとされ、その語源学的特性上「自らの意志で、積極的に事を終わらせる」雰囲気を色濃く漂わせる表現に用いられた。覚え方としては、「ぬ=自動詞(去ぬ)由来・・・自然的作用としての事態の終結・変化」/「つ=他動詞(棄つ)由来・・・意志的行動の結果としての事態の終結・変化」ということでよいだろう。
*音感的にも「タ行」より「ナ行」が柔和なため、平安女流文学では「ぬ」が「つ」よりも好まれる傾向があったことも付言しておこう。
◆【ぬ】〔助動ナ変型〕(2)(確述)(推量助動詞「む」・「まし」・「べし」・「らむ」などと共に用いて)その実現が確実視される未来の事態や未確認の現在の事態について、確信を持って強調的に述べる。また、命令形で用いて強い希望を表わす。きっと・・・。 確かに・・・。間違いなく・・・。全く・・・。 *接続=連用形。
*助動詞「ぬ」が、動作が「完了」した意を表わすのではなく、その動作が「確実に行なわれる」ものとして記述する「確述」の用法。「いろはにほへとちり<ぬる>を」(=色は匂へど、散り<ぬる>を・・・今でこそ色鮮やかに咲き誇っている花も、やがて<確実に>散るというのに)の「ぬる」がこの「確述(=きっと散る)」であって、「完了(=既に散っている)」ではない。
*「命令形」で用いられた場合には「ほら、・・・なさい」としてその動作を相手に対し強く促す意になる。現代日本語で「もっと本気で勉強し<な>」・「本ぐらい読み<な>よ」と言う場合の「な」が確述「な」の末裔であり、命令・勧誘の最後にもう一押しする際の「もう少し、いいだろ、<な>?」のしつこい感じも「ぬ」の確述のねちっこさである。こうした「命令調な」以外の「ぬ」確述用法は現代語には引き継がれていないが、「確かに・・・だ」などと強調的訳出をすればよい。
*英訳=「certainly ...」/「be sure to ...」/etc, etc.
-「時制」に縛られる「完了」/過去・現在・未来を股にかける「確述」-
*「完了」は、「過去」に起点を持ちつつ「現在」にまで至る一定の時間幅を持つが、その軸足は「過去」にあり、余波の寄せ先として「現在」がある、という時制の枠組みに縛られる用法である。
*一方、「確述」は時制を選ばない。「現在~未来」の未確定事態を対象とする場合が多いが、「過去」に対する「確述」もきちんと成立する:
過去の確述)「斯くなる事、げに侍り<ぬ>」(=そういう事態が、確かにございました)
・・・この「ぬ」を「完了」と見たがる学習者が多いが、「はべり(orあり)」=「そういう事態が存在する」の表現には最初から「過去~現在」の時間幅が含まれている、即ち「完了(というか、経験)」の意を内包しているので、この「ぬ」が「完了」であれば冗長な表現ということになる;つまり、これは「確述」の「ぬ」なのである。その証拠に、この「ぬ」を取り去って「かくなること、げにはべり」としても、相変わらず「完了=経験」の意味は成立する。その過去の事態について「あぁ、そうそぅ、確かにあったよ、そういうことが」の強調的響きを添えるのが「確述」なのである。
現在の確述)「げにげに、さもあり<ぬ>べし」(=そうそう、本当にそうでしょうともよ)
・・・「ぬ」を取り去って「さもあるべし」としても意味は変わらぬことから、これまた「確述」(実際そうなのだろう)であって、「完了」(既にそうなっていたのだろう)ではない。
現在~未来の確述)「はや祈り<ね>、流れ星消え<ぬ>」(=早く願い事祈りなよ、ほら、流れ星が消えちゃうよ)
・・・最初の<ね>は確述「ぬ」の命令形で「さぁさぁ・・・しなさい!」と、動作の成立(=祈れ!)を強くけしかける語法。現代日本語で末尾に添えておねだり感覚を醸し出す「・・・、ね?」&「・・・、な?」の祖先がこの「命令形ね」である。
・・・2つめの<ぬ>は、形の上では否定助動詞「ず」の連体形に見えるので、初学者はコケる危険性の高い確述の「ぬ」。落ち着いて見れば、「ず」連体形の「ぬ」なら直後にあるはずの「体言」がなく、文末言い切り形なのだから「ぬ=助動詞終止形」とわかるのだが、なにせ否定語「ぬ」の出現頻度は「確述」に比して圧倒的に高いだけに、不慣れな受験生などは100%近い確率で錯覚する「ぬ」である。
-否定助動詞連体形「ぬ」vs.完了・確述助動詞終止形「ぬ」の識別法-
*こうした場合の見分け方として従来唱えられてきた識別法は<直後に体言が続けば否定助動詞連体形/言い切り形なら完了助動詞>という現象面のみに張り付いた皮相的なものであったが、どうせ古文を学ぶならもう少し建設的に連想を広げる形で識別したいもの・・・そこで《扶桑語り流》識別法を伝授しよう:
1)《「ぬ」→「つ」と換言できれば「完了・確述」》
*「ぬ」と全く同じ意味を持つ助動詞に「つ」がある。厳密に言えば、次の相違があるが、平安中期ともなると両者入り交じってほとんど同義語として用いられていたので、「ぬ」で迷ったら「つ」で言い換えてみて、通じれば「完了」の「ぬ」/通じねば「否定」の「ず」の連体形「ぬ」と見ればよい、という仕組みである:
(中古初期までの「ぬ」と「つ」の語感の違い)
●完了の「ぬ」=「去ぬ(いぬ)」の末尾に由来するため、「それまで存在していた事態が消滅する」語感があり、人為によらぬ自然現象の推移に言及するのが似合う。
●完了の「つ」=「棄つ(うつ)」の末尾に由来するため、「従来の事態を投げ捨てて新たな状態に入る」語感があり、意志的行動による事態の変化に言及するのが似合う。
2)《直後に「べし」を付けて通じれば「確述」》
*「ぬ」の「確述」だけでも「きっと・・・だ」の強調的意味を表わすところに、更に同じく「確実に・・・のはずだ」の意味の助動詞「べし」を付けた「ぬべし」の形でも意味が変わらず通じるならば、その「ぬ」は「確述」であって、否定助動詞「ず」連体形の「ぬ」ではない。この「確述話法の確実な見分け方」は、「ぬべし」と同様、「つべし」にも当てはまる。
*また、ここでの識別法とは直接には関係ないが、「命令形」の「ね」の場合は更に「なまし」・「てまし」に変えても意味が通じる
-ナ変+「ぬ」の先祖返り現象-
*上述した通り、完了助動詞「ぬ」は「去ぬ(いぬ)」の末尾が助動詞化したものである。従って、その祖先たるナ変動詞「去ぬ(いぬ)」及び「死ぬ(しぬ)」に、「ぬ」が付くことは重複にあたるので、平安中期までは「去にぬ」・「死にぬ」の語形は見られない。
*が、平安末~鎌倉時代にもなると、「ぬ」の言語学的来歴が忘れ去られるにつれて、「死にぬ」なる形が見られるようになる。言葉の本来の意味を忘れ去った来歴無視の使用法は「日本語の伝統芸」のようなもので、由緒正しきいにしえの日本の何かについて紹介する雅びなる和語を気取った現代の物書きが「古来より」などと恥ずかしげもなく書き散らしているのを見るにつけても、古代より日本語は、本来あるべき姿も従来辿ってきた道筋も平然と無視しての恣意的改変を繰り返してきた横滑り言語なのだなぁ、の感を強くせざるをえない。「去ぬれば、死にぬ」・・・時移ればやがて死語と化す・・・それが大和言葉の宿命であるらしい。
■__たり【たり】『接続:{ラ変以外の連用形}』〔助動ラ変型〕{たら・たり・たり・たる・たれ・たれ} (1)〈(進行・継続)(非持続性の)ある動作・作用が(その記述の時点に於いては)進行・継続中である意を表わす。〉・・・ている。・・・てある。ちょうど・・・している。・・・の最中である。 (2)〈(残余型完了)既に完了した事態・動作・作用の結果が(その記述の時点に於いてなお)残存し、余韻を感じさせる意を表わす。〉・・・た。・・・てある。・・・となっている。 (3)〈(終結型完了)ある動作・作用が既に完了し、確定した既成事実となってしまった意を表わす。〉・・・した。・・・た。もう・・・した。既にもう・・・てしまった。もはや・・・となった。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【たり】〔助動ラ変型〕(1)(進行・継続)(非持続性の)ある動作・作用が(その記述の時点に於いては)進行・継続中である意を表わす。・・・ている。 ・・・てある。ちょうど・・・している。・・・の最中である。 *接続=ラ変以外の連用形。
*完了助動詞と呼ばれる「たり」の中でも、「現在・・・中」という「継続性の動作・状態」を表わす語法で、「・・・ている(最中)」と訳せばよい。助動詞「り」と同じ意味であるが、接続が異なる。
*英訳=「be ...ing (progressive)」/「be in the state of ...」/「be in the process of ...」/etc, etc.
-「り」が「四段/サ変」にしか付かない理由-
*完了助動詞と呼ばれるものの中でも、最も古いのは「り」である;が、この助動詞は「四段活用(の命令形)/サ行変格活用(の未然形)」にしか接続できないという窮屈な性質を持っている・・・というより、「動詞の連用形」が「名詞化したもの」に「在り(あり)」を付けた「連用形+あり」が音便化した「・・・e+ari」の形が「・・・eri」音へと化け、その末尾の「ri」のみを取り出して「完了助動詞」としたものなので、「・・・e+ri」から「ri」を取り出した末に残る「・・・e」音を活用形の一つとして持つ動詞でなければ「ri(り)」は付けられない、という言い方が文法的には正しい。
*例えば「思ふ」という四段動詞をまず「連用形→名詞化」して「思ひ」とし、そこに存在を表わす「あり」を付けて「思ひあり」の形を作り、それが「おもへり」へと化けたものの末尾の「り」のみを取り出して、そこに「ある動作・状態が、現時点で存在・継続中」の意が宿ることに着目して、この「り」を「完了・存続の助動詞」と呼んだわけである。
*ところが、結果に於いて生じた「思へ+り」の形では、この「り」が接続する先は「思ふ」の「命令形」ということになってしまう:本来は「(名詞化作用としての)連用形」であったものが、「(相手に何かを命じる言い切りの形の)命令形」に化けて、文法理論的には筋が通らないことになってしまったわけである。これが「サ変動詞」の場合、「為(す)」→「連用形で名詞化"し"」→「し+在り」→「しあり・・・・せり」→「せ+り:に分解すると、接続先の"せ"=未然形」ということで、「"り"は、サ変動詞に対しては未然形に接続する」ということになってしまう。
*<2つの活用形で2つの異なる接続先を持つ「り」>というのも困った話だが、更にもっと困るのは<「り」は「e」段の活用形を持たない動詞には付けられない>という制約である。例えばカ変動詞「来(く)」の場合、活用形は{こ・き・く・くる・くれ・こよ/こ}であって、そこに「e」で終わる「け(ke)」の形は見られない・・・にもかかわらず「かつて、そうした状態が存在した」の意味で「在り」を付けようとすれば、「来(き・・・名詞としての連用形)+在り」→「き+あり」→「けり」という「本来の活用形の中には存在しなかったk<e>ri」なる形を無理矢理作り上げることになってしまう・・・結果的にこの「来(く)+完了助動詞"り"="けり"」という語は奈良時代に一時的に使われただけで死滅してしまった(本来の活用形を逸脱した変則語形が嫌われたためである・・・もっとも、この「けり」の形は「過去の助動詞」という全く新たな形で生まれ変わって古語世界で広く用いられるには至ったが)。
*「e段」で終わる活用形としては、「四段・サ変」以外にもう一つ「ナ変の命令形」がある。具体的には「死ね(shine)」/「去ね(ine)」の2語である:が、これは「存在しなくなる」意味を表わす動詞なのだから、「あり=在り=存在する」の意を根底に含む助動詞「り」が「死ぬ/去ぬ」に付く道理もない・・・ので、結局「り」は「四段・サ変」にしか付かないわけである。
-「e段」活用形接続の制約のない「たり」-
*このように、「e段で終わる活用形を持つ四段/サ変」にしか接続できない「り」の制約を逃れるためには、しかし、次のような作法を経ればすんなり問題は解決するのである:
1)「動詞を連用形にする」・・・悔ゆ(くゆ)→悔い(くい)
2)「連用形化された動詞に、接続助詞"て"を介して、存在を表わす"在り"をつける」・・・悔い+て+在り
3)「"連用形+て+あり"の形が音便化して"連用形+たり"に化ける」・・・悔いたり
4)「"連用形+たり"の末尾のみを取り出して、これを完了助動詞とみなす」・・・悔い+「たり」
・・・こうして成立した完了助動詞「たり」は、その構成要素たる接続助詞「て」が(四段/サ変限定でなく)あらゆる活用形の動詞連用形に接続する性質を持っていたため、制約だらけの「り」を押しのけて平安期以降多用されることとなる。中古女流文学の中では「たり > り」の勢力比は5倍とも8倍とも言わる圧倒的なものとなって、「り」は完全に衰退し、現代日本語でも「・・・たり(=てあり)」の名残りをとどめる「・・・て(い)る」は相変わらず使われている一方で、「り」の残滓は、キリスト教式結婚式の誓いの言葉「汝は***を妻/夫とし、その健やかなるときも、病め<る>ときも、喜びのときも、悲しみのときも、富め<る>ときも、貧しいときも、 これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」 ― YES / NO ― の中あたりで時折りお目にかかっては、「うわぁ・・・何とも時代がかった厳粛なおコトバ」的感覚を演出するのみにとどまっている。
◆【たり】〔助動ラ変型〕(2)(残余型完了)既に完了した事態・動作・作用の結果が(その記述の時点に於いてなお)残存し、余韻を感じさせる意を表わす。・・・た。 ・・・てある。・・・となっている。 *接続=ラ変以外の連用形。
*完了助動詞「たり」の中でも、「既に過去のものとなった動作・状態・・・の結果や余波が、現在に至るまで残っている」という、英語の「完了形」と同様の(=現代日本人にとって最もその感覚がつかみづらい)語法。
*英訳=「have ...ed (the perfect tense)」
-「勝手知ったる」?「かつて知ったる」?-
*現代日本語には「完了形」表現というものが存在しないから、英語の「完了形」も、古典助動詞「つ」・「ぬ」・「り」・「たり」あたりの語感も、現代人には正確にはわかり辛いものである。一応、現代語にも「勝手知っ<たる>他人の家」(よそんちのことながら、付き合いが深いためにその内実がよーくわかってる)のような「完了・存続」の「たり」含みの表現は残ってはいるが、これだけでかつて存在した(が、今は死語と化した)「たり」の内実を知ったる気分になるのは語学音痴の身勝手な思い上がりというものである;から、もう少し詳しく眺めてみる必要があろう。
*例として、「来たり」=「来」の連用形+「たり」について見てみよう。「来訪した」という動作そのものに着目すれば、これは「ごめんくださーい!・・・やぁ、いらっしゃい!」の時点で「過去の一点に於いて既に完了」している一過性の行為である。だが、そうして来訪した来客が、その家にお邪魔してあれこれ話したりもてなしを受けたりしつつなんのかんのと居座っている間じゅう、「来た・・・で、まだ帰らず、ずっと来客としてそこに存在している」の状態は継続中であって、その一定の時間幅の全てに於いて、既に過去のものとなっているはずの「来」の余韻は、連続した「現在」として意識される時の流れの中で、続いているのである。
*これが、単なる「来+し」や「来+けり」(過去の事実としての来訪)と「来+たり」(過去に始まる現在の事態としての来訪)との相違である。「彼?昨日来たよ」と「彼?いま来てるよ」の違い、と言えばわかったような気にはなるが、実際の「完了形」が(日本の古語/英語で)表わす「過去に発する現在までの幅をもった動作・状態」を言い当てるには至らないであろう・・・「いま来てる」の表現の中には、「・・・たり」の表わす(過去寄りの)完了形よりも、「・・・いる」の表わす現在進行形の感覚の方が強く、「過去への広がり」があまり感じられないのである・・・結局、「り」/「たり」や「つ」/「ぬ」といった「完了表現」を既に捨て去ってしまった現代日本語の中で、これらの語法の正確な理解を得るためには、「英語の完了形」あたりを完璧にわがものとする語学体験を経ねばならぬ、ということになるようである。日本の古文は、それが「日本語」であり、文法的にも現代語に通じるところが多い(ように少なくとも英語よりは感じられる)ということで「わかった気になる」ものではあるが、よくよく突き詰めてみればわかってない誤解・誤読が、実に多いものなのだ。「り/たり」の完了のニュアンスといい、「き/けり」の表わす「過去(といいつつ、時制としてではない話者の心的態度表明としてのもの)」といい、英語あたりの外国語との対比の中で立体的に捉えねば「掴み損ねの知ったかぶり」も実に多いのである。
-「来たる」に関する知ったかぶり-
*完了の「たり」関連で知ったかぶりの誤解の話題が出たところで、もう一つ(明治時代末までずーっと)日本人が長らく文法的に「知ったかぶり」してその実よく知らなかった表現である「来たる」の話をしておこう。
*この「来たる」、現代でもなお「来たるX月Y日、Z公会堂にて、A先生の講演会が開かれます」みたいな形で使われる歴史の長い文語表現であるが、その内容からもわかる通り「未来」に関する語であって「過去」や「完了」の話ではない:「完了した過去の話」として「まだ開かれてもいない講演会」のことを触れ回られては、「A先生」としても来演者が減ってしまって何とも困った話になるであろう。
*ところが、その「未来」に属するはずの「来たる」を、<動詞「来」+完了助動詞の「たり」>として片付けて平然としている、という不出来な受験生みたいな態度が、数百年来この日本では続いていたのである・・・そうした中で、この「来たる」の意味が次の2通りに分化することを指摘した偉い国学者がいた:
1)完了の意味の「来たる」=既にもう来て、いま、そこに存在している
2)予定の意味の「来たる」=これからやって来ることになっている
・・・この事実を初めて指摘した学者は、有名な本居宣長(1730-1801)(in『玉勝間』)である。こうした先人の研究成果のおかげで現在の我々はかなり楽な形で効率よく古文・古語の学習ができるのであるから、頭が下がる思いがするのだが、その宣長ほどの大国学者にしてからが、なぜ「来たる」は「過去寄り/未来寄り」という意味の二極分化を起こすのか、という疑問には答えられずじまいであった。それは、彼がこの「来たる」を「来而有=来+て+有り」に由来するものと(誤って)捉えていたためである。「来て、現に、ここに在る」というのでは、「来+たり」の完了表現と何ら変わらないのだから、「未来」への意味の広がりを手にすることは不可能であるし、文法的に言っても「有り・在り・存り」の活用形{ら・り・り・る・れ・れ}(ラ行変格活用)の終止形は「り」であるはずのものが、何故か「来たる」では「る」音終止に化けてしまって「来たり」ではない、という新たな謎をも生じる結果となってしまったのであった。
*この疑問に決着が付くまでには、更に一世紀の時間が必要となる:1911(明治44)年、柴田猛緒という研究者が「来字の活用及語源考」(國學院雑誌)なる論文の中で「来たる:来(く)+到る(いたる)=きいたる・・・きたる」変形説を発表してようやく、「来たる」の問題にスカッと明晰な謎解きがもたらされたのである。
*それ以来、約百年、古文業界では<「来たる」=1)完了「来+たり」/2)予定「来+到る」>の意味の二面性が、さも「言い古された古典文法の常識」のような顔をして語られるようになってしまった・・・が、実情は上のごとしであって、本居宣長の最初の指摘から百年以上もの長きにわたってずっと手つかずで放置された「コロンブスの卵」が「来+到る」なる(言われてしまえば誰でもわかるが、誰かが言うまで誰にもわからぬ)説だった、という顛末である。
*かくのごとく、「知ったかぶり」した無学の徒が、世には多いのである・・・そもそも、諸君は知っていたか ― 「しったかぶり」は実は「知ったかのような振り」に由来する語ではなく、「しれたかぶり」がその語源であり、漢字表記すれば「痴れ(しれ・・・知性低劣な状態となる)+たる(・・・そんな状態になり、今なおそこから抜け出せぬままの)+頭(かうぶり・・・冠や被りにも通じる語で、この文脈での意味は当然、頭脳)」である、という衝撃(or笑劇)の事実を・・・?「しったかぶり」は、真実を知らずに「ウン、ウン」と首を縦に振り続けて平然としている「痴れたる頭」から生まれるもの・・・知ってしまえば笑えるものの、知らずにおれば笑い事では済まぬもの・・・知れば知るほど、「知らぬが仏」の大衆の悪臭漂う痴的体臭が、我慢ならなく感じられるもの・・・「痴れたる者」の無知蒙昧ぶりを脱して「知りたる者」となるのは、存外、覚悟のいること(ロクに真実も見えぬ無学者のままで居続けるほうが、見たくないものを見ずに済む分、かえって幸せだったりするもの)なのである。
