ねびまさる【ねび勝る】〔自ラ四〕

   [1116] ねびまさる【ねび勝る】〔自ラ四〕

〈C〉 ねびまさる【ねび勝る】
《「ねぶ」は「成長する、大人びる」の意。「勝る」を「他との相対比較に於いて程度が上」と見れば「年齢以上に大人びて見える」となり、「次第に程度が増してくる」と捉えると「成長するに従ってだんだんと素晴らしくなる」の意となる。》
〔自ラ四〕 {ら・り・る・る・れ・れ}
  (1) 〈(年齢に似合わず)大人の雰囲気がある。〉 大人びている。大人っぽい。子供っぽくない。   (2) 〈(成長するにつれて)だんだん見栄えがする様子になる。(女の子の成長過程について言う場合が多い)〉 次第に立派に成長して行く。だんだん綺麗になって行く。
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【勝る】相手は一体だれ?
-相手が見えなきゃ、勝てっこない-
 昨今の日本人は「勝ち」だの「負け」だのを軽々しく口走るようになった(例:「勝ち組」・「負け組」)が、「敵を真正面から見据えてかかる」体質がない国民性は千年前からまるで変わっていない。その言語学的証明としては、「比較構文に弱い」という一事を例に引けばそれだけでもう十分であろう。特に、相対比較にうるさい英語を学ぶに際して、日本人は「比較対象がマトモに見えてすらいない=優勝劣敗の理がわかる道理もない」という形でその勝負弱い馬脚を顕わすものである・・・カチンと来ちゃった日本人も大勢いるだろうから、彼らの心情を代弁する英文も添えておこうか:
What you say couldn’t be further from the case!
・・・「further」は「father(お父ちゃん)がツムジ曲げちゃった姿」じゃなく「far=遠い」の比較級である;が、何と比較しているか、おわかりだろうか?・・・と、聞かずもがなのことを聞くのも意地悪だ(どうせわかりっこない)から、正解はこちら→「than you are far from the case now
・・・ついでに言えば「couldn’t」が「can’t」でない以上、これは「仮定法過去:subjunctive past」であるから、そこに「見えない条件節」を読み取るべく「even if you tried to be further from the case than you now are」を補足する読み方も(英語人種なら)反射的に行なうべき芸当であるが・・・日本人にそれを求めるほどのヒドい「言語学的事実誤認」とは無縁の筆者なれば、ここらで本題に移ろう。
-「マセ」てる?それとも「マシ」てくる?-
 「ねび+まさる」=「成長する+より素晴らしい状態である」なるこの古語が「勝る=優れる」を含むものである以上、そこには相対的に「劣る(おとる)・後る(おくる)」対象が想定されるところである;が、実は、「ねびまさる」ではこの対象が一定せず、何を対象と捉えるかに応じてその意味も次のように二つに分かれるのである:
1)比較対象=<現時点の年齢相応の水準>
 ・・・これだと「その年頃の普通の男の子/女の子」<よりも勝っている>となるので、訳語は当然「マセている」とか「大人びて見える」とかの早熟な感じを表わすものとなる。人間という生き物は、向上心を失わぬ限りは死ぬまでずっと知的成長を続けるものだが、身体的成長は18歳ぐらいで停止して以後は横這い~緩やかな下降線を辿る生物学的宿命であるので、「当該年齢の平均的水準」を「(早々と)越えている」と呼べる対象は必然的に「まだ大人になりきっていない子供」だけである。12~14歳(古典時代の女子が「裳着(もぎ)」・「髪上げ」をして「形式上の大人」の仲間入りをした年齢)の少女をつかまえて「大人っぽい」と言うことは可能でも、18歳や20歳の女性に「君って大人っぽいね」と言う男は(ばっかみたい・・・よほど女と無縁の男なのね)と鼻であしらわれておしまいであろう?そういうわけで、こちらの「ねびまさる=マセちび」の対象はもっぱら「子供」(それも大抵、"将来の美少女候補")というのが通り相場なのである。
2)比較対象=<以前の自分自身の水準>
