ざえ【才】〔名〕

   [668] ざえ【才】〔名〕

〈A〉 ざえ【才】
字面からは「才能」全般を想起させる語だが、平安時代には朝廷での任務に欠かせぬ「漢学」を第一義とし、次いで「芸能の嗜み」をも意味した。これら学習・修練により身に付くアカデミックな才能と対比しての「臨機応変の実務的処理能力」は「大和魂」と呼ばれた。》
〔名〕
  (1) 〈(特に、漢詩・漢学についての)学問上の知識。〉 漢学の才。学才。学術的教養。   (2) 〈(音楽・書画・和歌などの)芸能上の才能や技能。〉 才芸。芸のたしなみ。芸術的素養。   (3) 〈(「」の略)内侍所の神楽などで歌をう男性。〉 男のい手。」。男性シンガー。
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「【ちょこざい】な小僧め、名を、名を名乗れ!」・・・「私の名?はぁ、呉音で【ざえ】と申します」
 現在の日本には実質的に「古典」という概念がない。ほとんどの日本人にとっては「古典=古くさい作品」であって、「時を超えて人々に訴える力があるからこそ、古い時代に作られながらも、今なお残っている一級品」という意味の英語の「classic=古典・クラシック・・・ここでのクラス(class)の意味は、上級」は日本には(少なくとも現代の大方の日本人の間には)存在せず、単なる「classical=クラシカル・懐古調・・・いかにも古くさい雰囲気」が「classic:クラシック」を押しのけて居座ることで、「古典」を「古い時代に属するもの=今の自分には関係ないもの」として平然と黙殺している状況である・・・そんな連中にとっては「The Beatles:ザ・ビートルズ」すら「昔のグループじゃん」であり、「オジン、オバンの聞くナツメロ」なのだ・・・まともな世界の国々の人々に言っても「It just has to be seen to be believed.その目で見、身をもって体験した人じゃないと、本当にそうなんだ、なんて信じられない話」で、西欧/日本双方の「古典」を人並み程度に把握している人間の目からみれば、「残念」を通り越して、ただもぅ「笑うしかない」ていたらく・・・まぁ、それが「世界の文化人から見たニホンジン」の現状である。そうした日本人はまた、本当の世界を知らぬから「知らぬが仏」と澄ましていられるわけである・・・願わくば、彼らが一生厚顔無恥を貫き通せればよいのであるが、なかなか世の中、そうは甘くない・・・のだから、早いうちにガツンと一発食らわしておくほうが若い連中の&日本国のため、であろう。
 そんな日本人に、テレビドラマの古典「赤胴鈴之助(あかどうすずのすけ)」の冒頭の台詞を投げかけても詮無きことであろうが、この随筆の標題にある「ちょこざいな・・・」の冒頭部は、その鈴之助くん(まだちびっこい少年剣士である)にコテンとやっつけられた大人の道場の面々の一人が吐く「小生意気なチビめ、お前の名前は何だ?!」のセリフである。これに名乗って答える「赤胴鈴之助だぁ!」が番組のオープニングを飾るわけであるが・・・ここでは無論、往年のテレビ番組だの現状の日本の文化的惨状だのがメインテーマではない:「ちょこざい」のみがお題であり、より本質的に言えば「呉音」テーマの随想文なのである。
 「呉音」とは、一般の漢字読み「漢音」に対する、もう少し古い時代に行なわれていた中国由来語の読み方の作法と思えばよい。日本は古来、中国に文化の範を取って来たが、中国の文物を読み解いて日本の文化と言語へと吸収する過程で、中国語の読み方も当然「和風訛り」を帯びることとなった(現代の横文字を日本人がどう扱っているかを見れば、おおよその想像は付こうというものだ)。
 そんな中、平安時代初期の国家的大事業として、例の「遣唐使」が中国(唐)へと派遣されることとなる。危険な船旅と長年の研修旅行の末に日本に帰国した留学生達は、「生きた中国語=唐の都の長安の発音」を身に付けて来ており、そんな彼らの耳には「文物を日本人風になまらせて読んだ従来の漢字読み」は「聞き苦しいインチキ発音」として響いたのである。