*それでもなおかつ、古文の世界の真実への目利きとなる意欲があり、かつ、現実の日本語・日本人・日本国の見たくもない姿を直視することに耐える勇気があり、かつ、そうした現実をより良いものへと変える力として自らの知性を活かす気概がある者のみ、『扶桑語り』にお付き合い願おう:「無知の幸」を尊び「無知の知」を嫌がる諸君は、早々にお引き取り願おう(・・・そのほうが、無知蒙昧への寛容度と耐性が異様に強く、それに反比例する形で知的向上心・恒常的現状改善意欲が極端に低い、何とも残念な日本の人々に取り巻かれて一生を暮らすことになるであろう諸君の「人間的幸福」のためには、むしろ幸いなことかもしれないのだから)。
◆【たり】〔助動ラ変型〕(3)(終結型完了)ある動作・作用が既に完了し、確定した既成事実となってしまった意を表わす。・・・した。 ・・・た。もう・・・した。既にもう・・・てしまった。もはや・・・となった。 *接続=ラ変以外の連用形。
*完了助動詞「たり」が、「動作・状態の完了」を表わす語法。「すでにもう・・・してしまった;ので、今はもう・・・していない」という形で、「・・・という動作・状態はすでにもう終わったこと/今やもう関係ない過去のもの」の感じが強く、この種の完了助動詞をもはや持たない現代日本人にとってもわかり易い「たり」の語法ではあるが、現代日本語に直接引き継がれず、「・・・た」の形に簡略化されて、その意味のほうも「完了」というよりは「過去」の表現へと単純化されてしまった。
*英訳=「have ...ed (the perfect tense)」
*厳密に言えば、「既に・・・してしまった」とはいえ、これまで続いていた「・・・の動作・状態」との関連性が完全に断ち切られたわけでもないのだが、ともあれ、これまでの「ON」に対して今では「OFF」にスイッチが切り替わった感じというか、「今までとははっきりと違った段階に入ってしまった」ことに描写の力点がある表現である。この意味で「過去のこと」と割り切って考えられる分、「・・・た」へと換言して現代日本語に置き換えて考えやすい(完了、というよりは完結型の)「たり」である。
■__き【き】『接続:{連用形(カ変&サ変には特殊な接続あり)}』〔助動特殊型〕{(せ/け)・○・き・し・しか・○} (1)〈(体験としての過去)(話者・筆者・作中人物が直接的に体験した)過去の事柄について述べる。〉・・・た。・・・した。 (2)〈(記憶としての過去)(話者・筆者が直接体験した訳ではないが、記憶の中で事実としての重みを持っている)過去の事柄について述べる。〉・・・た。・・・した。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【き】〔助動特殊型〕(1)(体験としての過去)(話者・筆者・作中人物が直接的に体験した)過去の事柄について述べる。・・・た。 ・・・した。 *接続=連用形(カ変・サ変には特殊な接続)。
カ変連用形(き)+{し}{しか}カ変未然形(こ)+{し}{しか}サ変連用形(し)+{き}サ変未然形(せ)+{し}{しか} ・・・カ変連用形(き)+{き}/サ変連用形(し)+{し}の接続はしない。
*話者/筆者が「自分自身が過去に直接体験した事柄」として述べるものとして「直接体験過去」と呼ばれる「き」の語法。この意味で、「自身が体験したものではない過去の事柄」として述べる「伝聞過去」の「けり」と対比をなすもの。
*英訳=「...ed (past tense)」・・・実際には、以下に述べる通り、英語の「過去形」が「時制表示記号」であるのに対し、日本の古語の「き」・「けり」は「心的態度表明記号」であって、その性質は異なる。
-「き」と「けり」は、過去時制表示記号に非ず-
*よく「過去の助動詞」と呼ばれる「き」と「けり」だが、西欧言語の文法用語としての「過去」と、日本の古語の「き/けり」が表わす「過去」とは、質的に全く別のものであることを認識せねばならない。純然たる文法的観点から言えば、日本の古語には(この意味では、現代語にも)「過去形は存在しない」のである。過去形はなく「全ての動詞は現在形」が基本であって、そこに「過去の色彩を添えたい」場合にのみ、「これ、自分の体験として個人的記憶の中にある出来事なんだけどね」という場合には「き」を、「これって、人から聞いた話なんだけどね」あるいは「これ、他人事じゃないけど、今の今まで気付かずにいて、ふっと今思いついた話なんだけどね」という場合には「けり」を付ける、というのが「日本の古語に於ける過去形の実体」なのである・・・この点、「・・・た」の形で(古語「たり」の名残りの残る表現を用いて)「過去の演出」を折々添えるだけの現代日本語も全く同様であって、「日本語には、古来、西欧言語でいうところの"動詞の時制区分"は存在しない=全ての動詞は現在形のみである」という事実を、この際だから、学んでおくべきであろう。
-英和対照「過去形」の姿-
*上記の事実を日本人が思い知るには、やはり、きちんとした時制区分のある外国語という「鏡」に映してみる必要がある。現代日本人にとっては「英語」がその最適任外国語であろうから、英語の動詞を例にとって論を進めることにしよう。
英語の例)I <went> to the park yesterday and <saw> an old friend of mine by accident, who <told> me that I <looked> much thinner and even <asked> how I <[had] reduced> my weight; I <told> her simply that I <was> a married and worried woman now.
日本語訳)昨日公園に<<行った>>ら、古い友達と<<会った>>の。で、その人が<言う>のよ、私ったら前よりずっと痩せて<見える>って。で、どうやって<<痩せた>>のかなんてことまで<聞いて>くるから、私、彼女に一言<<言った>>の:「私も今じゃ既婚者の悩み多き女<なの>よ」って。
*英語の場合、「全ての動詞は、その属する時点に応じて、過去/現在/未来、のいずれかの形態へと語尾変化させて使用すること」というルールが厳密に守られるため、終始「過去モード」で推移する上記の英文では、登場する8つの動詞の全てが「過去形」である。
*一方、同じ文章の日本語訳では、<<過去モード>>で語られているのは8つの動詞のうちの半分の4つだけ、残りはすべて<現在モード>である。話者が「そこに特段の時制のズレを演出する必要はない」と感じたなら、「動詞の時制はすべて現在のこととして流す」のが日本語のルールであって、上の文章で<<過去モード>>となっている4つについては、「ここは、現在/過去、の時間の対比を強調したほうがいい」と話者が感じたから、その「話者の心的態度(モード、というより、ムード)」に応じて、<<行った>>(話の出だしだから、過去であることを強調)/<<会った>>(左に同じ)/<<痩せた>>(その話の時点に至るまでの数ヶ月、あるいは数年に渡る「ダイエット努力の道のり」を、「過去の思い出話」として引き出そうとして過去モードにしている)/<<言った>>(話の最後の締めの部分なので、「これ、過去のお話、でした」として時制の再確認の意味を込めて過去モードにしている)、という「恣意的な時制演出」を行なっているだけなのが、日本語の特性なのである。
-「時制区分」がそもそも不可能な「漢字」・「中国語」との関係-
*こうした「話者の心的態度に応じて、現在/過去、の時制を好きに演出」するという日本語の特性は、日本語の表記記号である「漢字」(&その生みの親たる「中国語」)の言語学的特性と無縁ではない。例えば英語で「I live」(現在形)と書けば、日本語なら「私は生きる」/中国語なら「我生」となろう。では「I lived」(過去形)ならどうなるか・・・日本語なら末尾に「過去を演出する"た"」を付けて「私は生きた」で過去を演出できるが、中国語だと「我生」のままである ― 他にどうしようもあるまい:「我生過」とでもできるのならともかく、そんな「過去演出記号」は中国語には存在しないのである・・・逆に考えれば、たとえ存在したとしても、過去の話だからといって一々すべての動詞の直後にそんな「過去演出記号」を付けて動詞の字数をその都度増やしていたのでは、煩雑で口幅ったくて面倒でやってられないであろう。そんな面倒を敢えて抱え込むよりも、「前後の脈絡から、これは過去の話だ、ということはわかるはず」と割り切った上で「時制の明示など、一切しない!」と開き直ったルールの上で事を運ぶのが、中国語の潔い割り切り方なのである。
*その中国語の表記記号としての(=時制明示不可能文字たる)「漢字」を引き継ぐのみならず、時制無視の現在形一辺倒の割り切った「感じ」をも引き継いでいるのが日本語の特性なのである。それでいて、「基本的には、ぜぇーんぶ現在形!」としておきながらも、時折り「ここは、気分的に、過去で語りたい感じ」という場面では「き」だの「けり」だの(現代語なら「た」あたり)で、何かを思い出したかのように時の彼方へと視線を転じる気まぐれを演じつつ展開するのが日本語だから、逆に外国人にとっては(明快に割り切ってかかれる「現在オンリー」の中国語と違って)タチが悪い。「漢字御本家」の中国人からも「なんで現在一本にしないのか?」と問われそうなところだが、特に西欧人にとっては「中国語と違って、過去形がきちんと存在する」ように見えるのが日本語なのだから、その過去形を使ったり使わなかったりの「身勝手極まる時制ひっかき回し話法」は、心理的に落ち着きが悪い代物である:「何できちんと全ての動詞ごとに過去形にしないのか?」と彼らはイライラすることであろう・・・実際には「き/けり」は「過去形に非ず」なのだが、その事実の認識を彼らに求めるのは難しかろう:当の日本人ですら「き/けり=過去の助動詞」と(ほぼ全員が)勘違いしているくらいなのだから・・・「日本人は筋を通すってことができない連中なのか!?」と西欧人が感じる物事は実に数多いものであるが、日本語を学ぼうとする西欧人にとってはこの「身勝手時制言語(・・・本当は、時制を持たない心的様相表明一辺倒言語、が正しい言い方)」という特性もまた確実にその一つであろう。
*逆に、日本人が英語あたりを学ぶ時に、最初の大きな障壁となるのが「動詞時制の律儀な統一」という「筋の通し方」である:言語学的&心理学的に極めて身勝手な流儀で育ってきた日本人にとっては、この種の透徹した論理性のゲームを100%の正確性で演じ切ることは、極めて困難なことなのだ・・・が、そうして「首尾一貫したルールへの几帳面なまでの忠義立て」を自らの言語学的体質とした後で、「筋を通さぬ日本語/日本人/日本国のやり方」に従来慣らされてきた日本人が学び取ることになる事柄には、単なる語学的修得以上の大きなものがあることもまた(語学音痴の日本人の面々には不愉快な話であろうが)、重要な事実なのである。
◆【き】〔助動特殊型〕(2)(記憶としての過去)(話者・筆者が直接体験した訳ではないが、記憶の中で事実としての重みを持っている)過去の事柄について述べる。・・・た。 ・・・した。 *接続=連用形(カ変・サ変には特殊な接続をする)。
カ変連用形(き)+{し}{しか}カ変未然形(こ)+{し}{しか}サ変連用形(し)+{き}サ変未然形(せ)+{し}{しか} ・・・カ変連用形(き)+{き}/サ変連用形(し)+{し}の接続はしない。 *「直接体験過去」の助動詞と言われる「き」の中でも特異な用法で、自ら体験したわけでもない過去の事柄について、断定的に述べるもの。
*英訳=no equivalent in English・・・「き」は英文法上の「過去形」でもないし、「断定的伝聞の過去」などというヘンテコな代物は日本の古語以外には成立しようがない。
-「仏教説話」はかく語り「き」-
*通常、自分自身が体験したわけでもない過去の事柄には「けり」を付けるが、その「伝聞」の弱い響きを嫌って「き」を付けて「断定調」を演出する特異な語法:仏教の教典や、それに類する硬質なる中世説話文学にはよく見られるが、中古女流文学には殆ど見られない。
*こんな芸当ができるのも、「き」・「けり」が厳密な意味での「過去時制表記記号」ではなく、「過去の出来事に対する話者の心的態度表明記号」であるからこそ、である。「・・・だった、ということだ」なる柔和な響きは平安時代にこそ相応しく、意志的・強圧的・断定的言動で他者を押しのけんとする勢いに任せて書かれた感じの中世文物には「・・・だったのだっ!」の響きを持つ「・・・きっ!」がよく似合う。
-ツァラトゥストラにあれこれ語らせてみる-
*試みに、「ツァラトゥストラはかく語りき」(あの"超人"思想を大胆に述べたドイツ哲学者ニーチェの著書名の邦題である)を、各種の古語表現で見比べてみよう。婉曲なる平安調から剛直なる鎌倉調へと順次並べてみる・・・言葉に表われた時代の流れを、感じ取ってみてほしい:
1)つらとすとらかくかたれ<り>・・・「り」は元来「連用形(=名詞化・・・ここでは"語り")+あり=かたりあり・・・かたりぇり・・・かたれり」で「そういうことがありました」の意。「そういう事態がある」ことを淡々と述べるのみで、主観性の色は薄い。
2)つらとすとらかくかたり<ぬ>・・・意志性行動の「かたる」に、「確述」助動詞「ぬ」を付けると、「確述」どころか逆に柔和・優美な感じになる。完了助動詞「ぬ」の語源は「去ぬ(いぬ)」なので、「あぁ、確かにあったねぇ、そういうのが・・・今では過ぎ去りし過去のことだけどね」の響きが伴うのである。南北戦争と共に失われた華やかなりしアメリカ南部の貴族的生活を描いた映画「風と共に去り<ぬ>」(Gone With the Wind)のあの感じが「ぬ」の味であって、そこにニーチェ的な押しの強さはまるでない。
3)つらとすとらかくかたり<けり>・・・「けり」は元来「き(来)+あり」で「そういう来歴がありました」の意。自らの「体験」の中にはないが、「記憶」の中にはしっかりありますよ、という主観性が添えられており、もっぱら「過去」寄りの「かたりぬ」よりも、「回想により過去を現在へと引き寄せている」分だけ「かたりけり」には強調的響きがある。
番外)つらとすとらかくかたり<たり>・・・「たり」は元来「て+あり」で「・・・た状態で今そこにある」の意・・・「かたり」「たり」は少々わずらわしい感じなので現実には使われまいが、これが現代語「かたっ+た」の祖先であることはおさえておくべきであろう。
4)つらとすとらかくかたり<つ>・・・「かたる」に意志性行動の完了助動詞「つ」を付けると、念押しの感じになる。上代からある「確述」の由緒正しき念押し語法。その響きの強さを好んで、室町期以降はこの「つ」が「確述」にとどまらぬ一般的「過去」の助動詞として使用されることもあった。
5)つらとすとらかくかたり<き>・・・最も断定口調の強いのがこれじゃき!
-「き」は死滅・・・「し」のみが残った-
*かくて、中古の漢籍・仏典・説話に於いて「伝聞」も「直接体験」もお構いなしに「断定的過去の結び記号」として用いられるようになった「き」であるが、中世以降は文語表現として風化して行くことになる。中世とは、「連体形係り結び」の断定口調表現が汎用化されたことにより、連体形が終止形を押しのけて実質的終止形の地位を獲得してゆく時代であったから、終止形としての「き」は衰える一方で、連体形「し」だけが生き残ることとなった。現代日本でも「ありし日」・「いにしへ(往にし方)」等、去りし「き」の名残りは「し」にのみ残る。
-「なつかしき」完了語法としての「き」連体形-
*これまでの古文業界では常にノーマークであったが、助動詞「き」には、連体形「し」で用いた場合に、直後の体言に「追憶・懐旧・惜別」の響きを添える効用があることを指摘しておこう。これは英語の過去分詞が持つ(「受身」と対比しての)「完了」の語法に相当するものである:
懐旧的連体形「し」の例)
「ありし日(the days already gone・・・今となっては昔のあの頃)」/「見し夢(dreams of the past・・・かつて見た夢)」
■__つ【つ】『接続:{連用形}』〔助動タ下二型〕{て・て・つ・つる・つれ・てよ} (1)〈(完了)動作・作用・状態が既に完了・終結した意を表わす。〉・・・てしまった。 ・・・てしまう。・・・た。 (2)〈(確述)(推量助動詞「む」・「まし」・「べし」・「らむ」や、補助動詞「あり」・「なし」・「侍り」、状態を表わす形容詞・形容動詞などと共に用いて)その実現が確実視される未来の事態や未確認の現在の事態について、確信を持って強調的に述べる。また、命令形で用いて強い希望を表わす。〉きっと・・・。確かに・・・。間違いなく・・・。全く・・・。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【つ】〔助動タ下二型〕(1)(完了)動作・作用・状態が既に完了・終結した意を表わす。・・・てしまった。 ・・・てしまう。・・・た。 *接続=連用形。
*完了助動詞と言われる「つ」が「動作・状態の完了」を表わす最も基本的な語義・・・のはずであるが、詳細に見るとこの「完了」の語義は更に2種類に細分化される(いずれも現代日本語にはもはや引き継がれてはいない):
1)「動作・状態の完了の瞬間に心理的焦点があるもの」
・・・ほとんどの「つ」が表わす完了はこれである。現代日本語で「宿題、終わった!」と叫ぶ小学生の心理を表わすもの、と思えばわかるであろう。
2)「それまで連綿と続いてきた動作・状態が終わり、もう今後それが継続することはない、という変化に心的焦点があるもの」
・・・用例としては少ないが、余韻としては深い語法がこれ。「この3月で、学校生活は終わった・・・」としみじみ語る卒業生の寂寥感のようなニュアンスを感じさせる語法である。
*いずれの語法も「既に・・・は終わった(ので、もはや・・・していない)」の意味では共通するが、その意識が「終点」にのみ張り付いていれば「もう・・・た」、「過程」に向ける目があれば「それまでずっと・・・してきた」と訳し分ければよいだろう。
*英訳=「have ...ed (the perfect tense)」/「have been ...ing (the perfect progressive tense)」
-「つ」と「ぬ」-
*完了助動詞と呼ばれるものの中でも、「つ」と対照を成すのが「ぬ」である。語法も訳し方もほぼ同じながら、「つ」は他動詞に付き、「ぬ」は自動詞に付く、という現象が(時代が古いほど)指摘される。
*この現象を論理的に煎じ詰めれば、「行為者の意志により行なわれる動作・状態の完了」については「つ」を、「人の意志によらずに自然的にそうなる状態・動作の完了」については「ぬ」を用いた、ということが言える。
*上述の「つ」の意志性/「ぬ」の自発性という相違が何に起因するかを考えると、「つ」は「棄つ(うつ)」/「ぬ」は「去ぬ(いぬ)」に由来するという語源学的事情に行き着く。
*こうした(語法というよりもムード上の)特性の違いから、平安女流文学では、自動詞/他動詞という使い分けからではなく、やんわりと自然的な「ぬ」の方が、意志性が強く断定的な「つ」よりも多く用いられる、という現象が生じた。
*「つ」も「ぬ」も時代が下るとともに衰えて、室町時代以降の完了助動詞としては「たり」のみが残り、それが現代語「・・・た/・・・だった」へとつながる。
◆【つ】〔助動タ下二型〕(2)(確述)(推量助動詞「む」・「まし」・「べし」・「らむ」や、補助動詞「あり」・「なし」・「侍り」、状態を表わす形容詞・形容動詞などと共に用いて)その実現が確実視される未来の事態や未確認の現在の事態について、確信を持って強調的に述べる。また、命令形で用いて強い希望を表わす。きっと・・・。 確かに・・・。間違いなく・・・。全く・・・。 *接続=連用形。
*完了助動詞「つ」が、ある事態が「完了した」ことではなく、その事態が「確かにそこに存在する」ことを表わす語法。「完了」と対比して「確述」と呼ばれる。現代日本語にはない語法である。
*英訳=「surely ...」/「certainly ...」/「for sure」/「for certain」/「by all means」/etc, etc.