 ・・・これだと「小さい頃は大したことなかったけど、大きくなるにつれて見違えるように立派になってきた」という「みにくいアヒルの子(The Ugly Duckling)」パターンとなる。こちらの場合、何も「小さい子供」のみが対象となるわけではなく、「年齢を重ねるにつれて渋みが増す」というような「華麗なる加齢」にも言及し得る古語である。
-後発的多義性-
 このように、比較対象の捉え方次第で全く異なる二つの語義に分かれる「ねびまさる」であるが、この多義性は最初から意図されていたものではない;「そもそも、比較対象が明確に見据えられていなかった→当初の使われ方とは異なる比較対象が後から見つかって、それに応じて意味も変わってしまった」という偶発性の産物である。比較対象を何と捉えるかは「使い手の恣意」が決するものであって、「当初の使い手が何を想定していたか」などは問題にもならぬのが日本語なのである。
 「確信犯」なる語に関しては、「それが’悪いこと’だと知っていながら、いけしゃあしゃあとそれをするやつ」の使い方が(実際、そういう人間が圧倒的多数を占める世の中なのだから)日本語の中で支配的になるのは理の当然であって、この語を最初に用いた人間が「狂った社会の約束事によれば’有罪’とされるものの、それでもなおかつ’正義’と信じた事は貫き通す・・・その結果、’良心の犯罪者’として断罪される人物」という立派な使い方を意図していた、という事実など、多数決へと自然に靡く言語学的実用原理の前には、何の重みも持たぬのである(・・・特に、原理・正義に対する敬意が恐ろしく低い日本人の手にかかれば、ね)。
 この種の横滑りを数限りなく繰り返すうちに、「本来の正用法」などというものを想定する営み自体が全く空しくなるほどの「可変的多様性」を有するのが日本語という言語の特性なのである。西欧言語、少なくとも英語には、言語学的来歴をこれほどなおざりにする身勝手な無秩序性は、ない。「原典・原理・正義・正論」への忠義立ては、西欧人にとっては「生理」であり「宗教」ですらあるのだ(この点に於いてもやはり、大方の日本人は「無宗教」なのである)。
-「ねびまさる」の対義語やいかに?-
 なお、「年齢上昇と共によくなる」表現がある以上、逆に「年齢が上がるにつれて、残念な感じになる」やつもありそうである・・・が・・・古語辞典にはそういう語は載っていない。語学的には「まさる」の対義語は「おとる」や「おくる」なので、さしづめ「ねび劣る/後る」とでもなるのであろう・・・が、よくよく考えてみれば、「老化に伴い、水準が落ちる=経年劣化」は無常の世のである。「ねび勝る」はあっても「ねび劣る/後る」がないのは、「人はいつかは必ず死ぬ」という命題同様、当たり前すぎて「言ふべきにもあらず」ということであろう。
 もっとも英単語には、「いつかは死ぬべき運命(の生き物)」なる自明の理を表わす「mortal」なる形容詞/名詞が存在する・・・その対極に「immortal:死ぬことのない」比較対象として「gods:(ギリシア・ローマ神話の)神々(Zeus, Hera, Poseidon, Hades, Athena, Ares, Aphrodite, etc, etc.)」があればこそ、の芸当である。
 であるから、いずれ人類が「cloning:クローニング=細胞レベルでの生物再生技術」に加えて「memory-transplant:メモリー・トランスプラント=記憶レベルでの人生移植技術」をも手にしたには、2010年現在の日本語には(自明のこととして)存在しない(「immortal:不死身」の対義語たるべき)’死身’を表わす和語が、当然、生まれることになるのであろう・・・もっとも、筆者も読者も、それまでには確実に死んでいることであろうが。

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コメント (1件)

  1. the teacher
    ・・・当講座に「man-to-man指導」はありませんが、「コメント欄」を通しての質疑応答ができます(サンプル版ではコメントは無効です)

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