 そこで行なわれたのが、「正しい中国語読み=漢音推進運動」であり、そこで槍玉にあがった「古くて間違いの中国語読み」が「呉音」だったというわけだ。現代日本人なら「誤音」とダジャレかましてそのまま通用させてしまいそうな用語だが、この「呉」は、例の「呉越同舟(ごえつどうしゅう=仲悪いどうしが一箇所に居合わせること)」なる四字熟語でも有名な中国南部の国の名で、「呉で話されている非主流派の中国語発音に近い」という感覚でこう命名されたらしい(・・・呉の実情に詳しかったとも思われぬ昔の日本人の命名であるから、このあたりの名の由来にはさほど敬意を表すべきとも思われないが)。
 この「漢音推進/呉音排斥」の効果はしっかりあったようで、その後の日本語では漢字読みといえば「漢音」一色となった;が、古い時代から使われていた「呉音」も慣習的に残ることとなる・・・このあたりの対照の図式は上の文章だけからも感じ取ってもらえるだろう:「一色」を「いっしょく」で読まずに「いっしき」と読む現代人はほとんどいるまいが、「いっしき」は古代より「社会的階層を色分けする」という由緒正しきしきたりと縁が深かった「呉音」なので、今日もなお「一色田(いっしきでん・・・いっしょくでん、ではない)」のような形でしぶとく生き残っている。畏れ多くも「大和朝廷」より賜わりし田畑なれば、いかで「いっしょく」なる「漢音」に変ふべきか?お上の御恩(=呉音)忘るまじ、なのである。
 「ちょこざい(猪口才)」なる言葉の中にもやはり「呉音」がある:「ざえ=才」である。漢音ならこれは「さい」と清音であるから「ちょこさい(chocolate vegetable?)」とでもすべきであるが、古来「ざえ」と濁音の呉音読みが慣例化していた語なので「ざえ」が「ざい」には化けても「さい」にはなりきれていないのである。
 古い時代からある語の「呉音」が「漢音」にもめげずにそのまま残る背景には、それなり以上の理由があるわけだが、この「才=ざえ」を生き残らせた事情は極めつけである ― 「中国伝来の学問=漢学」そのものを意味する語が「ざえ」だったのだ・・・これではいくら「漢音」の権威をもってしても変えられまい。かくて、「(主に中国伝来の書物を源泉とする)学術知識全般」並びに「芸能全般」を指す「学才・才芸」の意味の「才」は「ざえ」の音のまま長らく生き残り、赤胴鈴之助君にやられた明治時代人の「ちょこざい」の中にさえ、ちょこっとその片鱗かせているのである。
 ・・・とまぁ、この国に於ける外来語の発音だの文化的不毛だのを織り交ぜたこの種のコラム(column=列柱記事・本筋読み物の合間にちょこんとまぶした軽い随想文)に対する大方の日本人の心理的反応として最も相応しい用語の解説をもって、本文を締めくくることとしよう(サービスで、3つ、あげる):
1)ちょこざい=(自分より格下だと思い込んでいる相手が)いかにも気の利いたふうな発言・行動をして得意気な様子を、嫉妬交じりの非難の調子で貶す語。
2)ちょこ(猪口)=文字通りには「いのししのくち」、一般には(イノシシの口に形状が似ている)「・おちょこ」を指す。この語が「ざい=ざえ」と結び付いたのは、「ちょこっとしか酒の入らないおちょこ」と「ちょこっとだけ知っているに過ぎぬ知識(を偉そうに人前でひけらかすこと)」という「容器」にまつわる連想に加えて、「おちょこから酒を飲む時の口をすぼめた形」が「人前で偉そうに何かを言う時の得意気に口の先をとんがらせた姿」に似ている、という事情もあったものと思われる・・・が、所詮、このあたりの造語事情が徹底的に恣意的でしかない日本語であるから、語源的考察というよりも雑学的随想の域を出ぬ話ではある。
3)ざえがる=いかにも「自分は物知りだ」とか「自分には文芸的嗜みがある」と言わんばかりの態度を取ること(&周囲の人間の顰蹙を買うこと・・・Oh, what a suitable ending!このコラムの終わりを飾るにぴったんこだぞえ!)。

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コメント (1件)

  1. the teacher
    ・・・当講座に「man-to-man指導」はありませんが、「コメント欄」を通しての質疑応答ができます(サンプル版ではコメントは無効です)

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