-語形ごとに見分ける「確述」の用法-
*この「確述」の語法は、その事態の「確実性」、事態に対する話者の立場、対象となる時点、及び、語形に応じて、更に次の3つに細分化される:
1)「あり/なし表現・形容詞・形容動詞の強調」
=「あり+つ」/「はべり+つ」/「なかり+つ」や、形容詞・形容動詞+「つ」の形で用いる。
例)「いぬのわがををおふもをかしかり<つ>」(=わんこが自分のシッポを追っかけるのも<実に>面白い)
・・・客観的観察から「確実に・・・だ」と述べるのではなく、主観的力説の形で「たしかに・・・だ」と述べる(心理上の)強調語法。
・・・対象となる時点は、「過去」及び「現在」。
2)「未確認事態の確実な推量」
例)「ねこのいぬいへゐにもいぬはゐ<つ>べし」(=にゃんこの居ぬ家屋にもわんこは居るだろう)
=推量助動詞を伴った「つ+む=てむ」・「つ+べし=つべし」・「つ+らむ=つらむ」の形で用いる。
・・・眼前にある事態について「すでに・・・した」と確認するのではなく、確認はできぬものの確実視される事態について「きっと・・・だろう」と述べる推量語法。
・・・対象となる時点は、「現在」及び「未来」。
3)「実現への希望」
=推量助動詞を伴った「つ+む=てむ」・「つ+べし=つべし」や、命令形「・・・てよ」の形で用いる。
例)「わがやのとりそこなひしねこをい<てよ>」(=うちの鶏をギッタギタにしちゃったネコを弓矢で射ておくれっ!)
・・・2)の語法の延長線上にある言い方で、「きっと・・・になる・・・はずだろう?」と相手に訴えかけることで、その事態の実現を強く促す疑似命令文的語法。
・・・対象となる時点は、「未来」。
-「てよ」→「よ」のなよなよ語感-
*上の3)の語法は、現代日本語でも「・・・して/・・・してよ」の形での相手への訴えかけとしてそのまま残る。
*単なる命令文の「・・・しろ/・・・せよ」に比べて、「・・・し+てよ」にやんわりソフトな語感があるのは、「眼前の相手に直接行動を命じる話法(・・・しろ/・・・せよ)」と異なり、「未来に於いて確実視される事態を述べて、相手がその実現に向けて動くことを間接的に期待する話法(・・・てよ)」だからこそである。
*この種のソフト化表現は、日本語よりむしろ英語の得意とするところであって、次の2つの英文を比べれば、直接性/間接性の使い分けが生む婉曲語感の相違は歴然たるものがある:
英文1)I want you to persuade him to come and join us.「彼が我々に加わるよう、君が彼を説得してほしい」
英文2)I would appreciate it if you would persuade him to come and join us.「彼が我々に加わるよう、君が彼を説得してくれたなら、それはもう有り難いことなのだけれど・・・」
-「ブタに真珠」を投げてみる・・・-
*この種の丁寧話法に関して、大方の日本人は「日本語(及び日本人)は得意/英語(特にアメリカ人)は不得意」という先入観を抱いている(・・・語学的に鋭い観察眼を持つ人間の目には日本人のこの種の偏見は歴然たることだ)が、日本人が「ていねい」に見えるのは、「持って回ったわざとらしい言い回し」が「言語構造的に日本語に固着している」からこそであって、意識的使い分けレベルでの「婉曲表現」に於いては、英米人のpoliteness(礼儀正しさ)の水準には、日本人など到底及ぶべくもないのである。「言語構造レベルで慇懃・・・多くの場合むしろ慇懃無礼・巧言令色少なし仁」の言語生活に惰性的に慣らされている日本人は、逆に、「意識レベルで丁寧」を演じることがヘタクソなのだ。
*そうした事実を思い知るためにも、自分達が日常的に使っている(がゆえに無意識の霧の中に霞んでいる)現代日本語とは別に、最低1つは「自らを映す鏡」を持つのが、「洗練された教養人」としての最低限の嗜みなのである。西欧人が「外国語も知らぬ者=粗野な非教養人」とみなすのは、なにも「外国語が使えると、実用上便利」とか「カッコよく見える」とかの(日本人の英語観に類する)素朴な理由によるものではなく、「自分自身の真の姿を知るための"他人の目"を自らの内面に有すること」が、己の思考・感覚・行動を正しく&美しく律する上での必須条件であることを、古来、西欧人たちがよく弁えてきたからこそなのである。
*多くの国々が国境線を挟んでひしめき合い、「よそ者」が常にそばにいる異邦人寄り合い所帯の西欧世界では、この種の「客観的視座」の重要度が(今も昔も)極めて高いのだ・・・が、翻ってこの日本国では、「よそ者は排除する」横並び一線意識が異様に根強く、「よそ者が横/内にいる状態」は「一刻も早く是正すべき異常事態」と感じられてしまう・・・真に丁寧な振る舞いは「相手の立場になって事態を眺める」ことから始まるものである以上、「相手の立場」と「自分の立場」が「対立構図を描くのは望ましくない;から、横一線に均してしまわないと落ち着かない」という日本人に、「真の丁寧話法」が根付く道理がないのである。
*「丁寧語法・慇懃作法」ばかりで「誠意の行動」がない日本人の姿は、西欧の流儀を弁えた教養人には歴然と目立つものである・・・が、彼らはその事実を敢えて日本人に向かって直言したりはしない:ズバリ言い放っても、どうせ「第三者の視線」を持たない相手がそれを実感することは不可能なのだから、「不当な中傷だ!」と息巻いて折角の忠言の主を嫌うばかりなのは目に見えている ― 西欧には「Don't cast pearls before swine.:ブタに真珠を投げるべからず・・・価値あるものを与えてやったのに、逆に、攻撃されたと勘違いして、怒って突進して来るから、二重の意味で損失だ」という格言があるのだ・・・にもかかわらず、この『扶桑語り』の筆者がそうした「愚挙」を承知で敢えて「日本人の、語学的観点/異邦人の目から見た、醜悪さ」を指摘するのは、筆者もまたその「デフォルト状態では醜い(ことの実に多い)日本人」の一員だからである:同胞諸君に、いつまでもブタのままでいてほしくないからこそ、である。「語学」を通して学び取れる「美学」があれば、一人でも多くの日本人にそれを知らしめて、醜→美の展開を促したいのだ・・・「美しくなれ!(Be beautiful!)」と強圧的に命じるつもりはない ― こうした事実を知れば、当然、美しく<なり+つ+べし>・・・You <should certainly be> the more beautiful for this knowledge.・・・の気分で、豚(の顔面ならぬ側面)に真珠を投げる営みを続けているわけである(から、怒って突進して来ないようにし<てよ>)。
■__る【る】『接続:{四段&ナ変&ラ変の未然形}』〔助動ラ下二型〕{れ・れ・る・るる・るれ・れよ} (1)〈(自発)意識せずとも自然発露的にそうなる意を表わす。(通例、打消の語を伴わない。命令形はない)〉自然と・・・られる。思わず・・・する。・・・ずにはいられない。 (2)〈(可能)その動作を実現することができる意を表わす。(中古までは、通例、打消の語を伴う。命令形はない)〉・・・できる。・・・られる。・・・可能だ。 (3)〈(受身)他者からの作用を受ける意を表わす。(通例、無生物は主語にならない)〉・・・れる。・・・られる。・・・される。・・・を被る。・・・の目に遭う。 (4)〈(尊敬)動作主を敬う意を表わす。〉・・・なさる。・・・される。お・・・になる。・・・られる。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【る】〔助動ラ下二型〕(1)(自発)意識せずとも自然発露的にそうなる意を表わす。(通例、打消の語を伴わない。命令形はない)自然と・・・られる。 思わず・・・する。・・・ずにはいられない。 *接続=四段・ナ変・ラ変の未然形。
*「る/らる」が「特に意識せずとも、自然とそうなる」の意を表わす「自発」の語法で、現代日本語にもそのまま残るもの。
*英訳=「feel ...」/「feel like ...ing」/「it seems like ...」/「it looks as if ...」/「it looks as though ...」/etc, etc.
*「る」は「四段活用・ナ行変格活用(「死ぬ」・「去ぬ」)・ラ行変格活用(「あり」及びその複合語)」に付き、それ以外の動詞には「らる」が付く。接続する動詞が違っても、「る/らる」の表わす意味は全く同じ。
◆【る】〔助動ラ下二型〕(2)(可能)その動作を実現することができる意を表わす。(中古までは、通例、打消の語を伴う。命令形はない)・・・できる。 ・・・られる。・・・可能だ。 *接続=四段・ナ変・ラ変の未然形。
*「る/らる」は「可能」の助動詞と呼ばれ、現代日本語にもそのまま使える(例:「使え<る>?本当にそう言え<る>?」)が、平安時代末期までは「肯定形=・・・できる」の形では用いず、「否定形=・・・できない」/「疑問形=・・・できるか?」/「反語形=どうして・・・できよう、いや、できない」の形でのみ用いた。英語にもよくあるパターンで、俗に言う「疑・否専語(ギもん・ヒていセンもんゴ)」である。
*英訳=「can not ...」/「can A ...?」/「how can A ...?」/(肯定形での使用は鎌倉期以降)「can ...」/「be able to ...」/「have the power to ...」
*「る」は「四段活用・ナ行変格活用(「死ぬ」・「去ぬ」)・ラ行変格活用(「あり」及びその複合語)」に付き、それ以外の動詞には「らる」が付く。接続する動詞が違っても、「る/らる」の表わす意味は全く同じ。
◆【る】〔助動ラ下二型〕(3)(受身)他者からの作用を受ける意を表わす。(通例、無生物は主語にならない)・・・れる。 ・・・られる。・・・される。・・・を被る。・・・の目に遭う。 *接続=四段・ナ変・ラ変の未然形。
*「受身」の意味を表わす「・・・る/らる」は、現代日本語「・・・れる/られる」にもそのまま残るが、古語ではその対象が「人間・動物」にほぼ限られ、それ以外のもの(植物・物体など)を主役に見立てた「受身」は少ない。
*英訳=「be ...ed (passive voice)」/「get ...ed (passive voice)」/「have A ...ed」/「get A ...ed」
*「る」は「四段活用・ナ行変格活用(「死ぬ」・「去ぬ」)・ラ行変格活用(「あり」及びその複合語)」に付き、それ以外の動詞には「らる」が付く。接続する動詞が違っても、「る/らる」の表わす意味は全く同じ。
-主体/客体不明瞭な日本語では、受動態もまた発達しない-
*概して、日本語は(古文でも現代文でも)英語に比べて「受動態」があまり発達していない。純粋に論理的に割り切った場合、受動態とは、「SがOをVする」という行為を、行為者(S)の立場ではなく、被行為者(O)の立場から逆転して眺めたもの(・・・実際の英語の受動態は必ずしもそうではなく、最初から「被行為者を主役に見立てた言い回し」であって、「SVO」の裏返しではない、というのが英語人種の正しい感覚なのだが、それはこの際さて置くとして)・・・この場合「Sが、Oを、Vする」という形で「行為の主体/行為の客体/行為そのものの内容」が全て明瞭に意識されていない限りは、「SはOをVした → Oは、Sによって、Vされた」という逆転の見立てもまた成立しない。
*ところが、日本人は古来、「誰が、何を、どうした」という「行動過程の明確化」を忌避する体質を持っている(21世紀の現在に於いてさえ、相変わらずそうである)。「give someone(A) credit for something(B):誰か(A)に対し、何か(B)の功労者としての功績(credit)を与える」という形で「人と行為を明確に見据えて顕彰する」という態度が、古来、日本人には備わって来なかったのである。
*気色ばむ日本人も多数存在するであろうが、英語圏を代表格とする「クレジット文化圏(非現金払い、の意味ではない)」との対比に於いて日本国/日本人を客観的に捉える比較文化論的パースペクティブ(perspective:了見・視野・展望)を持ち、かつ、平安時代の日本語の数々の特性に対する広範にして分析的な理解を我がものとした日本人であれば、「誰が、どのような形で、何をした・・・から、Xは達成されたのだ」という図式を明確化しようという態度がこの国の人間達に(古今常に)いかに欠落しているかが、唖然(or憤然)とするほどの明瞭さで、必ずや認識されることになろう。
*とりあえず、まずは覚えておくことだ:「受動態を自在に使いこなせない者は、自/他の区分に疎い者である」という論理学的事実と、「日本語は昔も今も受動態がヘタクソ」という言語学的事実を。
◆【る】〔助動ラ下二型〕(4)(尊敬)動作主を敬う意を表わす。・・・なさる。 ・・・される。お・・・になる。・・・られる。 *接続=四段・ナ変・ラ変の未然形。
*動詞に付けて、その動作の行為主に対する敬意を表わす助動詞が「る/らる」。但し、「る/らる」の表わす敬意はあらゆる「尊敬助動詞」の中で最も低い。
*英訳=和語の敬語に相当する表現は英語には存在しない。無理に敬意を表わそうとして「deign to ...」のような表現に持ち込むと「かたじけなくも...してくださる」などという「The Queen deigned to wash my dirty underwear by her own hands!:恐れ多くも女王陛下自ら私の汚れた下着を洗濯してくださいましたっ!」みたいなとんでもないことになってしまう。
*「る」は「四段活用・ナ行変格活用(「死ぬ」・「去ぬ」)・ラ行変格活用(「あり」及びその複合語)」に付き、それ以外の動詞には「らる」が付く。接続する動詞が違っても、「る/らる」の表わす意味は全く同じ。
-「る/らる」の「尊敬」は、「自発」の意から生じたもの-
*「る/らる」は上代(奈良時代)の助動詞「ゆ/らゆ」に由来するもので、その本義は「自発」、つまり「思わず知らず・・・してしまった」である。この語義が「自分から敢えてそうしようと思わずとも、自然な成り行きの中で・・・になっている」という「周囲の人間があれこれ動いて、自分が手を下すまでもなく状況が整ってしまう」という「貴人の行動様態」に相応しいもの、ということで「尊敬」の助動詞と化したわけである。
*現代人が古文を読んでいて奇異に感じることの一つに、「主体的・意志的に動くこと=下賤の者どものする蔑むべきこと」という意識がある。好きだった女性を密かにその宿に訪ねた男が、「食事を食器に自らの手でよそう(現代風に言えば、よそる)」女の姿を見て「幻滅した・・・あの女とはもう会うのはよそう」という『伊勢物語』の一節に面食らった諸君も多かろう。「自分としてはそうしたい」けど「自分でそれをしたら見苦しい」から「自分の意を汲んでそうしてくれる目下の者たちが、自分に代わってそうする状況を持とう」というのが「古典時代のエラい人の心理・行動原理」なのである・・・主体的行動を尊ぶ現代(西欧流)文明の観点からすれば「・・・ったく、何を偉そうなことほざいてやがる、何様のつもりだ貴様!」となる振る舞いだが、「貴様=貴人様」は「自分は偉いので、自分の周囲の者があれこれ動いてそうするのが自然」と思っているのだから、「自然発露的他力行動の成果=自分の手柄」という貴人意識は、「それが貴人という名の奇人の美意識・・・なのであった」として認識しておくよりほかはない。
*それと同時に、この種の「蔑むべき非主体性の御膳立て指向者(&手柄だけは我が物顔)の貴人気取りの"貴様!"連中」が、現代日本に相も変わらずはびこっていないかどうか、冷徹な客観的観察者としての目を研ぎ澄ます知性もまた、いやしくも「古文を学んで古文から学ぶ」意識ある知識階層には、自然な副産物として備わって然るべきであろう。「自分は***の立場なのだから、相手は自分を***として遇するべきだ」という意識が、いったい何様の心持ちとして生じるものか、それが歴史の中でいかなる弊害を生んできたか/現状に於いてなお生じ得るものか・・・「古文から学ぶもの」がそれなりに大きい現代日本人ならば、その答えは知っていて然るべきなのだ。
-「敬語」は「日本の文化!」だけどね・・・-
*良かれ悪しかれ、日本語の敬語というものは「発話段階で自/他の立場を分け隔てる差別化語法」であり、基本的に「立場の違いを超えて分かり合うための道具」たることを指向する西欧言語にはこんな迷惑な代物はない:もし相手を殊更に持ち上げたいのならば、語句の端々で「意志的に丁寧・遠慮を演出」することで相手への敬意を表出する個別的工夫が凝らされるのが西欧言語であって、日本語のように「相手が自分より目上なら、最初から最後までずっと上目遣い話法/自分より目下なら、徹頭徹尾見下し話法」などという構造的&全体主義的差別言語とは、根源的に全く異質のものなのである。
-「時間」にloose(和風に言えば、ルーズ)で「敬語」にウルサい変な国-
*この点、「動詞の時制は、過去/現在/未来のいずれであるかをその都度必ず明示する」という西欧言語の律儀な時制的特性が和語には存在せず、「折々、自分自身の気分に従って、"心的態度としての過去モード"であることを相手に念押しするために、"き"・"けり"を付けるだけ」という「基本的にすべて"現在"モードで推移する日本人の恣意的時制感」と、「相手が目上なら常に上目遣い/目下なら常に見下しモード、という首尾一貫した敬語の枠組み」は、際立つ対照を成すものであると言えよう。
*相手との相対的序列(自分が上か、相手が上か)を決めてからでないと発話が不可能(少なくとも、極めて困難または不自然)というこの「敬語なる差別化言語構造」に邪魔されて、見知らぬ相手に対して迂闊に口も開けぬこの言語学的特性は、日本人の場合、そうした差別的言語構造と無縁の外国語(英語などはその最たるもの)に習熟した後でなければ実感をもって認識することは不可能である。それだけに、外国帰りの日本人が、自らの母国の「言語学的差別主義者の日本人たち」との対話に著しい困難を来たす、という事態が古来(といっても明治維新後の短い時間幅の中でのことだが)続出し、そのたびに「純然たる日本人たる外国語使用不能者」は、「自分たちをヘンな目で見下す外国語使用能力を持った日本人」のことを「イケ好かない異国かぶれの非国民」扱いしてきた(&今なおそうし続けている!)わけである・・・が・・・この状況、いつまで続けるつもりであろうか、この東洋の島国の住人たちは・・・この「敬語なる差別主義話法」が「数千年来続いてきた日本人の意識の言語学的infrastructure=土台」であることは(古文を学べば心底「もうイヤ!」というほど)歴然たる事実として思い知らされる事柄ではあるが、そうした「millennium-old tradition(千年来の伝統芸)の数々(真に美しい和歌とか古語とか)をいとも平然とかなぐり捨てて生きている現代日本人」という事実をもまた、溜息が出るような思いで痛感させてくれるのが「古文学習」である・・・ので、今ある言語構造をあっさり捨て去った「新生和語」の誕生もまた、夢物語ではないことを期待しつつ、この「敬語なる有害無益な差別化言語構造」の死滅を、心底より祈るこの筆者である。
■__けむ【けむ】『接続:{連用形}』〔助動マ四型〕{○・○・けむ(けん)・けむ(けん)・けめ・○} (1)〈(不確実な過去の推量)過去に存在したと思われる事態について想像して述べる。〉・・・ただろう。・・・たのであろう。 (2)〈(過去の状況の推量)(疑問の語を伴わずに)過去に存在した事態の背後にある事情について、その原因・方法などに関する確信のない推量を表わす。〉・・・たからこそだろう。・・・ゆえのことだろう。・・・だったということであろう。・・・ということであろう。 (3)〈(過去の状況の推量)(疑問の語を伴って)過去に存在した事態の背後にある事情について、その原因・方法などを相手に尋ねたり、不思議がったりする。〉~に・・・だったのか?何故・・・だったのだろう?いつ・・・たのだろう?どこに・・・たのだろう?どうやって・・・たのだろう?誰に・・・たのだろう? (4)〈(過去の伝聞・婉曲)(多く、連体形で)過去の事柄について、伝え聞いた話として、または、断定回避する気持ちを込めて述べる。〉・・・とかいう。・・・とされている。・・・だそうだ。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【けむ】〔助動マ四型〕(1)(不確実な過去の推量)過去に存在したと思われる事態について想像して述べる。・・・ただろう。 ・・・たのであろう。 *接続=連用形。
*確認できない過去の事柄について、「・・・だったのだろう」として推量する「過去推量助動詞」と呼ばれる「けむ」の基本的語法。
*英訳=「might have ...ed/been A/been ...ing」/「I believe ...」/「perhaps ...」/「probably ...」/「in all likelihood ...」/「more likely than not ...」/「as likely as not ...」/etc, etc.
-「けむ」の来歴-
*「けむ」は「過去の推量」であるから、その語源としては当然「過去助動詞き(未然形け)」+「現在推量助動詞む」が想定されるところであるが、その他にも次のような語源説がある:
◆「来(き)+経(へ)+推量助動詞む」
◆「過去助動詞き+推量助動詞古形あむ」
・・・いずれの説ももっともらしいが、どれが真説かは定かではない。いずれにせよ、「む」の過去版と響く「けむ」ではあるが、実際には「む」よりも「らむ」の対照語と言うほうが正しいのが「けむ」である。
-「らむ」と「けむ」とは似たものどうし-
*推量の対象となる時制が「現在」なら「らむ」/「過去」の推量なら「けむ」というだけで、語法的には「らむ/けむ」は鏡に映したように瓜二つである。一方、「む」の語法は「らむ」より多岐に渡るため、「けむ」と並べて把握すべき相手はやはり「らむ」であって「む」ではないと言える。
◆【けむ】〔助動マ四型〕(2)(過去の状況の推量)(疑問の語を伴わずに)過去に存在した事態の背後にある事情について、その原因・方法などに関する確信のない推量を表わす。・・・たからこそだろう。 ・・・ゆえのことだろう。・・・だったということであろう。・・・ということであろう。 *接続=連用形。
*推量助動詞「けむ」が、疑問詞を伴わず、原因・理由にあたる記述と共に用いられた場合、「~ゆえにこそ、・・・なのだろう」という「原因に関する、確信のない推量」の意を表わす。
*英訳=「... possibly because ...」/「may ... because of A」/「may ... for the sake of A」/「may ... on account of A」/「may ... to/for/in/at/etc, etc. A」/etc, etc.
*この「けむ」の語法は、時制を現在に移し替えれば「らむ」にも共通するもの。
◆【けむ】〔助動マ四型〕(3)(過去の状況の推量)(疑問の語を伴って)過去に存在した事態の背後にある事情について、その原因・方法などを相手に尋ねたり、不思議がったりする。~に・・・だったのか? 何故・・・だったのだろう?いつ・・・たのだろう?どこに・・・たのだろう?どうやって・・・たのだろう?誰に・・・たのだろう? *接続=連用形。
*現在推量助動詞「けむ」が疑問を表わす語(いかが/いづく/たそ/など/等々)を伴った場合、単純な「過去の未確認事態の推量:・・・だったのだろう」にはとどまらず、その過去の事態の背後にあったであろう事情を推量する「(***に)・・・たのだろうか?」の意を表わす。
*英訳=「where...?」/「how...?」/「when...?」/「why...?」/etc, etc.
-原因推量の「らむ」&「けむ」-
*古典文法の常識として、推量助動詞「らむ」と「けむ」とは、対象となる時点が「現在(らむ)/過去(けむ)」と異なるだけで、語法は(ほぼ)同じ、という事実を踏まえておく必要がある。その「らむ(現在推量)」/「けむ(過去推量)」の語法は、大きく分けると次の3通り(「らむ」は数え方によっては4通り)になる:
1)「単純推量」
・・・現在/過去に於いて「存在している/存在した」とは確認できない事態について、「現時点で・・・だろう」/「過去の時点で・・・だったろう」という推量を表わす。
2)「原因推量」
・・・現在/過去に於いて「存在している/存在した」と確認されている事態について、「どうして・・・なのか/・・・だったのか」という原因・理由(その他の事情)についての推量または疑問の念を表わす。
3)「伝聞」
・・・現在/過去に於いて「存在している/存在した」と自分自身が確認したわけではない事態について、他者から聞いた情報として「・・・だそうだ/・・・だったそうだ」という又聞きの形で述べる。
・・・この「伝聞」語法の変形として、現在推量の「らむ」にはまた、自身に確信がある事態について、敢えて断定回避のために「伝聞情報ふう」を装うことで「婉曲」に述べる語法もある。
*このうち、特に注意を要するのは「らむ/けむ」が「原因推量」を表わす語法であり、これらは更に次のような形で2つに細分化される:
2A)「原因・理由に関する不確実な見解」(疑問詞は伴わず、原因・理由を表わす語句を伴う)
・・・確信はないが「恐らく~だからこそ・・・ということになるのだろう/なったのだろう」として自らの意見を述べる。
2B)「原因・理由に関する疑問(散文型)」(原因・理由を表わす語句は伴わず、疑問詞を伴う)
・・・「何のために/どうして/どうやって/どこに/いつ/etc, etc.」のような疑問の語句を伴って、確認されている事態の背後にあると想定される「未確認の何か」を相手に尋ねたり、不思議がったりする。
*更にまた、現在推量の「らむ」に関しては、次のような特殊な用例が(特に和歌の中で)見られる:
2C)「原因・理由に関する疑問(詩文型)」(原因・理由を表わす語句は伴わず、疑問詞をも表面的には伴わないが、言外に疑問詞が含意されている)
・・・本質的には2B)と同じだが、語数に制約のある和歌の中に織り込むために「本来あるべき疑問詞が省略された形」なので、解釈する際にはその被省略疑問詞(「など=why」等)を補足して読む必要がある。
・・・五七七五七七の語数に収めねばならぬ都合上、やむなく生じた「和歌語法」とでも言うべき修辞法だが、詩文から飛び火する形で散文の中で用いられている場合もある。用例こそ少ないが、見えない疑問詞を脈絡から補足する必要がある難解な語法だけに、入試問題の「受験生イジメ」では格好の狙い目となる。
・・・論理的には、この現在推量「らむ」の「疑問詞省略語法」は、過去推量「けむ」にも生じ得るものであるが、用例が少ない(orない?)ということか、別の理由でもあるものか(←これについては、「らむ」の語法4の解説を参照)、入試でこの語法が問題になるのは決まって「らむ」の場合のみである。
◆【けむ】〔助動マ四型〕(4)(過去の伝聞・婉曲)(多く、連体形で)過去の事柄について、伝え聞いた話として、または、断定回避する気持ちを込めて述べる。・・・とかいう。 ・・・とされている。・・・だそうだ。 *接続=連用形。
*確信のない推量を基本義とする推量助動詞の「らむ(現在)」/「けむ(過去)」が、派生的に「自分としては確認していないが、他者から聞いた話によれば・・・だとのことだ」の形で「伝聞情報」の形で物事を述べる語法。連体形「らむ+名詞/けむ+名詞」の形で用いられる場合が多く、「・・・とかいうA」あたりの他人行儀な訳し方で事足りることが多い。
*英訳=「the supposedly ... A」/「what they call A」/「the so-called A」/「A, which is said to ...」/「A, as X says is ...」/etc, etc.
*この語法は、「このAというのは、私が言うのではなく、世間がそう言うのだ」という断定回避のために用いられるほか、「私自身としては、このAというやつの信憑性を疑わしく思うのだけれどね」という否定的見解の含みを帯びる場合もある。このあたり、英語の「supposed[ly]」や「so-called」の響きに通じるものがある。
*この語法は、「けむ」については死語となったが、「らむ」の方は室町時代以降の語形「らう」から転じた「・・・(だ)ろう」として現代日本語にも残っている。
■__らむ【らむ】『接続:{終止形・ラ変の連体形}』〔助動ラ四型〕{○・○・らむ(らん)・らむ(らん)・らめ・○} (1)〈(現在の事柄の推量)自身が直接経験しているわけでない現在の事柄について推量する意を表わす。〉今頃は・・・だろう。・・・のであろう。・・・ていよう。 (2)〈(現在の事柄の原因推量)(原因・理由を表わす表現を伴って)現在の事柄の生じた原因・理由について推量する意を表わす。〉・・・だからこそ~のだろう。~なのは・・・故のことだろう。 (3)〈(現在の事柄の原因に関する疑問)(原因・理由を表わす表現は伴わず、疑問の意を表わす語を伴って)現在の事柄の生じた原因・理由がわからない意を表わす。〉何故に・・・なのだろう。どうして・・・だろうか?・・・なのは~か? (4)〈(現在の事柄の原因に関する疑問)(原因・理由を表わす表現も、疑問の意を表わす語も伴わずに)現在の事柄の生じた原因・理由がわからない意を表わす。〉何故に・・・なのだろう。どうして・・・だろうか?・・・なのは~か? (5)〈(伝聞)(多く連体形で用いて)他者から伝え聞いた情報について、断定回避的に述べる。〉・・・とかいう。・・・だそうだ。・・・との話だ。 (6)〈(婉曲)(連体形で)確信のある事柄について、敢えて断定せずに遠回しに言う。〉・・・であろうその~。・・・ているような~。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【らむ】〔助動ラ四型〕(1)(現在の事柄の推量)自身が直接経験しているわけでない現在の事柄について推量する意を表わす。今頃は・・・だろう。 ・・・のであろう。・・・ていよう。 *接続=終止形(ラ変のみ連体形)。
*現在推量助動詞「らむ(現在)」/「けむ(過去)」の中でも最も単純な「(今)・・・だろう/(昔)・・・たのだろう」(現在/過去の未確認事態の推量)の語法。
*英訳=「will be A/be ...ing」/「might have ...ed/been A/been ...ing」/「I believe ...」/「perhaps ...」/「probably ...」/「in all likelihood ...」/「more likely than not ...」/「as likely as not ...」/etc, etc.
*推量助動詞の「らむ」は「現在」を対象とし、「けむ」は「過去」を対象とする:時制の違いこそあれ、両者の語法は(ほぼ)同一である。
*現在推量の「らむ」は、中古以降「らん」と表記される例が増え、これが鎌倉期に入ると「らう」に化けて、現代日本語の「・・・ろう/・・・だろう」へとつながる(例:「そうして化けていなければ、今頃日本語はラムとランとが入り乱れてさぞやうるせえやつになっていた<ろう>」)。
*過去推量の「けむ」も中古以降「けん」の表記例が増えるが、鎌倉期に入ると衰退してしまう。「けむ」の代わりに「つらう:つ(=完了助動詞)+らう(=らむ音便形)」が優勢となったためである(「つらむ」の表現自体は上代からある古いもの)。この「つらう」が化けたものが、現代日本語「・・・たろう」である。
◆【らむ】〔助動ラ四型〕(2)(現在の事柄の原因推量)(原因・理由を表わす表現を伴って)現在の事柄の生じた原因・理由について推量する意を表わす。・・・だからこそ~のだろう。 ~なのは・・・故のことだろう。 *接続=終止形(ラ変のみ連体形)。
*推量助動詞「らむ」が、疑問詞を伴わず、原因・理由にあたる記述と共に用いられた場合、「~ゆえにこそ、・・・なのだろう」という「原因に関する、確信のない推量」の意を表わす。
*英訳=「... possibly because ...」/「may ... because of A」/「may ... for the sake of A」/「may ... on account of A」/「may ... to/for/in/at/etc, etc. A」/etc, etc.
-「らむ」・「けむ」・「らう」-
*この「らむ」の語法は、時制を過去に移し替えれば「けむ」にも共通するもの。また、室町時代以降に生じた「らう」の変形として、現代日本語には「・・・(だ)ろう」として残る(例:「食前酒だけであんなに顔がまっかっか・・・彼女、よっぽど酒に弱いんだ<ろう>」)。
◆【らむ】〔助動ラ四型〕(3)(現在の事柄の原因に関する疑問)(原因・理由を表わす表現は伴わず、疑問の意を表わす語を伴って)現在の事柄の生じた原因・理由がわからない意を表わす。何故に・・・なのだろう。 どうして・・・だろうか?・・・なのは~か? *接続=終止形(ラ変のみ連体形)。
*現在推量助動詞「らむ」が疑問を表わす語を伴った場合、単純な「現在の未確認事態の推量:・・・だろう」にはとどまらず、その現在の事態の背後にある事情を推量する「(***に)・・・なのだろうか?」の意を表わす。「らむ→らう→ろう」と転じて現代日本語にも残る言い回しである(例:「どうして自分はこうも覚えが悪いのだ<ろう>?」)。
*英訳=「where...?」/「how...?」/「when...?」/「why...?」/etc, etc.
-原因推量の「らむ」&「けむ」-
*古典文法の常識として、推量助動詞「らむ」と「けむ」とは、対象となる時点が「現在(らむ)/過去(けむ)」と異なるだけで、語法は(ほぼ)同じ、という事実を踏まえておく必要がある。その「らむ(現在推量)」/「けむ(過去推量)」の語法は、大きく分けると次の3通り(「らむ」は数え方によっては4通り)になる:
1)「単純推量」
・・・現在/過去に於いて「存在している/存在した」とは確認できない事態について、「現時点で・・・だろう」/「過去の時点で・・・だったろう」という推量を表わす。
2)「原因推量」
・・・現在/過去に於いて「存在している/存在した」と確認されている事態について、「どうして・・・なのか/・・・だったのか」という原因・理由(その他の事情)についての推量または疑問の念を表わす。
3)「伝聞」
・・・現在/過去に於いて「存在している/存在した」と自分自身が確認したわけではない事態について、他者から聞いた情報として「・・・だそうだ/・・・だったそうだ」という又聞きの形で述べる。
・・・この「伝聞」語法の変形として、現在推量の「らむ」にはまた、自身に確信がある事態について、敢えて断定回避のために「伝聞情報ふう」を装うことで「婉曲」に述べる語法もある。
*このうち、特に注意を要するのは「らむ/けむ」が「原因推量」を表わす語法であり、これらは更に次のような形で2つに細分化される:
2A)「原因・理由に関する不確実な見解」(疑問詞は伴わず、原因・理由を表わす語句を伴う)
・・・確信はないが「恐らく~だからこそ・・・ということになるのだろう/なったのだろう」として自らの意見を述べる。
2B)「原因・理由に関する疑問(散文型)」(原因・理由を表わす語句は伴わず、疑問詞を伴う)
・・・「何のために/どうして/どうやって/どこに/いつ/etc, etc.」のような疑問の語句を伴って、確認されている事態の背後にあると想定される「未確認の何か」を相手に尋ねたり、不思議がったりする。
*更にまた、現在推量の「らむ」に関しては、次のような特殊な用例が(特に和歌の中で)見られる:
2C)「原因・理由に関する疑問(詩文型)」(原因・理由を表わす語句は伴わず、疑問詞をも表面的には伴わないが、言外に疑問詞が含意されている)
・・・本質的には2B)と同じだが、語数に制約のある和歌の中に織り込むために「本来あるべき疑問詞が省略された形」なので、解釈する際にはその被省略疑問詞(「など=why」等)を補足して読む必要がある。
・・・五七七五七七の語数に収めねばならぬ都合上、やむなく生じた「和歌語法」とでも言うべき修辞法だが、詩文から飛び火する形で散文の中で用いられている場合もある。用例こそ少ないが、見えない疑問詞を脈絡から補足する必要がある難解な語法だけに、入試問題の「受験生イジメ」では格好の狙い目となる。
・・・論理的には、この現在推量「らむ」の「疑問詞省略語法」は、過去推量「けむ」にも生じ得るものであるが、用例が少ない(orない?)ということか、入試でこの語法が問題になるのは決まって「らむ」の場合のみである。
◆【らむ】〔助動ラ四型〕(4)(現在の事柄の原因に関する疑問)(原因・理由を表わす表現も、疑問の意を表わす語も伴わずに)現在の事柄の生じた原因・理由がわからない意を表わす。何故に・・・なのだろう。 どうして・・・だろうか?・・・なのは~か? *接続=終止形(ラ変のみ連体形)。
*推量助動詞「らむ(現在)」の中でも最も難解な(だけに、入試問題では最も好まれる)語法で、「疑問詞」も伴わずに「疑問」の意を表わすもの。本来あるべき(「など=why」等の)疑問詞が、和歌の中などで、字数の制約上割愛されてしまったもの(詩文のみならず、散文の中でも用いられる)。この用法ばかりはさすがに現代日本語には残っていない。
*英訳=「where...?」/「how...?」/「when...?」/「why...?」/etc, etc.
-「見えない疑問詞」語法の読み解き方-
*「らむ」が疑問詞を伴わない場合、普通なら、その語法は次のA/B/Cのうちのいずれかとなる:
A)「単純推量」
・・・現在に於いてはっきりとは確認できない事態について、「たぶん・・・だろう」という推量を表わす。
B)「原因推量」
・・・現在に於いてはっきりと確認されている事態について、「どうして・・・なのか」に関する(確信はないが)自分なりの推量を述べる。
C)「伝聞」
・・・現在に於いて自分自身が確認したわけではない事態について、他者から聞いた情報として「・・・だそうだ」という又聞きの形で述べる。
*これらの語法のいずれで解釈しても不自然になる「らむ」ならば、「本来あるべき疑問詞が消失している」ものとみなして、脈絡から適当な疑問の表現を補って次の形に戻して解釈すればよい:
X)「原因・理由に関する疑問(散文型)」
・・・「何のために/どうして/どうやって/どこに/いつ/etc, etc.」のような疑問の語句を伴って、確認されている事態の背後にあると想定される「未確認の何か」を相手に尋ねたり、不思議がったりする。
*字数の制約から生まれた変則語法であるこの「らむ」は、過去推量の「けむ」にも同様に生じ得るはずである:「時制」ではなく「字数」が原因で生じた省略語法なのだから・・・しかし実際には、この省略語法が取り上げられるのは(古文の専門書でも入試問題でも)「らむ」の場合のみであって、「けむ」は問題外のようである。その原因としては、次の2通りが考えられるであろう:
1)「けむ」の「省略語法」の用例は、現実には存在するが、古文専門家の間では見逃されているので、ノーマーク状態。
・・・あり得ない話ではない;が、それではあまりにも芸のない話で終わってしまうので、もう少しマトモな原因推量を付け加えて終わることにしよう:次のような説である。
2)過去推量の「けむ」には、現在推量の「らむ」のような「省略語法」は、ない。
・・・「字数」の制約が生む語法なら、この推論はおかしいことになる。が、事を「推量」そのものの性質へと視点転換してみると、次のような説明が可能になるのだ:
A)「らむ」は、眼前にある「事態」が存在することを確認するのと同時進行の形で、その事態の背後にある「原因」をも推量する形を取る。「事態」も「原因」もともに「現在」に同居しているので、心的態度としてはこれら両方と同時に向き合うことになるが、「事態」は確実に把握されている一方で、「原因」はよくわからない。わからないながらも、その「事態」を見る過程で自然に思い浮かべざるを得ぬものとして「原因」が「事態」に付随している感じである。が、叙述の主役はあくまで「眼前にある、確かなものとしての、事態の描写」であり、「事態の背後にある、不確かなものとしての、原因の推量」は脇役に過ぎない。それを主役に立てる意識があれば当然添えられているべき「疑問の語(など/などか/なにすとか/なにと/なにゆゑ/etc, etc.)」が付随しないのは、「原因についての考察文ではなく、眼前の事態の観察文」に「隠れた同時進行の形で、原因へのさりげない言及」が含意されているだけだからこそ、である。
B)「けむ」は、過去の事態に言及するものだけに、「事態」も「原因」もともに「眼前のもの」ではなく、本の中や人の話の中や自らの脳裏にある確定事態の記録の中から呼び出した「客観的考察対象」として「別々に存在するもの」である。従って、過去の事態の「原因」についての考察を主題とする場合、それが過去の「事態」の観察と「同時進行の形で、さりげなく言及」されることはない:「事態が主役/原因は脇役」という渾然一体型の二本立て叙述は、現在の「事態」を眼前にして「原因」をも同時に思い浮かべる「らむ」には成立しても、過去の「事態」を客観的に&「原因」とは切り離して描写する「けむ」には成立しない。故に、「けむ」が「過去の「事態」ではなくその事態の「原因」についての推量を行なう場合、そこには必ず「疑問の語」が「省略されない形で存在」することになる。
・・・実際にそれが理由なのか、それとも単に「省略語法の用例不足」のせいなのか、いずれにせよ、「大学入試で問題になる省略語法は、らむ」と思っておいて間違いはない。
◆【らむ】〔助動ラ四型〕(5)(伝聞)(多く連体形で用いて)他者から伝え聞いた情報について、断定回避的に述べる。・・・とかいう。 ・・・だそうだ。・・・との話だ。 *接続=終止形(ラ変のみ連体形)。
*確信のない推量を基本義とする推量助動詞の「らむ(現在)」/「けむ(過去)」が、派生的に「自分としては確認していないが、他者から聞いた話によれば・・・だとのことだ」の形で「伝聞情報」の形で物事を述べる語法。連体形「らむ+名詞/けむ+名詞」の形で用いられる場合が多く、「・・・とかいうA」あたりの他人行儀な訳し方で事足りることが多い。
*英訳=「the supposedly ... A」/「what they call A」/「the so-called A」/「A, which is said to ...」/「A, as X says is ...」/etc, etc.
*この語法は、「このAというのは、私が言うのではなく、世間がそう言うのだ」という断定回避のために用いられるほか、「私自身としては、このAというやつの信憑性を疑わしく思うのだけれどね」という否定的見解の含みを帯びる場合もある。このあたり、英語の「supposed[ly]」や「so-called」の響きに通じるものがある。
*この語法は、「けむ」については死語となったが、「らむ」の方は室町時代以降の語形「らう」から転じた「・・・(だ)ろう」として現代日本語にも残っている(例:「肩書きからすればさぞや高いのであ<ろう>その知性水準が、この文面からはまるで伝わってこない」)。
◆【らむ】〔助動ラ四型〕(6)(婉曲)(連体形で)確信のある事柄について、敢えて断定せずに遠回しに言う。・・・であろうその~。 ・・・ているような~。 *接続=終止形(ラ変のみ連体形)。
*現在推量助動詞「らむ」を、推量ではなく、断定回避のやんわり口調を演出するためだけに用いた「婉曲」語法で、連体形で用いる。現代語訳は敢えてせずともよい。
*英訳=「should ... (subjunctive past)」/etc, etc.
*英語の「仮定法過去」の婉曲語法にあたる語法。古語では助動詞「む」にほぼ等しい婉曲の「らむ」であるが、現代日本語「ろう」にはこの感じが引き継がれているとは言い難い;が、一応それらしい例文を挙げておく:「このやり方で半年間勉強したとした場合に到達する<であろう>その成果は、他のやり方で同じ時間・金銭・労力を投じた場合と、どれぐらいの差があるものだろうか?」・・・この現代日本語「であろう」の問題点は、「・・・になるであろう」としてその成立を前提とする響きがある点にある。古語の「らむ」や「む」にはその種の「・・・になるであろう」という響きはないのである。例えば、次の和歌でその感じを確認されたし:
「長から<む>心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ」(待賢門院堀河:1143頃:『千載集』恋三・八〇三)
ゆうべはあんなにも激しく愛し合った私たち・・・でも、こんな燃える思いが、長続きするのかしら・・・遠い先のことはわからないけれど、乱れ髪もそのままに、ゆうべの愛の余韻に身を任せている今朝の私の心は、あなたへの想いに、こうして乱れ続けているのです。
*「長から<む>心」は「今後とも長く私を愛し続けてくれる<であろう>あなたの心」ではない;恋人の愛情が永続するかどうかがわからないからこそ「長からむ心も知らず」と溜息ついている彼女なのだから、この「む」は「婉曲=仮に・・・するとした場合の、その・・・」であって「未来推量=きっと・・・であろう」ではない。こうした「む」・「らむ」の含みは古典時代特有の語法であり、現代日本語で「・・・ろう」としてもその感じは出せないのである。
■__さす【さす】『接続:{四段&ナ変&ラ変以外の未然形}』〔助動サ下二型〕{させ・させ・さす・さする・さすれ・させよ} (1)〈(使役)他の人物や物事に、何らかの動作を取らせたり事態の発生を促したりする意を表わす。〉・・・させる。 (2)〈(尊敬)(下に尊敬語「たまふ」・「おはします」・「まします」・「らる」を伴って)その動作を取る人物に対する尊敬の意を強める。〉・・・なさる。・・・あそばす。お・・・になる。・・・ていらっしゃる。 (3)〈(受身)(中世以降の軍記物で)実質的には受身の事態を、相手にやられたのではなく、相手がそうするのを許してやった、という言い方で表現する。〉・・・される。敵が自分を・・・するのを許す。 (4)〈(謙譲)(平安中期以降)(主に会話文中で)(「ご覧ぜさす」・「聞こえさす」の形で)相手に対する自らの行動を一段低いものとしてへりくだって言う。〉お目にかける。お耳に入れる。ご覧いただく。見ていただく。お聞かせする。申し上げる。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【さす】〔助動サ下二型〕(1)(使役)他の人物や物事に、何らかの動作を取らせたり事態の発生を促したりする意を表わす。・・・させる。 *接続=四段・ナ変・ラ変以外の未然形。
*「す/さす」(四段・ナ変・ラ変には「さす」/それ以外には「す」を用いる)の最も根本的な「(自分以外の他者・物事に、自分に代わって)・・・させる」の「使役」の語義。現代日本語にも「大学・会社・役職の格をもって自身の拙き知性・能力・人格に代替<させる>」というような形で残っている。
*英訳=「make A ...」 /「have A ...」/「get A to ...」/「order A to ...」/etc, etc.
-なぜ「す」・「さす」には「使役」と同時に「尊敬」の意があるのか-
*「自分では事を為さず、他者を介して事が成る」のを尊ぶのが古典時代の貴人の美意識であったため、「使役=他者に・・・させる」の「す/さす」が「貴人にふさわしい行動様態=尊敬」の意を表わすようになったのである・・・が、それと同時に「使役」の語義をも相変わらず有していた「す/さす」だけに、文脈に応じて「使役」と解釈したり「尊敬」で訳したりと、読み手としては非常に困るのが古語の「す/さす」による敬語表現である。
-現代語「させる」は古語では「為+さす」-
*現代日本語では、「尊敬」はもっぱら「・・・れる/られる」の役割であって、「す/さす」の末裔の「・・・せる/させる」は専ら「使役」の意味を表わすのみである。注意すべきは、現代の使役表現「させる」は一語扱いだが、古語の場合はあくまで「せ(為)+さす」の連語扱い、という点。
*古語で「させる」に出くわしたらそれは「使役」ではなく、「然+為る(+事)」の形で「たいした事」の意味であり、多く否定形で「たいしたこともない」の意を表わす全くの別表現となる・・・現代文語では「さしたること(もない)=然+為たる+事(も無し)」がこれにあたる。
-「尊敬」助動詞にみる作為性・自然発露性の違い-
*「尊敬」を表わす古典助動詞には、「す/さす」以外にも「る/らる」がある。この語が「尊敬」の意を表わすのは、「自分が意識的に事を為そうとせずとも、周りの者達があれこれ手を回して、気付けば自然と・・・になっている」という、これまた「為す、より、成る」を尊ぶ「貴人意識の非主体性」が生んだ現象である。
*現代日本語で「使役」由来の「す/さす」ではなく「自発」由来の「る/らる」を敬語に宛がうのは、「す/さす」が持つ「他者をアゴでこき使う感じ」が嫌われたからかもしれない・・・が、「る/らる」が感じさせる「自分であくせくガツガツ動かずとも、周りが根回しして事が成る」のを「理想的」とみなす意識が現代日本人にまで引き継がれているとすれば・・・「個人的努力&営為」を「集団全体としての功績」にすり替えた末に「集団内で一番偉い人の手柄」と化してしまう日本型組織への嫌気から、数多の優れた個人的才能がこの国を捨てて諸外国(主に欧米だが)へと活躍の場を求めている現実に照らし合わせて、日本国&日本人のありようについて、じっくり考えてみる契機になる話ではあるまいか?
◆【さす】〔助動サ下二型〕(2)(尊敬)(下に尊敬語「たまふ」・「おはします」・「まします」・「らる」を伴って)その動作を取る人物に対する尊敬の意を強める。・・・なさる。 ・・・あそばす。お・・・になる。・・・ていらっしゃる。 *接続=四段・ナ変・ラ変以外の未然形。
*助動詞「す(←四段・ナ変・ラ変に接続・・・それ以外の動詞には→)さす」が「尊敬」の意を表わす語法だが、「す/さす」が単独で尊敬語となるわけではない:つまり「動詞+る/らる」のような自然な感じで動作主に敬意を添える表現ではない。現代日本語の「す/さす」には「敬語」の用法はもはやなく、「使役」のみである。
*英訳=no equivalent in English・・・日本語の「敬語」のような「構造的上下差別表現」は英語世界には存在しない(敢えて言えば「deign to ...」のような大袈裟・滑稽表現がある、とも言えるが、本源的に全く異質である)。
-「す/さす」=「尊敬助動詞」というよりも、「せ/させ+給ふ(orおはします)」の最高敬語表現として把握すべし-
*本来は使役の意味を表わす「す/さす」が尊敬の意を表わすのは、「自ら事を為すのではなく、他者を介して事を為さしむる」のを尊んだ貴人の行動様態ゆえのことである。大昔の日本の朝廷の様子を描いた劇中で、「帝」が直接他者と口を聞いている場面が滅多にない点を思い浮かべるとよい:「高貴な人物は、他者と直接口をきくことすらもはばかる」のであり、中間に然るべき仲介者(・・・烏帽子かぶったまろ眉毛で語尾は「おじゃる」で丸める御公家さん)を挟まないことには対話もままならぬ存在なのである。こうした徹底的な「間接性」・「非主体性」・「他者介在性」の尊重が、「為(す)=自分で行なう」 < 「為(せ)+さす=他人にやらせる」の貴人心理を生じたのであるが、その極めて顕著な言語学的表出例が「せ/させ+たまふ」or「せ/させ+おはします」なる二重敬語表現である。本来の意味は当然「使役+尊敬」なのだが、「使役=貴人の行動様態」の図式が、これら「せたまふ・させたまふ・せおはします・させおはします」を1語の尊敬語(=敬意の二重化)として確立するに至ったのが、日本の中古という時代なのだ。実に作為性の強い表現なので、これを用いる対象は「天皇・皇后らの皇族関係者」あたりの高貴な御仁のみであって、一般人相手には(少なくとも物語文中では)用いられない「雲の上の表現」であった・・・もっとも、現代受験生が相手にする『源氏物語』や『枕草子』にはそうした皇族関係者が当たり前のように登場するので、あたかも「平安時代の日常語」の感さえ催させるのが受験古文の恐ろしいところである。その上、所謂「消息文(=手紙など)」の中では平然と「地下人(ぢげびと=天皇のお住まいみたいな雲の上の存在ではない平民)」に対しても用いられていた、というのだから、こうなるともう何のための二重敬語かわからない感じである・・・実質的敬服を伴わぬ「口先だけの敬意」に過ぎぬから、こうしてどんどん上滑りを演じてしまうわけだ・・・冷徹な評論家風に言い捨てるなら、「今も昔も日本語の敬語なるものがいかに形骸化された虚飾言辞に過ぎぬかを示す唾棄すべき例の一つ」ということになろう。
-「す/さす」の単独使用=使役と割り切るべし-
*そうした訳で、尊敬の意の「す/さす」に関しては、いかにも大がかりな「せたまふ・させたまふ・せおはします・させおはします」だけを「皇族関係を敬うための最高敬語」(除 手紙文)として定型句扱いで覚えておけばよく、これ以外の表現の中で用いられた「・・・+す/さす」は、「・・・させる」の使役の意味になるもの(非敬語)と思ってほぼ100%間違いない。
*唯一困る場合が、「せたまふ・させたまふ・せおはします・させおはします」が「最高敬語」ではなく、使役+敬意の「・・・させる+敬語=・・・させなさる、お・・・させになる」になる場合である。脈絡次第で(=上位者の意を受けて行動する目下の存在が探知できた場合には)「・・・する・・・ようにし向ける・・・ことを行ないなさる」の意味になるので要注意なのだが・・・その判別は往々にして困難である。が、まぁ入試問題(の中でも性格の悪い出題者が出していると覚しきヤツ)で敢えて狙われているようならば「二重敬語・・・に見えて実は使役+敬語」の引っかけ問題である確率が高まるかな、ぐらいの心得でいればよいだろう。
◆【さす】〔助動サ下二型〕(3)(受身)(中世以降の軍記物で)実質的には受身の事態を、相手にやられたのではなく、相手がそうするのを許してやった、という言い方で表現する。・・・される。 敵が自分を・・・するのを許す。 *接続=四段・ナ変・ラ変の未然形。
*使役の助動詞「す(←四段・ナ変・ラ変に付く・・・それ以外の動詞に付く→)さす」が、「受身」の意を表わす特殊な用法。現代日本語に残っているか、と言えば、「打たせ湯=滝壺の下のような場所に身を置いて、落ちてくるお湯に身体を'打たれる'というか'打たせる'という感じでマッサージ効果をもたせた温水浴」のような表現がそれ、と言えるかもしれない。なんにせよ現代日本人には違和感のある表現だが、英語慣れした人間には「使役動詞のhaveが受動態を形成する用法と同じ」と言えばすんなり理解できる語法である。
*英訳=「have A ...ed」
-好んで「・・・される」ではなく、「・・・になる・・・という状況を持つ」の消極的受動態-
*理解しやすいようにまず現代英語の類例で考えよう:
英文1)(S)He (V)had (O)his legs (C)broken while skiing.
和文1)(S)彼は<(O)両脚が(C)スキー中に折れてしまうという状況>を(V)持った。
・・・「彼」が極度の被虐性淫乱症(ドM)か、保険金目当ての狂言を演じてでもいない限りは、<両脚がスキー中に折れる状況>を好きこのんで持とうとは思うまいから、この表現は「望ましくない事態が身の上に降りかかる」という「被害」の含意を持つ。それでも、使われている構文そのものは「S+have...」だから、構造的には「能動態の使役表現」の一環としてこの「受動的表現」が成立している点が、中級程度の日本人英語学習者には難解なものとして立ちはだかる「英語実力判定の試金石」がこの「S+have+O+...edによる被害者的受身表現」なのである。
*それでも上の「SVOC」構文では「O-C」部が「OがCされる(his legsがbreakされる=物理的圧力により骨折させられる)」という受動関係を表わしているので、まだしも「受動態っぽい」感じはあるだろう。が、次の表現では「O-C」部に至るまで「能動:OがCする」である:
英文2)(S)He (V)had (O)his wife (C)die of cancer.
和文2)(S)彼は<(O)妻が(C)ガンで死んでしまうという悲劇>に(V)見舞われた。
・・・昨今の日本では、保険金目当てで<配偶者が死ぬという状況>を意図的に作り出す金銭亡者も増えてきたが、普通に考えればこの<妻が死ぬ状況>は彼にとっては「悲劇」であろう(中毒症や事故と違って、「癌細胞」は - 少なくとも2010年の医学では - 偽装殺人の道具として自在に使いこなせる代物ではない)。こういうわけで、「O-C:his wife - die」の部分は「彼の妻が<死ぬ>」よりも「彼の妻に<死なれてしまう>」と訳すほうが、この英文の「S+have+O-C」構文の感覚としてはより正しいものとなる。
*これと全く同じと言ってよい表現が、日本の古典時代に於ける使役助動詞「す/さす」による「・・・される」の(能動態による)受動表現である:
古文)「源氏の家の子ほとほと討たせたり」
英文)「(S)The Genji family (V)had (O)most of their members (C)exterminated.」
・・・<源氏の一族郎党の殆どが討伐される>という状況を<持った>のがライバルの<平家>だとすれば、「邪魔な源氏勢力はほぼ皆殺しに<してやった>」の感覚の積極的使役表現となる;が、この状況を<源氏一族>の立場から見れば「ほぼ皆殺しに<された>」という被害者意識の受動表現となる。上述の現代英語感覚ではそれですんなり通る語法だが、日本の古文業界ではこれを「<他者にやられた>という弱々しい受動表現を嫌って、<他者にやらせてやった>と強がりを言っている表現」として説明する場合が多い。
*この語法が多く見られるようになるのは中古末期以降であるから、「軍記物」の中で「武人が敵にやられる」記述が多い。その事実を思い起こす上でも、この「武家の強がり説(やられた、のではない:やらせてやった、のだ)」はそれなりに便利で面白い解釈として覚えておくに値するが、訳し方はいずれにせよ「・・・させる」の<使役>ではなく「・・・される」の<受身>である。
◆【さす】〔助動サ下二型〕(4)(謙譲)(平安中期以降)(主に会話文中で)(「ご覧ぜさす」・「聞こえさす」の形で)相手に対する自らの行動を一段低いものとしてへりくだって言う。お目にかける。お耳に入れる。 ご覧いただく。見ていただく。お聞かせする。申し上げる。 *接続=四段・ナ変・ラ変以外の未然形。
*「す(←四段・ナ変・ラ変・・・それ以外の動詞には→)さす」が「謙譲」の意を表わす語法だが、単独の「す/さす」にこの語法があるわけではない。「聞こえさす」・「御覧ぜさす」/「申さす」・「参らす」・「奉らす」といった「言上・参上・献上」系の「へりくだり動詞」と組み合わさった定型句に於いて、相手に直接「言う/会う/手渡す」のではなく、中間に第三者や各種の手続きを介在させつつ相手の「耳に入るようにしてもらう/会えるようにしてもらう/入手されるようにしてもらう」という持って回った行動様態に持ち込むことで、「発言/会見/提出」の対象となる相手への遠慮・謙譲の気持ちを表わすものとしたもの。後述するように文法的には破格の表現なので、その分「熟語的棒暗記」が大事になる語句である。
*英訳=「have A heard/known/given to B」/「have the pleasure of talking/meeting with A」/etc, etc.
-いかにも日本語らしい「主体」すり替わり語法-
*古語の「す/さす」が「尊敬」の意を表わしたのは、その原義たる「使役」の「他者を介して・・・させる」の雰囲気が、「自分自身で事を<為す>よりも、他者を介して・・・状態に<成る>ことを好む」という貴人の行動様態に相応しかったからこそ、である。従って、「他者を動かして・・・させる」のは当然「目上=偉い人」であって、「目下=かしこまる側の人」ではない・・・はずなのだが、上記の「聞こえさす」/「申さす」/「参らす」/「奉らす」の謙譲表現に於いては、この論理が無視されて「目下=かしこまる側の人」が「目上=偉い人・・・につながる誰か中間介在者を動かして・・・聞こえるようにさせる/話が通るようにさせる/参上許可させる/献上品が届くようにさせる」となってしまっている。つまり、文法的に言ってナンセンスな表現なのである。
*これは、日本語というものが古来「見た目で何となく・・・な感じ」へといかに安易に流れる性質を持つ言語であるかを示す(数ある事例の中の)一例である。「す/さす」が「使役→尊敬」となる根源的論理性など理解せぬままの単なる皮相的観察のみに依拠して、「エラい人の話法では、す/さす、が常態化している」という上っ面の現象面のみに引きずられて、「だから自分も、偉い人に対しては、聞こゆ/申す/参る/奉る、などと普通の言い方はしないで、す/さす、を付けた上で(・・・本当は、これを付けると<自分=偉い人>になってしまうのに)、聞こえさす/申さす/参らす/奉らす、としておくべきだ」という錯覚から生じた非論理的語法(or誤法)でしかないのである。「御覧ぜさす」に関してのみは辛うじて「敬われる貴人側が主役」の感覚があるものの、それも所詮は偶発的現象であって、本質的には「偉い人が主体になる場合」にのみ付けるべき「す/さす」を、「偉い人が客体となる場合」にまで何も考えずに付けてしまった、というだけの御粗末話法でしかないのだ・・・こうした類例はまだまだ他にもある。
-本来あり得ない「敬語」としての「申す」-
*時代劇を見たことのない日本人でも、サムライことばとしての「申す」の乱発ぐらいは耳にしたことがあるだろう。あれもやはり「謙譲=自分は相手よりも目下だから、相手を上目遣いに見上げる形で発言する=申し上げる、言わせていただく、かしこまってもの申す」であったものが、「尊敬=なんか知らんけど、かしこまった場面だから、'言ふ'じゃまずいだろ・・・なんだっけか、あ、そうだ'申す'とか言っとけばとりあえず問題ないだろう」へと安直に流れた「まちがい敬語」の最たるものであって、「我が殿が'申し'ますには」などは本来あり得ない「家臣が主君を貶める侮蔑発言」なのである。
*平安時代までの「申す」が「謙譲(='申す'主語を殊更に低い立場へ追いやること)」以外に横滑りするとしてもそれは「丁寧(='言ふ'と言う場合よりもやんわりていねいな語感を演出すること)」止まりであって、「尊敬(='申す'主語を)殊更に高い立場へ持ち上げること」には用いられる道理もない。
*そして「ていねい'申す'」の主語が「低くおとしめても構わない存在(=自分自身・一般大衆)」以外の「偉い人(=自分の主君)」へと横滑りすることもあり得なかったことは言うまでもない・・・つまるところ、「間違っても卑下してはならぬ目上の人」を、「丁寧話法演出過程で、間違っておとしめてしまった」言い回しが「時代劇的'申す'」なのであって、平安文法にこの種の愚かな横滑り語法が見られぬことは言を俟たない。
*誰がこの「インチキまうす」を発明したのかは筆者の知るところではない。言語学的素養の低い現代日本の脚本家かもしれないし、言語も行動様態も万事が形式化・形骸化の一途を辿った封建時代のお江戸の武家連中が「見よう見まねの御公家言葉」としてデッチ上げた代物かもしれない・・・・はっきりしていることは、「平安時代人がこんなマウス使うわけがない」ということのみ・・・何にせよ、御粗末な展開ではあるが、いかにも「日本語らしいていたらく」とは言えるであろう。
*こうした「現象面の上っ面で踊る非論理ダンス」が、今も昔も日本語(日本人)には、引きも切らさないのである・・・嫌~な話であろう?こうした「なんちゃって話法」が平然とはびこる中で成り立っているのが自分達の言語生活だ、などと聞かされれば、日本人はみんなイヤ~な気分になって顔を背けたがるであろう?・・・が、語学とは、こうした「知りたくもない事実」を冷然と眼前に突き付けられることで、自らの現状の醜悪さを悟り、理想状態としてあるべき姿を模索することを否応もなく考えさせる厳しい学問なのである。「他山の石」や「反面教師」の連続の中で、「どうだ、お前はこんなにも愚かなのだぞ。いいのか、そんなにバカなままで?」と迫ってくるのが(本式の)語学である:実に寛容の精神に乏しい美学教師なのである・・・それでもメゲずに己の意識を磨けば、どれほど(知的に)錬磨された美に到達できるか、この『扶桑語り』を通してやり遂げれば、諸君は既に体感していることになろう・・・それと同時に、醜悪なる現実から目を背け続けているが故にますます醜く愚かに成り下がって行く同胞たち(といっても地政学上の、であって知性上の、ではないが)の現実の姿に、溜息をつかされる場面がいかに多いかをも、実感させられることになるであろう。
*最近流行の例を更にもひとつ引けば、ファーストフードの店員連中の間から広まったとおぼしき「・・・でよろしかったでしょうか?」なるヘンテコ過去時制話法もまた、「反面教師」とすべき上っ面ダンスである。英語の仮定法の本質を全く理解もできぬ語学音痴の日本人の誰かが<「Would this be all right with you?」の表現は「Is this all right with you?」よりも丁寧な言い方になる>という英文法の表層で上滑りした挙げ句の果てに生まれた「これで<よろしい>でしょうか?→これで<よろしかった>でしょうか?」の福笑い的目鼻ずらし和語である・・・が、こんな代物が冗談じゃなく本気で広まってしまうのも、日本人というものがいかに論理性(文法であれ、それ以外の世界に於いてであれ)に疎い生活(言語学的にであれ、社会的にであれ)を平然と(今も、昔も)送っているものであるかを、如実に示すものであろう・・・皆がそうして阿呆踊りを踊り出せば、踊らずじっとしている方が奇人変人に見えてくるのが言語というもののオソろしいところである。が、もっと恐ろしいのは、「言葉の世界で愚かな者が、その他の世界で賢かった例はない」という万古不変の事実のほう・・・周囲の日本人の上滑りに付き合って浮き上がらずに(=自らも上滑りして)過ごすか、相対的孤立を恐れずに自らは動じず孤高の道を歩むか・・・悩むところではあるが、少なくとも受験生としての栄達を望みつつ学ぶ過程に於いては、諸君の選択すべき道は、一つしかあるまい?
■__す【す】『接続:{四段&ナ変&ラ変の未然形}』〔助動サ下二型〕{せ・せ・す・する・すれ・せよ} (1)〈(使役)他の人物や物事に、何らかの動作を取らせたり事態の発生を促したりする意を表わす。〉・・・させる。 (2)〈(尊敬)(下に「給ふ」などの尊敬語を伴って)その動作をする人物に対する敬意を強調する。〉お・・・になる。・・・あそばす。・・・なさる。・・・れる。 (3)〈(受身)(中世以降の軍記物で)実質的には受身の事態を、相手にやられたのではなく、相手がそうするのを許してやった、という言い方で表現する。〉・・・される。敵が自分を・・・するのを許す。 (4)〈(謙譲)(平安中期以降)(主に会話文中で)(「申さす」・「参らす」・「奉らす」の形で)相手に対する自らの行動を一段低いものとしてへりくだって言う。〉申し上げる。参上する。献上する。お話しする。上がる。差し上げる。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【す】〔助動サ下二型〕(1)(使役)他の人物や物事に、何らかの動作を取らせたり事態の発生を促したりする意を表わす。・・・させる。 *接続=四段・ナ変・ラ変の未然形。
*「す/さす」(四段・ナ変・ラ変には「さす」/それ以外には「す」を用いる)の最も根本的な「(自分以外の他者・物事に、自分に代わって)・・・させる」の「使役」の語義。
*英訳=「make A ...」 /「have A ...」/「get A to ...」/「order A to ...」/etc, etc.
-なぜ「す」・「さす」には「使役」と同時に「尊敬」の意があるのか-
*「自分では事を為さず、他者を介して事が成る」のを尊ぶのが古典時代の貴人の美意識であったため、「使役=他者に・・・させる」の「す/さす」が「貴人にふさわしい行動様態=尊敬」の意を表わすようになったのである・・・が、それと同時に「使役」の語義をも相変わらず有していた「す/さす」だけに、文脈に応じて「使役」と解釈したり「尊敬」で訳したりと、読み手としては非常に困るのが古語の「す/さす」による敬語表現である。
-現代語「させる」は古語では「為+さす」-
*現代日本語では、「尊敬」はもっぱら「・・・れる/られる」の役割であって、「す/さす」の末裔の「・・・せる/させる」は専ら「使役」の意味を表わすのみである。注意すべきは、現代の使役表現「させる」は一語扱いだが、古語の場合はあくまで「せ(為)+さす」の連語扱い、という点。
*古語で「させる」に出くわしたらそれは「使役」ではなく、「然+為る(+事)」の形で「たいした事」の意味であり、多く否定形で「たいしたこともない」の意を表わす全くの別表現となる・・・現代文語では「さしたること(もない)=然+為たる+事(も無し)」がこれにあたる。
-「尊敬」助動詞にみる作為性・自然発露性の違い-
*「尊敬」を表わす古典助動詞には、「す/さす」以外にも「る/らる」がある。この語が「尊敬」の意を表わすのは、「自分が意識的に事を為そうとせずとも、周りの者達があれこれ手を回して、気付けば自然と・・・になっている」という、これまた「為す、より、成る」を尊ぶ「貴人意識の非主体性」が生んだ現象である。
*現代日本語で「使役」由来の「す/さす」ではなく「自発」由来の「る/らる」を敬語に宛がうのは、「す/さす」が持つ「他者をアゴでこき使う感じ」が嫌われたからかもしれない・・・が、「る/らる」が感じさせる「自分であくせくガツガツ動かずとも、周りが根回しして事が成る」のを「理想的」とみなす意識が現代日本人にまで引き継がれているとすれば・・・「個人的努力&営為」を「集団全体としての功績」にすり替えた末に「集団内で一番偉い人の手柄」と化してしまう日本型組織への嫌気から、数多の優れた個人的才能がこの国を捨てて諸外国(主に欧米だが)へと活躍の場を求めている現実に照らし合わせて、日本国&日本人のありようについて、じっくり考えてみる契機になる話ではあるまいか?
◆【す】〔助動サ下二型〕(2)(尊敬)(下に「給ふ」などの尊敬語を伴って)その動作をする人物に対する敬意を強調する。お・・・になる。 ・・・あそばす。・・・なさる。・・・れる。 *接続=四段・ナ変・ラ変以外の未然形。
*助動詞「す(←四段・ナ変・ラ変に接続・・・それ以外の動詞には→)さす」が「尊敬」の意を表わす語法だが、「す/さす」が単独で尊敬語となるわけではない:つまり「動詞+る/らる」のような自然な感じで動作主に敬意を添える表現ではない。現代日本語の「す/さす」には「敬語」の用法はもはやなく、「使役」のみである。
*英訳=no equivalent in English・・・日本語の「敬語」のような「構造的上下差別表現」は英語世界には存在しない(敢えて言えば「deign to ...」のような大袈裟・滑稽表現がある、とも言えるが、本源的に全く異質である)。
-「す/さす」=「尊敬助動詞」というよりも、「せ/させ+給ふ(orおはします)」の最高敬語表現として把握すべし-
*本来は使役の意味を表わす「す/さす」が尊敬の意を表わすのは、「自ら事を為すのではなく、他者を介して事を為さしむる」のを尊んだ貴人の行動様態ゆえのことである。大昔の日本の朝廷の様子を描いた劇中で、「帝」が直接他者と口を聞いている場面が滅多にない点を思い浮かべるとよい:「高貴な人物は、他者と直接口をきくことすらもはばかる」のであり、中間に然るべき仲介者(・・・烏帽子かぶったまろ眉毛で語尾は「おじゃる」で丸める御公家さん)を挟まないことには対話もままならぬ存在なのである。こうした徹底的な「間接性」・「非主体性」・「他者介在性」の尊重が、「為(す)=自分で行なう」 < 「為(せ)+さす=他人にやらせる」の貴人心理を生じたのであるが、その極めて顕著な言語学的表出例が「せ/させ+たまふ」or「せ/させ+おはします」なる二重敬語表現である。本来の意味は当然「使役+尊敬」なのだが、「使役=貴人の行動様態」の図式が、これら「せたまふ・させたまふ・せおはします・させおはします」を1語の尊敬語(=敬意の二重化)として確立するに至ったのが、日本の中古という時代なのだ。実に作為性の強い表現なので、これを用いる対象は「天皇・皇后らの皇族関係者」あたりの高貴な御仁のみであって、一般人相手には(少なくとも物語文中では)用いられない「雲の上の表現」であった・・・もっとも、現代受験生が相手にする『源氏物語』や『枕草子』にはそうした皇族関係者が当たり前のように登場するので、あたかも「平安時代の日常語」の感さえ催させるのが受験古文の恐ろしいところである。その上、所謂「消息文(=手紙など)」の中では平然と「地下人(ぢげびと=天皇のお住まいみたいな雲の上の存在ではない平民)」に対しても用いられていた、というのだから、こうなるともう何のための二重敬語かわからない感じである・・・実質的敬服を伴わぬ「口先だけの敬意」に過ぎぬから、こうしてどんどん上滑りを演じてしまうわけだ・・・冷徹な評論家風に言い捨てるなら、「今も昔も日本語の敬語なるものがいかに形骸化された虚飾言辞に過ぎぬかを示す唾棄すべき例の一つ」ということになろう。
-「す/さす」の単独使用=使役と割り切るべし-
*そうした訳で、尊敬の意の「す/さす」に関しては、いかにも大がかりな「せたまふ・させたまふ・せおはします・させおはします」だけを「皇族関係を敬うための最高敬語」(除 手紙文)として定型句扱いで覚えておけばよく、これ以外の表現の中で用いられた「・・・+す/さす」は、「・・・させる」の使役の意味になるもの(非敬語)と思ってほぼ100%間違いない。
*唯一困る場合が、「せたまふ・させたまふ・せおはします・させおはします」が「最高敬語」ではなく、使役+敬意の「・・・させる+敬語=・・・させなさる、お・・・させになる」になる場合である。脈絡次第で(=上位者の意を受けて行動する目下の存在が探知できた場合には)「・・・する・・・ようにし向ける・・・ことを行ないなさる」の意味になるので要注意なのだが・・・その判別は往々にして困難である。が、まぁ入試問題(の中でも性格の悪い出題者が出していると覚しきヤツ)で敢えて狙われているようならば「二重敬語・・・に見えて実は使役+敬語」の引っかけ問題である確率が高まるかな、ぐらいの心得でいればよいだろう。
◆【す】〔助動サ下二型〕(3)(受身)(中世以降の軍記物で)実質的には受身の事態を、相手にやられたのではなく、相手がそうするのを許してやった、という言い方で表現する。・・・される。 敵が自分を・・・するのを許す。 *接続=四段・ナ変・ラ変の未然形。
*使役の助動詞「す(←四段・ナ変・ラ変に付く・・・それ以外の動詞に付く→)さす」が、「受身」の意を表わす特殊な用法。現代日本語に残っているか、と言えば、「打たせ湯=滝壺の下のような場所に身を置いて、落ちてくるお湯に身体を'打たれる'というか'打たせる'という感じでマッサージ効果をもたせた温水浴」のような表現がそれ、と言えるかもしれない。なんにせよ現代日本人には違和感のある表現だが、英語慣れした人間には「使役動詞のhaveが受動態を形成する用法と同じ」と言えばすんなり理解できる語法である。
*英訳=「have A ...ed」
-好んで「・・・される」ではなく、「・・・になる・・・という状況を持つ」の消極的受動態-
*理解しやすいようにまず現代英語の類例で考えよう:
英文1)(S)He (V)had (O)his legs (C)broken while skiing.
和文1)(S)彼は<(O)両脚が(C)スキー中に折れてしまうという状況>を(V)持った。
・・・「彼」が極度の被虐性淫乱症(ドM)か、保険金目当ての狂言を演じてでもいない限りは、<両脚がスキー中に折れる状況>を好きこのんで持とうとは思うまいから、この表現は「望ましくない事態が身の上に降りかかる」という「被害」の含意を持つ。それでも、使われている構文そのものは「S+have...」だから、構造的には「能動態の使役表現」の一環としてこの「受動的表現」が成立している点が、中級程度の日本人英語学習者には難解なものとして立ちはだかる「英語実力判定の試金石」がこの「S+have+O+...edによる被害者的受身表現」なのである。
*それでも上の「SVOC」構文では「O-C」部が「OがCされる(his legsがbreakされる=物理的圧力により骨折させられる)」という受動関係を表わしているので、まだしも「受動態っぽい」感じはあるだろう。が、次の表現では「O-C」部に至るまで「能動:OがCする」である:
英文2)(S)He (V)had (O)his wife (C)die of cancer.
和文2)(S)彼は<(O)妻が(C)ガンで死んでしまうという悲劇>に(V)見舞われた。
・・・昨今の日本では、保険金目当てで<配偶者が死ぬという状況>を意図的に作り出す金銭亡者も増えてきたが、普通に考えればこの<妻が死ぬ状況>は彼にとっては「悲劇」であろう(中毒症や事故と違って、「癌細胞」は - 少なくとも2010年の医学では - 偽装殺人の道具として自在に使いこなせる代物ではない)。こういうわけで、「O-C:his wife - die」の部分は「彼の妻が<死ぬ>」よりも「彼の妻に<死なれてしまう>」と訳すほうが、この英文の「S+have+O-C」構文の感覚としてはより正しいものとなる。
*これと全く同じと言ってよい表現が、日本の古典時代に於ける使役助動詞「す/さす」による「・・・される」の(能動態による)受動表現である:
古文)「源氏の家の子ほとほと討たせたり」
英文)「(S)The Genji family (V)had (O)most of their members (C)exterminated.」
・・・<源氏の一族郎党の殆どが討伐される>という状況を<持った>のがライバルの<平家>だとすれば、「邪魔な源氏勢力はほぼ皆殺しに<してやった>」の感覚の積極的使役表現となる;が、この状況を<源氏一族>の立場から見れば「ほぼ皆殺しに<された>」という被害者意識の受動表現となる。上述の現代英語感覚ではそれですんなり通る語法だが、日本の古文業界ではこれを「<他者にやられた>という弱々しい受動表現を嫌って、<他者にやらせてやった>と強がりを言っている表現」として説明する場合が多い。
*この語法が多く見られるようになるのは中古末期以降であるから、「軍記物」の中で「武人が敵にやられる」記述が多い。その事実を思い起こす上でも、この「武家の強がり説(やられた、のではない:やらせてやった、のだ)」はそれなりに便利で面白い解釈として覚えておくに値するが、訳し方はいずれにせよ「・・・させる」の<使役>ではなく「・・・される」の<受身>である。
◆【す】〔助動サ下二型〕(4)(謙譲)(平安中期以降)(主に会話文中で)(「申さす」・「参らす」・「奉らす」の形で)相手に対する自らの行動を一段低いものとしてへりくだって言う。申し上げる。参上する。献上する。 お話しする。上がる。差し上げる。 *接続=四段・ナ変・ラ変以外の未然形。
*「す(←四段・ナ変・ラ変・・・それ以外の動詞には→)さす」が「謙譲」の意を表わす語法だが、単独の「す/さす」にこの語法があるわけではない。「聞こえさす」・「御覧ぜさす」/「申さす」・「参らす」・「奉らす」といった「言上・参上・献上」系の「へりくだり動詞」と組み合わさった定型句に於いて、相手に直接「言う/会う/手渡す」のではなく、中間に第三者や各種の手続きを介在させつつ相手の「耳に入るようにしてもらう/会えるようにしてもらう/入手されるようにしてもらう」という持って回った行動様態に持ち込むことで、「発言/会見/提出」の対象となる相手への遠慮・謙譲の気持ちを表わすものとしたもの。後述するように文法的には破格の表現なので、その分「熟語的棒暗記」が大事になる語句である。
*英訳=「have A heard/known/given to B」/「have the pleasure of talking/meeting with A」/etc, etc.
-いかにも日本語らしい「主体」すり替わり語法-
*古語の「す/さす」が「尊敬」の意を表わしたのは、その原義たる「使役」の「他者を介して・・・させる」の雰囲気が、「自分自身で事を<為す>よりも、他者を介して・・・状態に<成る>ことを好む」という貴人の行動様態に相応しかったからこそ、である。従って、「他者を動かして・・・させる」のは当然「目上=偉い人」であって、「目下=かしこまる側の人」ではない・・・はずなのだが、上記の「聞こえさす」/「申さす」/「参らす」/「奉らす」の謙譲表現に於いては、この論理が無視されて「目下=かしこまる側の人」が「目上=偉い人・・・につながる誰か中間介在者を動かして・・・聞こえるようにさせる/話が通るようにさせる/参上許可させる/献上品が届くようにさせる」となってしまっている。つまり、文法的に言ってナンセンスな表現なのである。
*これは、日本語というものが古来「見た目で何となく・・・な感じ」へといかに安易に流れる性質を持つ言語であるかを示す(数ある事例の中の)一例である。「す/さす」が「使役→尊敬」となる根源的論理性など理解せぬままの単なる皮相的観察のみに依拠して、「エラい人の話法では、す/さす、が常態化している」という上っ面の現象面のみに引きずられて、「だから自分も、偉い人に対しては、聞こゆ/申す/参る/奉る、などと普通の言い方はしないで、す/さす、を付けた上で(・・・本当は、これを付けると<自分=偉い人>になってしまうのに)、聞こえさす/申さす/参らす/奉らす、としておくべきだ」という錯覚から生じた非論理的語法(or誤法)でしかないのである。「御覧ぜさす」に関してのみは辛うじて「敬われる貴人側が主役」の感覚があるものの、それも所詮は偶発的現象であって、本質的には「偉い人が主体になる場合」にのみ付けるべき「す/さす」を、「偉い人が客体となる場合」にまで何も考えずに付けてしまった、というだけの御粗末話法でしかないのだ・・・こうした類例はまだまだ他にもある。
-本来あり得ない「敬語」としての「申す」-
*時代劇を見たことのない日本人でも、サムライことばとしての「申す」の乱発ぐらいは耳にしたことがあるだろう。あれもやはり「謙譲=自分は相手よりも目下だから、相手を上目遣いに見上げる形で発言する=申し上げる、言わせていただく、かしこまってもの申す」であったものが、「尊敬=なんか知らんけど、かしこまった場面だから、'言ふ'じゃまずいだろ・・・なんだっけか、あ、そうだ'申す'とか言っとけばとりあえず問題ないだろう」へと安直に流れた「まちがい敬語」の最たるものであって、「我が殿が'申し'ますには」などは本来あり得ない「家臣が主君を貶める侮蔑発言」なのである。
*平安時代までの「申す」が「謙譲(='申す'主語を殊更に低い立場へ追いやること)」以外に横滑りするとしてもそれは「丁寧(='言ふ'と言う場合よりもやんわりていねいな語感を演出すること)」止まりであって、「尊敬(='申す'主語を)殊更に高い立場へ持ち上げること」には用いられる道理もない。
*そして「ていねい'申す'」の主語が「低くおとしめても構わない存在(=自分自身・一般大衆)」以外の「偉い人(=自分の主君)」へと横滑りすることもあり得なかったことは言うまでもない・・・つまるところ、「間違っても卑下してはならぬ目上の人」を、「丁寧話法演出過程で、間違っておとしめてしまった」言い回しが「時代劇的'申す'」なのであって、平安文法にこの種の愚かな横滑り語法が見られぬことは言を俟たない。
*誰がこの「インチキまうす」を発明したのかは筆者の知るところではない。言語学的素養の低い現代日本の脚本家かもしれないし、言語も行動様態も万事が形式化・形骸化の一途を辿った封建時代のお江戸の武家連中が「見よう見まねの御公家言葉」としてデッチ上げた代物かもしれない・・・・はっきりしていることは、「平安時代人がこんなマウス使うわけがない」ということのみ・・・何にせよ、御粗末な展開ではあるが、いかにも「日本語らしいていたらく」とは言えるであろう。
*こうした「現象面の上っ面で踊る非論理ダンス」が、今も昔も日本語(日本人)には、引きも切らさないのである・・・嫌~な話であろう?こうした「なんちゃって話法」が平然とはびこる中で成り立っているのが自分達の言語生活だ、などと聞かされれば、日本人はみんなイヤ~な気分になって顔を背けたがるであろう?・・・が、語学とは、こうした「知りたくもない事実」を冷然と眼前に突き付けられることで、自らの現状の醜悪さを悟り、理想状態としてあるべき姿を模索することを否応もなく考えさせる厳しい学問なのである。「他山の石」や「反面教師」の連続の中で、「どうだ、お前はこんなにも愚かなのだぞ。いいのか、そんなにバカなままで?」と迫ってくるのが(本式の)語学である:実に寛容の精神に乏しい美学教師なのである・・・それでもメゲずに己の意識を磨けば、どれほど(知的に)錬磨された美に到達できるか、この『扶桑語り』を通してやり遂げれば、諸君は既に体感していることになろう・・・それと同時に、醜悪なる現実から目を背け続けているが故にますます醜く愚かに成り下がって行く同胞たち(といっても地政学上の、であって知性上の、ではないが)の現実の姿に、溜息をつかされる場面がいかに多いかをも、実感させられることになるであろう。
*最近流行の例を更にもひとつ引けば、ファーストフードの店員連中の間から広まったとおぼしき「・・・でよろしかったでしょうか?」なるヘンテコ過去時制話法もまた、「反面教師」とすべき上っ面ダンスである。英語の仮定法の本質を全く理解もできぬ語学音痴の日本人の誰かが<「Would this be all right with you?」の表現は「Is this all right with you?」よりも丁寧な言い方になる>という英文法の表層で上滑りした挙げ句の果てに生まれた「これで<よろしい>でしょうか?→これで<よろしかった>でしょうか?」の福笑い的目鼻ずらし和語である・・・が、こんな代物が冗談じゃなく本気で広まってしまうのも、日本人というものがいかに論理性(文法であれ、それ以外の世界に於いてであれ)に疎い生活(言語学的にであれ、社会的にであれ)を平然と(今も、昔も)送っているものであるかを、如実に示すものであろう・・・皆がそうして阿呆踊りを踊り出せば、踊らずじっとしている方が奇人変人に見えてくるのが言語というもののオソろしいところである。が、もっと恐ろしいのは、「言葉の世界で愚かな者が、その他の世界で賢かった例はない」という万古不変の事実のほう・・・周囲の日本人の上滑りに付き合って浮き上がらずに(=自らも上滑りして)過ごすか、相対的孤立を恐れずに自らは動じず孤高の道を歩むか・・・悩むところではあるが、少なくとも受験生としての栄達を望みつつ学ぶ過程に於いては、諸君の選択すべき道は、一つしかあるまい?
■__じ【じ】『接続:{未然形}』〔助動特殊型〕{○・○・じ・じ・(じ)・○} (1)〈(打消推量)(多く、自身以外の主語の動作について)実現しないだろうという判断を表わす。〉・・・ないだろう。 ・・・まい。・・・ということはないと思う。 (2)〈(打消意志)(多く、自身を主語として)その行動を取るつもりがない意を表わす。〉・・・ないつもりだ。・・・するものか。・・・まい。・・・したくない。・・・するのはいやだ。 (3)〈(打消勧誘)(自身以外の主語の動作について)その行動を取らぬよう希望する。また、その行動が不穏当だとする判断を表わす。〉・・・ないでほしい。・・・するのはよくない。・・・してほしくない。・・・されると困る。どうか・・・ないでください。・・・べきではない。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【じ】〔助動特殊型〕(1)(打消推量)(多く、自身以外の主語の動作について)実現しないだろうという判断を表わす。・・・ないだろう。 ・・・まい。・・・ということはないと思う。 *接続=未然形。
*ある事態が恐らく実現しないであろう、との判断を表わす助動詞「じ」の「打消推量」の用法。多くの場合、主語は自分(達)自身以外(=非一人称)だが、自分(達)の未来の状況について言及する例もないではない。
*英訳=「will not ...」/「it is not likely that ...」/「I don't think that ...」/etc, etc.
-「じ」・「まじ」と「む」の関係-
*推量助動詞の肯定形「む」(=英語では「will」)の否定版が「じ」及び「まじ」(英語版=「won't/will not」)と考えれば解釈も容易になるだろう。
*「じ」は「まじ」の略形と言われ、用法の上では「まじ」より制限が多く、あまり多くの語句には付けられない。両者には次のような相違がある:
1)「じ」は未然形接続。「まじ」は終止形(ラ変のみ連体形)接続。
2)「じ」は主節の文末にしか用いられないが、「まじ」は従属節の述部にも用いる。
3)「じ」は他の助動詞を従えることはないが、「まじ」は直後に「けり(=まじかりけり)」・「めり(=まじかんめり・まじかめり)」などのような形で他の助動詞を従えるための語形(形容詞カリ活用)「まじかり」を持つ。また、断定の「なり」が付く「まじきなり」形もある。
*このような自由度の違いから、「じ」は次第に「まじ」に圧倒され、室町時代には文語と化し、口語では用いられなくなった。現代日本語でも文語的に「痴漢・セクハラ許す<まじ>!」のように生き残っている「まじ」に対し、「じ」の名残りは「まけ<じ>魂」のような定型句の中にしか見られない。
◆【じ】〔助動特殊型〕(2)(打消意志)(多く、自身を主語として)その行動を取るつもりがない意を表わす。・・・ないつもりだ。 ・・・するものか。・・・まい。・・・したくない。・・・するのはいやだ。 *接続=未然形。
*打消推量助動詞「じ」が、(多くの場合、自分自身を主語に立てて)「・・・しないつもりである」の「打消意志」を表わす用法。
*英訳=「I won't ...」/「I wouldn't ...」/「I'm not going to ...」/「I have no intention of ...ing」/etc, etc.
-「じ」・「まじ」は、「む」・「むず」の裏返し-
*古典助動詞を体系的に把握するためには、「同類」のもの/「対照的」なものをまとめておさえておくのが得策であるが、この「じ(及び「まじ」)=・・・するつもりはない」は、「む」及び「むず」の「・・・するつもりである」という「意志未来」の用法と180度逆になる表現であることを覚えておくとよいだろう。
-「じ」の連体形の使い道-
*打消推量助動詞「じ」の活用形は限られていて、「終止形」と「連体形」のみである。厳密に言えば、「こそ+じ」の形の文献が極めて少数発見されているので、「已然形」も存在するとは言えるものの、「已然形」の大事な用法たる「順接の確定条件)已然形+ば=・・・なのだから」や「逆接の確定条件)已然形+ど/ども=・・・ではあるけれども」の用例としての「已然形」は「じ」には1例も見つかっていない・・・ので、「じ」には「已然形」はない、という扱いを受ける場合が多い。
*そして、「連体形」としての「じ」もまた、次の2用法のみに限定される:
連体形じ用法1)直後に「ものを」・「を」・「に」を従えての「逆接・・・ないだろうというのに」の表現で用いる。
連体形じ用法2)直後に体言を従えた慣用句として用いる。
・・・現代語にも残る「負けじ魂」などがそれで、そうした定型句以外での「じ+体言」の結合例はない。
-窮屈な「じ」/自由自在の「まじ」-
*こうして見ると、ほとんど「終止形」専用語のような限定された使い方しかされていなかった不思議な助動詞が「じ」である。それでいてこの「じ」、先述のごとく、「む」・「むず」の否定版なのである。「む」の活用範囲の広さを思えば、この「じ」の不自由さは問題であろう?・・・いったい、こんな助動詞でどうやって「む」のマイナス版を演じ切れたのか、と思いませんか?・・・まぁ、「思はじ」と言われたら話が進まないので早速答えを言ってしまうと、古典時代の「打消推量」助動詞としては、「じ」とほぼ同じ意味ながら、自由度が遥かに高い「まじ」という同類があったから、人々はそちらを多用していたので何も問題はなかった、というわけである。
*「じ」は「まじ」の略形として生じたものとされるが、上述の通り実に不自由な助動詞だったせいもあって、室町時代に入ると(少なくとも口語では)ほとんど死滅してしまい、今の日本語には「負けじ魂」のような定型句でしか残っていない。その一方で、「まじ」の方は「あるまじき振る舞い」のような形で今なお文語表現の中に健在である。
*「言葉」は一種の「道具」であるから、自由度が高く使い勝手のよい存在のほうが、そうでない同類を押しのけて、いつまでも使い続けられる、という一例である。もっとも、どんなに使い勝手の悪い最低の道具でも、同類の互換品が存在しない場合、我慢して使い続けねばならぬわけだから、生き残りのための方便としては<1)より自由度の高い良い道具を目指す>以外に<2)自分と同類の他の道具の存在を許さない>というやり口もあることになる・・・どちらが使い手にとって幸福/不幸かは、言うまでもないことではあろうが・・・この『扶桑語り』は当然<自身の向上>を通しての卓抜を目指すのであるが、これを見ている諸君は、「より良い道具を選別して使っている」であろうか/「他に選択肢がないから仕方なくしょーもない道具を使って」不自由な思いをしながら『扶桑語り』にいそしんでいるのであろうか・・・
◆【じ】〔助動特殊型〕(3)(打消勧誘)(自身以外の主語の動作について)その行動を取らぬよう希望する。また、その行動が不穏当だとする判断を表わす。・・・ないでほしい。・・・するのはよくない。 ・・・してほしくない。・・・されると困る。どうか・・・ないでください。・・・べきではない。 *接続=未然形。
*打消推量助動詞「じ」の用法の中で最も珍しい「打消勧誘」の語法で、自分自身以外の誰かに対し、「・・・ということはしないでほしい」という否定的意志表示をする言い回し。
*英訳=「I'd hate it that ...」/etc, etc.
-あくまで「打消推量」の延長線上にある「じ」の打消勧誘-
*第三者を主語に立てての「・・・じ」が「・・・ないでほしい」の意を表わす、と言っても、それは「な・・・そ」や「・・・な」の否定命令文に比較すれば消極的な意思表示で、「・・・するのはよくないでしょう・・・から、そんなことは実現しません・・・よね?」という感じである。つまり、「・・・するな」と相手に直接命じるのではなく、「・・・しないだろう」という形で「事態の不成立」を予測することで、相手がその事態の成立を回避する方向へと動き出すのを期待しているわけである。
*直接自ら事を「為す」のを「卑しいこと」として見下し、周囲の他者が自分に代わってあれこれやってくれることで事が「成る」のを尊んだ古典時代の日本語にはいかにもふさわしい「持って回ったおねだり表現」であると言える。
-「じ」の裏返しとしての「む」・「むず」-
*この否定的な「じ」のちょうど裏返しにあたるのが、第三者を主語に立てての「・・・む」や「・・・むず」が「(私としてはあなたに)・・・してほしい」の意になる表現である。「当然・・・になることでしょう・・・から、あなたとしてもその実現に向けて動いてくれるはずです・・・よね?」という形で、「相手」そのものに「ある事態を実現せよ」と直接に訴えかけるのではなく、その「事態の実現」を当然のこととして「推量」する形を取ることで、その実現に向けて相手が自然と(・・・というには何とも作為的だが)動き出すことを促すのが、推量助動詞「む」・「むず」による「要請」の特性である。
*これら「じ」/「む」・「むず」の表現の主語は、当然、「自分自身以外」となる;が、そうした「主語」を手掛かりにこの用法だと当たりを付けることは、まず、不可能である ― 古文ではそもそも「主語」が明示されている場合の方が珍しいぐらいなので、省略されている主語を文脈からまず補って解釈せねばならず、そうして主語を正確に探り当てたとしても、これらの「持って回った他人への訴えかけによる勧誘型命令文」は、現代人の感覚からは全く想像もつかぬほどの意外性に満ちたくねくね迂回型表現なので、受験生が足をすくわれてすっ転ぶ危険性が極めて高い表現であることに間違いはない。出現頻度も極めて低いため、いくら古文読みの経験を重ねても習熟することは困難・・・であるから、「習うより慣れよ」ではなく「慣れずとも習え」方式で、<じ vs. む・むず>の対照の図式ともども、理知的に脳裏に焼き付けておくべし。
■__まし【まし】『接続:{未然形}』〔助動特殊型〕{ましか/(ませ)・○・まし・まし・ましか・○} (1)〈(仮想)(主に「・・・ましかば+~まし」のように、条件文+帰結文の構成で用いて)事実に反する、または、実現可能性の低い事柄について、仮想的に述べる。〉もし・・・なら~だろう。たとえ・・・でも~だろう。仮に・・・だとしたら~だろう。よしんば・・・だとしても~だろう。 (2)〈(願望)事実に反する、または、実現可能性の低い事柄について、その実現を希望する意を表わす。〉・・・ならいいのに。できれば・・・たいのに。ああ・・・だったらなあ。 (3)〈(躊躇)(疑問の意を表わす語を伴って)ある行動を取るべきかどうか、迷いや疑念がある意を表わす。〉・・・しようかどうしようか。・・・したものかどうか。・・・するべきなのか。 (4)〈(推量)(中世以降、助動詞「む」と同様に用いて)事実に反するわけでも実現可能性が低いわけでもない、普通の推量の意を表わす。〉・・・ろう。もし・・・ならば。・・・だろう。・・・よう。・・・であろう。presented by http://fusau.com/ ◆◆◆◆
▲page TOP▲◆【まし】〔助動特殊型〕(1)(仮想)(主に「・・・ましかば+~まし」のように、条件文+帰結文の構成で用いて)事実に反する、または、実現可能性の低い事柄について、仮想的に述べる。もし・・・なら~だろう。たとえ・・・でも~だろう。 仮に・・・だとしたら~だろう。よしんば・・・だとしても~だろう。 *接続=未然形。
*助動詞「まし」の「反実仮想」と呼ばれる語法。活用語の未然形に接続し、多く「・・・ましかば(仮に・・・だとすれば)=条件文」+「~まし(~であろう)=帰結文」の形で、事実に反する仮定を、あくまで仮想の形で述べる(反実仮想)。また、想定される事態は必ずしも「実現不可能な絵空事」ではなく、「可能性は低いが、実現可能な事柄」である場合もある。
*英訳(subjunctive past)=「if ...ed, - would ...」/「if were to .., - would ...」/「if should .., - would」/etc, etc.
*英訳(subjunctive past perfect)= 「if had ...ed, - would .../would have ...ed」/etc, etc.
-「まし」以外の語句を伴う場合-
*帰結文には必ず「まし」を伴うが、条件文は必ずしも「・・・ましかば」の形とは限らない点に注意を促しておきたい。また、「帰結文」のみで「条件文なし」の場合もあれば、「条件文のみ」で「帰結文なし」の場合もある(このあたり、英語の同種表現でも事情は同じである):
例)「花のごと世の常なら<ば>過ぐしてし昔はまたも返り来な<まし>」(『古今集』春下・九八)・・・例年春が来れば花は咲くが、そのように常に変わらぬ循環性が世の中全般に満ちているなら<ば>、過ぎ去った昔が再び戻ってくることもある<だろうになぁ>。
*上例では、条件文を「仮想」の形で導くのは「未然形+ば」(ならば)であって、「ましかば」ではない。
-接続先からみた「まし」の特異性-
*また、上の例文では、帰結文も「かへりこ<まし>」(未然形+まし)ではなく、「かへりきな<まし>」(連用形+「ぬ」未然形+まし)の形になっている。このように、「まし」単独ではなく、連用形接続の完了助動詞(未然形)との連語形「ぬ+まし=なまし」/「つ+まし=てまし」の形を取る場合は少なくない。この場合の「ぬ」・「つ」の意味は、「既にそうなってしまった、と仮定すれば(完了)」ではないし、「間違いなくそうである、と仮定すれば(確述)」の意味と取るにも難があるので、「未然形接続」を嫌って「連用形接続」へと持ち込むための音調的方便として「なまし」/「てまし」を用いたのだ、と考えるべきであろう。
*確認として、「まし」以外の推量助動詞の接続する活用形を見てみると:
未然形接続=「む」(未来の推量)・・・まだ起こっていない未来の事態についての推量だから、「未だ然らず」の「未然形」に接続するのは当然であろう。
終止形接続=「らむ」(現在の推量)・・・確認はできぬものの、現時点で展開しているであろう事態についての推量だから、「終止形」接続は妥当であろう。
連用形接続=「けむ」(過去の推量)・・・過去の事態についての推量だから、過去助動詞「き」・「けり」と同様の「連用形」接続は自然であろう(語源学的に「けむ」=過去助動詞「き」+推量助動詞「む」とも言われる)。
*こうして見ると、「まし」が「未然形」に接続することの意味が、改めて疑問視されるところである。「未然形」とは、「まだ起こっていない未来の事態」について想定する形であるから、「む」にこそふさわしいものの、「今眼前にある事態」を「それはそれで確定してしまったこと」と認めつつも、「あぁ・・・そうでなかったらいいのになぁ」とないものねだりする「まし」の「反実仮想性」を思えば、「未然形」はいかにも不自然である。さりとて「まし」を「終止形」に続けたのでは(「らむ」の例に見るように)眼前の事態を事実として「確定」してしまって終わり、の感がある:この点は「已然形」でも同じである。「連体形」・「命令形」に接続したのでは意味をなさないのは言うまでもない・・・そうなると、残る唯一の活用形は「連用形」である。
*連用形に接続するのは過去推量助動詞「けむ」(及び、過去助動詞「き」・「けり」)であり、「まし」を連用形に接続すればやはり「過去」への傾斜が強まることになるが、これは英語の「仮定法」の時制遡行現象に照らしても、文法論理的に妥当なことであろう。
*「まし」が、「眼前にはAという現実がある」中で「仮に、AではなくてBだったとしたならば」と想定するものである以上、「眼前のAという現実を除去してBという事態へと(想念の中で)置き換える」ためには、その「<現在>のAという現実を生んだ原因が存在する時点である<過去>へと意識を立ち戻らせ、そのAの原因を取り除いて、代わりにBを置く」のが論理的に自然な流れなのである・・・そう考えれば、「未来指向」の「未然形」(「む」御用達)よりも、「過去指向」の「連用形」(「けむ」御用達)接続の方が、反実仮想の「まし」には妥当な活用形、との感が強まってくるはずである・・・その場合に妥当性を有するのが、先述の「てまし」/「なまし」という「完了助動詞+まし」の連語形、というわけである。これらの連語に含まれる助動詞「つ」・「ぬ」が、「てまし/なまし」に於いて表わす意味は「完了・・・すでにもうそうなっている」でないことは確かだが(現実になっていない事態を想定するのだから、完了ではおかしい)、「つ/ぬ」が持つ「現在よりも過去へと意識を向かわせる性質」は、「まし」の反実仮想性との親和性が高いし、何よりも「つ/ぬ」との結合によって「連用形接続」を得られる(=「き」・「けり」・「けむ」の雰囲気に近付く)ことの意味のほうが大きいのである。
*こういうわけで、「未然形+まし」よりむしろ自然とも思われる「連用形+てまし」/「連用形+なまし」が、多用されるようになったものと思われる・・・この推論が正しかろうとなかろうと、いずれにせよ、助動詞「まし」に関しては(4つある用法の全てに於いて)「てまし」/「なまし」の連語形が多用されたという事実に間違いはないので、あだやノーマークにせぬことである。
-「・・・ましかば、~まし」と英語の「仮定法」-
*「まし」は、英語の「仮定法」に相当する仮想表現である(現代日本語にはこれに相当する語はない)。
*英語の「仮定法」の場合、想定する時制に応じて次のように動詞の形が分化する:
1)仮想対象時点が「現在~未来」=「仮定法過去」・・・動詞は「過去形」
例:If I had enough money now, I'd buy that book.もしもいま十分な金があれば、あの本を買うのだがなぁ。
2)仮想対象時点が「過去」=「仮定法過去完了」・・・動詞は「過去完了形」
例:If I had had enough money then, I'd have bought that book.もしもあの時十分な金があったなら、あの本を買っていたのだがなぁ。
・・・これに対し、古語の「まし」は、時制に応じての変化というものを持たない:仮想の対象となる時点が「過去」/「現在」/「未来」のいずれだろうと、全く同じ「・・・ましかば、~まし」の形であって、「・・・ましかりければ、~ましかりつべし」みたいな面倒な変化は一切しない。このあたりにも「時制にウルサい英語/基本的に現在一本槍で時制に無頓着な和語」の特性が表われている。
*一方、英語の「仮定法」/古語の「まし」の両者に共通する特性として、想定される事態は多く「現実に反する事柄」や「実現不可能な事柄」であるが、必ずしもそれのみにとどまらず、「現実性は低いが、実現可能な事柄」、その他の事柄を想定する場合もある・・・大方の日本人が錯覚している点(Japanese fallacy)がこれである。「・・・ましかば/~まし」=「反実仮想」というレッテルをそのまま鵜呑みにしたり、英語教科書によくある「If I were a bird, I would fly to you.もし私が鳥だったら、あなたのところへ飛んで行くでしょうに」のような絵空事ばかりに引きずられて、「現実にはあり得ない事柄<だけ>を想定すること=反実仮想」という図式のみで「仮定法」や「まし」を短絡解釈しているのである・・・が、きちんと英語を学んだ人間なら知っていることであろう ― 現実の英語仮定法が想定する実現可能性には、次のような各種レベルがあるのだ:
A)「現にある事態に、敢えて反する事柄を想定」
例:If dogs could talk, they wouldn't make such good friends with us humans.もし犬が話せたら、我々人間とこんな友好的関係ではあり得ないだろう。
B)「実現可能性の低いことを絵空事として(多く、冗談めかして)想定」
例:If I won a million dollars in the lottery, you could have half of it.宝くじで100万ドル当たったら、君に半分やるよ。
C)「それを想定すること、または、その想定を人に語ることに関し、何らかの心的抵抗感がある事柄について、遠慮がちに想定」
例:If you were to die tomorrow, what would you do today?もし君が明日死ぬとして・・・ごめんよ、ヘンな話で・・・その場合、君なら今日、何をする?
・・・「君が明日死ぬこと」は、あり得ない事柄ではないが、そんな不吉な事柄をアッケラカンと口にするのは相手への非礼にあたる;ので、「通常時制=現在形」よりも1つ分過去にさかのぼらせた不思議な時制で「遠慮」を表わすのが「仮定法過去」である。
*この「心理的抵抗感」は、次のような形の「仮定法過去」としても現われる:
例:If I told you I could get us two premium tickets for the concert of that world-famous pianist, would you kindly accept my offer?あの世界的に有名なピアニストのコンサートの上席のチケット、二人分手に入るんですが・・・と言ったら、あなたは受け取ってくださいますか?
・・・「チケットあるから、一緒に行こうよ」と気軽に誘うのには照れがあるような場合に、遠慮がちにおずおずとこうした「仮定法過去」のオブラートに包んで相手への好意(or下心)を表わすわけである。
*古語の「まし」とて、それが昔の日本で「仮定法」的に使われていた以上、「あり得ない事柄」(ワンコがしゃべる/宝くじで100万ドル当てる/君は明日死ぬ)ばかりを想定する硬直化した使われ方をしていた道理がない・・・現代日本語には「まし」も「仮定法」もないので、大方の日本人はこのあたりの感覚に実に疎いが、上の英語の例文を見れば、その感じが少しはわかるであろう。
-「まし」の活用形とその使い道-
*助動詞「まし」の活用表は以下の通りである:
{ましか(ませ)・○・まし・まし・ましか・○}
*「まし」に「連用形」がないのは当然で、「もし・・・ならば」と想定する(条件文)にせよ、「~だろう」と想定する(帰結文)にせよ、そこで想定される一連の仮想的事態(・・・/~)は「(想像の中で)1つの完結形として存在する」のであるから、不完全終止の形で、直後に別の用言が続く道理がない(=連用形は必要ない)わけである。
*「まし」に「命令形」はない。「仮想として想定」するだけの語なのであるから、「現実の世界の中に、実体化せよ!」と命じるための命令形はあり得ないことになるし、「頭の中の絵空事」としてならば、想像した時点で何事であろうとも「仮想的に現実のものとなる:be a virtual reality」、即ち、「現実になれ、と命令」するまでもない、ということになる。
*「未然形」は、「ましか+ば」の形で条件文を想定するのが平安時代の定型だが、上代には「ませ+ば」という未然形も用いられた。中古以降でも、和歌の中で字数合わせをするために「ませば」の形を用いることはあったが、用例はあまり多くない。
*帰結文の結びは「~まし(~なことだろう)」の終止形が基本であるが、古文には「係り結び」という特殊な相関構文があるので、これに対応するための活用形もまた必要であった。即ち:
1)係助詞「ぞ」・「なむ」と対応する「まし」=連体形の「まし」
2)係助詞「こそ」と対応する「まし」=已然形の「ましか」
・・・上の2つの場合への対応のみを唯一の使い道とする「連体形(まし)」・「已然形(ましか)」もまた存在した;が、係り結びを形成するため以外にこれらの活用形が用いられることは(極めて稀な例外を除いて)なかった。
*上の「連用形」・「命令形」で考えたのと同じ理屈で、「まし」の直前までの部分で「一連の仮想事態の記述は完結している」のだから、「文中にあって直後に体言を従える形」の連体形「まし」は成立し得ない。わずかに、「・・・と想定した場合の、そのA」という形で(「む+A」・「むずる+A」によくあるような)「婉曲」の用例と、直後の体言が消失した「・・・と想定したその場合」という形の(これも「む」・「むずる」にも見られる)「準体法」の用例が、少数見られるのみである。
連体形「まし」による「婉曲」の例)「高光る我が日の皇子の万代に国知らさ<まし>島の宮はも」(『万葉集』二・一七一)・・・<もしも御存命だったとしたならば長らくこの日本国を統治なさったことであろうところの>日本国の宮様(=草壁皇子)よ
連体形「まし」による準体法の例)「おほかたの儀式などは、内裏に参り給は<まし>[事]に変はることなし」(『源氏物語』竹河)・・・儀式のあらましは、<仮に入内して宮中に入ると想定した場合[の事]>と変わりありません。
・・・こうした連体形の使われ方は例外中の例外であって、「まし」連体形は基本的に「係り結び専用形」と考えてよい。
*また、「已然形」に関しても完全に「係り結び専用形」であって、それ以外の已然形の用法としてあり得る次の3つの場合は、「まし」に関しては不成立である:
(×)「已然形+ど/ども」による逆接の確定条件=「ましか+ど/ども・・・と想定する、けれども」
・・・「・・・と想定する、ので、~だと思う」が「・・・ましかば、~まし」の仮定表現なのだから、「順接」のみ成立して「逆接」などはあり得ない。
(×)「已然形+ば」による順接の確定条件=「ましか+ば・・・と想定する、ので」
・・・この「ましかば」の形なら「未然形+ば」と解されて「もしかりに・・・ならば」の仮定条件になるわけで、「・・・と想定するので」の確定条件にはなり得ない。
(×)(鎌倉期以降の)「已然形+ば」による順接の仮定条件=「ましか+ば・・・と想定する、ならば」
・・・「仮に・・・と想定するならば」の仮定条件の解釈はよいとしても、この形なら「未然形+ば」の「ましか+ば」とみなすのが妥当であって、「已然形+ば」ではない。
*このように「まし」は、活用形に関する限りでは、「条件文を成立させるための活用形=未然形」と「帰結文を成立させるための活用形=終止形(+連体形・已然形)」しか持たない硬直的な使われ方をした助動詞なのであった。活用形の少ない助動詞というものはまた、その使われ方が一定の定型表現に限定され、やがてその表現が廃れるとともに死語と化す場合が多い・・・この「まし」も例外ではなく、鎌倉時代にはすでにもう口語としては使われなくなり、文章語として細々と生きながらえる状態に入っている・・・そうして、英語の「仮定法」に相当するロジックもまた、日本語から消滅して行くのである。
◆【まし】〔助動特殊型〕(2)(願望)事実に反する、または、実現可能性の低い事柄について、その実現を希望する意を表わす。・・・ならいいのに。 できれば・・・たいのに。ああ・・・だったらなあ。 *接続=未然形。
*助動詞「まし」が、活用語の未然形へと接続して、実現性の低い(または現実と反対の)事柄を想定して「できれば・・・ならいいのになぁ」と(ないものねだり的な)願望を表わす用法。
*英訳(subjunctive past)=「I wish ...」/「If only ...」/「Would [to God] [that] ...」/「O that ...」/etc, etc.
*英訳(subjunctive past perfect)=「I wish A had ...ed」/「If only A had ...ed」/etc, etc.
-「願望」の「まし」の後に続くもの-
*この用法ではしばしば、その反実仮想性を嘆く感じで「・・・まし+ものを」/「・・・まし+に」/「・・・まし+を」のように詠嘆の終助詞が「まし」の後に続く。外形上の判断材料としては有力な手がかりなので、まとめて熟語的に覚えておくとよいだろう。
-完了助動詞「つ」・「ぬ」との組み合わせ-
*願望を表わす「(未然形+)まし」はまた、「(連用形+)て+まし」/「(連用形+)な+まし」の形で用いられる場合も多い。
例:「安らはで寝<なまし>ものを小夜更けて傾くまでの月を見しかな」(『後拾遺集』恋二・六八〇・赤染衛門)・・・ためらわず寝入ってしまえばよかったものを(あなたが「すぐ会いに行くから、待ってておくれ」などと言ったものだから)夜明けの空に傾く月を、一人ぼんやり待ちぼうけの寝床で、見送る羽目になってしまいましたよ。
*「・・・まし」の基本義は「・・・なことだろう」という推量であるから、「本来ならば、・・・が妥当であろう」という事態を想定しつつ、「実際にはその本来妥当な姿からはズレてしまった」という表現が「なまし/てまし」であって、この場合英語ならば「仮定法過去完了」時制で次のように表現するところである:
英語例)I should have slept without hesitation, if you had not told me to stay up for you... I did, only to see off the moon into the dawn after this vain, solitary night.
・・・このような時制ズラしは英語では必須だが、「時制としての過去形を持たない」日本語の場合、仮想対象の時点が「過去」だろうが「現在」だろうが「未来」だろうが、用いる形は常に「・・・ましかば、~まし」のみである。
*英語の仮定法的表現としての古語「まし」は、現代日本語には引き継がれずに死語となってしまったが、「願望」表現の「な+まし」は、現代日本語にもなお(やや時代がかった冗談風表現として)「どうか助けておくん<なまし>」のような形で残っている。
◆【まし】〔助動特殊型〕(3)(躊躇)(疑問の意を表わす語を伴って)ある行動を取るべきかどうか、迷いや疑念がある意を表わす。・・・しようかどうしようか。 ・・・したものかどうか。・・・するべきなのか。 *接続=未然形。
*助動詞「まし」の「躊躇」の語法。どのような行動を取ったらよいか悩んだり、ためらったりする「弱気な<まし>」で、英語では助動詞「should」がこの役割を担う;が、現代日本語ではこの「まし」は死語である(「どうし<まし>ょう」など似た語形はあるが、直接の関係はない)。
*英訳=「should ... (subjunctive past)」
-ためらう「まし」に付き物の語句-
*「まし」という助動詞は「未然形接続」なのだが、その感じが嫌われたのか、しばしば「連用形接続」の完了助動詞「つ」・「ぬ」との連語形「てまし」・「なまし」の形を取る。それはこの「躊躇」の用法でも同じことである。
*「ためらい」の「まし」は、常に「疑問の語」と共に用いるので、その点に着目して見分けるとよい。例:「いかに・・・まし/てまし/なまし?(How should I ...?)」・「誰に・・・まし/てまし/なまし?(Who[m] should I ...?)」・「や・・・まし/てまし/なまし?(I don't know whether or not I should ...)」。
-古語「まし」と現代語「いらっしゃいまし」-
*現代日本語にある「いらっしゃい<まし>」の末尾の「まし」は、反実仮想の古語「まし」とは異なる。もし助動詞「まし」に由来するとすれば、「いらっしゃい<まし・・・かば>、いかにせ<まし>?」(もしおいでになったり<した・・・とすれば>、どうし<たらよいだろう>?)とのあたふたとした仮想表現になるが、そんな準備不行き届きでは客人を迎えることもできはすまい。種を明かせば、現代語「・・・いまし/・・・いませ」の正体は、「います/ます(坐す)」という「居り(をり)」の尊敬語の命令形「いませ/ませ」の末裔なのである。西日本の接客言葉に今も残る「おいでませ(Please come)」にはその語感がよく表われている。
◆【まし】〔助動特殊型〕(4)(推量)(中世以降、助動詞「む」と同様に用いて)事実に反するわけでも実現可能性が低いわけでもない、普通の推量の意を表わす。・・・ろう。もし・・・ならば。 ・・・だろう。・・・よう。・・・であろう。 *接続=未然形。
*助動詞「まし」は基本的に、英語で言う「仮定法」的な推量に用いられる語句であるが、それが「む」・「むず」と全く同じ単なる(=仮定法的な色彩を持たない)「推量・・・だろう/もし・・・なら」の意味に用いられたもの。
*英訳=「will ...」
-中世以降の「まし」の「む/むず」化現象-
*古語の「まし」が果たした「仮定法」的な役割は、現代日本語にはもはや残っていないが、そうして「仮定法的ニュアンスを失った、単なる推量助動詞」への道を「まし」が歩み出したのは、平安時代も終わり、鎌倉時代に入った頃(=中世以降)である。
*この時代にはすでに、「まし」は口語では用いられなくなっていたらしい。文章中に登場する場合でも、「未然形+まし」にも増して「連用形+てまし」/「連用形+なまし」の語形で用いられる例が多く見られる。この形は、中古には、未然形接続を忌避する形で連用形接続する完了助動詞「つ」・「ぬ」との組み合わせを選んだ感が強いが、中世には「まし」自体の衰退とともに、「てまし」/「なまし」が、単なる推量の(=仮定法的色彩を持たない)定型句として意識されていたのかもしれない。鎌倉期には、「てまし/なまし」と同様、「つ」・「ぬ」と推量助動詞「む」の連語形の「てむ(つ+む)」/「なむ(ぬ+む)」もまた多用されており、「てむ=てまし」/「なむ=なまし」の感覚で「む=まし」の同一視現象を促進した感がある。